「はるばると参りておがむ観世音 罪深くとも救い給えや」
この付近は、旧金谷町神谷城という名にその名残がうかがえるように、菊川に続く隠れた要路であり、応仁の乱ごろから戦国の時代は、東海道の激しい喧騒を少し外れたこの場所に隠棲する人々が住みついたものと言われている。
妙国寺は、およそ500年前に、現在地より300メートル上った「寺の跡」(てらがいと)と呼ばれる場所に、普門殿という観音堂が、そうした人々によって創建された後に寺となったことが、妙国寺過去帳に記されている。寺となったのは、元和2年丙辰年(1616)。その後、金谷町・洞善院九世実参黙真大和尚=享保元年丙申年(1716)5月14日示寂=が開山となり、現在地に移して善門山妙国寺とした。
その後、明治末期ごろに、現在の杖操山妙国寺と改められた。
「さえいずる月をながむる瀧の水 かみすみぬれば下も濁らず」
旧小笠郡唯一の修験道寺院。代々「滝の谷法印」と俗称された檀家をもたない祈祷寺として信仰されている。
『掛川誌稿』には、「西方村、観音堂、滝の谷にあり。此観音は旧慈眼寺の本尊也。潮海寺道に宝蔵坊と呼ぶ所あり。以前某所に寺ありしと云。寛文八年の鰐口に「川村庄慈酬寺」と刻せり。観音巡礼二十七番の札所也」とある。
天和3年(1683)春、観音堂移築造営の折にその土中から聖観世音菩薩(金銅製・立像)が出現した。第二代目、久仙法印の時に開扉供養を行い以来両観音を本尊として祀っている。
裏山には、十二支守り本尊の石仏が8体「南無阿弥陀仏」銘の石塔などがある。また、樹齢200年以上の海棠の古木を始めとした花木がよく手入れされて心なごむ。
「やつたにや梅の名木のりの寺 うしおにひびく鐘のおとづれ」
『菊川町史』によると、「曹洞宗正法寺(西方堀田)天正2年(1574)宗貞開創 山号を拈華山と称し、聖観音を本尊とする。この本尊は鎌倉の仏師運慶の作と伝える。安政3年(1856)冬、失火に諸堂ことごとく焼失も本尊はその厄を免れたが諸堂の再建は明治の廃仏毀釈に阻まれ、小堂を建立するに止まった。大正14年(1925)現在の堂塔を竣工する」とある。
堀田城城主堀田正法が開基となり龍雲院三世実伝宗貞を招いて開創したということである。
本尊は聖観世音菩薩であるが、一般にその地名から「八ツ谷観音」と呼ばれている。御詠歌にあるとおりである。
厄除け観音、子育て、縁結びの観音様としても篤い信仰を集めている。
「はるばると登りてみれば
文明8年(1476)駿府城主今川義忠が遠州に進攻し、見付城の斯波氏らを破っての帰路、4月6日夜半この塩買坂にさしかかったところ、地の利に詳しい横地の残党が奇襲、義忠は流れ矢を受けて戦死した。その41年後の永正14年(1517)義忠の嫡子氏親が、この地を平定したことから、国源山昌桂寺(現在の正林寺)を開いて、父の菩提を弔ったのがはじめという。境内には従って今川義忠の墓、開山堂には義忠の木像が祀られている。
昌桂寺は、天文20年(1551)昌林寺と改められ、関ヶ原の合戦の頃に、正林寺と改められた。
五穀豊穣のご利益が知られている。
「ゆき見よと誰いそぐらん 磯山の松の葉こゆる沖つ白波」
数百年前は、現在の旧小笠町平川及び峯田、旧大東町中地区、菊川市下内田一帯は湖水で、青木寺のあったあたりは、この湖水に突出した老松繁る丘であったということである。
天文8年(1539)、青龍院の覚仲素文が盛岩院二世となり、塔頭を建て弘法大師作と伝えられる聖観世音菩薩を祀って青木寺と号したという。
青木寺観音堂所蔵の鰐口には、「遠江州笠原庄岩滑郷新福寺、時長禄戊寅2年3月吉日、願主大工十郎」とある。新福寺は、青木寺の前身かと思われる。