静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

寺院からのお知らせ

パンフレットができました

投稿日:2017/11/27 カテゴリー:事務局からのお知らせ

今回「遠江三十三観音霊場保存会」はパンフレットを新たに作成しました。多くの方々の目にとまり、観音さまとのご縁が生まれれば幸いです。

HP本文やパンフレットに誤字脱字等ありましたら(あると思います)ご容赦ください。次刷に訂正させていただきます。

気まぐれな巡礼案内⑰

投稿日:2017/11/11 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第19番 明照山 慈明寺 (掛川市小原子134)
寺院名を問われても答えにくいケースがあります、ここもその一つです。

20番大原子の西側の谷にあり、大原子(おおばらこ)に対して、小原子(おばらこ)となります。ただ観音堂を聞くときは、おおばらこ の観音様に対して、こばらこ の観音様という言い方がわかりやすいです。

今は行政が一つになっていますが(大原子と小原子)大きな大原子は一村とはならず、伊達方・千羽番地。小原子は八軒で一村です(掛川史稿)。その成立も古く、天正17年(1589)には既に一村として成立していたようです(掛川史稿)。 現在も八軒です(2017)。

※東山口村郷土史には「この部落は小村なるも 昔より その名聞こえたり。旧石高四十六石なりと 氏神白山神社は六百年も前に加賀の白神社より勧請した。当時より河村新左エ門が鍵取り役だった。当時の戸数四戸なりしと また永享三年(1431)に慈明寺を建てた 遠江札所観音十九番 子育観音とし霊験あり 子を持つ親心、遠近の人々来参す。」と また「この仏体は佐夜の中山 久延寺 子育観音が仏教宣布の美女と化し この里人に読経を誦せしめ 童男童女愛撫のやさしき心を教えられた話あり」と記されています。

 

 

「掛川道の駅」から国1を北に突っ切り(広域農道)約1.7キロ 西寄りに進み、十字路を北に入ったほうが解りやすいです。

細い道ですが、三百メートルほど行きますと、道横に観音堂があります。

銀杏が入口に在り、子育て観音を象徴するように 銀杏の木から多くの※乳根(ちちね)が出て 迎えてくれます。

境内にはモッコクや泰山木(幹回り1.4m)の古木も植えられています。

銀杏の下に500キロ位はあろうかと思われる石が据えられ、注連縄が張られ、賽銭もあげられています。(写真)
この石は 20年程前、大原子と小原子の境の山を崩す開墾事業が行われた時 掘り出されたもので、この付近では見られない珍しい石ということで、観音堂の境内に置かれています。ただ先記の村史には「昔から伝えられし金鉱も、しばしば調査の人来る」と記され、ロマンも感じさせてくれます。

お堂の中には 子さずけ・安産・子育ての御利益を願う奉納品が供えられています。(写真) 
本尊様は聖観音さまです。両側に不動明王(東)と毘沙門天(西)が脇佛として祀られています。

御厨子の中に祀られていますが、彩色も緻密にほどこされ、かなり古い像と見受けられます。(写真)


この観音三尊形式は遠江三十三カ所札所でも、密教系の札所の多くが 同様の祀り方をしています。

はっきりとした理由は解りません。

通常 本尊様(観音)の左右に控える明王や天部の像を脇立(わきだち)と云い、本尊様(観音)の補佐・強化を役割とします。

毘沙門天は「法華経」によると、観音の化身とされていることが脇立の要素の一つかもしれません。(安藤希章著「神殿大観」)

不動明王が観音様の脇立の理由は、一般に観音は母親にたとえられ、不動明王は父親にたとえられることからでしょうか。仏様ランキングでは、如来→菩薩→明王→天部の順になり、観音菩薩は正法明佛という如来が衆生済度のために、今は菩薩の身でいるのです。いずれにせよ、鎮守の白山社も含め、祭祀形式から密教系の寺院だったことが推測されます。

お堂の中に お勤めに使用している「鉦鈷」(写真)が置かれています。「文久三年癸亥之春(1861) 本所村 榛葉平太夫」と刻されています。

鉦鈷以外にも香炉など近在の人々の信仰による寄進があって維持されてきています。

本尊様の伝説は 由緒に「往古美麗なる一婦人来たりて 吾為に経文を読誦せよ 吾れ妻となり 童男童女を養育せんと 村内の人々之を聞き 盛んに読誦し 忽ちにして学誦し 其の妻たることを乞う 美人曰く 吾一人なれば 多くの人の妻たるを得ず 若し吾を思わば 経文を読誦せよ 吾必ず童男童女を守護せん と云い終わるや その姿なし 之れ佐夜の中山 子育観音の化身ならん 本尊は行基菩薩の作 遠江十九番の札所として 庶人の信仰厚く 子を持つ親 遠近より来集す」(東山口村郷土史)と伝えられ、小夜の中山の子育て観音との関連性を示唆しています。また18番新福寺の伝説とも、どこか共通点があります。

史実によれば、永享3年(1432)創建。元禄15年(1702)再興。60年ほど前までは、茅葺きのお堂だったようです。

お堂の西脇から裏山に登ってみましょう。スロープと70段ほどの階段で 氏神※白山社に着きます。参道脇には矢竹が生えています。社の前に昔は大きな鳥居杉が立っていたようで、名残の株があります。 
社の由緒書には「延文元年(1356)の頃 加賀の国より勧請 天正二年(1574)祠を建立す」とあります。(東山口村郷土史には永禄元年(1558)加賀の国より勧請ときされる) 寺社はほぼ同時期に勧請されますから、ゆうに400年以上は経ているようです。

氏神白山社の後ろの一段高い所に石碑が祀られています。剥離して「山」のみ判読可能です。 横には「嘉永六年(1853)」が読み取れます。

地元の方に尋ねると、これは「大峯山」と云い、東北の山から移したものだとの説明でした。大原子に小字名「大峯」とあり、その場所からと思われます。山岳霊山への信仰はここにも発見できます。

御詠歌「望月や 明らかなるをしるべにて 歩みをはこぶ 人ぞたのもし」 を山本石峰氏は「暗い座敷で浮世の夢を見ていたら、外に十五の月が出て、飛び出して見ると 胸の中が清く、これぞ発菩提心。月は観音のたとえなり。」と解説しています。

喧騒からはなれ ゆったりとした時を過ごす。 子どもの頃 学校から帰って、ランドセルを放り投げ 境内で鬼ごっこに興じた 眼を閉じれば そんな光景が映しだされてくる札所です。

次の20番には、山道を通ればすぐですが、今は通る人もいないため荒れています。

※東山口村郷土:昭和29年解村記念(掛川市への合併)として伊藤儀弥太氏が編者として出版された。

※乳根(ちちね):通常は 土壌が酸欠状態のため、根(気根)を出すことにより、枯れることを免れようとしている。と説明されますが、正確な原因は学会でも出ていないようで、「古い時代の植物の特性を残した特殊な形」かもしれないようです。「垂乳根(たらちね)は母親、親にかかる枕詞

※白山社:白山は越中・加賀・美濃・飛騨の五か国にまたがる 標高2702mの山で、立山・富士山とともに古来より日本三名山とも日本三霊山ともされる信仰の山です。仁寿三年(852)には「白山比咩(ひめ)大神」として史料に登場。養老年間(717~724)泰澄により「白山妙理大菩薩」として白山は開かれたとされています。 山岳信仰の伝播は後世、熊野と白山が二分するほどとなり、天台宗寺院はほとんどが白山社を鎮守として祀つるようになります。全国には三千以上祀られています。遠江札所でも何ヵ寺か鎮守としています。曹洞宗との関りも、道元禅師が著した「碧巌録」の写本時(宋からの帰国前)白山権現が手助けをした。 との伝承から、永平寺は鎮守神として祀り、僧侶(雲水)は白山に参詣登山する習わしが今も続いています。 また、白山権現の本地佛は十一面観音とされ、観音様とのご縁も深いです。(参照:山岳宗教史研究叢書10など)

 

御詠歌集・次第作成

投稿日:2017/10/26 カテゴリー:事務局からのお知らせ


この度「遠江三十三観音霊場保存会」は「遠江三十三所御詠歌集 次第」を作成しました。

お勤めをする次第として活用できるように、「開経偈」⇒「懺悔文」⇒「発菩提心」⇒「三昧耶戒」⇒「各本尊御真言」⇒「般若心経」⇒「各札所御詠歌」⇒「善光寺御詠歌」⇒「十三佛」⇒「廻向文」を集録してあります。(読みやすいよう全て かな にしました。)

「西国観音霊場」と同じ譜調でお唱えします。ぜひ各札所お堂でのお勤めや、巡礼時にご活用ください。

申し込み・お問い合わせは事務局まで(〒436-0061 掛川市水垂1230 真昌寺内 ☎0537-22-3931)

気まぐれな巡礼案内⑯

投稿日:2017/10/24 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第18番 逆川 新福寺

国1千羽インターを降り南進し山鼻の信号を南へ 池下の信号を右折、西に向かい約四百メートルで左側にヤマハモーターパワープロダクツ株式会社。その手前東側の道を南進していくと山裾に方形造りの観音堂に庫裡が続く新福寺が見えてきます。目印(会社)を見過ごすと 迷いやすい札所です。
観音堂に鈴と鰐口が掛けられています。

鰐口には、表面に「貞享元甲子年(1684)八月吉祥日」裏面に「奉禮三十三所 老若男女以助力掛之 遠州佐野郡新福寺村 順礼観世音菩薩 十八番」と刻されています。 当時は新福寺村と云う呼び方をしていたようです。

また、大勢の人々の協力によって作成されたと記されています。

120年後の「掛川誌稿」では「池下村にあるけれども、牛頭に属せり」としています。通常寺院は寺号山号がセットなのですが、ここだけ山号が伝わっていません。 
境内西南側に大正二年山崎茂七夫妻が奉納した、赤い帽子をかぶった弘法大師石像が二体、また南側には六体の地蔵尊が迎えてくれます。

一段高い墓地の一角には一石五輪塔も並べられ、古い歴史を語りかけています。
お堂は年2回の彼岸だけ開けるため、松島十湖撰の奉納額・富田秀甫の俳諧献詠額が鮮明に残されています。(遠江三十三観音霊場巡りと奉額俳句・奉納連歌解説)

此の寺の歴史伝説は、「遠江霊場第十八番新福寺由来」に、「当堂に安置奉る十一面観世音菩薩の由来を按ずるに 往昔屡々祝融に罹り 書類悉く灰燼に属し 由緒詳かならずと雖も 古老の口碑に就き諮すに謂く 人皇第百壱代後花園帝 享徳二癸酉七月の頃 異僧来たり 仏教三世の因果因縁を説示するに及び 人民大に信仰し 該僧をして 此地に留まり 長く村民を教養せんことを冀ふに 僧の云く、我は諸国巡廻の祈願あれば 此所に留り衆人の願を満足せしむる能はす 依って我が日常信仰し負い来る菩薩を諸人の為め 此の地に留む 就て汝等永く信心を忘却せず 現当二世の安楽を祈れと 即ち行基菩薩の御作なる十一面観世音菩薩を賜ふ 依て村民大に歓喜し 信者と疋日謀り 一小堂を建立し菩薩を安置し奉るに及び 近隣衆庶追々傳聞し 信者大に繁殖するに従ひ 後天文五年堂宇を再建する所にして 実に遠江三十三カ所の其の一たり 爾来四百有余年 霊徳昭々として 遠近に洽く群生を利済し給ふ 此を以て毎彼岸に際し 十方信心の男女参拝 陸続群れをなす 曩きに明治三十二年堂宇の修繕を加え稍旧観を改めたるも 今や庫裡の荒廃視るに忍びず 信徒と謀り□々修繕を相加へ漸く竣功したるに付 開帳供養を修行せんとす 然れども当区は少数にして 且つ微力なり 普く十方有縁の信者の喜捨を請ひ 素願を成就せんとす 冀くは信心の施主 各々応分の浄財を喜捨し菩薩の宝前に拝け給はんことを」と、大正十一年九月に開扉特別寄附緒言として書かれています。
札所の御詠歌が謎を生みます。

「はるばると のぼりてみれば さよのやま ふじのたかねに ゆきぞみえける」

昔から様々に言われてきましたが、確定的なことはわかっていません。

小夜の中山と関連する言い伝えは、①久延寺の奥之院説 ②小夜の中山からの寺院移動説 ③新福寺村へ住民転入説等です。

小夜の中山から富士を詠んだ歌はそれほど多くはありません。

富士歴覧記 明応八年五月八日(1499)飛鳥井雅康の 「大かたに ききしはものか みてそしる 名よりも高き ふじのたかねは」。

富士紀行 永享四年九月十日(1432) 大納言飛鳥井雅世の 「君よりも 君をやしたう 今日さらに 又あらわるる 富士のたかねは」。

 

覧富士記 永享四年九月(1432) 足利将軍義教の富士遊覧に従って。尭孝法師の 「名にしをえば ひる越てだに 富士もみず 秋雨くらき さよの中山」 「秋の雨も はるるばかりの ことのはを ふじのねよりも 高くこそみれ」 「あま雲の よそにへだてて ふじのねは さやにもみえず さやの中山」 「富士のねも 面かげばかり ほのぼのと 雪よりしらむ さよの中山」 「それをみる おもかげうすし 富士のねの 雪かあらぬか さよの中山」。 くらいでしょうか。

「小夜の山」と詠まれている歌は見かけません。全て「小夜の中山」です。

「さや」か「さよ」かは、古今集から賀茂真淵に至るまで論は交わされてきました。「佐夜」「小夜」は近世に入ると「小夜」が主流になってきます。

御詠歌が、敢えて「小夜の山」としていることに注目してみますと、幻の寺院「佐夜山寺」が浮かびます。

この寺院の場所については、海老名(あびな)の奥に滝があり、その上に「会下の平(えげのだいら)」があり、その付近とされていますが、地元の人はより高所を云い、確定されていません

また「久延寺」について※「中世佐夜中山考」で著者は「久延寺が何時、誰によって開創されたか、今は諸伝説や口碑が乱れ伝えられて実相は全く不明である。その初めは、海老名の瀑布の下、会下の平に佐夜山寺という精舎があったが、これと何か関係があるであろう。」と記しています。

小夜の中山から富士の見える場所はごく限られ、久延寺付近だけです。

当霊場でも、最近では粟が嶽の観音が日坂常現寺におろし祀られましたし、日坂相伝寺内光善寺は東山から一族が新地に転出した時に持ってきたとも言われます。ただどちらも「元々はここですよ」と解かるようにしてあります。

伝承がないことは、不思議というほかありません。いつの日か明らかになる日が来ることことを期待したいと思います。

山本石峰氏は「遠江三十三カ所ご詠歌 詠歌中和歌の本体」で、この札所の御詠歌について「巡礼の日数重ねて 小夜の長山に来たら、富士の白雪が見えた、見ただけでは雪の味は分からぬ、ここからが一修行 白雪は観音と思え」と訳しています。

 

本尊様の脇佛に地蔵菩薩が祀られています。(写真)尺三寸(40センチ)程の立像です。彩色が繊細にほどこされ、玉眼が入れられた立派な寄木造りです。かなりの時代を経た仏像のように見受けられます。このお地蔵さまにも数多の願いが込められているのでしょう。

本尊様は二重のお厨子に入れられています。ここにも本尊様の移動説が隠されているのかもしれません。また、前回のお開帳に使われた五色の糸が、観音様の手にしっかりと結ばれ、次回への結縁を待っています。

新福寺は2021年 お開帳を迎えます。役員の方は既に計画段階入っているようです。 どのようにすれば地元の方々が観音様に目を向け、将来に観音信仰を続けていけるだろうかと、真剣に考えてくださっています。

花火を大きく上げることより、継続することに焦点を当てるという困難な道を歩もうとしていることに敬意を表したいと思います。

 

※「中世佐夜中山考」 桐田幸昭 昭和46年(1971)刊

 

気まぐれな巡礼案内⑮ ~ちょっと寄り道・豆知識~

投稿日:2017/10/08 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

気まぐれな巡礼案内⑨ 観正寺で 気になる石(写真)について触れましたが、このような石を「ノジュール」と呼び、泥が固まった泥岩や砂が固まった砂岩の地層に見られる ボール状のかたい岩石の事を云い、この近くを通る※掛川層群でも稀に見られるようです。
※掛川層群:450万~180万年前の海底で堆積した砂層と泥層からなる地層で、掛川市を中心に牧之原市西部から菊川市、袋井市北部にかけて分布している。

掛川層群の地層は、西又は南西に20~40度傾いているため、分布の東側に古い地層があり、西側に行くほど新しい地層になります。

掛川層群の地層のほとんどは、深い海にたまった砂層と泥層が繰り返しに重なっている砂泥互層ですが、掛川市街地から袋井市北部にかけては、浅い海にたまった砂層や泥層が分布しています。

掛川層群の地層は、その特徴や火山灰層などにより区分されます。とくに、掛川市には掛川層群の上部層が分布し、それらは下から上に向かって内田層、大日層、土方層という順に重なっています。(ふじのくに地球環境史ミュージアム・掛川層群化石展より)

気まぐれな巡礼案内⑫正法寺で案内しました「通幻木の伝説」のモミですが、島田市博物館入口に川根の「ハリモミ」が展示されています。

樹齢510年 幹回り約4.5メートルです。種類も異なりますし、育つ環境にもより異なると思いますが、参考にはなると思います。(写真)