静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

気まぐれな巡礼案内㉓

投稿日:2018/09/18 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第17番 日林山 天養院

掛川市宮脇4-3

※絵  
掛川市内から旧国1(県道415号線)を東進し、掛川警察署から東に1キロほど進みますと、本村橋(honmurabasi)交差点(信号機)があり、その北側の山 西斜面に17番札所はあります。(入口は信号機の西30mを北折して100m程です。)登り口は南側と北側の二か所あり、どちらからも2~30m程です。  写真は南側と北側の案内板です。北側の案内板は立ち木に彫り込んだものです。

この時期(秋彼岸)境内は一面に赤と白と黄色の※ヒガンバナで飾られます。地元の人たちの手入れのたまものです。春三月の彼岸頃から二か月かかって桜前線が北上します。ヒガンバナは逆に八月中旬過ぎから一か月かけて南下します。この辺りは丁度お彼岸に満開となります。ヒガンバナに埋め尽くされた17番札所を是非堪能してみてください。秋彼岸は地元の人たちが当番で詰めていてくださり、お接待をしてくださいます。

「掛川誌稿」宮脇村の項には、日輪山 天養院として「曹洞 城東郡西方村※龍雲寺末 開山は龍雲四世祥山麟和尚と云う。此の寺昔西田の寺家という処にあり、後郷倉の辺りに引き、また寛文中(1661~1672)蘭山和尚の時今の地へ移す。又慶長九年(1604)検地帳に、上蓮寺という地名ありて、そのところは今寺家という辺りなれば、上蓮寺は天養院の昔号なるべし。」とだけ記されています。山号日林山と現在は書していますが、「※日輪」のほうがふさわしく感じます。(近くの掛川市仁藤の日輪山真如寺と山号が重なり字を変えたのかもしれません)

※上絵:溝口博之画 天養院観音堂を描き、お堂で得た感覚を画像に載せ メルヘンを生み出す独特の画風。キツネと彼岸花(キツネノカミソリ)。

※ヒガンバナ:秋の彼岸も近くなりますと日を覚えているかのように、あっという間にヒガンバナが一斉に咲きだします。この花の名前は、全国共通の名前を除いても600以上の名前が全国で付けられて呼ばれています。なぜこれほどの呼ばれ方をしているのか気になりますが、その中で静岡県内に限定しても、アカハナ・オーバコ・カブルバナ・カブレバナ・ジイジャアボウジャアー・シーレ・シロリ・ソーシキバナ・ソーレンバナ・ヒガンゾ・ヒガンソー・ヒガンバラ・ヒナンバラ・ヒナンバナ・ヒランバナ・ヘソべ・ヘビバナ・ポンポンササギ・ポンポンササキ・マンジュシャグ・マンジュシャゲ・ワスレバナ・チョーチンバナ・ドクバナ・二ガンバナ・ノアサガオ・ハコボレ・ハコボレクサ・ハッカケ・ハッかけクサ・ハッカケバーサン・ハッカケバナ・ヒーナンバナ・ヒーナンバラ・ヒーヒリコッコ・ヒーリコッコと36もの呼び方がされています。これらは「秋の彼岸の頃に咲くことから」「花が一斉に咲くことから」「花の色から」「花の形から」「花が咲いているとき、葉が無いことから」「お供え花として使うことから」「遊び方から」「墓の周りなどに咲くことから」「しびれや、かぶれることから」「毒があることから」「薬として使われたことから」「粉から、モチやダンゴをつくることから」など、じつに多彩な理由からの呼ばれ方です。(かこさとし作 ヒガンバナのひみつ)

上記の※かこさとし(加古里子)さんは、この本の中で、ヒガンバナのひみつは「楽しい名前と、こわい名前が、いりまじっていることが、ヒガンバナのだいじなひみつなのです。そのおかしななぞは、ヒガンバナを非常食として、のこしておくための、とてもよいやりかたとなっていたということです。まるで、くいちがって、楽しいかと思うと、こわかったり、毒かと思うと、ぎゃくに薬だという 名前のなかに、非常食として、ヒガンバナのひみつが、かくされていたのです。とてもいりくんだ、むずかしいひみつのしくみです。」と書いています。(著者かこさとし 株式会社小峰書店発行所 1999年)

飽食の現代では、花の美しさにとらわれ、著者の言うヒガンバナの秘密に気づくこともありません。気づかないことが秘密ですから、目的は継続されているのでしょうか。

※かこさとし:加古里子(かこさとし)1926~2018 児童文化研究者など。「だるまちゃん」シリーズなど600点余にのぼる。菊池寛賞受賞他多数

☆ヒガンバナの成長の速さ(写真)

平成30年9月10日に出た花芽は9月17日満開になりました。一日10㎝以上伸びる日も、一週間で開花です。  
※日輪:太陽のこと。

※龍雲寺:28番正法寺案内(気まぐれな巡礼案内⑱)で記しましたが、掛川市大野の長松院【石宙永珊和尚開山 文明3年(1471)】二世一訓和尚(~1504)の弟子 法山宗益和尚が永正11年(1514)に開山した。天文2年(1533)寂 (写真は龍雲寺)
近在の龍雲寺関連の寺院を見ると、二世光山康玖和尚が西方村西福寺(龍雲寺に合併)天文19年(1550)寂、満水村満水寺(昭和48年龍雲寺に合併)永禄1年(1558)死去?、正福寺(満水村内、旧公会堂地)の三か寺を開山・三世實傳和尚が西方村正法寺 元亀1年(1570)寂 を開山・四世祥山宗麟和尚が宮脇村天養院(明治6年廃寺)を開山・五世明国存光和尚が堀之内村報恩寺 慶長9年(1604)、本所村陽法寺(龍雲寺に合併)元和9年(1623)か寛永8年(1631)、打上大徳寺 元和9年(1623)の三か寺を開山・六世が安養寺(廃寺)寛文年間(1660頃)を開山 と古刹龍雲寺は地元(西方村)を中心に約100年間に8か寺を開き教線を確実に拡大したことがわかります。

      )(写真は上から西福寺・満水寺跡・正法寺・報恩寺・陽法寺跡・大徳寺)

 

〇桐田幸昭氏は「遠江三十三所案内」(昭和63年刊)の中、17番天養院の項でお堂前の鬼瓦の※寺紋と二体の地蔵石像について、精査の必要を問うています。

 建て替え前の物ですが、鬼瓦或いは大棟鬼と呼ばれ、上に突き出た部分が鳥衾(とりぶすま)とよばれます。鳥衾の紋は「左三つ巴」鬼瓦の紋は「丸に三つ引き紋」「丸の内三つ引き紋」といわれ、「左三つ巴」は掛川城を築いた※朝比奈氏の定紋。「丸に三つ引き紋」は朝比奈氏と同じ今川氏の家臣※三浦氏の定紋と考えられます。憶測ではありますが、今川氏がらみの朝比奈氏、三浦氏に関連する寺院と考えても良いと思われます。ただ三浦氏については今川氏の譜代家臣朝比奈氏三浦氏と並べて云われる割には三浦氏の掛川での動向はよくわかっていません。本寺龍雲寺、その本寺長松院は共に今川氏と関連性の強い寺院とされています。既出山本石峰氏は、札所15番から28番の中の9か寺について「長松院と今川家との深き因縁を背景とし長松院領の域内にあり」と記しています。

鬼瓦の寺紋からの推察でこれ以上のことは今後の宿題ですが、旧寺名「上蓮寺」の頃の観音霊場草創期と朝比奈氏と三浦氏の拘わりにも興味が膨らみます。

※寺紋:寺紋や神紋といわれ、寺院や神社に使用されている紋章。宗派の紋と異なり寺院開創に深く拘わる武将や貴族(スポンサー的役割)の家紋を寺紋とすることが多い。

※朝比奈氏:朝比奈氏については「結縁寺」(気まぐれな巡礼案内⑩)を参照ください。

※三浦氏:今川家の重臣駿河三浦氏の詳細は必ずしもわかっているとは言えません。小和田哲夫氏の「今川氏重臣三浦氏の系譜的考察」をきっかけに少しづつ解明されてはいますが、掛川(遠江)での三浦氏の動 向は朝比奈氏に比して今後の調査が必要です。

 

〇二体の地蔵石像について


「史跡遠江三十三観音霊場」桐田幸昭(昭和62年刊)に左側の地蔵尊には「二建時延宝二甲寅年(1674)八月十五日示寂」「當庵二世中興蘭山寒秀和尚増崇霊位」と刻され、また右側の地蔵尊には「延宝五丁巳年(1677)八月十三日」「示寂請叟宗益和尚」と刻されていますと紹介されています。

掛川誌稿に「寛文中蘭山和尚の時今の地へ移す」と書かれ、また中興とも刻されていますので二世蘭山和尚の時に現在地に移転し寺門興隆の尽力が大であったことがうかがわれます。また右側の石像「請叟宗益和尚」は天養院三世です。(※龍雲寺住職密山叟了玄記)

※密山叟了玄記:宝暦十年(1760)に時の龍雲寺住職が歴代住職を記したもので、「天養院」に関しては「第一 開山當寺四代 第二 中興蘭山寒秀和尚 延宝二寅八月十五日(1674) 第三 請叟秀益和尚 延宝五巳八月十三日(1677) 第四(再中興)通方傳遼和尚 元禄十二己卯二十六日(1699) 第五(重中興)圓了禅遼和尚 元文五庚辰六月二十九日(1740)まで記されています。

 

境内の観音堂の前には桜の木の下に延命地蔵尊と青面金剛童子(庚申)が並んで祀られています。

  共に長寿の役割を担当する仏様です。現世利益と観音様の浄土への願い、「※現当二世安楽」をかなえてくださるお寺です。

※現当二世:あの世とこの世のことで、現世と来世。

〇堂内

この観音堂は平成9年(1997)に建て替えられ、落成時にお開帳も行われました。本尊聖観音様は正面のお厨子の中で次回のお開帳を待っています。建て替え時を※中開帳としましたので、次回の開帳は2030年の予定です。

  (昭和61年お開帳・久保田康徳氏提供)

※中開帳:秘仏の場合三十三年とか六十年に一度本尊様の扉を開け、衆生と仏縁を結ぶ機会を作っています。(一般的には、33年に一度が多い)。三十三年では長すぎるため、その中間に中開帳と称して、扉を開けることがあります。これを中開帳と言います。

〇御詠歌

補陀落や ここに在りける成滝の 柳の上に吹くや 松風

山本石峰氏は「補陀落は梵語、観音の枕詞だ。観音は今成滝の岸で衆生済度で御多忙。丁度柳が風に任せて揺れる様だ。松風とは巡礼たちの成仏を待つという掛け詞だ。」と記しています。

曼珠沙華はmanjyusakaの梵語から採られ、「極楽に咲く花」とか「天界に咲く花」と意味づけされた植物です。満開の花に囲まれ 祈りを捧げ 唱えるお経は一輪一輪の花に吸いこまれていく。地蔵となった歴代住職が花に囲まれて見守る 花々は祖先から受け継がれた魂か・・・。花いっぱいのときにおとずれて ぼんやりしてみました。ごくらくごくらく(平成30年9月17日)

    
ヒガンバナの花が終わると葉が出だす。(平成30年9月24日)

気まぐれな巡礼案内㉒

投稿日:2018/08/16 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

23番 龍谷山 常現寺内観音寺と粟ケ嶽の続編

㉑で案内しました粟ケ嶽の観音様は日坂の常現寺に下ろされ、25年を経て少しずつ巡礼者の知るところとなってまいりました。この度 廃 寺の観音堂(前号の写真参)が登山道一帯の景観と登山者の危険回避の観点から解体される運びとなりました。

前回案内できなかった幾つかの事柄を今回、新地常現寺をお借りして案内します。

常現寺

  日坂宿内最東に位置し、現在は国1日坂バイパス道から見下ろすように眺められ 県道415号線(旧国1)に挟まれたように見える寺院です。 「寺籍財産明細帳」(明治19年2月提出)によれば 境内は2077坪に及び、50坪の本堂、30坪の庫裏、18坪の衆寮、開山堂、山門等を有し地蔵菩薩を本尊に白山社を鎮守として伽藍を形成し、江戸時代は10石の朱印を持し檀家180戸を有し、本寺長松院二祖一訓禅師の弟子宗鑑和尚を開山(文亀元年)に、日坂宿本陣片岡清兵衛(慶長年間)を開基とする。

上記以外に地蔵堂(宝暦3年)が無縁佛供養のために祀られ、豊川稲荷堂も宿駅全体の鎮守としてここに移転し祀られています。また稲荷の東側には少し変わった五輪供養塔が目を引きます。(写真)  
常現寺山門に掲げられています山号額は「月舟書」と書され江戸初期の僧月舟宗胡(げっしゅうそうこ)と思われます。

月舟:月舟宗胡(1618~1696)曹洞宗僧侶 号を可憩齋 肥前の國出身 16歳で修行の旅に出て諸寺を遊学し、金沢大乗寺の白峰玄滴に参禅し継法。曹洞宗復古運動の先駆者(wIkipedia)

東海道筋の寺院としてのニーズに合わせ多様な顔を持つ寺院と言えます。ただ安永9年(1780)火災で古記を失ったことは残念です。

 本堂正面上の蟇股(かえるまた)に少し崩したバン字(写真)が曹洞宗寺院には珍しく掲げられています。バン字には多くの意味があり、平安後期の真言僧覚鑁(かくばん)(興教大師)の鑁字義によれば「離言・水輪・塔婆・大悲・金剛・智身・灌頂・殊勝・周遍・証果・心・界・蜜・曼・佛・大の十六門に分かち訳しています。単に水・金剛界大日如来だけの意味と種子では無く、深い意味がありそうです。

山から下りられた観音様は、本堂手前の北側、鐘楼堂の東の観音堂に祀られています。 
入口左手には山のお堂内に祀られていた馬頭観音石像(明治44年)がユニークなお姿で出迎えてくれますが、よく見ると出来栄えもよく、印相・持物・三面相の表情などそうそう見ることができないお姿です。(写真)百年以上経ていますが、堂内に置かれていたため傷みが無くお参りできます。  
馬頭観音:頭上に馬首を描いているので馬頭観音と言います。八大明王にも数えられ、馬頭明王・馬頭金剛明王・大力持明王などとも呼ばれる忿怒尊です。菩薩の救済の力を馬に託し、また牧草をきれいに食べ尽くすようにすべての障害を素早く除く役割を担っています。お姿は種々ありますが、この石像のお姿のように三面三眼八臂が多く、二手は正面で印を結び、金剛棒・宝輪・念珠・剣・鉞斧を持ち、残りの一臂に施無畏印を結び観音の慈悲を示し、怒りの姿で邪心を懲らしめるのも衆生を救済する観音の慈悲であると教えます。また密教の修法では結界にこの菩薩を唱えることから、村境や峠などに祀り、疫病や悪しきことが入らないように、また良いことが逃げ出してしまわないようにと祀られています。六観音の中では、六道の畜生道を担い、その姿から牛馬の守護神とされています。ちなみに観音霊場も三十三の中間点十六番真昌寺の本尊様は馬頭観音です。

お堂の正面上には22番観泉寺に掲げられていた山号額と同じく大雄山最乗寺の余語翠巌(1912~1996)禅師揮毫による「大悲閣」が掲げられています。
本尊千手観世音菩薩

 
「掛川誌稿」には「観音堂あり、権現(一寸坊)祠より低い処にして、観音寺の上にあり、此の観音は昔阿波神社の本地佛とするものならん、木像長二尺許ありて、彩色もなく、古作とみへたり」と記され、高さ二尺とされています。また「東海道名所図会巻四」では「本尊千手観音長三尺許作しれず」とされています。「掛川市誌」では、後村上天皇の正平年間(1346~1370)日野中納言資基卿の弟良政が勤王家藤原俊基卿(?~1332)並びに娘月小夜姫の菩提のために観音大士一体を当山へ寄贈した。これが本尊御腹籠の観音大士である。良政が開基となった。」としています。

前回にも本尊様のお姿は掲載しましたが、お厨子の中で開帳時以外は拝顔できませんが、室町期の特徴を色濃く残す寄せ木作りで、本来は玉眼が入っていたと思われますが今はありません。25年前も含めて修復は何度かされたようです。21番相伝寺の案内の中で東山椎林の観音様を掲載しましたが、お顔の表情がよく似ているなと感じました。腹籠の胎内佛は3~4寸ほどの小仏のようです。(常現寺住職談) 脇立佛は不動明王と毘沙門天だったと思われますが(百万遍の唱えごとの中から)今は伝わっていません。 厨子の前の御前立の千手観音像は昭和9年大慈会によって修復され祀られたものです。(写真)
月小夜姫:「刃の雉」「蛇身鳥」伝説は小夜の中山を中心に菊川北部から掛川東部に伝わる伝説です。「昔小夜の中山あたりにヤイバノキジという賊が出没し、近在はもとより旅の者にも危害を加えるというこ    とで、往来も絶えるという有様であった。このヤイバノキジというのは、中央に地位を認められなかった豪族の連れ添いが、せめて娘だけでも都びとに認めてもらいたいものだと日夜奔走したが、この願いも叶わ ず、遂には手段を選ばなくなって悪事を働くようになったものという。そして娘を認めれば悪事もやめよう、退治もされようということであった。

このことが都にも知られ、討伐の者を遣わすこととなり、落合権の守と従臣進士清蔵、植山、本目などが征伐のため遠江に下向することとなった。しかしヤイバの鬼人の力が強く征伐することができず、権の守は福田港へ、進士は横須賀方面に退いたといわれる。進士はこの戦いで鬼人を討ちもらしはしたが、無二の弓の達人であったので、射った矢はヤイバの鬼人の太ももに七針も縫うが如くに突き刺さった。そこで鬼人は「これほどの矢を射るものは進士以外にはない、七生たたってやる」と言ったという。朝廷では再び、一条三位上杉憲藤を差し向け、ようやく退治することができた。一条三位はこの功により相良の庄を拝領したが、この征伐の際、土地の愛宕の庄司の家に滞在して、白菊という姫と懇ろになり一男子をもうけた。名を月の輪童子といい、のちに空叟(くうそう)といって、足利尊氏の伯父にあたる竜峰和尚が開いた平田寺の二代目となった。寺の記録によると、中山の逆徒を討ったのは弘安元年(1278)の春のこととある。一方都に残っていた落合権の守の娘妙照姫は父を尋ねて遠江に下り、友田(菊川市)に小庵を結び、住みついたといい、妙照寺の前身になったいう。公文名の(西方)瀧の谷の奥には 権の守の墓といわれる塚と五輪が残っていて落合姓の先祖ということで祀られている。また日坂八幡宮に近く、秋葉灯のあるあたりが、ヤイバノキジの娘、小夜姫の屋敷跡と伝えられている。「菊川むかし話」(昭和62年鈴木則夫編著)より )(そのほかにも幾つかの伝説が存在します。)

大慈会:粟が嶽の観音様が弘法大師の霊夢により大師によって彫られたという故事に帰依して、大正15年に有志で組織した会で、21年間の計画参拝を企した。翌昭和2年4月第1回の登山参拝を行い148名の参拝者を数えた。発起人は掛川住人 大庭大42歳亮42歳・仝 久保田治一郎40歳・仝 指物師 小林謙治郎・仝 鍛冶師 松浦駒一郎45歳・仝 塗物師 松本興作60歳等が名を連ねています。なお翌昭和3年には523名の賛成会員を募り、翌4年には1898名の賛成会員を集めた。しかしその後どのように展開したのかは不明です。粟が嶽の観音様信仰の講社と言える組織です。また、本尊の前立仏の修復について、「昭和9年9月彼岸記」として「昭和2年春有志相謀り、無間山鎮座の十一面観世音に参詣し、国利民福の祈願をした。第8回参拝記念として、往昔伝来の御前立改造をする。工費金二十円を奉納」と記しています。

 
 

御詠歌

ちさとまで ひとめにみゆる おとこやま ほとけのちかい たのもしきかな (千里まで 一目に見ゆる 男山 佛の誓い 頼母しき哉)

山本石峰氏は「順礼物語」の中で「観世様の慈悲は広大無辺で 丁度無間山の頂上で下界を見下ろす如くだ。迷いの雲が晴れて、千里も一目の中だ、其の力は頼母しい限りだ」と記しています。

この山に何故千手観音をお祀りしたのかについて山岳宗教研究者の山本義孝氏は、初めて粟ケ嶽に登った印象として「南平から南方を眺め、熊野の補陀落浄土の青岸渡寺を思い浮かべた」と語っています。近在には三熊野・高松・小笠山を熊野三山の写しとした熊野信仰も存在し、歴史と信仰の奥深さが広がります。
男山:この山に中・近世 女人禁制とか一般人の踏み入れ制限の禁足地の言い伝えは無く、初午祭の参詣人に象徴されるように、庶民の身近な山であり続けて来ました。地元民はどこから眺めても自分のほうを向いていてくれる「向山(むくやま)」と呼び、親しみを以て接してきました。「男山」の言い方は、独立した山を一般的にこう呼ぶのであり、禁忌とは考えにくいです。男山のイメージから頼もしさは伝わります

 

一寸坊権現

鎮守の神が長い年月の中で変わることはあまり考えられません。ただ寺院の支配構造の中で習合し増えていくことはあり得ると思います。またその時々の力の入れ方による盛衰もあり得ます。粟ケ嶽の場合は呼び方として「鎮守」「奥の院」「山神」と多様です。平安時代の延喜式にある「阿波神」を是としてきたことは知られていますが実際に祀られていたかと言いますと、一寸坊の祠をもって昔跡としているだけで、よくわかっていません。ただ掛川誌稿のように観音が阿波神の本地佛と表現はされています。また西山村の旧家松浦氏の地の神「八王子社」を粟ケ嶽の山神として迎え祀り始めたこと、「一寸坊権現」を観音寺の鎮守として勧請したこと、明治になって「阿波波神」を祀り始めたことなどの変遷は山の歴史そのものと言えます。明治18年12代霊峰和尚が書した棟札には上記以外に宇賀神・豊川稲荷・奥山半僧坊・金毘羅大権現・春野山太白坊なども勧請されています。

これらの中「一寸坊権現」出現についての言い伝えは掛川誌稿などにかなり具体的に記されています。この説を基調に考えてみますと、掛川市大野の本寺長松院第二世一訓禅師が弟子某(後の一寸坊)と「無」について禅問答をしたことが長松院記にあるとされています。時は一訓禅師が永正十年(1504)に遷化(他界)していますので文亀から永正初期と考えられます。某弟子がその後長松院から離れ粟ケ嶽に入り修行を重ね一寸坊となったとされています。

前号で「遠江古蹟図絵」に書かれている一寸坊を紹介しましたが、再度要点を記しますと「守護神を一寸坊権現と云ひ、近来正一位と成らせたまふ宮あり。略 木像、社の内に有り。天狗の形、翼有り。長一寸あるゆえゑに名とす。白虎に乗り不動のごとく剣を持ち云々」と説明されています。また同書に「この宮も(一寸坊権現宮)当年開帳に付き修復出来、正一位と成らせられし由云々」とも記されています。当年とは寛政10年(1798)と思われ、お宮が修復されたのは寛政4年(1792)と思われます。(社に残されている棟札と遠江古蹟図絵の編纂の時期から) この頃が最も祭礼盛んな時期だったのかもしれません。

権現堂内の棟札には「我れ神躰無く 正直をもって神躰とす 我れ奇特無く 無受をもって奇特とす 我れ知恵無く 忠孝をもって知恵とす 我れ仏法無く 慈悲をもって仏法とす」と書かれています。これは一訓禅師との禅問答の答えと 大悟した証明として一寸坊が残し伝えたものと考えられます。勿論「正直(せいちょく)」や「忠孝」の言葉使いから後世に考えられたものとは思いますが・・・。    
地元西山村の人たちは武田勢の駿河侵攻(1567~68頃)による兵火から逃れるため全戸離散しています。やがて時代が代り世情が安定してきた寛永年間(1624~1645)になり地元に戻ってきたようです。当然観音堂や権現堂なども被害を受け、荒れ果てた状態であろうことは想像されます。地元に戻った村民たちは心のよりどころである寺や観音堂の再建、昔通りのまつりごとを中心に生活の安定と村の復興に努めたことでしょう。

一寸坊:現在まで修験道の特色を失わず伝承している信仰に、木曽の御嶽修験があります。「御座立て」に代表される託宣(たくせん)と言われる巫術(ふじゅつ)が行われます。これは神が行者などに憑依し てお告げをすることですが、この神を護法神とか満山護法善神といい、仏法を護る神と理解されるのですが、一般的には護法神を天狗と考え、また童子ともよばれ、山伏の従者あるいは使役霊として、悟りを得た山伏がこれら天狗や、護法を自在に駆使して奇跡を起こすと考えられていた。また原始的修験道には、どこの山でも護法を山伏に憑けて山の神と同体にし、その加持力によって祈祷と託宣を行う信仰儀礼があったものと思われる。このように護法神がカラス天狗のようなものとの概念が一般化し、山伏と天狗の関係ができてくると、修験の山には様々な天狗が生み出され、山に住むと信じられるようになった。(五来重・山の宗教)

粟が嶽の一寸坊権現も「無」題から仏法を「慈悲」であるとの答えを導き出し(託宣)護法の神・天狗になったといえます。 御託宣とか夢のお告げは古代においては重要な意味を持っていました。現代では非科学的などと言われ重要視されなくなりました。ただ「神の声」などと理不尽に使われたりしますといささか・・・・と御託を述べてみました。

百万遍

山上の観音堂では毎年八月九日「百万遍念仏」が地元西山の人たちによって行われてきました。常現寺に移ってからも続けられ今年(平成30年)も35度を超す暑さの中、お堂で「百万遍」がおこなわれました。

この日は午前中に山上境内の草刈りをし、午後から供養が始まる。今年は13名の男女が常現寺観音堂に集まり、住職の御法楽の後堂内に輪になり「なんまんだんぼ」のお唱えと左から右に大念珠が回され、大きな房(母珠)が来ると、少しささげるようにして回す。100回を30分程かけて唱え回し終わる。一人中央に数を繰る役の人がいる。10人で1080の数珠を100遍回し唱えることで100万遍となる計算です。

   
(数珠‥今は不使用)                  (計算機)       (百万遍を終えて)

「百万遍」:百万遍念仏の略称。念仏(南無阿弥陀仏)を百万遍唱えること。元弘元年(1331)後醍醐天皇の勅命により悪疫退散のため、京都知恩寺八世空円が七日間百万遍念仏を修し疫病が収まったことに由来する。後年一般におこなわれるようになった。この地域ではほとんど途絶えてしまったが、わずかに数か所で行われている。(掛川市中西之谷下組・・掛川市史)地域により日時唱え方は様々ですが、お盆の行事として現世利益より精霊供養として行われることが多い。

今回粟が嶽の続編として案内いたしましたが、調査の中で一寸坊権現と常現寺の開山宗鑑和尚が兄弟弟子であることもわかりました。また敢えて無間の鐘などの伝説には触れませんでした。この山にはまだまだ興味が尽きません。多くの人たちに粟が嶽を訪れていただきたいのですが、山上に立派な休憩施設が来春竣工しても車道の整備は遅れています。くれぐれも運転は慎重に、気を付けてお登りください。できうれば歩いて登られることをお奨めします。麓の「いっぷく処」に駐車して約1時間で到着します。常現寺にお参りをして山に登るか、山から下りて常現寺をお参りするか、、、3~4時間は必要です。

 

気まぐれな巡礼案内㉑

投稿日:2018/06/06 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第23番 無間山 観音寺(粟ケ嶽) 現在は龍谷山 常現寺内観音堂 本尊 千手観音菩薩(写真)

平成6年に現在の掛川市日坂506-1(常現寺)に観音堂建設・本尊修復の後移転した。
「番外霊場にしたい」と25年前まで鎮座していた粟ケ嶽にスポットを当ててみます。


近隣でもあまりに名高いこの山は、遠江霊場に欠くことのできない霊山です。仏教色が薄れたとはいえ巡礼者は登っていただきたい山です。

山ひとつとりましても、自然・環境・歴史・文化等多岐にわたり、すべてが関連性を持ちながら存在しています。興味は尽きませんが全てを網羅する能力はありませんので、わずかな部分のみの案内となることを了承ください。〃百聞は一見に如かず〃読者の足で登山確認されることをお奨めします。

近年粟ケ嶽はハイキング・サイクリング・カーツーリング等 気軽に登れる低山として家族連れやツーリング仲間を中心に賑わいを見せています。※山頂の休憩所建て替えも計画され、将来は粟ケ嶽と北側に下った倉真 松葉の滝・倉真温泉との観光ルートも計画されているようです。

レジャーなどで脚光をあびているこの山に次々と登ってくる人たちを観察していますと、社殿前では神妙に手を合わせる姿を多く見かけます。日本人の心の底流に流れているものは何だろうという疑問も沸いてきます。   
少し前(随分前?)まで日本人は多くの神々に守られて生活をしていました。家を例にとっても、玄関には門神様、トイレには烏枢沙摩明王(トイレの神様)、風呂場には水神様、台所には三宝荒神様(火の神様)、居間には恵比寿様、大黒柱には大黒様、寝室には歳神様、床の間には尊(たか)神様、仏間にはご先祖様、外に出ると井戸には龍神様、西北には地の神様といった具合で神様に囲まれた中で、守られていることすら忘れるほどに日常生活を営んできました。唯一「おかげさまで」の言葉に神様たちも報われながら・・・。

人・神一体の心は今も日本人の中にあり続け、当たり前のこととして手を合わすことにつながっているのかもしれません。

では日本の古代人は山についてはどのように見てきたのでしょうか。※町田宗鳳という人は、古代人にとって山は息巻く巨大な動物ではなかっただろうか。として『山は、肉体を持つ動物である証拠に、あらゆる動物たちを産み落とす。熊や鹿、猪に猿、それにウサギやリスなど、さまざまな動物がところ狭しと駆け巡っていただろう。人間がこれら動物の肉を口にするとき、それは山という巨大な動物の分身の肉にほかならなかった。古代人の眼には、山は決して無機質な物体ではなく、切れば真っ赤な血が噴き出るほど、肉感を備えていたのではないか。それは、人間と山が同じ「いのち」で繋がる生き物だという感覚でもある。ケダモノである山は、その全身を覆っている毛皮の色を季節によって変えた。春から夏にかけて緑は日増しに濃くなり、まるで赤子の細くて柔らかい髪が、大人の太くて硬い髪に変わって行くようだ。秋には燃え立つように赤や黄色に変わってしまう。やがて木の葉は落ち尽くし、山全体が灰色のベールをかぶったようになってしまう。ある朝突然山の巨体が真っ白な毛皮で覆い尽くされてしまう。古代人は、山は生きていると感じていたに違いない。また色彩だけでなく、春風のそよぐ声、走り抜ける木枯らし、怒り狂う吹雪。雨の中の遠くかすんだ山も雨上がりには手が届くほど近づく山。ときには、火を噴いたり、真っ赤な血を流したり、大きな体を震わせ、土砂崩れや雪崩を起こす。山だけではなく大地そのものが生き物のような存在と感じ、人間は巨大な生き物の背中にしがみつき生きている小さな動物にすぎない。』 と書しています。ここに古代人は神の観念を持つに至り、現代人もDNAを引き継いでいるようにおもわれます。

話が脱線気味ですが、小笠山・大尾山・粟ケ嶽を掛川三山にしようとする意図が見え隠れします。

小笠山と粟ケ嶽は※「静岡百山」に入っています。ただし、小笠山は袋井市分のようです。 三山に共通していることは、ともに山岳信仰の霊山であることです。

小笠山三仭坊(みひろぼう)、大尾山王子坊(おうじぼう)、粟ケ嶽※一寸坊(いっすんぼう)と呼ばれる天狗の山です。天狗は権現と称され、※本地は観音です。粟ケ嶽と大尾山は千手観音、小笠山は聖観音です。

粟ケ嶽は独立した山(男山)で標高527.3m(532mの説も)「静岡百山」「静岡の自然100選」(昭和61年)「自然観察コース100選」(昭和60年)などに選ばれています。

むかし山伏山と呼ばれた時代もありました。「山」は「産」と同じであり、あらゆるものを生み出すエネルギッシュな場所ととらえ、山そのものを神仏とみる※山伏の修行する聖地でもあります。「粟ケ嶽は観音様が住んでいらっしゃる山」(杉本良談)といえます。また一説には「あわ」はAbalokitecvarah(アボロキティーシュバーラ)=「観世音」から名付けられたともいわれています。まさしく観音様のいらっしゃる山です。大尾山も大悲山(おびさん)で観音の山です。

今から40年ほど前、この札所を歩いて廻った時の拙文を掲載してみます。

「この道をどれだけ多くの人が、どんな思いを込めて歩いてきただろうか。手に持つ錫杖で身体を支えノロノロと足取りは重く、肩で息をして、相変わらず雨脚の衰えない空を 疎ましく見上げる。今日で五日目 ここ三日間ずっと雨具を羽織ったままである。地下足袋、脚絆は足を締め付け、背負った荷物は肩に食い込む、今日泊まる当てもない。一日歩いてもだれ一人会う人もいない。独り言を口先で押し殺し、そのうちそれも途絶えた。網代傘にしみ込んだ雫が頬を伝い胸もとに流れ込む。錫杖を伝う雨は手甲を濡らし脇から入ってくる。今何時ころだろうか 夕闇はもう迫っているはずである。二十三番粟ケ嶽はまだ眼上に聳えている。山上の茶屋に泊まれないことは先刻二十二番で聞いている。が、ひょっとすればというかすかな望みが、夕闇迫る心細さと疲労を打ち消してくれる。

茶畑をぬって通る車道を横目に、畑中をまっすぐ登る。やがて背丈以上もあるススキが覆いかぶさる山道をやっとの思いで通り抜けた。あと一息と思いながら前を見ると、豪雨で大木が倒れ 山道が遮断されている。立ち木を命綱に登る。狭い木の間に網代傘は大きすぎる。足が白衣を踏みつけ、雨具が木に絡みながらも、ようやくお堂に辿り着いた。お堂の前で掌を震わせながら、とぎれとぎれに観音経を唱える。お堂を打つ雨音はますます強くなっていった。」と当時の粟ケ嶽参りを記していました。

最近では登山道も整備されてきましたので、雨の日とはいえ こんな苦労はなくなりました。

現在は山頂に休憩所や※テレビ中継アンテナが林立し、また阿波々神社社殿が建ち(昭和62年)車も山頂まで登れ、上から参拝するような形です。 麓から歩いて登ってみるとわかる事ですが、山頂に神社が作られる前は※南平(みなみだいら)の上段に観音寺と観音堂、その上段に一寸坊権現と八王子権現。そこから上は※磐座の神聖な領域で、人が踏み入ることのできない禁足地(聖域)であったはずです。岩場を聖地、あるいは山伏の修行の道場として護るために、さまざまな伝説を作り上げたのかもしれません。ただ残念なことに早い時期に密教から顕教(一般寺院)の支配するところとなったため、山岳修行色が薄れてしまったといえます。岩場に残る 胎内くぐりの行場や平等岩・覗き場などの痕跡から、山伏の修行場であったことが一目してわかります。

    
 

◎粟ケ嶽の記述(江戸時代~明治・昭和)

東海道名所図会

  1797年(寛政9年)の「東海道名所図会」には淡嶽(あわがたけ)として「遠江佐野郡西山村

の山上也 日坂の駅中より東北へ入る事凡二里許也 又此山より金谷坂へ出る道一里半也 此辺の高嶺にして海道より北に中(あたっ)て絶頂に杉の村立蒼々と見えたり

東路は ころもて寒し 白雲の あわゝがたけの 秋の初風  賀茂真淵 」

また阿波波神社として「淡ケ嶽の高峯にあり 延喜式内祭神未考當國佐野郡四座の一社なり」

また無間山観音寺として『阿波波社の下段にあり禅宗曹洞當國久野村可睡斎の末寺也「本尊千手観音」長(みたけ)三尺許作しれず 阿波波の神の本地堂とす 脇段に西國三十三所の観音の像を安ず 當寺は寺産なくして堂舎庫裏等大に零落し境内荒廃の体也 今時住僧もなくして漸く麓の西山村より村老代わるがわる来って留守居の堂守とす 毎年二月初午の日は法会とて近郷より参詣すとなん

諺に云 むかし此山に無間の鐘といふあり 此鐘を撞ば現世にては無量の財宝を得ると云へども未来は無間地獄に堕落すとなり 故に此山を無間山といふ 今此鐘を尋るに曾てなし

土人云むかし此堂下へ埋ともいふ 又鶴見因幡が無間の鐘の由来とて 佐夜の中山の茶店にて板行し売るなり 又近年佐夜の中山霊場記といふ談義本を出す 倶に妄説にしてとるに足らず傀儡楽戸舞妓扮戯(あやつりしばいかぶききょうげん)に取組むより世に名高し 按るに無間山とは此峯へ登る坂路ほそく嶮くして一たび踏損ずれば無間地獄へ落ちるに似たり 若踏はづして谷へ落る時は此寺の鐘を撞て人を呼集めて助る也 故に無間の鐘といふか

「半鐘」観音堂の縁側に釣 銘を鐫(せん)す  遠州濱松庄宇布見長寶寺 勧進檀那阿闍梨法攸太祖舜忌 永和二年丙辰二月十五日

堂守云 此鐘はあるとし修験の山伏荷(かつぎ)来りて云やう 当国長寶寺に於て此鐘を賭け(かけもの)として囲碁す 其時我等勝負に勝しよりここに持来り 幸(さいわい)此寺に釣鐘あらざるゆえ寄付すとぞ これらも詳(つまびらか)ならず 又一説に無間の鐘は明応の頃 住僧諸人に罪を与ふるに似たりとて古井の底へ投落す 今も其古井へ榊を逆(さかしま)に投入るれば撞たるも同じ事にて 財宝を得るといひつたへり これらも妄談筆するに及ばねども延喜式神名帳に出たる神社をあらぬ號をつけて神號の廃する事を歎きてここに雑説を記し是非を糺すのみ』 と記されています。

その6年後に刊行された※「遠江古蹟図絵」には 
遠江古蹟図絵

1803年(享和三年)の「遠江古蹟図絵」には、粟ケ嶽一寸坊の表題で「粟嶽は日坂宿の北に見ゆる山なり。俗呼びて山伏山と云ひ、入字の形に樹木生い茂る。『

延喜式』に淡之神社と云ふこれなり。淡山と云うおひ、歌にもよめり。淡嶽とも云ふなり。無間の鐘と云ふ事甚だしき妄説なり。その後井に埋めしと云ふ井有り。彼是取るに足らず。山の中腹に大岩二つ有り。俗呼びて地獄穴と云ふ。守護神を一寸坊大権現と云ひ、近来正一位と成らせたまふ宮有り。一町山へ登る右手に有り。木像、社の内にあり。天狗の形、翼有り。長一寸有るゆゑに名とす。白狐に乗り不動のごとく剣を持ち、毎年初午に群集す。本堂の左の上に、人参自然と生ず。※竹節人参なり。湿草なり。この山を無間山と云ふ事、間なき山と云ふ意。外に高山続きてなければ、この山ばかり高く遠くまでよく見ゆる山なれば無間山となづく由、観音寺和尚の物語なり。 この寺に往古より小さき釣鐘有り。今残りて存在す。その銘に云く、「※宇佐美村長寶寺阿闍梨雲候代永和二年二月日」(1376)と有り。由来、和尚もしらず。往古乱世の時分、彼の寺より盗み来り、陣鐘に用ひたる様にも覚ゆ。今年(1803)亥九月、一月中開帳有りて群集す。度々焼災有りしゆゑ、縁起もなし。和尚に尋ねたれば、この山云ひ伝えし開闢は天平元年の由申されし、いかさま古き事と見ゆ。往古は俗呼んで「あおうが嶽」と云ひし由縁起に見ゆる。また淡之神社と古書にあれば、祭神何神を祟るや。今は絶えて宮なし。ただ一寸坊大権現の小宮有るのみ。この宮も当年開帳に付き修復出来、正一位と成らせられし由、淡之神社にては決して無き事分明なり。往古は粟生嶽と書く。近来粟嶽と書き、今以て草の中に粟交り生ずと云ふ。毎年初午参詣多し。」と書かれています。

ほぼ同じ時期(文化年1804~1818)に編纂された「掛川誌稿」には

掛川誌稿

「掛川誌稿」の「西山村」には表題 粟嶽として「粟嶽一名無間山、本郡の東にありてあ、山勢聳秀にして、白光山、大悲山に対峙せり。東は東山村より大代村の山に跨り、北は倉真村より丹間山に続き、西は倉真村に渉りて綿亘数里なるべし、西山村は南麓にありて小村なれど此山を以て西山村に隷せるは(文禄三年、金鼓左夜郡西山村粟嶽山観音寺と刻せり)昔阿波神社領なりしゆえなるべし、此山樹石少なく、唯茅茨のみ多し、山の南面の処に平坡あり、平坡以上絶頂に至までは、老杉樹憂茂、雑樹交加、嵐気畫蔽て、暑月も炎熱を知らず、山の高さ是を以て知るべし、一寸坊の祠、観音堂、観音寺、皆其中にあり、絶頂に至り始めて巨石あり、其形立つが如く、伏が如く、崩るる如く、恰も人造に出るものに似たり、遠くより此山を望めば、山頂の林木鬢髪を梳れる如く、数十里の外といへども、山形の見ゆるほどは一瞥して知るべし、故に遠州洋海を舟行するもの、此山を以て標識とす、粟嶽と云も粟神社ありて後の名ならん、又無間山とも云は、浮屠氏の名つくるものなり、此山蛇骨を出す」

式内阿波神社、一寸坊権現 として「式内阿波神社は、今其所を詳にせすといへども粟岳の一寸坊の祠を以て舊跡なりといふを姑く是なりとす、一寸坊権現は、初め奥野村長松院の僧にて、永正の頃天狗と化し、一訓和尚(長松院二世 永正十年六月十一日死す)と無の字を論せしこと、長松院記に見えたれば、一寸坊のあるは三百年外のことと見ゆ、式内社の衰替せしこと諸国も皆古きことと見ゆれば、此山阿波神社も、永正より迥(はる)かに古く廃せしものにや、此祠は事任社の如く、古人の紀行の類にもみえず、且観音寺も武田氏の兵火にかかりしとて、一の古物をも伝へねば、考べき便なし、又五明村に粟宮あり、俚俗の口碑には古祠なるよし伝れど、舊地は川となりて今の小祠は其名のみ遺れり、又倉真村の宮の嶋八幡も、天正十年の棟札に、佐夜郡倉真郷粟大菩薩とあり、是皆郡中の事なれば、粟嶽にありし粟の神のを延し祀りしものなるべし、さて、印本延喜式には、阿波々山などいふ名もみゆれど恐くは訛なるべし、神名帳に城東郡比奈多神社、榛原郡飯津佐和乃神社の類、マレ(稀)に神字の上に乃の寺あり、阿波々も粟の神社と書きたるにて、今本重点点に造るは、即乃字の誤写なるか、神名帳を見るに、諸国に同じ神名多し、伊豆國加茂郡阿波神社、伊賀國山田郡阿波神社、大和國添上郡率川阿波神社、常陸國那賀郡阿波山上神社、伊勢國度会郡粟皇子神社、和泉國和泉郡粟神社~略(多くの例を記す)~

是等のことによれば、諸国の式社に阿波社、安房社、粟社など云しは、皆齋氏の徒の立てたりし祖神の祠にして 太玉命、成天富命、日鷲命などを祀りしものとみゆれば、いよいよ阿波々は乃字の誤写たること知るべし、必しも淡々しきなど云語にはあらじ」

粟嶽山観音寺として「曹洞日坂駅常現寺末 又観音堂あり、権現祠より低処にして、観音寺の上にあり、此観世音に昔阿波神社の本地佛ととするものならん、木像長二尺許ありて、彩色もなく、古作とみえたり、文禄三年の金鼓に、遠州佐野郡西山村粟嶽山観音寺と刻せり、此寺舊小庵なりしが、寛政十年より和尚地となれり、昔武田氏の兵火に罹りて、古物悉く失せしと云ふ、其時甲兵の棄去しとて、高三尺四寸許の古鐘あり、銘曰、遠州濱松庄宇布見長寶寺、永仁二年丙辰三月十五日とあり、是鐘小さくして手頃なりしかば、甲兵とも提け廻りしものなるべし」と かなり詳しく書かれています。

その80年後に出された※「寺籍財産明細帳」には

寺籍財産明細帳

「寺籍財産明細帳」(明治19年3月)によれば、「法地 観音寺 開創 当寺は千有余年の古跡にして、由緒甚だ詳ならず。僅かに伝来の一古書あり、古く之に因って考ふるに、抑々吾粟ケ嶽(一名無間山と云う)は弘仁(810~824)の頃、弘法大師(774~835)の開闢なり。伝云う大師入唐の時(804)適々彼地の一霊嶽に登り、厳然たる十一面千手尊を拝す。薩埵微妙の相にして、放光人を射る。大師其異相を観て感嘆のあまり、親ら十一面千手尊一躰の像を彫刻して帰朝し后ち此山に来て一宇を構え尊像を安置す。称して一刀三礼の霊像と伝承して其名世間に高く、往古参詣信仰するもの多し。然れども爾来其盛衰幾変なりしか知るに由なし。大永(1521~1527)の末 本寺第二世盛庵和尚の嗣子宗順なる者、此古跡霊域にして、崇岳絶景遠近に比なきの法域をして、空〼するに〼〼〼〼て禅地となす。然れども原来無禄無檀にして、啻々(ただただ)十方信徒に依って小伽藍を永続し小経営をなすのみ云々。」また同明細帳に、鎮守一寸坊堂として 本尊一寸坊大士 建物、竪三間 横二間 ただし茅屋「右鎮守一寸坊大士は由緒甚だ詳ならず。伝え云うこと、本郡大野村長松院二代一訓和尚の弟子某なりと、曾て無の字によって道話す、某苦心参玄するに師の曲調高く、一も不可得。某茲に於て吾意の及ばざるを憾とし、当嶽に深入し苦辛修宝すること、茲に長年竟に人 其死を知るなし。是れ之を称して、当寺鎮守即一寸坊大士(此号何頃より称せしか未考)と称す。当時より維新前まで此山中所祀の郷社阿波々神社と号する神あり、世人誤て之と同一物躰と想い、猶秋葉神社と三尺坊大士との如し。維新の際神佛分明なり、之を当山の鎮守と請す。例年舊暦二月初午の日を以て大祭とす。参人今群をなす。古来より雑説多く、而も信とし探る可きなし。古く伝聞中稍々(しょうしょう)考証すべきものを登記す。」とあり、一寸坊の出自を説明し、現今の阿波々神社と紛らわしい様子も述べていますが、寺院としての鎮守は一寸坊であるとしています。奥の院と言われる「八王子権現」については触れられていません。

掛川市誌』

昭和43年発行の※「掛川市誌」には、無間山観音寺跡として『観音寺は粟ケ岳山上にあったが今は廃寺である。 人皇五十二代嵯峨天皇弘仁二年(811)に僧空海諸国巡錫の途次、粟ケ岳に登り小堂を営築し仏像を安置した。之が観音寺の創始である。其の後承和年間(834~848)僧長然が上山して草創開闢座主となった。 宗派は開創以来凡そ四百年真言宗であったと思われるが、宝治年間(1247~1249)岐阜今須妙応寺大徹禅師の法子、聖山恵徹和尚上山して曹洞宗に改宗し、無間山観音寺と改称した。 後村上天皇の正平年間(1346~1370南朝)、日野中納言梳資基卿の弟良政が勤王家藤原俊基卿並に其の娘月小夜姫の菩提のために観音大士一体を当山へ寄納した。これが本尊御腹籠の観音大士である。良政が開基となった。尚当山には奥の院八王子権現がある。これは旧西山村の松浦治郎兵衛の宅地内に安置してある地神を畏み、粟ケ嶽の観音寺へ祟納したもので、無間山の山上に祭って観音寺の鎮守とすることになった。その後永正初年(1504)の頃長松院二祖一訓和尚の弟子が粟ケ嶽に入山し大悟して後粟ケ嶽の守護に当たった。依って之を一寸坊導士として奥の院八王子権現へ合祀し共に当山の鎮守とした。其の後盛衰があったが昭和三十六年六月其の筋の許可を得て日坂常現寺へ合祀した。」と記され、一方同「掛川市誌」の「粟ケ嶽」の項では「天平(729~749)の昔 菊川の里菊水の滝に庵した修験者弘道仙人が不動明王の請願に依り釣鐘を鋳造して粟ケ嶽頂上の松樹に揚げ これを無間の鐘という。又弘仁二年(811)三月十七日 空海上人は唐土遊学より帰朝して粟ケ嶽に登り小堂を営築し本尊の十一面観音菩薩を一刀三礼にして作り安置した。又山内 八王子権現の由緒について記せば 延喜七年(908)粟ケ嶽のふもとにある松浦治郎兵衛宅内に安置してあった地神をここに遷座した。今の奥の院八王子権現である。又此処に一寸坊権現がある。初め奥野長松院の僧で同院二世一訓和尚と無の字につき論じたと長松院記に見えるから、一寸坊の祠は三百年遡るであろう。』と記しています。

上記に江戸期からの5つの資料を敢えて読者の煩雑さを顧みず書してみました。読みづらいことと思いますが、資料扱いとご容赦ください。

長い歴史の中で時代に翻弄されたことは 粟ケ嶽の歴史を複雑にしたと同時に、山への憧憬と距離感も添えられているように感じます。特に中世の戦国動乱期・江戸時代の終焉と神仏分離は大きく信仰形態を変えることになり、伝説(雑説)という形で後世に伝えているのかもしれません。

観音寺境内は明治初期の廃仏毀釈によって神社側の所有となり、明治40年に訴訟によって境内のごく一部を取り戻し、地元西山地区18戸の協力により大正5年に観音堂は再建されいた、この観音堂では以前同様、新暦3月の初午、八月の百万編、秋彼岸の巡礼者の接待と地元西山の人たちによって続けられました。その中秋彼岸の様子を西山で生まれ育った女性は「子どものころから 巡礼さんが来る頃は朝早く起きて、畑に行き まだ小さいけれど※里芋をこいで、煮っころがしにして 観音様の横で巡礼さんたちに食べてもらった うまいうまいって うれしかった。巡礼さんたちもお菓子をくれて 楽しみだったよ。」と当時を懐かしく話してくださいました。

今朽ちたお堂を見る時、何ともさみしく 悲しい気持ちになります、、、。

  
上記資料の中「掛川誌稿」は多くの紙面を割いて阿波々について論考しています。特に非常に古い※齋氏の※祖神としての「阿波社」の記述は興味深いものです。中近世には阿波神の形態は姿を隠し、本地垂迹に基づく信仰になり、中世の終わりごろに一寸坊権現への信仰が観音信仰とセットで発展します。(現在一寸坊八王子権現堂は崩壊した観音堂の西北隅に小堂があり、中に棟札だけが祀られています。写真参) どこからでも眺められ、めだつ山容のこの山はいつの時代も大切なところとされ、日本の富士山同様 遠江の粟ケ嶽は郷土の誇り得る山であり続けているといえます。

◎茶文字のこと

茶文字は今や粟ケ嶽の代名詞となっています。実現はしませんでしたが、静岡空港建設が始まったころ(平成21年開港)「茶」文字をライトアップしようという話も出たことがありました。 10年ほど前、森林組合の施工で「茶」字の剪定が行われた時、東山の人たちの中では 何本あるのだろうか、どのように剪定するのだろうかと話題になったことがありました。現在はヒノキですが、当初はマツだったことを知る人は意外に少ないようです。※「東山郷土誌」には 昭和7年当時の村長萩原周平氏の発案で茶の大文字をあらわす松樹を植え付けた。植え付けには役員が縄に紙を付け「茶」の字とし、遠くから望見し形を整え植え付けたとの様子が記され、現在は(昭和40年頃)電柱ほどの太さとなり、くっきりと文字が現れるようになったと、作業の苦労などもしるされています。植え付け当時の「茶」字の寸法は 草冠の横が60間(110m)竪左側が20間(37m)右が21間(39m)八の左側68間(124m)右側72間(132m) 木の横40間(73m)竪50間(91m)左25間(46m)右25間(46m)周囲3町(324m)とされ、松くい虫でマツが枯れ、ヒノキに植え替えられた(昭和60年)。約1000本が30年を経7~8mに育ち「茶」の一大産地を象徴しています。尤も現在は車道にポイント案内掲示パネルが設置され、茶文字のどの部分にいるかがわかるようにされています。(写真)

 
◎粟ケ嶽の樹木

「入」文字の形に樹木生い茂ると遠江古蹟図絵(1803)に書かれ、また東海道名所図会に「絶頂に杉の村(群れ)立 蒼々とみえたり」と書かれている粟ケ嶽山頂付近の樹木にいては、平成29年10月に掛川名木巨樹に親しむ会から※「粟ケ嶽頂上付近にある森の巨樹について」という調査報告書が出されています。

報告書によると、巨樹(幹回り3m以上)8種類63本は掛川市内の巨樹の44%を占め、市内髄一の林叢であることが確認されました。内訳はスギ21本・シイ21本・カシ14本・ケヤキ4本・タブ2本・モチ1本で※スギの大木の多さが際立っています。なおこの森は(阿波々神社社叢)県天然記念物に指定されています。

掛川市史に※「東海道五十三次勝景」の日坂の風景の中に「沓カケヨリ達眼鏡ニテ無間山ノ地ゴク谷 地ゴク石ヲ見ル」とあるように、小夜の中山から達眼鏡で無間山をのぞくのが東海道を行き来する旅人の楽しみであった。とされ、当時の望遠鏡で粟ケ嶽の地獄岩が確認できたことがわかります。調査報告書の巨樹の配置図を見ましても、南参道、南鳥居から南側に高木が多くありますが、※磐座(地獄岩)付近と頂上付近に巨樹が少ないことを考えますと、遠くから地獄岩を見ることは可能であったといえます。もっとも現在は山頂部は植栽が進み望遠鏡でも見ることは叶いません。

   
駐車場の横、売店の東側には茶祖供養として 栄西禅師像が朝日を迎えるように鎮座しています。この像は昭和36年(1961)日展作家 友澤正彦氏(1940~2016)の制作、又一代終身曹洞宗管長 高階瓏仙(たかしなろうせん)禅師(1876~1968)揮毫による像です。本年正月には地元有志によって干支の犬を茶草場用の笹竹で造り、リードの綱を栄西禅師に持たせた光景がありました。愉快な発想は茶文字同様、東山住民のおおらかな人柄が推察されます。

さて、今回は番外「粟ケ嶽」を観音様にこだわりすぎないよう山を中心に案内させていただきました。今の時期(5月末~六月中旬)にはササユリが可憐な花を咲かせ、目を和ませてくれます。あまりに日常的に目にする山ですが登って観て感じてみてください。

粟ケ嶽に住むカラスは〃アワワ アワワ〃と鳴くとか・・・。

  
※「山頂の休憩所」:昭和36年茶祖栄西禅師像が完成したころ建設され、当初は市営の休憩所「富士見荘」として始まった。現在は「粟ケ岳山頂休憩所」とし、麓登山口の「東山

いっぷく処」とともに登山者の憩いの場として営業している。

※「町田宗鳳(まちだそうほう):(1950~)著書「山の霊力」2003年発行

※「静岡百山」:「静岡の百山」1991年 静岡百山研究会編

※「一寸坊」:一寸坊については、現在祀られています日坂常現寺の案内時に記したいと考えています。

※「本地」:神は仏教の佛菩薩が仮に現れたもの(権現)とみなす思想。奈良時代には既にはじまり、平安から鎌倉初期には主要な神祇には本地佛が定まるようになった。なお中世

においてこの説を民間に普及させ、庶民信仰を活性化したのは修験者や回国遊行の宗教者である。

※「山伏」:山伏のメッカは奈良県の大峰山です。江戸時代までは、この山中で受ける補任状(ぶにんじょう)によって山伏(修験者)と正式に認められました。大多数は生涯に一

度修行に行き、その証として補任状を受けました。写真はオオヤマレンゲで大峰山を代表する花です。葉の下に目立たないように咲く花を霧の中に見つけた時の感激は生涯忘れえぬほどです。


※「テレビ中継アンテナ・テレビ塔」:無線中継所は昭和29年当時の電電公社(現NTT)が設置し、同時に自動車道も完成した。其の後幾つかの中継塔が設置されています。


※「南平(みなみだいら)」:観音寺の下の段で公園となっている広場。アスレチックなどの遊具もあり、ピクニックに適した場所。現在は車両進入禁止の看板がある。


※「磐座(くらざ):神が天上界から降臨される神聖なところ。樹木の桜は「さ」は神を「くら」は降り立つところで「さくら」は神が降臨する木を意味します。

※「東海道名所図会」:寛政9年(1797)刊行 秋里籬島(あきさとりとう)著・竹原春朝齋他画 全六巻 全六巻の内静岡県下は巻3~巻5にわたって記され、絵は30人が担

当し、その中には日坂で暮らし、長松院に墓がある大須賀鬼卵も参画しています。

※「遠江古蹟図絵」:享和3年(1803)成立(寛政11年から5ケ年の歳月でまとめる)著者兵頭庄右衛門(再影館 藤長庚)(~1820)上中下の3巻からなり、113項目の名

所・史跡・寺社を扱い3項目の付録を付ける。掛川連尺の人。

※竹節人参(ちくせつにんじん):トチバニンジンのことで根は薬草になる。今も観音堂跡地に多く自生する。(写真)

  
※「寺籍財産明細帳」:明治19年(1886)2月に曹洞宗宗務所に提出した文書。観音寺住職 芝山萬安・檀家総代3名の連署で提出されている。

※「掛川市誌」:昭和43年発行 掛川市誌編纂委員会

※「里芋」:昭和の初期西山地区は33軒(檀家寺院は円満寺・文珠寺・常現寺)。秋彼岸9月20・21日に当番の家では里芋の煮っころがしを作り、重箱に入れ観音堂横の小屋に持ち寄った。西山地区では、そのために里芋を作った。(平成29年現在11軒) 遠江順礼札所では、巡礼を迎えるため各札所が趣向を凝らして施行(お接待)をおこなったと伝えられている。

※「齋氏(いんべうじ)」:最初 忌部氏(いんべうじ)から後に齋部氏(いんべうじ)となる。「忌部」または「齋部」を氏の名とする氏族。古代の有力氏族の一つ。大和朝廷の

祭祀にあたり、中臣氏とともに役割(中臣氏の祝詞読みに対し、齋氏は奉幣を司った)を担ったが、大化の改新(645)以降中臣氏の台頭により徐々に衰退した。

※「祖神(そじん・そしん・おやがみ)」:一族の先祖を神としてまつる。「齋氏」の祖神は天孫降臨の時に随従した「天太王命(あめのふとだまのみこと)」。一族は伊勢

安房(あわ)・出雲・紀伊・阿波(あわ)・讃岐・筑紫などに発展した。千葉県館山市の「安房神社」に祖神を祀る。

※「東山郷土誌」:昭和44年発行 掛川市東山老人クラブ白寿会発行 東山郷土誌編集委員会編

※「粟ケ岳頂上付近にある森の巨樹について」:平成29年10月掛川名木巨樹に親しむ会の調査報告書。調査は平成25年から平成28年にかけて7回実施され、詳細な調査が行われた。

※「宇布見」:現在の浜松市西区雄踏町宇布見。

※「スギ」:「スギがご神木に多い訳」稲垣栄洋著「植物はなぜ動かないか」に「スギは50メートルを超えるようなものが多くある。ちなみに、世界一高いとされる木は、アメリカ

のカリフォルニア州にあるセコイアメスギで、約112メートルもあるとされている。スギもセコイアメスギも、裸子植物である。じつは高木には裸子植物が多い。

そもそも、見上げるような高い木は、どのようにして高い位置まで水を引き上げているのだろう。植物が水を引き上げる力の源が、蒸散である。植物の葉の裏には空

気を出し入れするための気孔がいくつもある。この気孔から、植物体内の水分が水蒸気となって外へ蒸発していく。これが蒸散である。植物の体内では気孔から、根

までの水の流れはずっとつながっていて、一本の水柱のようになっている。そのため、蒸散によって水が失われると、それだけ水が引き上げられるのである。ちょう

どストローを吸うと水が吸い上げられるような感じである。ただし、これは導管の発達した被子植物の話である。被子植物の導管は、水を通す上で効率が良いと、木の高 さが高くなるほど水柱が切れてしまう危険性が増す。導管は水柱がつながっていて水の凝集力によって水を吸い上げることができる。そのため、水がつながった水 柱が切てしまうと水を吸い上げることができなくなってしまうのである。ところが、裸子植物は違う。進化の上でより古いタイプの植物である裸子植物は導管が発達しておらず、細胞から細胞,から 細胞へ水を受け渡す仮導管という古いシステムで水を吸い上げている。この仮導管は水を運ぶ効率はすこぶる悪いが、確実に水を伝えることができる。そのため、高い位置まで水を運ぶことができるのである。高木に裸子植物が多いのは、そのためなのだ。」と、まさに専門家の見地から説明しています。 神籬(ひもろぎ=神を迎える憑代)と考 えられることが多い御神木ですが、社叢全体を云うこともあります。(菊川には二か所、木惜しみ神社がある)また巨樹が先にあるところに社を建て社地とすることもあります。


※「東海道五十三次勝景」:歌川貞秀画(1807~1873) 江戸後期から明治期に活躍した浮世絵師。精密な鳥俯瞰図の描き方(空飛ぶ絵師)をしたことで知られる。

 
追記・・・頂上の休憩施設は平成30年7月初旬から解体工事に入り、しばらくのあいだ休みとなります。竣工開所は次年度になる予定です。(掛川市役所観光交流課)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気まぐれな巡礼案内⑳

投稿日:2018/05/03 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第22番 天王山 観泉寺内長福寺 掛川市東山1219 本尊 千手観音  鎮守 白山妙理権現

今年(平成30年)は例年になく季節の移ろいが早いようです。三月末には桜も散り、四月半ば新茶の摘採が始まり、お茶を基幹産業とするこの地域では五月二日の八十八夜頃まで忙殺される日々が続きます。

世界農業遺産に認定(2013年)され、茶草場農法の要となっている東山に茶摘みが始まったころ訪れてみました。

     
日坂から粟が岳に向かって行けば要所に看板があります。粟が岳の東に位置し 三角の曲輪風の寺の段に山門と塀に囲まれ要塞のようにお寺は建っています。

22番観泉寺から眺める粟が岳は濃緑の茶文字が一段と鮮明に映えます。京都の東山との文字縁により、大文字をヒントに造られたのでしょうか。いつの世も人は象徴的なものを作り出し、様々な思いを投影しようとするのでしょうか。

粟が岳に目を奪われがちですが、寺の東側には茶園がアーチ状に広がり、西側には村の家並みが見渡される素晴らしい眺めの場所に寺院はあります。

現在の本堂は平成五年に建て替えられたもので、翌六年四月落慶式が行われ、落慶法要には本堂額の揮毫者※余語翠巌(よごすいがん)老師を招き 記念講演には※青山俊董老師が来山し、檀徒のみならず、近在から多くの方々が訪れました。 私も講演をお聞きし、感銘を受けたことを昨日のように思い出します。また、住職になられた西 俊芳師は夫の死後 寺院を護るため70歳になって出家、若い修行尼僧とともに苦行され住職となられた方で 寺と地元とのかかわりを大切にして、活発な布教活動をなさっていました。後代を継がれた現御住職も清僧の禅家として寺院を守っておられます。※余語翠巌(よごすいがん):(1912~1996)神奈川県南足柄市大雄町の大雄山最乗寺前山主 著書に 「自己をならふというは」「禅の十戒」など多数。

※青山俊董(あおやましゅんどう):(1933~)名古屋市千種区 愛知専門尼僧堂堂長(昭和51~) 仏教伝道文化賞(2006) 曹洞宗の僧階「大教師」に尼僧として初就任 著書に「茶禅閑話-茶の湯十二話」「泥があるから、花は咲く」など多数。

寺院も時代の動静に無頓着でいられるわけではありません、特に檀徒を抱える※滅罪寺院はことさらです。近年の三十年余を見ても、村の過疎化、少子高齢化、寺院離れなど深刻な問題を抱えています。長福寺と観泉寺のわかりにくい歴史も同様です。

観泉寺については 明治19年(1886)2月に提出された「寺籍財産明細帳」に遠江國 佐野郡日坂宿常現寺末 東山村字アラヤ六十八番地 ※平僧地 観泉寺。

開創として「確乎たる古記なく 由緒詳ならずと雖も姑く本寺の旧記によれば 当寺草創は大永七年(1527)四月にして 開山は本寺第二世宗梁なり 伝え聞く、村内一旧家あり 杉山吉左エ門と云う その祖先深く仏法を崇めし 私に小堂を構え 一体の観音大士を奉して常に信す 大士霊験あり 漸々信徒を増し 遂に之を一寺に興し 爾来当国に西国霊場を擬し 所謂順礼札所なるものを創する事あり 人能く大士の霊感を知り当寺本尊は即第二十二番観音薩埵なり 然れども其時代人物考ふべからず 寛延四年(1751)正月中 当時の住僧信徒と謀り今の堂宇を建営し尋ねて現在所有の田圃を購求し稍々維持の方法を得たりという。」と記され、この寺が個人の持ち堂から一寺院になった経緯をっ伝えています。

また観音の霊験があらたかであることや、遠江三十三所への参画にも触れています。寺禄を受けていないため、寺院の維持方法の手立てを模索してきた様子もわかります。

しかし「掛川誌稿」(文化二年~文政)(1805~)の東山村の項には下村の天王山長福寺と深川寺の二ケ寺のみが記され、観泉寺名が無いこと、観音の霊験あらたかな話は下村の長福寺のことと思われ判別がむつかしいことなどの矛盾点もみられます。

また延享四年(1747)の「東山村明細帳」には「千手観音堂一ヶ所 弐間に弐間 宮殿(お厨子)二尺四寸に弐尺一寸 略 是は当村二十二番観音堂に札納候所に前々貞享四卯年(1688)迄は 此観音堂札納候所に同年九月(1688)より当村の観泉寺へ子細在之 札納候」とあり、一方昭和44年に発行された「東山郷土誌」には「長福寺は本村最古の寺院なりしが如く その創立は遠く足利将軍時代にありしと雖も、寛文中に至りて観泉寺に合したれば、大正二年(1913)の現在は下組深泉寺、上組観泉寺の二寺」 また、長福寺について「天王山長福寺と称し、西奥側竹下にありき、其の創立は遠く 永政年間頃(永正1504~1521の誤)真言宗に属し境内に遠江二十二番札所あり、※後百五十一年を経 寛文六年(1666)に至りて本堂を寺の段に移して観泉寺と称したりしも、二十二番観音堂のみは依然其の境内にあり 享保卯年(1723)の頃までは彼岸巡礼毎年ここに参拝ありしが、堂宇大いに廃頽 其の後百四十余年を経、明治維新に至り堂宇亦朽絶 其の宮殿と寺号のみを残す、村内協議の上 明治十三年(1880)八月 大士(観音)を観泉寺に移し、爾来同寺の本尊と公称するに至り 今や寺跡は白畑となり、更に当時の跡を留めるにすぎぬ」と記し、また観泉寺については「寛文六年(1666)長福寺本堂をここに移し、寺号天王山をそのまま襲用 天王山観泉寺と称せり、日坂常現寺の末寺にして曹洞宗に属す。」と記されています。

※滅罪寺院:葬儀や法事を主とする寺院を観光・祈祷寺院から見た呼び方

※平僧地:中世末期から近世初期にかけて曹洞宗寺院は法系による縦の線と地縁関係による横の線とを織り交ぜた巧妙な江戸幕府の宗教政策によって近世封建社会に組み入れられた。大本山・中本寺・小本寺・  平僧地等と寺格が決められ、普通の寺院は法地、平僧地は最下位の寺格で、正式ではない僧侶(嗣法を持たない僧や尼僧)などが住した小院や庵をいう。なお観泉寺は「明治三十六年(1903)檀徒より維持金三百余円を拠出して法地起立となれり」とあり、平僧地から法地になったことが記されている。現在曹洞宗は大本山・格地・法地・准法地と寺格の序列は変わっている。

※1515年は永正十二年となり、長福寺開創年となるか。

 

上記などから、江戸期から明治期にかけて様々な動静があったであろうことが推察されます。どれが史実を伝えているのか確定は出来かねますが、長福寺の位置が明確なことや、明治13年観音を観泉寺に移したとする「東山郷土誌」の信憑性が高いと思われます。また長福寺の過去帳が天保年間迄しっかり記載され、その後全く記載されていないことを考えると、観泉寺に本堂を移した後も檀家は明治維新まで区別して扱われたことが考えられます。 観音堂も巡礼者は旧長福寺にお参りしてきた(明治二年発行の當国順礼札所御詠歌には二十二番ちやうふくじ とのみ記されている。)が、維持管理は観泉寺で行われたのでしょう。明治13年以降は観泉寺に本尊様としてお迎えするということで完全に合併されたとみるべきでしょう。

 

山門の脇から本堂の段に入りますと、寺壁と思われたところが、※三十三観音石像と※四十九院石像の長いお堂(高さ三尺90センチ・横十五間27メートル)であることに気づきます。

本堂の南から西南に観音石像、東南から東に四十九院が並びます。これは南方観音浄土 東方弥勒浄土に合致し、現当二世(現在と未来)安楽を意味しています。過去・現在・未来は仏様では釈迦・観音・彌勒で表します。曹洞宗寺院は釈迦如来を本尊とします。ここに観音・彌勒を祀ることにより三世に迷う全を救済することを示しているのです。

 
※三十三観音石像と四十九院石像:明治19年提出の「寺籍財産明細帳」によれば、「観音菩薩は三十三躰石像 御丈壱尺弐寸。四九本石塔 方四寸五歩 丈壱尺弐寸」として「嘉永元年(1848)八月中 当時住僧 物宗 遠近同志と謀り以て之を新造す。」と記されています。

※四十九院:平安時代後半になると、釈尊入滅から500年(正法)が過ぎ、正しい修行が行われないため悟りが開けない1000年の時代(像法)も過ぎ、教えだけが残る末法の時代に入るのが1052年(永正七年)とされる説が信じられていました。この末法思想が様々な新興宗教を生む下地になるのですが、弥勒菩薩(慈氏)が56億7000万年後に兜率天(とそつてん)からこの世に降り立ち龍華樹(りゅうげじゅ)の下で悟りを得て仏となり、三度に渡って教えを説き、過去に釈迦如来の救いから漏れた魂を救済するという信仰が平安時代に盛んになり、経典を塚に埋める埋経(まいきょう)も功徳によ  り彌勒の法会に列する為であり、また死後弥勒浄土に転生して弥勒菩薩とともに過ごし、ともに下生(げしょう)したいと願う弥勒菩薩(慈氏)未來佛への信仰も盛んになりました。その後は阿弥陀如来による極楽往生の信仰に徐々に変わって行くことになります。高野山の弘法大師入定説も弥勒信仰によります。 四十九院はこの兜率天(弥勒浄土)にあるとされる49の宮殿のことで、本来は一つ一つの院に種子(梵字)と尊名がありますが、院名のみ記しておきます。「恒説華厳院・覆護衆生院・念仏三昧院・修習慈悲院・鎮國方等院・小欲知足院・地蔵十輪院・精進修行院・恒修菩薩院・展明十悪院・灌頂道場院・常行説因院・法華三昧院・求聞持蔵院・彌勒法相院・金剛吉祥院・平等忍辱院・守護國土院・般若不断院・彼担三昧院・常念七佛院・常念常楽院・多聞天王院・常念普賢院・常念不動院・三説真実院・如来密蔵院・説法利他院・金剛修法院・恒念観音院・梵釈四王院・施薬悲田院・念観文殊院・造像図畫院・安養浄土院・檀度利益院・観虚空蔵院・唯學傳法院・理観薬師院・供養三宝院・不二浄名院・常行律儀院・理正天王院・因明修学院・招提救護院・常念総持院・伴行衆生院・労他修福院・常行如意院」の四十九になります。観泉寺の四十九院の種子は全て阿字に統一されています。

 

御詠歌「おしなべて 佛あらたと 聞くときは もと木うら木も 南無観世音」

山本石峰氏は「弘誓の観音力は、ありがたいことと承って巡礼に出かけました。元木末木とは現世来世ともまで 成仏するように観音様にお任せ申します。」と記されています。

 

「西国三十三所」は今年開創1300年です。718年徳道上人(長谷寺開基)が閻魔様から33の宝印と起請文を授かり、観音の霊場参りのご利益を説き広めた(西國順礼縁起)年から数えます。その後平安時代に花山法皇(968~1008)が摂津国の中山寺から宝印を探し出し、熊野から三十三の観音霊場を巡拝し修行をしたのが現在の西國順礼の始まりとされています。

古くから観音様を通して日本人は「慈悲」を大切な考え方としてきました。慈悲とは他人の苦しみや悲しみに共感することであり、人々のために努力を惜しまない心である。大災害などで たとえ自分は無事だったとしても、被害を受けた人々の苦しみや悲しみを自分のこととして受け止め、他者のために努力する(哲学者内山節)。この心があり続ける限り、観音様も日本人の心に生き続けるのです。本尊千手観音様の千の手・千の眼は無限を意味し、決して見逃すことなく救おうとしてくださっています。

茶工場(天王山)から粟が岳を見る。

 

 

気まぐれな巡礼案内⑲

投稿日:2018/04/10 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

今年 平成30年は「西国三十三所」開創1300年の記念の年です。各札所では記念事業が行われ、例年以上に賑わうことでしょう。「西国」と云われることでもわかるように東の江戸から見た呼び方です。江戸時代中期に庶民の楽しみの一つとして 巡礼は盛んになり、一生に一度の大旅行として現在の形に定着します。

江戸中期の巡礼案内書「西国順礼細見紀」に巡礼の十徳が書かれています。

1つには ※三悪道に迷わず。

2つには 臨終※正念なるべし。

3つには 巡礼する人の家には佛※影向あるべし。

4つには 六観音の※梵字 額に座るべし。

5つには 福地円満なるべし。

6つには 子孫繁盛すべし・

7つには 一生の間 総供養にあたるべし。

8つには ※補陀落世界に生ず。

9つには 必ず浄土に往生す。

10には 所願成就するなり。

巡礼者は上記の徳を信じ、ご利益を確信し・・・巡ったのでしょう。そこには修行の苦しさより慈悲のありがたさと楽しさが伝わってきます。

※三悪道:地獄・餓鬼・畜生の下層界のことで、悪行を重ねた人間が死後に赴くといわれる。

※正念:八正道の一つですが、ここでは雑念を去った安らかな心。

※影向:仏さまが迎えに来ること。

※梵字:古代インドで発祥した文字、サンスクリット語表記の文字ですが、種子(一字で佛を表す)を意味し、ここでは全ての観音様が現れ見守ってくださることを意味する。

※補陀落:南方の彼方にある観音菩薩が住まう浄土のこと。

 

「ご詠歌」に関連してもこんな話が伝わっています。

若狭では女性の旅行は禁止されていたが、西国順礼の女性は、ご詠歌を唄わせて巡礼の旅であることを証明させて許可されたと。(※稚狭考)

※稚狭考:板屋一助著 明和四年(1767) 10巻

西国の順礼歌の(ご詠歌)の成立は、一般民衆が巡礼に参加し始めた室町時代以降とされ、天文年間(1532~1554)の「西國順礼縁起」が巡礼歌の初見とされています。

「ご詠歌」は仏の教えを説く和歌で、声を出し唄うように唱えることによって ご利益を得ることができ、極楽往生や成仏ができるとする考えから生まれた奉納歌です。作者は詠み人知らずで、複数の人によって作られたと考えられています。遠江の「ご詠歌」も作者不詳の 詠み人知らずです。

遠江三十三所の「ご詠歌」について「掛川市史」では、西国札所のご詠歌を参考には したであろうが模倣はされてなく、遠江札所ご詠歌の宗教性、哲学性の優位を認め、江戸時代この地の人々によって語り伝えられ発展した非凡な口誦文化であり、注目さるべき民衆の文芸であり、民衆の文化であったのである。と称賛しています。

 

今回は霊場唯一の浄土宗寺院 21番 宝聚山(ほうしゅさん)相伝寺内光善寺にスポットを当ててみたいと思います。 
掛川市日坂宿内旅籠「川坂屋」の向かい側にあります。掛川市日坂928

県道415号線(日坂澤田線)を東進 「掛川道の駅」の信号を過ぎ 右手にパワースポットとして近年参拝者で賑わう「掛川八坂事任八幡宮前」の信号を左折すれば日坂宿です。奥野川(逆川)にかかる橋(ふるみやばし)を渡れば下木戸高札場(写真)が復元されており、ここは相伝寺境内の東南端です。
日坂宿は※品川宿から東海道25番目の宿場で 東に小夜の中山・牧之原をひかえ、問屋場(慶長6年1601設ける)、伝馬の継ぎ立てなど 休憩・宿泊・運輸・通信を担う宿場としての役割を担い、西口から東口までの約700メートルの町並みの形態は今もさほど変わらず保存され、ウォーキングや観光で訪れる人たちも多く、現代アートのイベントや「東海道日坂駕籠(かご)駅伝大会」なども近年は行われています。

※東海道五十三次:「華厳経」による善財童子が求法のため、53人の善知識を尋ね教えを請い、阿弥陀浄土を願う。という仏道修行の段階を示したことに喩えて五十三次としたともいわれる。

 

本尊様は聖観音様で毎年8月10日に開扉されて拝むことができます。
札所「光善寺」についての文書はほとんどなく、由緒は口碑だけです。昭和63年桐田榮氏著の「遠江三十三所案内」を引用しますと「光善寺 往古は※東山椎林という所にあって、天台宗に属し光善院と称したが、松葉城が落城(明応五年九月十日・1496)の後、松永氏が光善院にあった正観音を背負って宗那川(さんながわ)を下り、日坂宿の庄司に安置した。慶長二年(1597)十一月 日坂本陣の扇屋片岡清兵衛吉政(光善院心譽相伝一法居士)が開基となり、京より浄土僧を招く。この招きに応じて往譽という者、阿弥陀像を持ってきて本郷の傍らに相伝寺を創立した。ところが安政年間に日坂で大火があり、町並み及び寺院のほとんどが焼失したので、日坂宿の浄土宗の三か寺は合併し、現在位置に本堂を建立し、宝珠山相伝寺と称することとなった。この時光善院は相伝寺の境内堂となり、宿駅の遠江三十三所として街道を往来する旅人や順礼の尊崇の的となった。」と記しています。

浄土宗寺院は三か寺ではなく二ケ寺と思われますが、その一つ沓掛(くつかけ)の浄土院は嘉永五年(1852)の大火で類焼したといわれ、その二年後には安政の大地震が発生しています。ただ この時代には三十三所は確定しており、それ以前から巡礼も盛んにおこなわれていたことを考えると、札所「光善寺」は相伝寺境内に既に祀られていたと思われます。

※東山椎林:日坂から3キロ程奥の東山椎林と思われる。「椎林」バス停から300メートルほど上にバス停「落合」があり、このバス停の前に「老人憩の家」がある、この一帯が「光善寺」跡といわれています。(写真)ただこの辺りは「久保貝戸」であり「椎林」からは離れています。
「椎林」バス停のところには十一面観音を祀るお堂があります。堂内の棟札に明暦戊戌(1658)・延宝九年(1681)の年号札があり、享保三年(1728)堂宇再建の棟札には 村中の助力によって完成したことも記されています。「光善寺」と関連はあるのだろうか、推測ではありますが、観音が日坂に移された後 跡地付近に地元民が「観音様」を祀った。とは考えられないだろうか・・・。お堂の向きも何故か日坂の方を向いているように思えるのですが・・・?
 

相伝寺の境内に入ってまず目に入るのが、西国三十三観音石像です。御影石に彫られた三十三体が、三段に十一体づつ並び迎えてくれます。
境内を見渡しますと墓標も含め石像などの多さに興味がそそられます。その中 少し変わったお地蔵様が置かれていました。(写真)
六角柱に六体の地蔵が彫られた「千浦地蔵(ちうら)」と呼ばれ親しまれている石像です。下方に施主千浦と彫られています。天保十一年(1840)宿場図には 古宮橋の下7区画目に「千浦」の屋号が見られます。この家が奉納したお地蔵様のようです。元は現国1バイパスの下に如意輪観音像とともに祀られ、姿から歯痛止めの観音様として、セットでお参りも多く 縁日には甘酒の接待も行われたようです。

近在でも寺の入り口や墓地で六体の地蔵尊(六地蔵)を見かけます。どれも同じように見えますが、少しずつ異なります。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)のそれぞれの苦界から救う役割を担っています。名前も檀陀(だんだ)・宝珠(ほうじゅ)・宝印(ほういん)・持地(じじ)・除蓋障(じょがいしょう)・日光(にっこう)と名付けられた六体地蔵です。

観音も地蔵も同じ菩薩として親しまれ、どちらも苦悩から救ってくださることに変わりはありません。深い慈悲の心をもって さまざまな苦しみから救ってくださろうとしている菩薩様です。

「千浦地蔵」 ユニークな彫り方のお地蔵様ですが、高い技術を持った石工職人がいた証でもあります。

古宮には代々石工を営む「石工内田」と刻銘の「石由」があり、現在まで18代続いていますし近郷にも多く職人がいたことでしょう。

「日坂石」は石像・石碑・石塔・石段・墓石など多様に利用され、この地域の中近世石塔の90%以上を占めています。この「日坂石」は灰緑色の大小チャート礫を多く含み空隙の多い粗性の礫砂岩から、微砂主体のキメ細かい凝灰岩質砂岩まで様々な変異があり、風化や経年変化で含有鉄分が褐色に変化することもあるが、本来は淡灰褐色を呈する石材と考えられる。(桃崎祐輔:中世石造物の展開とその意義)また、「日坂石」は周智郡森町から掛川市日坂にかけて分布している第三紀中新世(2303万年前~258万年前)の倉真層群の天方砂岩層から産出している公算が高い(野澤1998)といわれています。

写真の日坂宿西側の本宮山北側石丁場に行ってみました。昭和40年代までは切り出され加工されていました。 
採石場(高さ30~40メートル・幅70メートルに及ぶ)は見上げると覆いかぶさるような断崖に圧倒され、恐怖すら覚えます。夥しい数の廃石材で小山ができ、切り出したのか崩落したのか巨大な岩が横たわっています。この岩山の石を材料として多年にわたり様々な石像などが加工制作されたわけです。

 

「相伝寺」を語るには「本陣」「扇屋」「片岡清兵衛」について若干触れておかなければなりません。

寺では開基(寺を作った人)を扇屋清兵衛としています。代々片岡清兵衛を名乗り本陣を勤めていますが、三代目片岡清兵衛は俗に「560俵さま」と呼ばれ、日坂宿を困窮から救った義民として徳を讃えられています。戒名も先記「光善院心譽相伝一法居士」とされ、ここから「相伝寺」名が付けられ、「光善寺」から光善院とつけられたのでしょう。

本陣片岡家は初め安間姓を称して今川氏に仕えていたが、今川氏滅亡の後は日坂に居を構えて片岡姓に改めた。天正十一年(1583)十二月 徳川家康に仕えて三州長久手の戦の功により、家康から扇を与えられ、のち日坂宿に本陣を営むに当たって屋号を扇屋と称した。(掛川市史) 先述の「千浦地蔵」の千浦家も片岡家の分家で現在は片岡姓を称している。

 

御詠歌  春は花 秋はもみじの つゆまでも 宿れる月も ひかりよき寺

石峰氏は「現世の人の命は 草葉に置ける露の如く 朝に夕にを知らぬ 無常だぞ 月の光をまんべんなく宿って ただ一つ見捨てない この月の光とて 大慈大悲の観音力を具体的に詠じたまでぞ」と解釈しています。(詠歌中和歌の本体)

車での「掛川道の駅」、歩いての「日坂宿」、パワースポット?「事任八幡」、山歩きの「粟が岳と倉真温泉」、世界農業遺産の「茶草場農法地」・・・と掛川市東部に多くの人の目が向けられています。点から線になりつつあるこの中でも マイナーな観音様もお忘れなく…。