静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

気まぐれな巡礼案内⑫´

投稿日:2017/08/22 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

4番 鶏足山 正法寺の巡礼案内の中の、明治以前の「新福寺」の場所について、正法寺ご住職から連絡をいただき、現地を訪ねてみました。

掛川市大池の旧東海道を西進、和光橋を渡り切った東側の山が「かんのん山」と呼ばれています。写真のように今では雑木林ですが、西には田園風景がどこまでも広がり、北から西に逆川の流れを眺め、旧東海道を行き来する様子も眺められる風光明媚な場所です。ただ名残を残すものは何も見当たりません。そこは西側のお宅の所有地で最近まで、其の家の墓地になっていて、山頂の平地は茶畑に開墾されていました。また墓地も「新福寺」が廃寺になって後に新屋した家のため、言い伝えなどもありませんでした。高御所村としては北の端になります。3番長谷寺からは西に1キロ程の近距離です。 明治以前の位置確認ができたことを感謝いたします。


さて「新福寺」が廃寺となり「正法寺」に祀られた経緯については、⑫で案内いたしましたが、長い歴史を持つ遠江三十三観音霊場なので廃寺、統合、移転など様々な変遷をたどった札所が多いことは以前にも記しました。

「正法寺」は遠州観音霊場の第7番札所を兼ねています。「遠江三十三観音霊場」の中で両霊場に属する寺院は5ヶ寺あり、「遠州三十三観音霊場」は昭和59年(1984)に新たに創られた霊場です。以前間違った歴史紹介もありましたが、札所の変遷再興が幾度となく繰り返されてきたことを思うと、仕方のないことかと思われます。

遠州札所を廻っていたら、寺院の方から「遠江札所も廻られたらどうですか」と紹介された、との声も聴かれます。

大切なことは、史実より巡礼者が安心してお参りできるところが多くあるということかもしれません。

気まぐれな巡礼案内⑬

投稿日:2017/07/31 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

番外 岡津の善光寺です。

西国巡礼を終え、長野の善光寺にお参りをしたり、四国八十八カ所を廻り終えたお遍路さんが高野山にお参りをします。四国の場合は「同行二人」といい、弘法大師さまと一緒にという「お大師さん信仰」で、最後に感謝を込めて、弘法大師が入定(にゅうじょう)している高野山の奥之院を参拝します。一方観音霊場の場合は、西国・板東・秩父の百観音の番外として長野の善光寺へ詣るといわれ、「遠くとも一度は詣れ善光寺」とか「牛にひかれて善光寺参り」などの言葉もあり、゛一生に一度お参りするだけで極楽往生が叶う゛といわれています。三十三カ所を廻り終え、その上に西方浄土の阿弥陀仏に参ることで、極楽往生が確約されたとする信仰です。遠江三十三霊場にも同様の「善光寺」が用意されています。

住所 掛川市岡津331番地(仲道寺)仲道寺本堂善光寺参道

 

 

善光寺如来堂(阿弥陀堂)阿弥陀堂内陣

 

国道一号線の同心橋東の信号を北折れすぐの交差点を東進、原川間の宿(あいのしゅく)から松並木が続きます。その東が岡津の善光寺で、仲道寺境内に祀られています。西国・板東・秩父の百観音同様遠江三十三カ所も岡津の善光寺にお参りをして成満となります。原川の松並木

仲道寺本堂に善光寺の由来が書かれています。「延暦の昔、伝教大師 叡山建立の願を発せられしとき、自ら弥陀の尊像を彫刻し奉り給いるが そののち奥州に於いて大いに賊徒興りたれば、追伐の勅使として田村麻呂と百済王とを遣わさる。折節諸国に疫病流行、庶民死する者数多し、ここに於いて百済王 彼の大師所作の尊像を奉持して一心に弥陀佛を唱名し、願わくば這回東賊の徒を伐ちて速やかに帰西せしめたまえと即時に東海道を指して出向す。漸くにして遠江国佐野郡岡津村に至る。然るところ兵卒十五人疫に罹りて徒行すること能わず。即ちこの里に止宿療養せしむ。この時に当たりて彼の弥陀佛の尊像をこの地に安置し奉り、主従もろとも懇祷至切なりければ大悲薩多の加被力により遂に東夷悉く平定す。而して岡津村に所止の病者等夜夢に主人将軍の大病も明日は快気し 諸国の病者も皆快気すべし。此の処は天下の中道にして衆生を度する有縁の地なり、我は此処に止まらん、汝等主人にその旨趣を告げよと、鶏鳴に夢覚めければ不思議なるかな、兵卒の病悉く平癒しいなり。仍って直ちに弥陀佛を拝し一心に称名して即日東行飛ぶが如し。奥州にて太平の帰陣に逢ふて主人にこの夢を告ぐ。将軍即ち希有の思をなし、西方に向かって礼拝す。後岡津に至るの時、これによって岡津一村を悉く善光寺領とし、諸願成就の為に寄進すと云々。今に及んで岡津村には流行り病稀なること世人の知るところなり。 後世天正年中 当国城東郡高天神城落城の砌、勝頼の乱賊この寺に籠りて狼藉たり。時の住僧之を憂いて出奔し、昔年の御朱印を失却す。因って前々の住僧の名不詳なり。又其の後奥州に於いて疫病流行したるとき此の弥陀尊像を盗み去るとし、即ち如来を岡津村の人民に託して、我を岡津に還せと 仍って再びこの地に迎請し奉り、国土安穏 諸災消除 家道興隆ならびに後生善生より祷る御霊跡となるなり。以上」と記され岡津の善光寺如来の功徳とここに祀られた由来が記されています。
「掛川誌稿」には「寺中に阿弥陀堂あり、此の阿弥陀は坂上田村丸の守本尊なりと云い伝う、阿弥陀仏ある故に、寺を今は善光寺とも呼ぶなり」と記されています。その為、当時ここにお参りすることが一般化されたものと思われます。

全国には443体の善光寺佛があり、119か寺が善光寺を名乗っています。(平成5年)また「全国善光寺会」も創られ「善光寺サミット」も開催されています。現代風に言えば「フランチャイズ」ですが、「写し霊場」同様庶民の要望があったということだと思われます。ただ岡津の善光寺はこの中には含まれていません。この地域では掛川市横須賀の普門寺(天台宗)が入っていますが、明治17年に勧請されたものです。

岡津の善光寺は現在お堂の老朽化により維持困難な状況です。また以前は本尊様の横から壇の下の真っ暗な中を手探りで巡る「お戒壇めぐり」もできたのですが(平成10年頃まで)、こちらも現在は不可能な状況になっています。

※善光寺と善光寺如来・・・゛みはここに こころはしなのの ぜんこうじ みちびきたまえ みだのじょうどへ゛のご詠歌で有名な長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院です。本尊善光寺如来は正式には一光三尊阿弥陀如来といわれ、中国・朝鮮半島を経て日本に伝えられた(552年)日本最古の仏像と伝えられています。一つの光背の中央に阿弥陀、右に観音、左に勢至の三尊が並ぶ善光寺式三尊像といわれています。絶対秘仏とされ、開扉されることはありません。鎌倉時代に作られた前立本尊様が7年に一度開扉され大勢の人で賑わいます。

 

気まぐれな巡礼案内⑫

投稿日:2017/07/18 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第4番 鶏足山(けいそくさん)正法寺内新福寺です。

まいるより つみはあらじの しんぷくじ おんてのはなを みるにつけても

 

文政年代の石標

山号の鶏足は地形から採ったとされる。曽我山・拈華山・鶏足山と変遷しています。

掛川インターから袋井のエコパに向かう県道403号磐田掛川線の高御所(こうごうしょ)インターで降り左折すれば境内です。ここは小笠山の北裾に当たります。小笠山を御神体と見たのでしょうか本堂は北向きです。平成10年代の終わりころまでは門前に樹齢300年以上の樅の大木が二本立ち、雷災した木にオオルリがさえずるのを毎年楽しみにしていました。境内に入り東側の禅堂に4番新福寺札所があります。旧来から正法寺に祀られていた西国三十三観音石像(昔は羅漢堂の回廊に並べ祀られていた)がお堂の入口の左右に置かれています。(写真)
「掛川誌稿」には観音堂として、「遠江札所四番の観音なり、堂守りを新福寺といい、曹洞宗豊田郡野辺村一雲斎末寺なり。」と記されています。正法寺々伝「曽我山略縁起」によれば「遠江三十三所第4番は十一面観音にして、元は村内新福寺の本尊なりしが、明治六年八月新福寺廃寺となりしに因り本来なれば本寺一雲斎へ合すべきものならんも同村の故を以てか、上司の仰せを蒙り、当山に遷し禅堂に安置す。」と記され、寺院の本末関係より地域制と巡礼番の方が優先されました。明治29年(1896)発行の案内では3番から4番へは13丁(約1.5キロ)とされています。この地域制を優先する正法寺預かりは、この寺院の開山の縁とも通じ合います。正法寺は開山を応永17年(1410)3月16日、見珠和尚(明円)としていますが、森町の大洞院同様開基を持ちません。地元の5~6名の粘り強い要請によって創建された歴史を持つからです。(権力者のスポンサーを持たなかったところにも道元禅師の意思は息づいていたわけです。)その後領家村の松浦惣太夫や徳川家康の寄進などにより境内地が整備された経緯はありますが。

掛川市史によれば旧掛川市内寺院の80%を占める曹洞宗寺院96ヶ寺の創建年次についての調査で1400~1499年8ヶ寺 1500~1549年22ヶ寺 1550~1599年26ヶ寺 1600~1649年23ヶ寺 1650~1699年11ヶ寺 1700以後5ヶ寺 不明1ヶ寺となっています。これは、1400年以前には曹洞宗寺院は皆無であり、戦国の混乱期に寺院が多く創られていること、国情同様江戸期には安定したことなどが特徴といえます。全国の曹洞宗の中で此の地域の寺院密度が最も高いことの理由が気になる所です。

さて、正法寺は旧掛川市内では最も早く、霊場圏内では森町飯田の崇信寺(1401)に次いで創建された寺院で(応永17年1410)、次に最福寺、長福寺(1455)、法泉寺と続きます。 正法寺の創建について「掛川市史」真言宗寺院の項中で、「この地にも相当数の真言宗や天台宗の寺院があったように思われるが、略 十四世紀末から十五世紀にかけて、次々に曹洞宗寺院に換骨脱胎されていく。」と説明され、曹洞宗は教線を拡張していく過程で、旧寺院、地元民の信仰と習俗をそのまま包摂、受容していった。正法寺も当時廃寺同然の真言系正眼院を曹洞宗として創建されました。

今回は正法寺の東側にある旧道と伝説的な樅の木について案内させていただきます。

◎「腹摺り(はらすり)」:正法寺より少し東方から沢に沿って入り、小笠山の中を通り南に向かう山道を「はらすり」と呼び、その昔この道を歩いたことを懐かしく感じられる方も多いと思います。

「掛川誌稿」に「腹摺切通」として、「高御所村を経て横須賀領の山に至る道なり。萬治元年(1658)北条出羽守氏重、没して嗣子無く、其の家断絶す、依って横須賀の城主本田越前の守利長、正月より二月まで掛川城を預かる、其の時横須賀の諸士更番往来のために開く、切通の間三十歩許、甚だ狭隘(きょうあい)なる故に腹摩と呼ぶ。」と記されています。馬がお腹を摺るほどの狭い道だということのようです。現在では利用する人もなく荒れていますが通行は可能です。(写真) 切り通しの狭いところで3尺(1m)位、25分で峠に出ます。ウォーキング道として整備、活用を期待したい。(ヤマヒルには注意)


写真は県道403号下のガードをくぐり、沢に沿って登り切り通しから峠を越え南に下ります。

◎通幻木の伝説:廃寺同様の処、禅僧通幻和尚この山に来て、大なる樅の木樹下にて座禅す 修禅中信徒の者数人挙て草創開山に請して此の山を永続せんと欲す 又修禅中僧壱人来て随身して禅道に入りしか これと同行して通幻和尚何れか雲遊し去れり 然りと雖も草創開山と請し 今に於いて通幻和尚袈裟掛けの樅弐本あり 根となりうらとなり弐本につき合て横枝あり 是を通幻木と相唱来れり。(以下略)と「寺籍財産明細帳」は伝えています。

今も上記の木(通幻木といわれる袈裟掛けの樅2本)は奇跡的に現存します。(写真)平成29年7月16日35度の暑さの中対面してきました。


写真のように、根元から二本に聳えています。右側の木は目通り3.8m 左側の木は目通り4.3m。地表から2メートルのところで枝のようにつながっています。これが通幻木袈裟掛けの枝です。樹高30m位でしょうか、樹勢は良好です。今から約640年前は既に大なる樅であったわけですから、随分古く貴重な樅です。

※通幻(1322~1391)・・・総持寺五世通幻寂霊禅師(つうげんじゃくれいぜんじ)のことで、道元(承陽大師)を高祖とする曹洞宗は4代目太祖瑩山(けいざん)(常済大師)で教団としての組織が確立します。瑩山の弟子峨山韶碩(がざんしょうせき)の下に集まる25哲といわれる僧があり、その中にまた、5哲あり、通幻寂霊はその一人で、彼の流れを通幻派と呼び曹洞宗14000ヶ寺700万檀信徒の半数以上8900ヶ寺(永澤寺談)を占めるといわれる最大勢力の派祖。

※樅(モミ)・・・日本特産の常緑針葉樹で本州、四国、九州に自生する。高知県四万十市の新玉様のモミ(目通り7.88m)を最大に5m以上を30傑としている(1985年「日本の巨樹」)が通幻木のような珍しい樹形は稀とおもわれます。

掛川市3霊山を小笠山・大尾山・粟ヶ嶽としますと、観音霊場は32番・33番・1番・4番・5番・6番が小笠山の東から西側の裾に設けられています。小笠山は約100万年前大井川の流れで形成された若い山です。静岡県100山でも最も低い山(最高峰264m)ですが、その分大雨の度に姿を変える険しい山でもあります。今回は正法寺とその周辺を取り上げてみました。「通幻袈裟掛けのモミ」は巡礼者のみならず、曹洞宗寺院の方々にも是非訪れていただきたい霊域です。「腹摺り」も小笠山散策道として整備し大勢のウォーカーが利用できるようになればと思います。明治以前の札所新福寺の所在位置確認は時間の都合でできませんでした。

〇御詠歌

参るより 罪はあらじの新福寺 御手の花を 見るにつけても

山本石峰氏は「順礼して、罪業消え 新たに敬恩悲の※三田を得ることは、御手に持てる妙法の蓮華の中に輝いているから、見落とし玉ふな。」とご詠歌の本体を註解しています。

※三田(さんでん):「敬」「恩」「悲」の徳が生じることを、田に喩えて言う。僧侶が着する袈裟は本来、余り布を継ぎ合わせて法衣としたことからきていますが、「福田衣(ふくでんね)」といいます。

2017・7/18公開

 

気まぐれな巡礼案内⑪

投稿日:2017/06/14 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

3番 長谷 東陽山 長谷寺(ちょうこくじ)です。

掛川市役所の真西200mの位置。 バスなら南まわり長谷寺停留所に札所はあります。北隣に貴船神社、東北隣が長谷区公会堂です。  平成8年都市計画で本堂が南側に移転しました。寺の象徴木※スイリュウヒバも移動し、根がつくか火がつくかと話題になりました。目通り3.7m、地表から3mで枝分かれし、中は空洞、樹齢300年位でしょうか、現在は写真のように手当ても空しく瀕死の状態です。
かつて訪れた時、スイリュウヒバの大きさに圧倒されたこと、西側の岩山に穴が丸く空いていて向こう側の景色が見え、要塞のように感じたことなどが記憶に残っています。

また最初に目についたのは地蔵堂横の※鯖大師のレリーフ石像でした。 鯖を貰ったお大師さまが途方にくれているようなお姿に、歩き疲れた自分が重なったのでしょうか。
※「鯖大師」:徳島線海部郡海南町の四国遍路別格4番札所八坂寺に伝わる塩サバ伝説「この付近の海岸は複雑に入り組み、八坂八浜と呼ばれる風景美を誇るが、路行く者には大変な難所だった。むかし四国を巡っていた弘法大師がここを歩いていると、鯖を積んだ馬を引く馬子が通りかかった。お大師さまがその鯖の一匹を乞うたところ、馬子は乞食坊主にやる鯖はないと、そっけなく通り過ぎようとした。そこでお大師さまが一首を詠んだ。

◎ 大坂や八坂坂中 鯖ひとつ 大師にくれで 馬の腹病む

すると坂道を登ろうとした馬は、たちまち腹痛をおこして立往生をしてしまった。馬子は驚いて、あの有名な弘法大師さまに違いないと詫びて鯖を献上すると、お大師さまがまた詠んだ。

◎ 大坂や八坂坂中 鯖ひとつ 大師にくれて 馬の腹止む

これで馬の腹痛が止んで、元通りに歩き出したという。お大師さまが鯖を海に投げ入れると、鯖は生き返って泳ぎ去ったという。」歌語り風土記より

 

観音堂と思い、お参りしようとしたお堂が地蔵堂で、鎌や包丁などが奉納されていて、それが安産のお礼参りと知ったのは後になってからでした。等身大のお地蔵さまが錫杖でなく、金色の鎌を持って座っていらしゃいます。この地蔵菩薩について※「寺籍財産明細帳」には、「安産地蔵菩薩と云い、木像で高さ3尺9寸3分(約119㎝)の半坐像です。右手に鎌、左手に宝珠を持ち、古来から安産地蔵と呼ばれ遠近から安産祈願に訪れる。」と記され、また寺院のパンフレット「泰産地蔵菩薩御由来記」には、「安産祈願をして、成就した人は、鎌か包丁を作るか絵に描くかして奉納をする習わしである。」と記されています。今も堂中には最近奉納された成満御札が掲げられ、いつの時代も変わることなく、子どもの成長を願うこころが脈々と受け継がれていることがわかります。
また、地蔵尊の右側に高さ2尺5寸(75.6㎝)石像の楊柳観世音菩薩が祀られています。33観音の一つで、手に柳の枝を持つお姿です。(石の磨耗で判別不可)薬王観自在と同じで、病気を治してくださる観音様とされます。


「掛川誌稿」には巡礼札所の所在する村はほとんど記載されていますが、3番札所については記されていません。むしろ長谷寺の項に「長谷寺」なのに観音が祀られていないのは「長谷寺(ちょうこくじ)」が奈良の長谷寺(はせでら)からではなく、地形から付けられた「長谷寺(ちょうこくじ)」だからです。とわざわざ記しています。しかし案内石に「三番はせ寺」とあることを見ますと、メジャーな呼び方に迎合しようとした意図は窺われますが定着はしなかったようです。

さて、新境内になり20年が過ぎ、この長谷付近も掛川市役所を中心に見違えるように変わりました。文化の頃(1804~)58軒の村は今1000世帯を超えています。寺院も美しく整備され、檀信徒に解放されています。

肝心の本尊様は本堂に祀られています十一面観音様です。「寺籍財産明細帳」によれば行基菩薩の作、高さ1尺3寸5分(約41㎝)、その前に高さ9寸4分(28.5㎝)の十一面観音様が前立佛(写真)として祀られていると報告されています。十一面観音像の基本形は、頭上に10面と本面の11面、右手に念珠か瓔珞を掛け施無畏の印、左手に瓶に蓮華を挿して持つ(異形多くあり)のですが、奈良長谷寺(西国8番)の観音は、右手に錫杖を持つ独特のお姿で、観音と地蔵を合わせた像とされています。この札所の観音様は※御前立佛と同じと記されていますので、奈良とは違い基本的な十一面観音様と思われます。
東陽院と長谷寺が合併(大正2年)して今の東陽山長谷寺があるため、観音様の横には東陽院の本尊様、阿弥陀三尊像が祀られています。また東側には曹洞宗独特の大権修利菩薩、西側に達磨大師が祀られています。

ここのように市街地の中にあり、寺院と公会堂と神社が一カ所に集まった新たな伽藍形式と捉えれば、信仰のみならず地域のコミニテイーの場としても大いに活用でき得る可能性があると思われます。


※「スイリュウヒバ」:糸ヒバ・水流ヒバ・水龍ヒバ・比翼ヒバ・黄金糸ヒバ・枝垂れヒバなどとも言われるヒノキ科の常緑樹

※「寺院財産明細帳」:明治18年~19年に曹洞宗務局の調査報告書

※「御前立佛」:本尊様は秘仏で開帳の時以外は拝見できない為、その代わりに同じお姿の仏像を厨子の前に祀る。

〇御詠歌

西国も 阿づまも同じ長谷寺 参る心は 後の世のため

山本石峰氏は「西國坂東秩父と霊場で別れても、観世音菩薩はお一人だぞと後生大事と誤解して、現在世を忘れては草臥(くた)びれの巡礼ぞ。」と記しています。

2017/6/14公開

 

 

気まぐれな巡礼案内⑩

投稿日:2017/05/30 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

1番 一澤山 結縁寺(けちえんじ)です

掛川誌稿(1805~数年間かけて藩が編纂した史記)に結縁寺村について書かれています。「結縁寺村は上張村(あげはりむら)の西南にあり、昔は一の沢村ともよばれていました。近くには久保沢、本沢、板沢等の沢の付くところが幾つかあります。寺は慶長9年(1604)の検地帳にも結縁寺領としてありますので、今は小さくなりましたが、昔は大きな寺だったようです。甲斐武田の兵火で(1570~1593)焼かれ何も残っていません。今の寺は承応2年(1653)に亡くなった心庵芳傳首座が中興として開山しました。村内に観音堂があり、1.5石の寺領を寺の僧の嘆願によって受けることが出来ました。」と記されています。また「観音堂はこの村の渓流の北に舊堂(もとど)と呼ばれているところにありました。村自体は慶長の時(1604)は3軒のみ(長谷川弥六・長谷川孫左衛門・村松五郎助)でしたが200年の間に子孫のみで7倍(23戸)に戸数が増えています。(現代語訳)」とも記されています。(現在もほぼ変わりない戸数です)

1番札所は東名掛川インターを出て西進、二つ目の交差点「上張矢崎」のすぐ先右手に白山神社があり、その下が札所です。行くには「上張矢崎」の信号を北進50メートルを西に折れ(案内標識あり)小川に沿って行けば着きます。
結縁寺を1番として始まる札所霊場は4番までは近距離で小笠山の北裾を回り、袋井に進みます。原川の善光寺を取り囲むように進み、時計方向に廻り、上内田を打ち止めとしているのをみますと、掛川市史で記されているように、この近在者によって33所は始められたか、何らかの関りが深いと推測して良いと思われます。
1番札所観音の案内はHP霊場案内を閲覧していただき、ここでは2点に絞って案内させていただきます。

其の1:ご詠歌「あかいの水に浮かぶ月かげ」の「あかい」です。観音堂の南側にコンクリートで四角の井戸桁上に竹編みの蓋がされ、北側に「閼伽井」と書かれた(写真)井戸があります。深さは堆積物で浅くなり1メートル位で水はありません。直径は50㎝位の小さな石積み井戸です。(写真)
 
「あか」は閼伽に書きArgh(価値ある)から作られた語で、捧げる水を意味し仏教では仏様に献じる水を閼伽とか閼伽水と呼びます。「あかい」はそのための専用井戸を指します。修法や仏前に供えるための専用井戸で、特に寅の刻(午前4時頃)には水に花が咲くといわれ、この刻の閼伽汲み作法もあります。ご詠歌に「あかいの水に浮かぶ月かげ」と詠まれています、この地に観音堂が移転建立されましたのが元禄9年(1696)です、ご詠歌はこの地で詠まれていますので、ご詠歌が作られましたのはそれ以降となります。

「閼伽井」で有名なものは、西国札所三井寺の「閼伽井屋」で天智・天武・持統の三帝の産湯に使われた霊泉と云われていますし、奈良の秋篠寺、京の東寺、奈良東大寺の二月堂は有名な「閼伽井」とされています。近在で「閼伽井」と呼ばれる井戸はあまり見聞きしませんので、言葉の意味も参考にして見学してくださるとありがたいです。一人がやっと入れるくらいの井戸です。どうやって掘ったのか?元の深さは?

其の2:各札所には長い歳月の中で当初は当たり前だったことが、今ではわからなくなってしまっていることがあります。観音堂に掲げられている扁額(写真)は60年前の昭和34年お開帳記念に奉納されました。
奉納揮毫者の姓と名の一字ずつをとって「山彦書」としたそうです。この年代の「山彦」と云えばホトトギス派俳人「三星山彦(1901~1988)」(高野山大火を詠んだ句「畏れつつ 火迫る佛 抱きにけり」「火の中に 秘佛現れしも しばし程」「晩学の 汚れて寒き 法衣かな」)とのつながりを連想し、時間の流れの中で間違いを生みやすいもののひとつです。さて「一字一石塔」(写真)もミステリーの一つです。

今までの案内本にも記載されて来ませんでした。この「供養塔」について推理も含め考えてみます。西南を向いた観音堂の南側に自然石で「阿(梵字)一字一石妙典 超宗 花押」と刻された供養塔が置かれています。年号は刻されていません。 一字一石とは、大乗妙典の経文を一字ずつ小石に書き写したものを地中に穴を掘って埋め、その上に建てた供養塔のことを言います。妙典は「法華経」のことを指し、その字数は約七万字になり、扁平な小石に一字ずつ書いていきますので、石集めから大変な作業となります。中世から江戸期にかけて経筒に変わるものとして行われたようですが、全国的にも多く残されているわけではありません。江戸時代の享保の大飢饉(1729)で亡くなられた多くの人々の供養に建てた「一字一石供養塔」は有名です(福岡県鋤先遺跡)。労作を考えますと供養主の並々ならぬ思いを感ぜずにはいられません。供養主「超宗」が誰なのか、何のために建てたのか。

先ず「超宗」とは誰なのか、地元をよく知る古老にお聞きしましても、昔から置かれているのは知っている程度で、ヒントとなる伝承は今のところ残っていません。調べていく中で行き当たったのが、小田原の長興山紹太寺第二世住職「超宗如格禅師」(1638~1717)です。紹太寺は小田原藩主稲葉家の菩提寺で、稲葉正則を開基、鉄牛和尚を開山とする関東屈指の黄檗宗寺院で、三代将軍徳川家光の乳母春日局に関わる寺院です。「超宗」がこの供養塔の施主としますと元禄9年(1696)観音堂完成の時期と彼の宗教活動の時期とは符合はします。ただこの地域との関わり等を示す文書は今のところ発見されていません。

他方、供養塔の字や石、置かれている場所などからあまり溯らないのではないかとも考えられますし、本来の供養塔と異なり、この石に法華経を「阿」(梵字)一字に集約して供養した可能性も否定できませんので、別の角度から検討します。 不遜ですが「超宗」ではなく「宗超」ではないかというヒントをいただき、後世に「宗超」を忘れない為のメッセージに誰かが建てたとしますと符合することが多く見えてきます。昭和62年出版の鈴木偉三郎著「遠江三十三所観世音霊場縁起」に、開創の根源として「今川氏の末期氏親の未亡人寿桂尼が今川を救い復興せしめんと発願し、掛川城主朝比奈備中の守に諮り、朝比奈氏は高天神城主小笠原氏、堤の城主松井氏とも諮り朝比奈氏の菩提寺 西南郷久保の萬年山乗安寺開山 宗超越翁禅師指導の下に、小笠原氏の信仰する天然寺開山 秀誉上人の協力を受け・・・略・・今川家復興祈願の為発願設定せしものである・・。」と記しています。乗安寺開山宗超とはどのような人物なのでしょうか。また天然寺開山秀誉上人とはどのような人物で、観音霊場とどのように関わってくるのでしょうか。

◎「宗超」:曹洞宗下総国葛飾郡国府台總寧寺(そうねいじ)(千葉県市川市国府台安国山總寧寺)通幻派第8世で、帰依する朝比奈氏に招聘され遠江国掛川の乗安寺開山となる。開基は掛川城主朝比奈氏。「總寧寺」は永徳3年(1383)近江守護の佐々木氏頼が通幻寂霊を招聘し現在の滋賀県米原市寺倉に建立した。享禄3年(1530)戦乱により總寧寺焼失。八世越翁宗超は遠江国掛川に退避して常安寺(乗安寺)として再建。なおこの常安寺は永禄年間(1558~1570)に戦乱により焼失。住持らは常陸に落延び、その後天正3年(1575)常(乗)安寺は現在の埼玉県幸手に移転、寺名を旧称の總寧寺に戻す。天和3年(1617)徳川秀忠により千葉県野田市に移転。寛文3年(1663)徳川家綱により現在地千葉県市川市国府台に移転し、曹洞宗関東僧録司となる。

一方掛川の「乗安寺」は西南郷村小史によりますと、「千葉県葛飾郡国府台村の總寧寺第八世越翁和尚(宗超)は掛川城主の朝比奈備中の守の帰依を受けて、永正10年(1513)3月寺を建築し乗安寺としました。場所は南西郷です。ここに越翁和尚(宗超)に来ていただき開祖とし、寺がいつまでも栄えますようにと山号を萬年山として70石朝比奈氏の寄付を受け開基となりました。その後天正年間(1573~1592)武田信玄兵火により全て焼失、文禄2年(1593)・・・略(以下意訳)・・寺院を後世に残すため5名の寄付(4.81293石)を受け、その後慶安元年(1648)掛川城主北条出羽守から6石となる。以下略

◎「秀誉」:掛川誌稿、結縁寺村、白山権現の項に「白山の社は寺の後山にあります。仁藤村天然寺の開山専蓮社秀誉上人は明応3年(1494)天然寺を創建しました。上人はこの村の長谷川氏の出です。以下略

◎「寿桂尼」:~永禄11年(1568)死去。戦国大名今川氏親の正室で公家中御門宣胤(のぶたね)の娘。今川氏輝・義元の母。「駿府の尼御台」と呼ばれ今川三代を政治力でも支えた戦国女性。義元の死後衰退していく今川氏を危惧し、孫氏真(1538~1615)の守護と今川氏の再興を願った。

◎「朝比奈氏」:駿河の守護今川義忠は遠江への勢力拡大の足掛かりとして、文明年間(1469~1487)重臣朝比奈泰凞(やすひろ)を任じて掛川城(懸川城)を天王山に築く。さらに氏親の代に泰凞・泰能(やすよし)親子により明応から文亀(1492~1504)にかけて龍頭山(現在地)に築城。その子泰朝(やすとも)と三代世襲による城主となり、今川家臣の重鎮として仕える。

今川氏親と氏輝と義元・朝比奈泰煕と泰能と泰朝・名僧宗超・地元(結縁寺村)出身の秀誉たちが時代的に重なった頃に遠江三十三所霊場は創られた可能性があるのではないでしょうか。

寿桂尼が今川の安泰と復興の願いによって創られた「遠江三十三観音霊場」だとしますと、230年間駿河を統治してきた今川時代の終焉、その後徳川の時代になり、霊場も大きく姿を変えていかざるを得なかったでしょう。敢えて名前を逆さまに刻することによって徳川の時代にこのような形で願い、思いを残そうと考えたのかもしれません・・・。隣の上張村にはキリシタン信者が礼拝する秘像をカモフラージュする耶蘇灯篭も残されています。

結縁寺は1番札所のため、何故ここが1番なのか、何故札所が創られたのかを「一字一石妙典」の供養塔から推論してみました。またこの推論から設定年代もある程度絞ってみました。・・・確定されるものでは勿論ありませんし、「超宗」の可能性を第一に引き続き模索すべきと考えています。

近世に入り回国遊行の修験者等が里修験として村々の空き寺院やお堂に土着します(諸宗寺院法度)、経済的な基盤を持たない宗教者がその糧としての必要性も含めた中で再編され、現在の順番に整ってきたのでしょう。西国巡礼が第1回目のピークを迎える元禄期、この地域も連動して巡礼者を迎える体制が整えられたと思われます。

矛盾点も多いですし、そもそも二字しかない「超宗」を「宗超」と名前を逆に書くだろうかとの疑問はぬぐえません・・・。しかめっ面の「超宗」さんに、気まぐれ案内に無責任が加わったと云われそうです。☆こんなことが有ったら愉快じゃん☆くらいに軽く考えていただけると助かります。新たな事柄が見つかりましたら報告します。

〇御詠歌

父母の 恵みも深き 結縁寺 あか井の水に 浮かぶ月影

山本石峰氏は「遠江三十三ケ所御詠歌 詠歌中和歌ノ本体」で「大慈大悲の因縁に結ばれて、巡礼に出かけた。閼伽水の水に月影が浮かんだ、有難いが水中の月は捉えがたい、然らば月の本体は何処に有るか、

とくと胸に手を当てて見玉へ。」と記しています。

※参考文献「遠江三十三観世音霊場縁起」昭和62年鈴木偉三郎著・「西南郷村小史」大正12年・「掛川誌稿」・「掛川城の挑戦」平成6年・「掛川私考」昭和58年市村昭子著・掛川市の神社・寺院めぐり」平成18年関七郎著・「超宗禅師興山外集」黄檗文庫その他

2017・6/3公開