「春は花秋はもみじの露までも 宿れる月も光よき寺」
天長2年(825)創建とされる、「天台宗 紫雲山 光善寺」(東山椎林)が元来とされている。御詠歌の「光よき寺」がそれである。
現在の「相伝寺」は、日坂本陣扇屋当主片岡清兵衛が京より僧を招いて慶長2年(1597)に開基した。清兵衛は、当時、役人大名による日坂宿の人足手当ての支払いが、三年後に履行されるという習慣のために困窮するのを見兼ね、江戸幕府に直訴して死罪となった義民である。しかし直訴は認められ、日坂宿には毎年五百十六俵の米が支給されるようになったという。日坂では今でも清兵衛を「五百十六俵様」と呼んで敬っている。
清兵衛は観音信仰篤く、その資材をなげうって創建したのが現在の相伝寺である。なお、片岡家は代々清兵衛を名乗っており、上の清兵衛が開基清兵衛と同一人であるかは不明。
観音堂脇には、三十三体の観音石像、廃寺となった威法院の千浦地蔵(六地蔵)、延命日限地蔵などが安置されている。
「おしなべて仏あらたと聞く時は もと木うら木も南無観世音」
本寺は粟ケ岳の麓、東山の地にある。周囲はまさに山紫水明、一面の茶畑が広がっている。
かつて、徒歩での巡礼が盛んだった頃、巡礼の多くはこの寺に参拝、投宿して翌朝粟ケ岳山頂の二十三番観音寺を目指したものだったと古老が語る。古来山岳信仰の一面を残した地なのである。
境内には三十三観音石仏が並び、また弥勒菩薩にちなむ四十九院の塔婆石塔が並んでいる。これらは、嘉永元年(1848)当時の住職超岩物宗和尚が信徒と謀り、冥福結縁の為、西国三十三所を擬して請祀したものである。
位牌堂の片隅には不動明王像が祀られている。大正期、歴住大為弘学和尚が熊野詣での途次、熊野川の筏師が川の中洲に安置し信仰していた像を譲り受け、招来したものという。その後、御前崎など近辺の漁師の信仰を集めた。
「ちさとまで
天平年間(729〜49)に、修験者弘道仙人が釣鐘を造立して粟ケ岳山上の松の枝に掛けた。これが観音寺の歴史の始めと伝えられている。なお、この鐘が「無間の鐘」と称された伝説の鐘である。
さて、弘仁2年(811)3月、弘法大師空海がこの粟ケ岳に登り小堂を作り仏像を安置したといわれている。その後承和年間(834〜48)に僧長然が草創座主となり、更に宝治年間(1247〜49)僧恵徹(岐阜妙応寺)が上山、曹洞宗無間山観音寺と改称したことが『掛川市誌』にみえる。
現在の堂宇の建造年代は不明。老朽化がすすんだため、平成5年春御本尊は山を降り修理、平成6年春常現寺に安置された。
常現寺は、二十一番相伝寺で述べた義民片岡清兵衛の菩提寺。この寺も彼の発願によるもので、その墓石、供養塔(五輪塔)がある。
「田子の浦伊豆山かけて大井川 岩崎照す秋の夜の月」
本寺は、金谷坂の曹洞宗金龍山洞善院の末寺で、江戸初期まで観音寺坂の途中にあったと伝えられている。江戸中期に久翁長公座元が開基となって開山。本尊は薬師如来。
明和6年(1769)になって海牛見老和尚が観音寺坂より現在地に移転、観音堂を中興した。平成13年(2001)に観音堂を移動再建したが、解体した堂宇芯柱に「文化十年再建成す、天下泰平 国家安全 五穀成就」とあって文化10年(1813)に再建されたことが知られる。
堂内の古い厨子には准胝観音が祀られている。准胝観音は通常三眼八臂(腕)であるが、ここの本尊は二眼二臂。あらゆるものを清め、様々な願いをかなえてくれる観音である。また、弘法大師像と思われる立像が祀られている。
「とかえりの松に涼しき風立ちて 谷にたえなる音は菊水」
本堂に安置された厨子の背後に墨書きされた記事に「天和元年辛酉(1681)霜月念四日、欽敬日に、奉造立斯地蔵殿、壱宇、文宋代也、願主、高木治三郎、雲母浩右衛門、宇野太郎兵」とあって一応、これを創建と考えている。
本堂西側にある小堂宇の観音は「歩き観音」として知られている。
昔、ある日のこと、火剣山の山道にひっそり立っている観音様を見た里人が、「観音様さぞさびしかろう」と、背中に背負って小夜の中山峠にやってきた。「この辺は上り下りの旅人が多いので、退屈なさることもあるまい」と、道端に据えて帰った。
ところが、翌朝火剣山に草刈りに行って見ると、昨日確かに中山峠に移したはずの観音様が元の場所に立っているではないか、しかも、足許が土埃にまみれて…。
観音様が自分で帰ったに違いないというので、この観音様を「歩き観音」と呼ぶようになった。足腰の痛みのある方にご利益があるといわれてる。