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気まぐれな巡礼案内㉔

投稿日:2018/11/08 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第26番 杖操山(じょうそうざん)妙国寺 本尊十一面観世音菩薩

島田市神谷城(かみやしろ)1609

御詠歌  はるばると 参りて拝む観世音 罪深くとも 救いたまえや

旧国1(県道415号線)を東進し前々回案内しました「常現寺」の横を静岡方面に進み、小夜の中山トンネルを越え島田市(旧金谷町)に入ります。トンネルから500m程先を右折南進します。国1バイパス下を通り抜けますと、現在473号線国1バイパス取り付け道路の工事中(2021年完成予定)の先が菊川の宿ですが、なお南進し約1Kmで第25番松島岩松寺入口となります。そのまま進みJRを超え、右手保育園の先を右折し水神橋を渡りますと100mほど先を写真のようにJRのガードをくぐり(マイクロバス不可)、左手に向かい26番妙国寺です。以前は「砂の灸」の大きな看板が南北に走るJRの車窓から見られました。

  
「掛川誌稿」では「西深谷村」の項に「菊川の南にありて、川流に傍へる村なり。其の西岸にあるを西深谷と呼び、東岸にあるを東深谷と呼ぶ。両山に挟まれて、深谷にある故に村名とす。東深谷は榛原郡に属せり。」と記され、また「妙國寺」として「曹洞、金谷駅、※洞善院末、公文名と云う所に有り。本尊十一面観音、二十六番札所」と記されています。

 

〇 妙国寺は昭和48年(1973)に開帳をしています。その開帳記念として「遠江三十三ケ所 観音札所 御詠歌」の冊子(写真)を出しています。その中で26番妙国寺の歴史について「二十六番妙国寺付近は応仁の乱より戦国時代に入る頃には人々の移動激しく、街道筋から少しはずれた場所で隠棲する人が住みついたものと考えられる。(500年前・1470年ごろ) 妙国寺も凡そ460年くらい前(1510年、室町時代後期)に、現在地より300m程登った「寺の跡(てらがいと)」と言われる場所に普門殿という観音堂が創られ、後に寺となる。(356年前、1616年元和二丙辰年。妙国寺過去帳による。)その後の256年前、1716年享保元丙申年5月14日示寂の金谷洞善院9世実参黙真大和尚が開山となり、現在地に移して普門山明国寺とす、文化のころに妙光山妙国寺とし、明治末期頃に現在の杖操山妙国寺となる。」と序文に記しています。
昭和63年(1988)浜名湖出版発行(発行人 瀧 茂)の「心の旅路を歩く」と題する遠江三十三観音霊場巡拝の案内誌が発行されています。 表紙の写真は妙国寺の人たちの巡礼風景を撮影したものです。当時 寺の管理者は相良(現牧之原市)心月寺の小柳良孝住職(1994・平成6年寂)で「砂の灸」も小柳住職が施療していました。一方熱心な観音信者で巡礼の先達をされた方が、妙国寺の隣家の落合義男氏(2011・平成23年没)です。彼の功績は普段札所を守り、多くの人たちを巡礼に導いたことだけでなく、巡礼道の旧道調査を行い、昭和63年には「古人の歩いた遠江三十三観音巡礼」地図発行(写真)や道標の掘り起こし等多岐にわたり、巡礼者の顔として晩年まで一筋に尽くされました。 現在は空き家となってしまっていますが、いつの時代も熱心な信者がいたからこそ札所も守り続けられてきたのでしょう。篤信者の力に負うところ大とともに「つないで行く」ことの大切さも教えられました。

 
※洞善院:島田市金谷100番地にある曹洞宗の古刹。金龍山洞善院。天正15年(1587)哉翁宋咄(さいおうそうとつ)(天龍円鑑禅師)を開山とする。なお開山哉翁宋咄和尚は今川の家臣朝比奈氏の出。

石高10石 現在の本堂は文化2年(1805)再建。「金龍山」の扁額は日坂常現寺同様 月舟宗胡筆。当寺はかつては11の末寺を持っていた。24番観音寺も同院の末寺でした。

〇「※菊石」について

境内にはいると、いくつかの丸い石が置かれ、目に付きます。

  
厳密には「菊石」ではありませんが、一般的に「菊石」と呼び慣わしています。菊石については「掛川誌稿」でも若干触れています。「菊川に出つ、其の石平圓にして厚からす、又其質脆くして摧け易し、大鹿村田間の路蒡に二枚あり、太鼓岩と呼ぶ、又川の中に三枚あり、径ニ尺余、三尺には足らす、同村宝盛寺にあるは車輪の如し是又菊川より出つ、渓流奔激の間にして破裂して、菊及亀甲の文をなすもの也、或は菊川の名此石あるより起るとも云へり」と記され、昔からこの地域の珍石・名石として認められていたようです。

「菊川」の名前の由来ともなりましたこの石について少し詳しく見てみましょう。

   写真は左から「夜泣き石」「亀甲石」「亀石?」「子生まれ石」

妙国寺に置かれている「菊石」は「馬蹄石」といわれるもので、大きくはこの「馬蹄石」の中に「菊石」「亀甲石」「亀石」「子生まれ石」「玉ねぎ石」などが含まれると思われます。また「亀甲石」」と「亀石」は同じで違いはありません。「菊石」「亀甲石」「馬蹄石」は菊川市富田上・掛川市東山小鮒川・島田市佐夜鹿などの菊川上流部などで多く産出し、「子生まれ石」は牧之原市西萩間の萩間川支流の崖が主産地で繭型のものも見られ、近くの※大興寺歴代住職の墓石にもなっています。

① 菊石や亀甲石はどのようにしてできたのでしょうか。

泥質の地層内に石灰分(炭酸カルシウム)が集まった部分ができると、その部分が硬い泥灰岩となって、ノジュール(塊)になります。➡その塊に割れ目ができる。➡割れ目に方解石(純粋な炭酸カルシュー

ム)が沈積され、方解石脈ができる。➡浸食作用が働き、地表へ現れて雨水があたると、方解石脈との部分が早く溶解されて、菊花(亀甲)状の模様ができる。 このようにして亀甲石はできるのですが、「菊

石」のように円盤状の形と放射同心円状の模様が、どうしてできたのかは不思議というほかありません。地層の圧縮が関係しているのでしょうか。

②地層は

これらの石が産出する地層は、古第三紀層(白亜紀の次で約6600万年~2303万年前)の三笠層群です。ただ「子生まれ石」は第三紀鮮新世(約500万年~258万年前)の掛川層群堀之内層という比較的新しい

地層で、割れ目や方解石脈もありません。(①②共に※氏家宏氏報告書の大庭正八氏書簡と菊川駅設置の菊石調査から)

 

※菊石:  写真は既記「掛川誌稿」の宝盛寺にあり、車輪の如しと記された菊石です。島田市佐夜鹿の公会堂敷地内に置かれ、鎌倉後期鬼神伝説にまつわる、上杉景定卿  と※白菊姫伝説発祥の「菊石」で直径約110㎝厚さ25㎝。この石は桜が渕(白菊姫が投身した渕)から引き揚げられ、姫の菩提のために宝盛寺に納め供養され、明治中期まで祀られてきました。昭和20年代に「夜泣き石」の場所に移されましたが〃伝説発祥の地に置くべし〃と平成15年から現在地佐夜鹿公民館敷地内に置かれています。(伝説の白菊姫は観音菩薩の化身により救われる)

※菊石伝説:今からおよそ七百年前の鎌倉後期、深山渓谷の菊川の里に鬼神が棲み、住民を苦しめた。そこで追手として遣わされたのが上杉景定卿。愛宕の庄司という長者の家に滞在するのだが、長者には一人娘の白菊姫がいた。景定卿はその美しさにひかれ、いつしか懇ろな仲になる。さて鬼神を退治した景定卿、いよいよ都へ帰る日となり、別れが忍びがたい白菊姫に観音菩薩像を形見として渡す。季節が移り、姫が身重になっていることを長者夫婦が知ることになる。問い詰められ、思い余った姫は、菊川の桜が渕に身を投げた。が不思議なことに沈んだはずの姫の身が再び浮き上がってくる。やがて気が付くとわが身が助かり、目の前には一人の老僧。この老僧こそ観音菩薩の化身、姫に都に行くよう勧めて立ち去る。一方姫の姿が見えぬ夫婦は、もしかして身投げかと嘆き、せめて身柄なりともと網を入れて引き揚げると菊花模様の石がかかった。夫婦は姫の菩提のため宝盛寺に納め、供養した。(2002年6月30日静岡新聞 石は語るより)

※氏家宏:(1931~2006)琉球大学名誉教授・日本古生物学会・日本地質学会  「中部日本の相良ー掛川堆積盆地の地質」(1962)・「静岡県西部、三笠層群の質構造」(1980)など、この地域で早くから調査研究され、産出される化石研究の先駆者。郷土の地質学者大庭正八氏は氏家氏に師事し、その影響を多く受けた。なお大庭正八氏は地質学より東海道の鉄道建設に関する研究やオット機関車の考証などその分野での造詣の深さで知られるが、「菊石」についての書簡の中で、御前崎の「風食礫」(静岡県文化財)にも匹敵する文化財であると述べ、菊石の散逸に警鐘を鳴らし、貴重な文化財を守るべき為政者の認識の低さを嘆いています。

※大興寺:牧之原市西萩間にある曹洞宗の古刹で龍門山大興寺。室町期総持寺八世大徹宗令禅師の開山。「子生まれ石」を歴代住職の墓石として、大きなものは1mを超す。ほとんどが繭形をしている。近くには「子生まれ温泉」があります。

  
 

〇御詠歌

はるばると 参りておがむ観世音 罪深くとも 救いたまえや

山本石峰氏は「※五濁の身と生まれ、煩悩に苦しむこの覇絆(きはん)は自力では解けぬ、是非お助けください。罪は深からんも※弘誓(ぐぜい)の願力で他力本願」と記しています。

※五濁(ごじょく):劫・見・煩悩・衆生・命の五つの濁りをいう。劫濁は時代(末世)に生じる天災や社会悪等悪世のこと。見濁は思想の濁りで。煩悩濁は衆生が煩悩に悩まされ、悪徳が世にはびこること。衆生濁は人の資質が心身ともに堕落し、低下すること。命濁は人間の知能生命が発達しなくなること。

※弘誓(ぐぜい):観音様があらゆる衆生を救って、彼岸に渡そうとする広大な誓願。

 

今回の案内では、観音様を縁として境内に置かれています馬蹄石に着目してみました。。なぜこの地域から産出されるのかは謎というほかありません。巡礼の途中にちょっと寄り道をして石巡りをするのも楽しいと思います

昭和40~50年代に山を崩し茶畑への開墾事業が進められ、土中から多くの馬蹄石が産出しましたが、そのほとんどが散逸してしまいました。小さなものは個人所有として家に飾られ、大きなものは庭石に置かれ歳月の中で分解し無くなっています。文化財として、又貴重な遺産としての見地からの保存がおろそかにされたからです。境内の石も、近在の庭に置かれた石も、何処で産出したのかが確定できなくなってしまい推測にならざるを得ません。

 

菊川の流れに沿ったこの地域に以前から気になっていることがあります。それは、西深谷、東深谷,石神、上倉沢、下倉沢、友田、吉沢から潮海寺に至るまで、薬師如来と牛頭天王の祇園信仰が広い範囲に残され、薬師信仰に基づいて村づくりを進めたのかと思えるほどです。潮海寺の信仰圏と云えばそれまでなのですが、薬師如来には脇侍佛として、日光菩薩・月光菩薩が控え、四天王が守り、十二神将が護法善神として守っています。これらを村民氏族に当てはめ、薬師曼荼羅を作り上げるという構図があったのではないか、という夢のような推測です。そう思わされるほどこの地域には氏神に「天王社」「津島社」が祀られています。村づくりが仏の世界観に基づいて行われたとすれば大変興味深いことです。

奇しくも本日11月8日は下倉沢の石沢家一統が祀る摩利支天の祭日です。(8日は薬師如来の縁日です)この氏族はかつては石神地区に住して四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)を氏神として祀っていました。其の後上倉沢に移動し、棚田百選にも選ばれている「千框(せんがまち)」を開発します(1000枚を超える棚田)。この頃何らかの事情によって氏神を摩利支天に変えています。その後下倉沢に移動し現在に至っています。今ではこの一統が千框を作りあげたことすら忘れられています。何故猪に跨り、光と速さを象徴する摩利支天に変わったのか問うてみたいのですが・・・。まもなく2019年平成最後の年 亥歳を迎えます。

13番大尾山観音堂半壊

投稿日:2018/10/12 カテゴリー:事務局からのお知らせ

9月30日深夜襲来した台風24号により、樹齢1200年と言われる鳥居杉が倒れ観音堂を直撃、お堂の東側が大きく破損した。鎮守王子社も庇部分が損壊した。

現在大尾山に登ることはできますが、参拝は困難な状況です。   

台風被害のお見舞い

投稿日:2018/10/06 カテゴリー:事務局からのお知らせ

此度の24号台風により被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。

各札所でも倒木やお堂の屋根など軽重の差こそあれ被災されたこととお見舞い申し上げます。詳しい状況の把握は未だでき得ていませんが、深刻な状況もお聞きしています。

まずは人的被害の報告が無かったことに感謝しつつ、今後長い道のりでしょうが、少しづつでも復興されますことを期待しています。

巡礼者の方々にはご不便をかけることもあろうかと存じますがご理解くださいますようお願い申し上げます。今後詳細等わかり次第事務局より報告します。

気まぐれな巡礼案内㉓

投稿日:2018/09/18 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第17番 日林山 天養院

掛川市宮脇4-3

※絵  
掛川市内から旧国1(県道415号線)を東進し、掛川警察署から東に1キロほど進みますと、本村橋(honmurabasi)交差点(信号機)があり、その北側の山 西斜面に17番札所はあります。(入口は信号機の西30mを北折して100m程です。)登り口は南側と北側の二か所あり、どちらからも2~30m程です。  写真は南側と北側の案内板です。北側の案内板は立ち木に彫り込んだものです。

この時期(秋彼岸)境内は一面に赤と白と黄色の※ヒガンバナで飾られます。地元の人たちの手入れのたまものです。春三月の彼岸頃から二か月かかって桜前線が北上します。ヒガンバナは逆に八月中旬過ぎから一か月かけて南下します。この辺りは丁度お彼岸に満開となります。ヒガンバナに埋め尽くされた17番札所を是非堪能してみてください。秋彼岸は地元の人たちが当番で詰めていてくださり、お接待をしてくださいます。

「掛川誌稿」宮脇村の項には、日輪山 天養院として「曹洞 城東郡西方村※龍雲寺末 開山は龍雲四世祥山麟和尚と云う。此の寺昔西田の寺家という処にあり、後郷倉の辺りに引き、また寛文中(1661~1672)蘭山和尚の時今の地へ移す。又慶長九年(1604)検地帳に、上蓮寺という地名ありて、そのところは今寺家という辺りなれば、上蓮寺は天養院の昔号なるべし。」とだけ記されています。山号日林山と現在は書していますが、「※日輪」のほうがふさわしく感じます。(近くの掛川市仁藤の日輪山真如寺と山号が重なり字を変えたのかもしれません)

※上絵:溝口博之画 天養院観音堂を描き、お堂で得た感覚を画像に載せ メルヘンを生み出す独特の画風。キツネと彼岸花(キツネノカミソリ)。

※ヒガンバナ:秋の彼岸も近くなりますと日を覚えているかのように、あっという間にヒガンバナが一斉に咲きだします。この花の名前は、全国共通の名前を除いても600以上の名前が全国で付けられて呼ばれています。なぜこれほどの呼ばれ方をしているのか気になりますが、その中で静岡県内に限定しても、アカハナ・オーバコ・カブルバナ・カブレバナ・ジイジャアボウジャアー・シーレ・シロリ・ソーシキバナ・ソーレンバナ・ヒガンゾ・ヒガンソー・ヒガンバラ・ヒナンバラ・ヒナンバナ・ヒランバナ・ヘソべ・ヘビバナ・ポンポンササギ・ポンポンササキ・マンジュシャグ・マンジュシャゲ・ワスレバナ・チョーチンバナ・ドクバナ・二ガンバナ・ノアサガオ・ハコボレ・ハコボレクサ・ハッカケ・ハッかけクサ・ハッカケバーサン・ハッカケバナ・ヒーナンバナ・ヒーナンバラ・ヒーヒリコッコ・ヒーリコッコと36もの呼び方がされています。これらは「秋の彼岸の頃に咲くことから」「花が一斉に咲くことから」「花の色から」「花の形から」「花が咲いているとき、葉が無いことから」「お供え花として使うことから」「遊び方から」「墓の周りなどに咲くことから」「しびれや、かぶれることから」「毒があることから」「薬として使われたことから」「粉から、モチやダンゴをつくることから」など、じつに多彩な理由からの呼ばれ方です。(かこさとし作 ヒガンバナのひみつ)

上記の※かこさとし(加古里子)さんは、この本の中で、ヒガンバナのひみつは「楽しい名前と、こわい名前が、いりまじっていることが、ヒガンバナのだいじなひみつなのです。そのおかしななぞは、ヒガンバナを非常食として、のこしておくための、とてもよいやりかたとなっていたということです。まるで、くいちがって、楽しいかと思うと、こわかったり、毒かと思うと、ぎゃくに薬だという 名前のなかに、非常食として、ヒガンバナのひみつが、かくされていたのです。とてもいりくんだ、むずかしいひみつのしくみです。」と書いています。(著者かこさとし 株式会社小峰書店発行所 1999年)

飽食の現代では、花の美しさにとらわれ、著者の言うヒガンバナの秘密に気づくこともありません。気づかないことが秘密ですから、目的は継続されているのでしょうか。

※かこさとし:加古里子(かこさとし)1926~2018 児童文化研究者など。「だるまちゃん」シリーズなど600点余にのぼる。菊池寛賞受賞他多数

☆ヒガンバナの成長の速さ(写真)

平成30年9月10日に出た花芽は9月17日満開になりました。一日10㎝以上伸びる日も、一週間で開花です。  
※日輪:太陽のこと。

※龍雲寺:28番正法寺案内(気まぐれな巡礼案内⑱)で記しましたが、掛川市大野の長松院【石宙永珊和尚開山 文明3年(1471)】二世一訓和尚(~1504)の弟子 法山宗益和尚が永正11年(1514)に開山した。天文2年(1533)寂 (写真は龍雲寺)
近在の龍雲寺関連の寺院を見ると、二世光山康玖和尚が西方村西福寺(龍雲寺に合併)天文19年(1550)寂、満水村満水寺(昭和48年龍雲寺に合併)永禄1年(1558)死去?、正福寺(場所不明)の三か寺を開山・三世實傳和尚が西方村正法寺 元亀1年(1570)寂 を開山・四世祥山宗麟和尚が宮脇村天養院(明治6年廃寺)を開山・五世明国存光和尚が堀之内村報恩寺 慶長9年(1604)、本所村陽法寺(龍雲寺に合併)元和9年(1623)か寛永8年(1631)、打上大徳寺 元和9年(1623)の三か寺を開山・六世が安養寺(廃寺)寛文年間(1660頃)を開山 と古刹龍雲寺は地元(西方村)を中心に約100年間に8か寺を開き教線を確実に拡大したことがわかります。

      )(写真は上から西福寺・満水時跡・正法寺・報恩寺・陽法寺跡・大徳寺)

 

〇桐田幸昭氏は「遠江三十三所案内」(昭和63年刊)の中、17番天養院の項でお堂前の鬼瓦の※寺紋と二体の地蔵石像について、精査の必要を問うています。

 建て替え前の物ですが、鬼瓦或いは大棟鬼と呼ばれ、上に突き出た部分が鳥衾(とりぶすま)とよばれます。鳥衾の紋は「左三つ巴」鬼瓦の紋は「丸に三つ引き紋」「丸の内三つ引き紋」といわれ、「左三つ巴」は掛川城を築いた※朝比奈氏の定紋。「丸に三つ引き紋」は朝比奈氏と同じ今川氏の家臣※三浦氏の定紋と考えられます。憶測ではありますが、今川氏がらみの朝比奈氏、三浦氏に関連する寺院と考えても良いと思われます。ただ三浦氏については今川氏の譜代家臣朝比奈氏三浦氏と並べて云われる割には三浦氏の掛川での動向はよくわかっていません。本寺龍雲寺、その本寺長松院は共に今川氏と関連性の強い寺院とされています。既出山本石峰氏は、札所15番から28番の中の9か寺について「長松院と今川家との深き因縁を背景とし長松院領の域内にあり」と記しています。

鬼瓦の寺紋からの推察でこれ以上のことは今後の宿題ですが、旧寺名「上蓮寺」の頃の観音霊場草創期と朝比奈氏と三浦氏の拘わりにも興味が膨らみます。

※寺紋:寺紋や神紋といわれ、寺院や神社に使用されている紋章。宗派の紋と異なり寺院開創に深く拘わる武将や貴族(スポンサー的役割)の家紋を寺紋とすることが多い。

※朝比奈氏:朝比奈氏については「結縁寺」(気まぐれな巡礼案内⑩)を参照ください。

※三浦氏:今川家の重臣駿河三浦氏の詳細は必ずしもわかっているとは言えません。小和田哲夫氏の「今川氏重臣三浦氏の系譜的考察」をきっかけに少しづつ解明されてはいますが、掛川(遠江)での三浦氏の動 向は朝比奈氏に比して今後の調査が必要です。

 

〇二体の地蔵石像について


「史跡遠江三十三観音霊場」桐田幸昭(昭和62年刊)に左側の地蔵尊には「二建時延宝二甲寅年(1674)八月十五日示寂」「當庵二世中興蘭山寒秀和尚増崇霊位」と刻され、また右側の地蔵尊には「延宝五丁巳年(1677)八月十三日」「示寂請叟宗益和尚」と刻されていますと紹介されています。

掛川誌稿に「寛文中蘭山和尚の時今の地へ移す」と書かれ、また中興とも刻されていますので二世蘭山和尚の時に現在地に移転し寺門興隆の尽力が大であったことがうかがわれます。また右側の石像「請叟宗益和尚」は天養院三世です。(※龍雲寺住職密山叟了玄記)

※密山叟了玄記:宝暦十年(1760)に時の龍雲寺住職が歴代住職を記したもので、「天養院」に関しては「第一 開山當寺四代 第二 中興蘭山寒秀和尚 延宝二寅八月十五日(1674) 第三 請叟秀益和尚 延宝五巳八月十三日(1677) 第四(再中興)通方傳遼和尚 元禄十二己卯二十六日(1699) 第五(重中興)圓了禅遼和尚 元文五庚辰六月二十九日(1740)まで記されています。

 

境内の観音堂の前には桜の木の下に延命地蔵尊と青面金剛童子(庚申)が並んで祀られています。

  共に長寿の役割を担当する仏様です。現世利益と観音様の浄土への願い、「※現当二世安楽」をかなえてくださるお寺です。

※現当二世:あの世とこの世のことで、現世と来世。

〇堂内

この観音堂は平成9年(1997)に建て替えられ、落成時にお開帳も行われました。本尊聖観音様は正面のお厨子の中で次回のお開帳を待っています。建て替え時を※中開帳としましたので、次回の開帳は2030年の予定です。

  (昭和61年お開帳・久保田康徳氏提供)

※中開帳:秘仏の場合三十三年とか六十年に一度本尊様の扉を開け、衆生と仏縁を結ぶ機会を作っています。(一般的には、33年に一度が多い)。三十三年では長すぎるため、その中間に中開帳と称して、扉を開けることがあります。これを中開帳と言います。

〇御詠歌

補陀落や ここに在りける成滝の 柳の上に吹くや 松風

山本石峰氏は「補陀落は梵語、観音の枕詞だ。観音は今成滝の岸で衆生済度で御多忙。丁度柳が風に任せて揺れる様だ。松風とは巡礼たちの成仏を待つという掛け詞だ。」と記しています。

曼珠沙華はmanjyusakaの梵語から採られ、「極楽に咲く花」とか「天界に咲く花」と意味づけされた植物です。満開の花に囲まれ 祈りを捧げ 唱えるお経は一輪一輪の花に吸いこまれていく。地蔵となった歴代住職が花に囲まれて見守る 花々は祖先から受け継がれた魂か・・・。花いっぱいのときにおとずれて ぼんやりしてみました。ごくらくごくらく(平成30年九月17日)

    
ヒガンバナの花が終わると葉が出だす。(平成30年9月24日)

連絡先の変更

投稿日:2018/08/17 カテゴリー:事務局からのお知らせ

酷暑の中皆様方にはご壮健のことと拝察いたします。また日ごろから保存会へのご理解に感謝申し上げます。

今般「31番 菊水寺」様から管理者変更のご連絡をいただきました。新管理者:住所 掛川市岩滑3514 電話番号0537-74ー4263 中島崇之(なかじまたかし)

上記のように変更をお願いいたします。

またパンフレットの中「遠江三十三観音霊場について」の文章中に袋井市が入っていませんでした。お詫びいたします。加筆をお願いいたします。ご指摘いただきありがとうございました。