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気まぐれな巡礼案内㉗

投稿日:2021/03/20 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

27番札所 瀧生山 永宝寺 昔名慈眼寺(当院)です。 菊川市西方6748-1

真言宗醍醐派に属する山伏(修験道)寺院です。  (写真は永宝寺全景と上がり口)

巡礼コースに慣れた人は、20番大原子の次に参拝して、日坂宿21番相伝寺に向かうコースを取る巡礼者も多いようです。気まぐれなこま切れ案内ですから、菊川駅からのルート案内とします。

菊川駅の真北、直線3キロの位置にあり、掛川市(八坂)と菊川市の境に近く菊川市分になります。

菊川駅から西進 JRを跨ぎJRに沿って西進し、信号機「西方」を右折北進、新幹線下を通り過ぎ100m程を右折 東進1.5キロ 橋際に「瀧之谷永宝寺」の看板あり、周囲800mの池の北側が27番札所です。

「永宝寺」の寺名は地元ではあまり知られていません。(昭和29年宗教法人取得に際し上内田の同宗派廃寺寺院名を踏襲したため。) 通称「法印さん」と書いて「ほうえんさん」と呼ばれ、屋号「瀧之谷」と合わせ「瀧之谷法印」(たきのやのほうえんさん)と呼ばれています。山伏の最高位が「法印」ですが、あえて全国的に「ほうえん」と読む訳は「陰陽道」との拘わりもあると説く学者もいるようです。一般的に江戸時代 山伏や陰陽師や学者などを「法印」と云っていました。それが徐々に山伏に限定するようになったようです。

 (写真は山伏の祖、役の行者と持仏堂本尊不動明王)(永宝寺由来看板)

池北側の階段を上りますと正面に朱色に塗られた観音堂があります。建てられてから200年以上経ています。(寛政二年九月再建落成) その時の棟札が残されています。「丁酉年村役人中相談仕観音堂建立仕度万人講相企申候而五ケ年立候ハバ少々金子御座候ニ付木挽入木取仕候十ケ年迄ニ木取大方致其故乙巳九月より取欠り木挽手間丙午年中欠り同年丙午之六月八日二〇之子立ヲ初其大工二百勺余木挽二百余大ききんニ付其まま置来る未年中年之世中二御仕候而十月中順旦那御取持ヲ以立申所其年米壱俵二付金三分壱貫弐百文ナリ 其ままニテ戌年かんおん十七年之開帳年二當是迄ハ所々村々法加いたし旦那不残御取持ニテ御堂諸願成就仕造作少々相残申候代々子孫いたる迄御堂之施主之御祈祷いたすべき者也 観瀧院養元写之置」と記され、構想から中開帳の13年間、その間に世情は天明の大飢きんもあり、苦労がしのばれます。椎などの雑木類が多くつかわれていますので、反りや乾燥にも時間がかかり今では聞くこともなくなった「※木挽き」の技術が試されたことでしょう。

 (写真は寛政2年1790年の観音堂再建の棟札表裏)その後明治41年に屋根替え修繕、昭和56年大規模修繕が行われて現在に至っています。

観音堂内陣正面のお厨子にお祀りされています本尊様は、当初からの十一面観世音菩薩と法蔵坊(500m程西南で地区の墓地)から現地に移転され、その後お堂建立の際現在地土中から発見された金銅製聖観音菩薩の二体を本尊として祀っています。

 (写真は現在御前立の旧本尊十一面観世音菩薩)    
当山には上記の伝えとして、「遠江順礼二十七番観音出現由来」が残されています。そのあとがきに、七世貴教院元譽(明和九年1772没)が宝暦十一辛巳歳(1761)六月吉日に「覚え」として「瀧の観音由来、書付なども之なく相知れず、だんだん相尋ね、古き老人に聞き、古き書物を尋ね、漸く相知れ数年心がけ 末代のために書くもの也」としるし「一、当国城東郡西方村瀧の観音は元来道場は潮海寺道の法蔵坊という所に古来よりあり、慈眼寺という真言道場也。法蔵坊は慈眼寺の弟子と知るべし。これまで何代年数を重ねたか知らず。今にこの地に慈眼寺屋敷という所在り。右法蔵坊遷化の後、無住にて、別當これなく、数年相経ち、その後堂を此のところに引く。別當なし。 一、当寺瀧生山の開山は元来濱松在笠井新田大楽院子なり。当所に足を留め杉本坊という山伏にて、後に寿本法印(寛文二年1662没)と申すなり。これ当所観音別當修験の先祖なり。この寿本法印の子観瀧院久仙(貞享3年1686没)という二代目なり。 一、観音堂大破に及び建立の時天和三亥歳(1683)春十八日に地形、山を崩し候得ば、今の堂の後ろなり。壱丈余土中より消炭壱俵ばかりのうちに、仏入埋あるなり、人足告げ知らせ、不審に思い、久仙掘り出し見るに金仏観音の像なり。早々京都仏師に見せしむる時に、仏師の曰くこれは唐仏にて、弘法大師御作、御長け五寸三分聖観音菩薩にて、西光?成らざるよし。祠ばかり新造入仏 その後その年中に堂建立でき、入仏開帳これあり。誠に観世音の出現有難く、国中参詣無量なり。それより今に至って、十七年目に今開帳出理。前までは二十七番観音は十一面観音也、今の前立是なり。 一、寛永五年(1628)に村上三右ェ門様御除地御寄付なり。山林竹木共に寛永九年(1632)御刻書あり。御墨付二通所持仕り候。以上」と元譽法印の調査報告が書されています。また後代の付記に「観音堂造営 天和三年(1683)亥春 正観音金仏土中出現 二代目 久仙法印に時開扉供養行」とも記されています。(少し読みやすく字を変えています。)

先に寛政2年(1790)観音堂建立開帳供養の棟札を掲載しましたが、その107年前に最初の観音堂は建立され、それまでも慈眼寺観音堂として法蔵坊から移転したお堂が建てられており、初代寿本法印が管理していたことになります。なぜこの場所に移動したかについては、境内をぐるっと囲む瀧池と関連します。瀧池(一之池堰)は寛文十年(1670)築池されています。この池を造るに当たり工事の安全を祈り、水の潤沢と安寧を子々孫々まで観音様に見守っていただきたいという大きな願いが込められていると思われるのです。また、明治初年の提出書類「観音堂の由緒」には「創立年月不詳 古来土人の口碑によるに、往昔この地に数十丈の瀑布あり、故に瀧山の称あり。山中常に雲霧を生じ、春夏秋冬の別なく朦朧として日光を見る稀なり。一毒蛇あり、屡人畜を害する久し、茲に一人の修行者 観世音の像を負い来たり、その地の閑静を愛し居る。数日能く勝地を卜し一室を結び、これに仏像を安置し、日々瀧水に身体を浄め、只管観音の加護を念じ、ついに毒蛇退治の功を奏す。土人その徳を頌して新たに堂宇を建設すという。以来明治七年に至る代々修験行者を以て住僧とす。則ち慈眼寺観瀧院是なり。」と観音堂建設の経緯や、修験者の土着経緯も云い伝えとして記され、地区字名も「雲明」と書いて「くもみょう」とした伝説も残されています。

(写真はこの地区の伝説をもとに使われている祭礼の法被)

修験者らが中世末期から近世の初頭にかけて村落へ定着していったことは歴史上知られています。村落の形成期にその構成要因として宗教者の果たす役割もあったのでしょう。伝説はそれとして、西方村の最奥部に宗教者が定着したことを意味します。

遠江33か所霊場の内、修験道寺院は現在13番大尾山顯光寺と永宝寺の二ケ寺ですが、各札所の変遷を見ますと多くの札所が修験道とかかわりを持っています。「巷の神々」と形容される修験者の布教活動と村落・地域との近距離感が絡み合って生み出されたからなのでしょうか、或いは観音霊場の創設から互助会的な役割として動の要素を多く持つ修験道(山伏)がかかわっていたからなのでしょうか。

ちなみに土中出現の聖観音像を写真で専門家に鑑定をお願いしましたが、同じような比較対象になる仏像の例が無いため、年代確定などができないとの返答でした。

※「木挽き」:大きな鋸が象徴。建築用材を調達するため、山林に入り、切り出す職。彼らには木の素性を熟知した目と技術が求められ、立ち木を見て、建築のどの部材に使用するのか見極め、伐採作業に当

たらせた。この地域では昭和40年代までは「木挽きさん」が存在した。

※公文名(くもみょう):平安時代以降荘園を管理する役人の総称ですが、とくに文書を取り扱う公文職をさす。中世になると年貢の徴収などを司る職もいい、これら公文職の役人に報酬として与えられた田

を公文の名田、公文名とよぶ。この地域は河村庄であり。菊川市本所に関連するものと思われる。また公文名地内には字名 玄徳(元得分)、久保田(公文田)、祢宜屋敷等の名が

残されています。

 

〇寄り道:修験道寺院って?  
なんとなく解ったようでわかりにくい寺院の分類に寄り道してみましょう。

日本仏教が多くの宗旨に分かれていることは御存知の通りです。13宗56派(1940年宗教団体法ができる以前の数え方)と言われています。この33観音札所も4宗旨(曹洞宗・浄土宗・真言宗・天台宗)があり、また同じ宗旨でも派が異なるものもあります。もともと地域密着型霊場ですから人々は宗旨にはこだわりません。現在遠江霊場は曹洞宗とその関連札所が23,浄土宗1,真言宗7,天台宗1,不明1となり、曹洞宗が断然多いことは、この地域の全寺院の7割が曹洞宗寺院であることと比例しています。 「修験道寺院」という名称は13宗56派には含まれていません。江戸幕府による「修験道法度」(慶長18年1613)、また明治初年の「修験道禁止令」により、真言宗系(当山派)天台宗系(本山派)のどちらかに属さなければならなくなったからです。永宝寺は真言系の当山派修験です。現在も檀家は持たず、加持祈祷や運命鑑定、カウンセリング等で維持する変則的?な寺院です。檀家を持たないから葬儀に拘わらない寺院というイメージは、寺から連想されるものとは異なっているかもしれません。しかし考えてみますと、仏教本来の姿はこちらのほうが近いといえるかもしれません。

山伏のイメージと言えば能「安宅(あたか)」(室町期成立)から歌舞伎の演目となった(元禄元年初演)「勧進帳」で武蔵坊弁慶が読み上げるシーンを思い浮かべる方も多いと思います。現在でも柴燈護摩の祭事に先立ち「山伏問答」を行う際、勧進帳を彷彿させるやり取りが行われます。その一部を紹介しますと、 山伏問答は道場主(問う行者)と旅の先達(答える行者)が道場の入り口で向かい合って行われます。 【問:旅の行者、住山何れなりや。答:遠江の国は城東郡の住、醍醐寺三宝院門跡配下の先達なり。問:今日当道場に来山の義は如何に。答:本日当道場に於て天下泰平・五穀成就祈願の護摩供ありと承り馳せ参ぜし者にて候、同行列に加えられんことを請い申す。問:三宝院配下の山伏と有るからには修験道の義御心得あるはず、当道場の掟としてお尋ね申さん。答:何なりとお答え申さん。】以下略。その後山伏の意味、修験道の意味、開祖、本尊、装束とその意味付けなどを矢継ぎ早に問われ、それらすべての返答を終え、【問:先ほどよりのお答え疑いなし、然らば然らばお通り召され。】と許可されて入場していく。このように歌舞伎調で山伏問答は行われます。

里に下りた山伏を里修験と呼びます。※修験道廃止前まではどこの村にも数件ありました。ここ西方村に二軒、本所村に三軒といった具合です。多くの神社(氏神社)は里修験者が司祭者でした。生活は農業との兼業が主で同一地域に生活する宗教者として村の構成の一翼を担っていたと思われます。(管轄は寺社奉行所であり、町奉行所とは一線を画していた) 明治元年※神仏判然令による修験道禁止令により廃止され、明治初年からの混乱期には札所と観音様を守るための壮絶な苦労と苦悩を14世寿軒法印は文書で残し、本末の利害関係、近隣寺院との訴訟に及ぶ軋轢、地域住民や役人を巻き込んだ宗教施設としての帰属問題など、生臭い混迷の様子が記されています。昭和29年に宗教法人を取得するまでは隣寺院の境外地境内となっていました。現在は「真言宗 醍醐派 永宝寺」が正式名称です。小さなお堂一つにも苦難の歴史があります、現在札所が残されていることはどれだけ多くの人たちの支えがあったことでしょうか。

 

※神仏判然令:慶応4年(1868)3月17日神社別當及び社僧の復飾令・明治元年(1868)3月28日神仏判然令(神仏分離令)・明治元年(1868)4月4日別當社僧の還俗令・明治3年(1870)10月                    17日天社禁止令(陰陽道廃止令)・明治4年(1871)2月23日寺社領上知令・明治5年(1872)4月21日神祇省の廃止と教部省設置・明治5年(1872)6月28日自葬を禁じ、葬儀は神官僧侶に依頼せしむ。修験の自葬も含む。・明治5年(1872)9月15日修験道廃止令・明治5年(1872)11月18日無檀家無住の寺院を廃す。(修験寺院の殆どは無檀家)・明治6年(1873)1月15日梓巫女、市子、憑祈祷、口寄せ等を禁ず。(修験道の活動禁止)・明治6年(1873)キリスト教禁止令の廃止。等修験宗は制度上天台・真言へ併合されたのみでなく、実質的にも主要な宗教活動の禁止という形で17万人と言われる修験者達は廃止により消えていきました。なお先進国からの非難もあり、明治6年以降表向きには宗教の自由としましたが、すでに元に戻ることはありませんでした。

当寺に残る「御触書」には「修験宗の儀 自今被廃止 本山当山羽黒派共 従来の本寺所轄の侭 天台真言の両本宗へ帰入被仰付候粂 各地方官に於て此の旨相心得、管内寺院へ相達すべく候事。但し将来営生の目的等無之を以て帰俗出願の向きは始末具状の上、教部省へ申し出るべく候。 壬申九月十五日」と、その時のお触れが残されています。(現実には廃仏毀釈で寺院自体が打ち壊される状態であり、真言天台への帰入は困難であった。帰属すべき本山自体も混乱状態であり、地方の小寺院の訴えが聞ける状況ではありませんでした。)また同「御触書」の添え書きに興味深いことが書かれています、「自今僧侶苗字相設 住職中の者は某寺住職 某氏名と可構事。但し苗字相設候はば管轄庁へ届け出るべきこと。」とあり、あらたに苗字を考えて附けることも添えられています。(修験道の場合通常は○○院○○との称名が個人名として使用されており、苗字は既に持っていたと思われますが、この際新たに付けた人も多くいたようです。当山の場合三浦姓を名乗りますが、分家はこの時滝本姓にしています。ただ後に本家からのクレームで三浦姓に戻っています。)

〇御詠歌

さえいずる つきをながむる たきのおと かみすみぬれば しももにごらず

山本石峰氏は「冴え出つる 月を眺むる 滝水の 上すみぬれば 下濁らず」として、その解説に「冴え出つる月は、自分の発菩提心の事だ。其の心の宿る滝水は清くして心清浄であれば従って下の動作も 精進になるぞ」と記しています。

私も月のきれいな夜、池面にうつる月を眺めながら、ついこのご詠歌を口ずさむときが多くなってきました。齢ですかねー。

 

〇化石層

 (中池の化石層と庭の飛び石)

2020年8月 中日新聞に「遠江国分寺・・・石段は菊川から?」との記事が掲載されました。「専門家調査では石の破片の大きさや密度、石の厚さから、菊川市公文名から切り出された可能性が高い」との説に、子供のころから化石に親しんでいた私は、早速※柴正博氏の調査報告書を読んでみました。その一部を掲載しますと、「※磐田市国分寺金堂の階段の敷石はどこの石」との表題で、「国分寺金堂の石段の敷石に使用されていた石は、貝化石の破片が層状に密集する岩石で、「貝化石※石灰岩」とよべるものでした。略 この岩石に類似するものを私は、菊川市公文名の奥山中池の南岸で見たことがありました。それは、掛川層群富田層に含まれる貝化石密集層の岩体で、これに類似する貝化石密集層を私はここ以外で見たことがなかったため、とくに印象に残っていました。

菊川市公文名の奥山中池の南岸に分布する貝化石密集層の岩石は硬く、国分寺跡金堂跡の石段の石にとても似ていました。細礫や粗粒砂も含みますが、ほとんどが破屑された貝殻の化石片からなり、それらははっきりとした※平行葉理を形成しています。それは、強い一方向の流れの中で堆積したために形成されます。この化石密集層はコンクリーションされた硬い岩層として厚さ1~2mをもち、砂泥互層中に挟まれています。その砂泥互層の走行傾斜、※N50°W、10~20°Sで、奥山中池の北西岸にも連続して分布しています。後日、その分布を精査した結果、西側の尾根を越えて※海老名付近にも分布することを確認しました。 このように破屑された貝化石破片が密集することは、波浪によりすでに砕かれた貝殻だけが堆積し、その後に海底の斜面に沿って流れ下った高密度の※重力流、たとえば※岩砕流のような流れによって、やや平坦な※海盆に堆積したことを意味します。通常、砂や泥などの堆積する海域では貝殻だけが破屑されて堆積することは無いため、このように貝殻の破片が集積することは砂や泥の堆積がほとんどなかった環境または時期(※海進期には一般的に沖合への砂泥の供給は減少する)に形成されたのではないかと考えられます。

掛川層群富田層は掛川層群下部層の最上部層で、後期鮮新世の今から358~309万年前に堆積したと考えられます。この化石密集層は、堆積物の供給が少なくなった海進期または最大海氾濫期付近(約310万年前)に堆積したと考えられます。また、この化石密集層の分布する場所は、この地域の掛川層群の基盤である倉真層群が分布する南側役1kmにあたり、この付近にも下位の倉真層群が小規模に分布しています。このことから、この石灰岩が堆積した時期に、この地層は岩石海岸の急傾斜の崖の下で、波浪の影響のない水深100m以下の深い海底の堆積盆地に堆積したと考えられます。この「貝化石石灰岩」は、このように特殊な堆積環境と堆積時期が重なって、さらに急崖を流れ下る重力流により形成されたものと考えられます。略 「貝化石石灰岩」は※平行ラミナが発達していて、そのラミナに沿って割れやすく、板状の石材を切り出すことが容易にできます。略 この「貝化石石灰岩」の新鮮な表面はまっ白で、貝殻片がキラキラと光り輝いています。「貝化石石灰岩」は寺の本殿へ上がる階段の敷石として使用されていて、その美しく輝く岩肌は開寺された当時の国分寺の美しさをより引き立たせていたものと思われます。」と記しています。 また、公文名のここだとの限定について氏は「掛川層群では、その分布の北部で貝化石密集層を多く見ることができ、とくに掛川市から袋井市にかけての掛川層群上部層の大日層には、貝化石密集層が分布します。掛川層群大日層は掛川層群上部に含まれ、今から約200万年前に大陸棚の上に堆積した浅海性の砂層または泥層からなる地層です。大日層は、富田層の「貝化石石灰岩」の層準と同じ海進期(海面上昇期)の堆積層ですが、その堆積環境は遠浅な波浪の有る海岸沖合で堆積したもので、富田層のそれとは異なっています。大日層では化石密集層が多く含まれるものの、貝化石は破屑されることはほとんどなく、コンクリーションされた化石密集層の厚さも数十cm程度です。また、大日層またはその上位の土方層の分布域にも公文名で見たような「貝化石石灰岩」の分布を今までに私は確認していません。」と記し、この公文名付近だけにしか産出されない独自性を確認しています。

90%以上貝化石だけという層が、どのようなメカニズムでできたのか、柴先生の説明を菲才な私が理解できるまではいきませんが、興味をそそられます。 この地域では「貝化石石灰岩」を昔からどの家庭でも活用しており、庭石、飛び石兼鶏の餌としての役割や記念碑の台座から土留め、石段にも多く現在も使われています。下池が寛文年間、中池が享保年間に造池されていますから、採掘場所の確定は出来ませんが、層が脆いため急傾斜地での崩落が多く、ブロック状の「貝化石石灰岩」を多く見かけます。この札所にも多く置かれていますし、観音堂の東側にも化石層が露出しています。下池の公園内にもこの層から崩落した「貝化石石灰岩」を集めてありますので、是非興味を持って、見て触れて地球の壮大な歴史ロマンを堪能していただけたらと思います。

 

※磐田市国分寺金堂:聖武天皇は天平13年(741)、全国六十数か国に国分僧寺と国分尼寺を造るよう命じました。静岡県内には遠江・駿河・伊豆の三国があり、遠江国の国分寺は磐田市に置かれました。

昭和40年代に史跡公園として整備され、平成18年度(2006)から発掘調査がされ、平成28年度から復元のための設計等を行っている。

※柴 正博:自己紹介に依れば、現在(2018)ふじのくに地球環境史ミュージアム客員教授・日本地質学会所属等、「地質調査入門」「駿河湾の形成 島弧の大規模隆起と海水準上昇」「モンゴル・ゴビ

に恐竜化石を求めて」など著書論文多数。掛川市文化財審議委員会委員。東京在住。1952年生まれ。

※石灰岩:炭酸カルシウムを主成分(50パーセント以上含む)とする堆積岩

※平行葉理(平行ラミナ):地層の断面を見たときに、層の中に見られる縞模様。水の流れによって、粒子が水底を運搬されて堆積するときに造られる。流れの速さや方向によって異なる形の葉理(ラミナ)

がつくられる。一つの地層の中をよく見るとより細かい地層があって、それが平行になっていること。うすい葉が重なっていて、一枚一枚剥がれるような堆積のでき方。

※N50° :走行傾斜の事で、北を基準にして50°西へ、10~20°南へずれていることを表わし、同じ傾斜がどこまで続いているかを調査して層の長さを調べる。

※海老名:掛川市八坂の最東の字名「あびな」と読み、公文名と境を接している。

※重力流:海の中で地滑りが起こるなどしてできた「濁り水」の流れで、通常海底には重さの有る砂や泥は堆積するが軽い貝殻は堆積しない。

※岩砕流:地震や火山などで岩砕がなだれをする現象。

※海進期:海水面の上昇の時期で、逆を海退という。海岸線が最も陸側へ移動した時期を最大海進期、海進最盛期とよばれる。

※コンクリーション:堆積物の凝固した物(天然セメント)通常球形・円形のものを指す。

※砂泥互層:砂層と泥層が交互に堆積している地層。何十、何百層に重なる。

※細礫:粒径が2ミリの礫(石)

※粗粒砂:粒径が0,5ミリの砂

※砕屑(サイセツ):細かく砕けたもの。

 

さて、今回は自分の所の札所案内でしたので、とりとめのない、まとまりも欠く内容となってしまいました。また、さぼりとずぼらな性格のため、時間がずいぶん経ってしまったように思います。この間にコロナ禍で生活の仕方も大きく変わり、不安な状況はいましばらく続くようです。生態系の最高位に君臨していたつもりの人類がこれほど脆弱であったことを思い知らされる期間でもありました。そんな人間にお構いなく桜は彼岸に咲きだしました。そういえばソメイヨシノも人間が作り出したクローン桜でした。

境内には池の対岸に渡る「野猿(やえん)」が平成2年に設置され、時々テレビ等で紹介されますので、体験に訪れる方も多くおられます。機会と体力とご縁がありましたら一度試してみてください。湖上と桜の花の中を「空中散歩」できます。     (2021/3)記