「ささ谷や岩に松風おとづれて すなわちみてら浄土なるらん」
岩松寺は、高野山理性院の末寺。神亀年間の創立と伝えられている。山岳仏教の流れを汲み、最盛期には、30の僧坊があったといわれる。慶安元年(1648)2月に24石の御朱印を受けている。
本堂観音堂は、正徳3年(1713)再建。元々は芽葺きであったが、明治になり、現在の瓦に葺き替えた。
また、行者堂には役の行者、地蔵堂には子安地蔵、大師堂に弘法大師(石造り)を祀っている。
本坊、客殿の本尊は不動明王(平安末期)を祀っている。永禄年間の兵火、寛文年間(1661頃)の失火などのため記録が失われたのが惜しまれる。
寺に伝わる「鰐口」には「東金谷・秀時作、大永2年(1522)4月17日」の銘があり、県の指定文化財となっている。
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創建時は山名軍笠西村高部(現袋井市高尾町袋井駅付近)にあった。当時は那智山観音堂と号し、天台宗であった。
この地に後醍醐天皇の皇子が行堂を建てて住まわれた。皇子は、正平7年(1352) 病を得、10年に没した。その従者堀江新右衛門時国が、皇子の逝去を嘆いて観音堂を建立したと伝えられている。寺には、その辞世が残されている。「しるは潟磯の高部による浪のあはれうき世をうみのはて哉」
その後時国の子孫、政久氏が元和年間(1615~23)に再建。禅僧観補黁察和尚に請うて開山とし現在の寺号に改めた。
延宝3年(1675)焼失したが再建。安政の大地震(1854)による大破、大修理。明治34年(1901)現在地に移転。昭和19年(1944)の大地震後大修理。昭和55 年(1980)、創建650年を記念事業として本堂新築。
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この寺の寺号は「月見山」だが、この由縁について、『掛川誌稿』によると、周智郡には、上山梨、中山梨、下山梨の三村があってその隣に豊田郡沖山梨もある。
この四村は平安期には「山名郷」に属している。この山梨一帯より南側には 山がまったく無く、まさに山無しの地域であって、古い地図には「月見里」と 書いて「山なし」と読ませているという。「月見山」の寺号はこれによると考えられる。
上山梨の「正福寺」には橘逸勢が遠江に流された時の歌「古里も今ははるか に遠江月はくまなし山なしの里」が残されているという。
本尊の六観音というのは、守り本尊十一面観世音菩薩、聖観音、如意輪観音、 千手観音、馬頭観音、不空羂索観音の六観音、他にもう一体、准胝観音が加わっている。
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平安時代、空海により真言密教が伝えられると、全国各地に山岳寺院が造営されることとなった。その時代に、この地岩室に大寺院が造られたと考えられ ている。それは、この観音堂を中心に大礎石が並ぶお堂や石段があり、また布目瓦や土器などが多数出土、さらに北谷土中より大日如来頭部(約120cm)と仏 像二体(立像150cm)が発掘されていることなどからも明らかだ(これらは豊岡 村の指定文化財となっている)。しかし、戦国時代の織田信長によって、この寺院は観音堂を残して村落もろとも焼き尽くされたという。
またこの岩室一帯には、当時を物語る地名や墓石銘なども残されている他、弘法大師に関する伝説もいくつかある。
「はちすばやなにあふ寺の
文武天皇の勅願によって創建。開基は行基上人。東海道における法相宗本山 として一里四方の寺領を誇った。寺記によれば、八形山には36坊の諸堂があり、学問寺として栄えた。天長8年(831)慈覚大師円仁が在住したとあって、その格式がしのばれる。裏山には両師供養の五輪塔が立っている。
戦国時代、今川、徳川、武田の戦火に焼かれ全山が灰となった。
寺の文化財記念館(平成15年、開創1300年を記念して開館)には、天台大師像(県指定文化財)木喰上人の刻んだ子安地蔵尊像(132cm)、今川義元の寄進状、徳川家康の朱印箱などが多数展示されている。墓地には、戦国時代の墓も見られる。