「なむあみだ
水垂最北端、室町期、河合一族の山城「水垂城」に、武運、領民守護を祈念して馬頭観世音菩薩を祀ったのが始めという。応仁の乱(1467〜77)の余波と今川氏西侵により明応5年(1496)落城。堂宇は焼失したが観音像は難を逃れた。寛永3年(1626)永江院九世建庵和尚により、観音菩薩別当寺として「仏法の真に昌んなること龍が洞を出るが如し」として寺号を「龍洞山真昌寺」と定め開創し、観音堂を再建した。
その後天明7年(1787)伽藍消失、安政の震災(1854)により観音堂倒壊、万延元年(1860)再建と多難な歴史を乗り越えてきた。
平成7年(1995)本堂を改築した折、その中央部より室町期観音堂の礎石が出土した。平成9年(1997)、地域住民により観音堂を改築、同時に「水垂高森聖観音」(掛川城主山内一豊の護持仏)を合祀した。
「ふだらくやここにありける
古文書によると、天養院は今から四百年前の慶長年間に創立。
明治初年に政府の出した神道国教化政策(廃仏毀釈)の影響を受け、明治6年に廃寺となり、御本尊は菊川市の本寺である龍雲寺に移された。ところが、昭和初期、宮脇地区にたびたび疫病が蔓延、死亡者が出るなど多くの人々が苦しんだとき、この御本尊を龍雲寺から再び天養院へお迎えした。
安置したところ、たちどころに一切の悪疫が退散したと伝えられている。以来、このような霊験が知られ、毎年秋の彼岸会には多数の参拝者を集めている。
毎月第三日曜日には、宮脇地区の当番組によって献灯、献茶が行われ念仏愛好者による御詠歌の奉詠も行われている。
「はるばると登りて見ればさよの山
大正11年(1922)9月、堂宇修理の際、発行された寄進の依頼状の由来には、次のように記されている。
「後花園天皇の享徳2年(1453)の七月飄然と異僧来り、仏教三世の因果応報を説き、村民を感動させ、僧は、我は諸国巡廻の祈願を果たすもの故にそれは叶わずと、代わりに行基菩薩の御作の十一面観世音菩薩を与えて去った。
村民はおおいに喜び、小堂を建ててこれを安置、村民の信仰を集めた。堂は天文5年(1536)に再建、その後、遠江三十三観音十八番札所となり、四百数十年の間、村民や巡礼の人々の厚い信仰を集めている」(瀧茂『心の旅路を歩く』)
上の由来を、御詠歌の内容と照らし合わせた時新福寺は元来この地にあったのではなく、小夜の中山にあったものと考えられる。古老の伝えるところ、あるいは昭和初期発行の寺札によると、新福寺は小夜の中山久延寺の奥の院であったとのことである。上に記されたように、現在地の堂宇はかつて天文5年(1536)に再建されたという記録がある。とすればそれ以前、すでに何らかの理由で小夜の中山を下りたということだろう。
「もち月や明らかなるをしるべにて 歩みをはこぶ人ぞたのもし」
伝説によると、昔、この山中に一人の美女がやって来た。村人に「観音経に帰依した人の妻となって、子供を養育します」というので、村人はこぞって結婚を申し込んで来た。女は「私は一人だから多くの人の妻にはなれません。もし私を思うなら観音経を読んで下さい。そうしたら必ずあなた方の童子童女を守護します」と言い、観音像一体を残して姿を消した。これは小夜の中山の子育観音の化身に違いないというので一同、これより観音経に帰依したと言われている。
堂内に幕末キリシタン禁止の高札がある。
「
通称子安観音として親しまれているこの観音寺は、安産・子育てに霊験あらたかで、安産祈願の御腹帯を現在でも貸し出しており、遠江の祈願者が絶えない。
本堂の棟札には、天正17年(1589)4月の記録とともに「佐野郡千羽郷大原子村、徳川殿御代、御地頭長戸上(ながとのかみ)の時」とあるので、長戸上すなわち掛川城主、石川日向守家成の子、長門守康通はの時代の建造であることがわかる。長門守康通は、天正12年に父の後を継いで掛川城主となり、その後6年間城主を勤めた。
本寺は、天正2年(1574)に火災に遭っており創建当時の記録が失われたのが惜しまれる。