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弘法大師が、貧しい僧に身をやつし諸国行脚しておられたとき、当地に水の不足していることを哀れみ、この地が「
江戸初期ころからの観音信仰の隆盛により、参詣者が増えその「縁結び」「五穀豊穣」の霊験が知られるようになったといわれている。
現在の観音堂は元禄初年(1688)の焼失の後、宝暦9年(1759)近隣の寄付によって再建されたもの。屋根の頂上に露盤、伏鉢、その上の宝珠が鎮座した方形造りのたたずまいはまことに美しい。
なお「
「これやこの常に楽しむ寺なれば み
当初、常楽寺の西の別所に法福寺(保福寺とも)いう寺があった。が、衰えて常楽寺に合併されたと言われている。その時寺号を保福山常楽寺と称した。元禄3年(1690)時の住職が常楽寺に観音堂を建てて聖観世音菩薩を安置したところここに巡礼者が増えてきたという。
安政の大地震(1854)で堂宇は倒壊、明治初めに再建。しかし、昭和46年8月の台風で再び倒壊。さらに火災で焼失したという波乱の歴史を持っている。
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『掛川誌稿』によると、本寺は、はじめ長照山東陽院とよばれ、掛川市高御所にある曹洞宗正法寺(4番新福寺のある寺)の末寺で、本尊は阿弥陀如来であったという。後に地名をとって、長谷山長谷寺と改めた。平成8年、都市計画により改築した。
本尊の十一面観世音菩薩は、右手に錫杖と念珠を持ち、左手は蓮華をさした水壜をたずさえていて、地蔵菩薩と観音菩薩の二徳・二刀を兼ね備えたものとされている。
これは同名の、奈良県桜井市初瀬の長谷寺の本尊の形になぞらえたものという。
参道正面には地蔵堂があるが、本寺は元来は地蔵堂の堂守であったという記述(『掛川誌稿』)もある。伝説の安産祈願の地蔵(木製)として知られている。
「参るよりつみはあらじの新福寺 おんての花を見るにつけても」
嘉禎4年(1238)頃、このあたりに真言宗正眼院という寺院があったという。が、鎌倉中期には頽廃していた。室町中期応永17年(1410)、豊田郡野辺村(現在の豊岡村)の万世山一雲斎の明円見珠大和尚が、ここに正法寺を開いたという。
宝徳年間、二世見的の時代に本堂を建立したが、寛永4年(1627)焼失した。その後慶安2年(1649)江戸幕府より寺田38石を受けて蘇生、宝永4年(1707) までに諸堂宇を復興したという。この時、寺号を鶏足山(鶏の足に似た山の形にちなむ)と改めたと伝えられている。新福寺観音堂は元高御所区北端の曽我 山上にあったが、明治23年廃寺となり、正法寺境内に移転した。
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明治5年の廃仏毀釈の嵐に無柱となった北谷寺を、法多山尊永寺の境内の石段横に移して北谷観音として祀っていた。
が、平成10年9月24日夜半の集中豪雨により尊永寺本堂の石段が大崩落、そのため多数の樹木とともにお堂も土砂に流されてしまった。しかし、ご本尊は無事で、現在本堂横の東堂に祀られている。御朱印は尊永寺受付へ。
法多山尊永寺は、高野山釈迦文院の末寺で、行基上人が自ら刻した聖観音(一 般的に厄除け観音)を本尊として開基した勅願寺。最盛期一山六二坊を有して、以来「遠州の高野山」とたたえられている。