静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

気まぐれな巡礼案内➄

投稿日:2017/01/02 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

24番志戸呂の岩崎観音寺です。 歩き遍路で、22番観泉寺から大雨の粟が嶽にお参りし、暮れかかる中 稲荷堂を東に入り、稲荷段の奥貝戸(おくがいと)から首切沢(くびきりざ)を通り安田(あんだ)を抜け、森の谷(もりのや)から大代(おおじろ)に向かって急いだことがありました。暗闇の中、たまたま通りかかった車に乗せていただき、岡穂平(おかぼだいら)の遠戚の家に一夜をお借りしたことを懐かしく思い出します。

 昭和60年頃、よみがえれ”信仰の道”と銘打って、茶園造成時に移動されたり埋もれたりした道標(石標)を掘り起こし、道路脇に据えようという活動が行われたことがあり、5基が見つかりました。安田から上志都呂への古道は牧之原台地の付け根を横断するため、幾筋にも道が交錯する迷いやすいところであり、たくさんの道標が残っています。 さて24番の観音寺は平成10年代の新東名高速道路工事に伴い、本堂が建て替えられ、本尊様も新しく迎えられお祀りされています。旧本尊様は向かって右側、ガラスケースに入れられ脇佛として祀られています。左手に賢瓶を持ち右手に結界印を結ぶ准提観音(じゅんでいかんのん)様と思われます。 なじみの薄い観音様ですが、西国11番醍醐寺が准提観音です。 金谷の日限地蔵尊は「学業成就」のご利益で有名ですが、童子沢(わっぱざわ)から運んだ石に地蔵尊を筋掘りした47歳の※日正上人が30歳の時に刻した下の写真、31歳で刻した写真、両方とも准提観音様です。願いによって姿が随分違ってきます。別名を七俱提佛母(しちぐていぶつも)と云い無量の諸仏の母を意味します。岩崎観音が准提観音様だとすると、どのような願いがこの札所に込められていたのでしょうか。

※日正上人(にっしょうしょうにん);明治期ハンセン病患者や悪疫に苦しんでいる人を救済し生祀にまつられた修験道行者(山伏 宮家準)。天保5年(1834)駿府で生まれ高井姓で、日正・光明院・田吾・善證を名乗る。

〇御詠歌

田子の浦 伊豆山かけて大井川 岩崎てらす 秋の世の月

山本石峰氏は「遠江三十三ケ所御詠歌 詠歌中和歌ノ本体」のなかで「岩崎山で見渡せば、足許の大井川は勿論 駿河伊豆が一目だ。観音で観れば、人生五十年もこの通りだ。秋の夜の月とは何の譬え  だよ。」と記しています。

 

少し寄り道を・・・大代を下り、北に進むと新東名に沿って牛尾山があります。山頂に熊野神社が祀られ、社が隠れてしまうほどのクスの巨木が聳えています。表示板によりますと樹高35m、目通り11m、枝張り37mで樹勢は活発と書かれています。天正18年(1590)牛尾山の尾の先を切り、大井川の流れを替える「天正の瀬替え」の大工事が駿府の中村氏、遠江の山内氏のもと成し遂げられました。熊野社はこの頃に祀られたようです。

この地に残る民話に「大井川をはさんで駿府側の大クスと遠江側の安田の大シイは喧嘩ばかりしていたので、瀬替えをしてクスとシイを地続きにした。やがて地元が開墾され発展していくうちに仲直りした。」という話も伝わっています。樹齢400年以上とされています。熊野社は「梛木(なぎ)」を御神木としますので、クスと同じ場所に立っている梛木も同じ年数を経ているものと思われます。

瀬替えが竣工して4~50年後に詠まれたであろう岩崎から眺めた大井川はどんな様子だったのでしょうか・・・。

※写真は日正上人が刻んだ准提観音・24番旧本尊様・熊野社の大クス・岩崎山観音寺

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2017・1/2公開