静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

寺院からのお知らせ

御詠歌集・次第作成

投稿日:2017/10/26 カテゴリー:事務局からのお知らせ


この度「遠江三十三観音霊場保存会」は「遠江三十三所御詠歌集 次第」を作成しました。

お勤めをする次第として活用できるように、「開経偈」⇒「懺悔文」⇒「発菩提心」⇒「三昧耶戒」⇒「各本尊御真言」⇒「般若心経」⇒「各札所御詠歌」⇒「善光寺御詠歌」⇒「十三佛」⇒「廻向文」を集録してあります。(読みやすいよう全て かな にしました。)

「西国観音霊場」と同じ譜調でお唱えします。ぜひ各札所お堂でのお勤めや、巡礼時にご活用ください。

申し込み・お問い合わせは事務局まで(〒436-0061 掛川市水垂1230 真昌寺内 ☎0537-22-3931)

気まぐれな巡礼案内⑯

投稿日:2017/10/24 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第18番 逆川 新福寺

国1千羽インターを降り南進し山鼻の信号を南へ 池下の信号を右折、西に向かい約四百メートルで左側にヤマハモーターパワープロダクツ株式会社。その手前東側の道を南進していくと山裾に方形造りの観音堂に庫裡が続く新福寺が見えてきます。目印(会社)を見過ごすと 迷いやすい札所です。
観音堂に鈴と鰐口が掛けられています。

鰐口には、表面に「貞享元甲子年(1684)八月吉祥日」裏面に「奉禮三十三所 老若男女以助力掛之 遠州佐野郡新福寺村 順礼観世音菩薩 十八番」と刻されています。 当時は新福寺村と云う呼び方をしていたようです。

また、大勢の人々の協力によって作成されたと記されています。

120年後の「掛川誌稿」では「池下村にあるけれども、牛頭に属せり」としています。通常寺院は寺号山号がセットなのですが、ここだけ山号が伝わっていません。 
境内西南側に大正二年山崎茂七夫妻が奉納した、赤い帽子をかぶった弘法大師石像が二体、また南側には六体の地蔵尊が迎えてくれます。

一段高い墓地の一角には一石五輪塔も並べられ、古い歴史を語りかけています。
お堂は年2回の彼岸だけ開けるため、松島十湖撰の奉納額・富田秀甫の俳諧献詠額が鮮明に残されています。(遠江三十三観音霊場巡りと奉額俳句・奉納連歌解説)

此の寺の歴史伝説は、「遠江霊場第十八番新福寺由来」に、「当堂に安置奉る十一面観世音菩薩の由来を按ずるに 往昔屡々祝融に罹り 書類悉く灰燼に属し 由緒詳かならずと雖も 古老の口碑に就き諮すに謂く 人皇第百壱代後花園帝 享徳二癸酉七月の頃 異僧来たり 仏教三世の因果因縁を説示するに及び 人民大に信仰し 該僧をして 此地に留まり 長く村民を教養せんことを冀ふに 僧の云く、我は諸国巡廻の祈願あれば 此所に留り衆人の願を満足せしむる能はす 依って我が日常信仰し負い来る菩薩を諸人の為め 此の地に留む 就て汝等永く信心を忘却せず 現当二世の安楽を祈れと 即ち行基菩薩の御作なる十一面観世音菩薩を賜ふ 依て村民大に歓喜し 信者と疋日謀り 一小堂を建立し菩薩を安置し奉るに及び 近隣衆庶追々傳聞し 信者大に繁殖するに従ひ 後天文五年堂宇を再建する所にして 実に遠江三十三カ所の其の一たり 爾来四百有余年 霊徳昭々として 遠近に洽く群生を利済し給ふ 此を以て毎彼岸に際し 十方信心の男女参拝 陸続群れをなす 曩きに明治三十二年堂宇の修繕を加え稍旧観を改めたるも 今や庫裡の荒廃視るに忍びず 信徒と謀り□々修繕を相加へ漸く竣功したるに付 開帳供養を修行せんとす 然れども当区は少数にして 且つ微力なり 普く十方有縁の信者の喜捨を請ひ 素願を成就せんとす 冀くは信心の施主 各々応分の浄財を喜捨し菩薩の宝前に拝け給はんことを」と、大正十一年九月に開扉特別寄附緒言として書かれています。
札所の御詠歌が謎を生みます。

「はるばると のぼりてみれば さよのやま ふじのたかねに ゆきぞみえける」

昔から様々に言われてきましたが、確定的なことはわかっていません。

小夜の中山と関連する言い伝えは、①久延寺の奥之院説 ②小夜の中山からの寺院移動説 ③新福寺村へ住民転入説等です。

小夜の中山から富士を詠んだ歌はそれほど多くはありません。

富士歴覧記 明応八年五月八日(1499)飛鳥井雅康の 「大かたに ききしはものか みてそしる 名よりも高き ふじのたかねは」。

富士紀行 永享四年九月十日(1432) 大納言飛鳥井雅世の 「君よりも 君をやしたう 今日さらに 又あらわるる 富士のたかねは」。

 

覧富士記 永享四年九月(1432) 足利将軍義教の富士遊覧に従って。尭孝法師の 「名にしをえば ひる越てだに 富士もみず 秋雨くらき さよの中山」 「秋の雨も はるるばかりの ことのはを ふじのねよりも 高くこそみれ」 「あま雲の よそにへだてて ふじのねは さやにもみえず さやの中山」 「富士のねも 面かげばかり ほのぼのと 雪よりしらむ さよの中山」 「それをみる おもかげうすし 富士のねの 雪かあらぬか さよの中山」。 くらいでしょうか。

「小夜の山」と詠まれている歌は見かけません。全て「小夜の中山」です。

「さや」か「さよ」かは、古今集から賀茂真淵に至るまで論は交わされてきました。「佐夜」「小夜」は近世に入ると「小夜」が主流になってきます。

御詠歌が、敢えて「小夜の山」としていることに注目してみますと、幻の寺院「佐夜山寺」が浮かびます。

この寺院の場所については、海老名(あびな)の奥に滝があり、その上に「会下の平(えげのだいら)」があり、その付近とされていますが、地元の人はより高所を云い、確定されていません

また「久延寺」について※「中世佐夜中山考」で著者は「久延寺が何時、誰によって開創されたか、今は諸伝説や口碑が乱れ伝えられて実相は全く不明である。その初めは、海老名の瀑布の下、会下の平に佐夜山寺という精舎があったが、これと何か関係があるであろう。」と記しています。

小夜の中山から富士の見える場所はごく限られ、久延寺付近だけです。

当霊場でも、最近では粟が嶽の観音が日坂常現寺におろし祀られましたし、日坂相伝寺内光善寺は東山から一族が新地に転出した時に持ってきたとも言われます。ただどちらも「元々はここですよ」と解かるようにしてあります。

伝承がないことは、不思議というほかありません。いつの日か明らかになる日が来ることことを期待したいと思います。

山本石峰氏は「遠江三十三カ所ご詠歌 詠歌中和歌の本体」で、この札所の御詠歌について「巡礼の日数重ねて 小夜の長山に来たら、富士の白雪が見えた、見ただけでは雪の味は分からぬ、ここからが一修行 白雪は観音と思え」と訳しています。

 

本尊様の脇佛に地蔵菩薩が祀られています。(写真)尺三寸(40センチ)程の立像です。彩色が繊細にほどこされ、玉眼が入れられた立派な寄木造りです。かなりの時代を経た仏像のように見受けられます。このお地蔵さまにも数多の願いが込められているのでしょう。

本尊様は二重のお厨子に入れられています。ここにも本尊様の移動説が隠されているのかもしれません。また、前回のお開帳に使われた五色の糸が、観音様の手にしっかりと結ばれ、次回への結縁を待っています。

新福寺は2021年 お開帳を迎えます。役員の方は既に計画段階入っているようです。 どのようにすれば地元の方々が観音様に目を向け、将来に観音信仰を続けていけるだろうかと、真剣に考えてくださっています。

花火を大きく上げることより、継続することに焦点を当てるという困難な道を歩もうとしていることに敬意を表したいと思います。

 

※「中世佐夜中山考」 桐田幸昭 昭和46年(1971)刊

 

気まぐれな巡礼案内⑮ ~ちょっと寄り道・豆知識~

投稿日:2017/10/08 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

気まぐれな巡礼案内⑨ 観正寺で 気になる石(写真)について触れましたが、このような石を「ノジュール」と呼び、泥が固まった泥岩や砂が固まった砂岩の地層に見られる ボール状のかたい岩石の事を云い、この近くを通る※掛川層群でも稀に見られるようです。
※掛川層群:450万~180万年前の海底で堆積した砂層と泥層からなる地層で、掛川市を中心に牧之原市西部から菊川市、袋井市北部にかけて分布している。

掛川層群の地層は、西又は南西に20~40度傾いているため、分布の東側に古い地層があり、西側に行くほど新しい地層になります。

掛川層群の地層のほとんどは、深い海にたまった砂層と泥層が繰り返しに重なっている砂泥互層ですが、掛川市街地から袋井市北部にかけては、浅い海にたまった砂層や泥層が分布しています。

掛川層群の地層は、その特徴や火山灰層などにより区分されます。とくに、掛川市には掛川層群の上部層が分布し、それらは下から上に向かって内田層、大日層、土方層という順に重なっています。(ふじのくに地球環境史ミュージアム・掛川層群化石展より)

気まぐれな巡礼案内⑫正法寺で案内しました「通幻木の伝説」のモミですが、島田市博物館入口に川根の「ハリモミ」が展示されています。

樹齢510年 幹回り約4.5メートルです。種類も異なりますし、育つ環境にもより異なると思いますが、参考にはなると思います。(写真)


 

気まぐれな巡礼案内⑭

投稿日:2017/10/01 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

9月に入ると、「月々に 月見る月はおおけれど 月見る月は この月の月」仲秋の名月の句をおもいだします。

彼岸月が重なり、日本人の良さを実感する季節でもあります。

暦の上でも春夏秋冬の四季の移り変わりが突然来るわけではありません。

17日間の移行期を土用と呼び、この土用が明けて立秋・立冬・立春・立夏となります。

中秋は旧暦の8月15日で、この日を方位でとると「真西」、太陽の「陽」に対して月は「陰」、陰の象徴としての月の正位は「西」、旧暦8月15日の月を拝む行事は「五穀結実」を祈り、四季の順調な推移を祈願し感謝する行事であり、お供え物も白色団子・芋・栗等全て丸く、金気西を象徴する物ばかりです。

お隣の韓国でも「仲秋佳節」として、重要な日として祝ってきました。

日本では、風雅なお月見行事として、古来から定着してきた慣わしですが、その意味は中国哲学に裏打ちされたものです。

難しい理論を隠し、秋の満月に手を合わせる姿に、日本人の情緒を感じます。

月の呼称も、新月、二日月、三日月、上弦月、十三夜月、待宵の月、十五夜、満月、十六夜(いざよい)、立待月、居待月、寝待月、更待月、下弦月(二十三夜)~有明月、晦日月まで、様々な呼び方にスーパームーンが追加しました。

 

御詠歌にも 月を詠みこんだ札所が5ヶ寺あります。今回はその一つ、29番正林寺内磯部山です。
正林寺は旧小笠町。県道大東菊川線を南進、磯部の信号を左折(相良大須賀69号線)すれば左側にあり、南側は「塩の道」の塩買い坂があります。

境内を入って行くと、今年(平成29年)落成した荘厳な山門が建ち(写真)
大伽藍の閑静な佇まいの中、観音堂は本堂西側にあります。(写真)
明治29年、磯部山上からこの地に移されました。(磯部山は正林寺の西に数百メートル、信号機の東南)正林寺蔵 正徳3年(1713)の古絵図によれば、磯部山上には観音堂を始め、客殿、別当家(庫裡)、池、弁天堂があり 江戸中期の当地の様子が伺われます。

昭和60年観音霊場保存会発足後、各札所に観音霊場に関する資料要請をされたことがありました。29番札所の資料紹介に、昭和26年(1951)※山本茂三郎(石峰)氏が「遠江三十三所巡礼物語」と題する、故事伝説解説本を正林寺に奉納と記されていました。

ご住職の温かいご理解で、早速コピーをとっていただきました。(写真)
時の住職※田中霊鑑氏(1877~1965)が序文に「予 先に現皇帝即位式の大正三年に 記念に国家安康、五穀豊饒を祈願して、遠江三十三所観音霊場奉納経及御詠歌集を出版して旅行し、大悲の慈眼を讃仰せり。

当時以前、遠江三十三所霊場創設者、真史蹟等甚に不詳にして、史料風土記にも顕著ならず。甚に遺憾なりき、偶に石峰居士 正林寺史を研究せらるる傍ら之れが旧蹟探究を依属せしかば終に稿成りて、此の巡礼夢物語一巻となりて、其の創始起源等を得たるは誠に歓喜に堪へず、依って一言を附して序と為す。

昭和二十六年中秋九月 正林二十六世 霊感叟」と寄せています。

序文に記されています奉納経と御詠歌集は、氏三十代に出されたと思われますが、残存不明です。

本文は①遠江三十三札所縁記 ②遠江巡礼札所夢物語が著され、付録として今川氏、朝比奈氏、掛川城、御詠歌、観音和讃が記され、詳細に調査研究されたことがわかります。札所の草創についての記載では、1番結縁寺で紹介した内容と符合することも多くありました。

昭和62年に出版されました 鈴木偉三郎著「遠江三十三所観音霊場縁起」は正林寺蔵本を書写・加筆して出されたものです。

今後各札所の記載も 折に触れ紹介したいと考えています。

 

ご詠歌「はるばると 登りて見れば 磯部山 小松かきわけ 出る月影」 を石峰氏は「上の句は求道巡礼のありさまを述べ、小松とは垢穢の煩悩を指し、それを押しのけ払いさる観音力を月影に譬えている。」と解釈しています。

昔から西国霊場の御詠歌に比べ、遠江霊場の方が優れている と聞かされていましたが、なかなか奥の深いものだと感心させられます。

今川義忠を供養する寺として建立された正林寺。「寿桂尼」が今川の安寧を願い「霊場」を発願したとするならば、最も縁の深い この寺に何故重きを置かなかったのか、素朴な疑問は残ります。 正林寺開創は永正14年(1517)。

 

※田中霊鑑:正林寺26世住職で28番正法寺住職から請われて、正林寺に晋山、同寺を再興。昭和40年(1965)遷化88歳

※山本茂三郎:旧小笠町河東、晩年石峰を称す。菊川市河城村々史はほぼ氏の調査編集により刊行された。

※正林寺山門:旧山門は菊川市西方の澤崎邸から中内田の小原邸を経て正林寺に建てられていた。