静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

気まぐれな巡礼案内⑧

投稿日:2017/04/15 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

2番札所 保福山 常楽寺です。

1番結縁寺を出て西北に進み、左手に花鳥園を見て東名高速の下をくぐり、その先の久保一丁目を西に向かい久保二丁目、その先が下俣南です。右折しますと入口の銀杏が目印です。周りの市街化が進み枝葉ものびのびとはいかなくなって来たようです。観音様はその先に祀られています。

HP最初のスライドショーに映し出されている仏像はこの札所の仏様です。開放的な寺院ですからお参りする側のマナーが試されます。この札所を訪ねますと、長く尊前に座り込んでしまいます。誰にも邪魔されず、気が済むまで座りり続けられる寺院は在りそうでなかなかありません。「ゆっくり佛の前に座ったら 生きる力が湧いてくる ありがとうの気持ちが 沁みてくる・・・。」一人静かに心の疲れを癒したい人には最高の道場です。


42文字の短い経に「十句観音経」があります。「観世音 南無佛 與佛有因 與佛有縁 仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音 暮念観世音 念念従心起 念念不離心」この経の中の「常楽我浄」を観音の四徳と云います。常徳⇒無常を悟り平常心。楽徳⇒苦を知り尽くすことにより、苦から脱する。我徳⇒縁により生かされ、他をも生かしていく。浄徳⇒浄不浄のない平等な智慧と慈悲。常楽寺の寺名はここからきていると思われます。寺院名の謂れを想像するのも楽しいものです。33番の札所で観音様からとったと思われる山号・寺号は、そのものずばりの「観音寺」を筆頭に「慈眼寺(観音経から)」「大尾山(大悲山・旧千手院)」「粟が嶽(観音を意味するアボロキテイーシュバーラ)「如意輪山」「福聚山」また「福」「観」「蓮」「華」「浄」「慈」「妙」などの字も観音様を連想し〃ここにいますよ〃と伝えています。

さて、この札所は平成6年に建て替えられました。玄関に掲げられています山号額は、当会前会長の小野田実英師揮毫によります。寺の歴史は、合併前の「法(保)福寺」寛永11年(1634)証文類焼失・同寺元禄3年(1690)観音堂建設し巡礼者盛況するも、いつしか小庵となり、文化年間(1805~)には常楽寺に全て移され廃寺となっています。天明7年(1787)再建するも、安政の地震(1854)で堂宇倒壊、明治初年再建、大正9年修繕、昭和46年台風により倒壊と変遷をたどりながらも地元の檀信徒の尽力に支えられ今日に至っています。

写真のように幾つかの寺院の仏像が此の寺に集められていますので、仏様を拝見するだけでも興味深く、直接見ることができます。この札所の観音様は「聖観音」となっていますが、「御朱印」も「本尊様」も観音様ではありません。聖観音はどこに行かれてしまったのでしょうか。しかし先記の寺院名〃ここにいますよ〃またこれだけ仏様が並んでいますと特に決めなくてもいいよね、と人目線で言われているようです。


ここ下俣は下股とも書き、十王町と下股町の間に落ちる川を、小掛川と呼ぶ。と下股村に記され、十王は隣町で、十王思想は古くからあったものと思われます。上の写真は最近ではあまり見かけなく成りましたが、閻魔大王(左)と奪衣婆(だつえば)と書記官の司命(右)です。亡者が三途の川を渡ると奪衣婆に死装束を脱がされ、衣領樹(いりょうじゅ)に掛け、しなり具合で生前の悪業の軽重が判断され、次に閻魔大王の前で浄玻離(じょうはり)鏡に悪業が全て映し出され、書記官司命により記され、亡者の行き先が告げられる。地獄図で語られる話は子ども心に恐ろしく、いつまでも忘れることが出来ず、親からも悪いことをするとこうなるぞと云われたものでした。

この札所に祀られています仏像群を見ていますと、4つ位のグループに分けられるかなとおもわれます。1つには金剛界大日如来を本尊様とするもの、2つには地蔵菩薩を中心とし閻魔・奪衣婆・司命など十王思想のもの、3つには薬師如来を本尊とするもの、今一つは釈迦如来(胎蔵界大日如来)と観音様(今は無いが)。それぞれが一寺院や一お堂と成り得るからです。

金剛界大日如来胎蔵界大日如来か宝冠釈迦如来