静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

寺院からのお知らせ

気まぐれな巡礼案内㉘ 番外編

投稿日:2021/04/16 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

遠江三十三所観音霊場では、6ケ所の番外の札所が伝えられています。(岡津の善光寺を除く)

昭和48年(1973)に出されました26番札所妙国寺の巡礼帳には

① 番外1番:掛川市天主台 古城山 平和観音

御詠歌:からののに くさむすかばね ふみこえて かえらぬひとぞ なみだなりける

くにのはな いざとむらわん かけがわの ふるしろやまに たかきかんのん

ただたのめ ぐぜいのふねの わたしもり しんにょのつきの てらすかぎりは

のりのみち ふみゆくたびの うれしさは じひのちちはは みちびけばこそ

つみほこり あらいながして かけがわに ぬぎやおさむる たびごろもかな

② 番外2番:森町明治町 福寿観世音

御詠歌:たずねきて ふくじゅのやまの かんぜおん ふかきめぐみに あうぞうれしき

➂ 番外3番:金谷町栄町 浄土宗 法性山 專求院

御詠歌:みほとけの ふかきめぐみの おおいがわ なりわたりゆく ここをのこして

➃ 番外4番:大東町中方 丸山聖観世音菩薩

御詠歌:はるあきの はなももみじも おうみがや ほとけのじひぞ いつもまるやま

➄ 番外5番:大須賀町西大渕 天台宗 千手山 普門寺

御詠歌:とおとうみ なだのあけぼの さながらに じひのかいうん いともとうとし

⑥ 番外6番:袋井市豊沢 法多山 尊永寺

御詠歌:やくよけの ねがいもふかき はったさん とうときじひを ながくまもりて

と記され、巡礼者がお参りするように設定されていますが、あまり知られてきませんでした。今回寄り道して、番外でわかる範囲を案内させていただきます。

私は上記の巡礼帳のほかに、番外を詳しく掲載した御詠歌帳や御朱印帳を見たことがありません。この昭和48年版巡礼帳を参考にして調査したと思われます金谷高校郷土史研究部の「産土」(平成3年9月18日発行、郷研誌17号)がありますが、34番(番外1番平和観音)と37番(番外4番丸山観音)は調査されていません。

番外2番には「三十五番札所」、同4番には「遠江第参拾七番」(平成6年)の石塔が建てられていますから、番外として正式認定か札所の了解があったと思われます。その時期については番外1番観音像が明治40年建立、2番も同じく明治40年(1907)建立、4番は昭和6年(1931)開眼供養とはっきりしていますから、同時期に番外を決めたとすれば4番を開眼した(昭和6年)頃と考えるのが妥当と思われます。ところが番外3番の專求院観音堂(明治41年7月竣功落成)正面上の御詠歌額(大正2年秋彼岸に横須賀の念仏講が全札所に奉納)に「遠江順礼第三十六番札所」と書かれて掲げられています。また番外札所が当時の掛川・森・金谷・大東・大須賀・袋井と分散配慮されているのも偶然とは考えにくく、今少し調査の必要があろうかと思います。

「※掛川城の挑戦」で小杉達氏は、明治から昭和初期の巡礼者の盛況を「明治の時代は賑やかな行事で信仰とレクレーションを兼ねたものであった。他面、農業の視察の機会でもあった。札所の所在地では参拝者に施行をし、又接待にも意を注いだ。」と掛川市誌を引用し、また「榛原郡誌」「周智郡誌」も引用し春秋の彼岸の巡礼者の多をさを記しています。

番外を設けることは〃三十三所の札所とゆかりの深い寺院〃との捉え方が定説ですが、遠江霊場の場合は、今少し柔軟に〃お参りのついでに、ここにも立ち寄るといいですね〃くらいの捉え方も必要のようです。昨今流行りの「御朱印」ですが、番外でいただくことのできる寺院は、番外3番專求院、番外5番普門寺、番外6番法多山は可能です。

番外1番、2番の銅像や高平山の大日如来坐像、大頭竜神社の銅鳥居等が戦時中の供出をギリギリのところで逃れ残されてきたこと、必死に守った人がいたこと、また多くの梵鐘や金属製品が供出によって失われたこと等、思いは交錯します。平和な時代を大切にしたいですね。

※掛川城の挑戦:榛村純一・若林淳之・著 平成6年3月発行

 

番外①番札所 古城山 平和観音

   (写真は平和観音像と移転時の石碑)

掛川市富士見台霊園・森林果樹公園入口の東側に祀られています。もともと掛川城天主台跡地に祀られていましたので、ご詠歌は旧地で詠まれています。平成元年現在地に移転された時の石碑(写真)に経緯が記されています。

「この像は日露戦争(1904~1905)において遠州地方の戦没将兵、1519柱の冥福を祈るため明治四十年(1907)※大日本報徳社社長※岡田良一郎(1839~1915)先生が掛川報徳婦人会と共に遠州地方をはじめ全国各地の篤志家よりの寄付金と青年、婦人、老人から拠出された古鏡、鉅、銭貨など銅製品をもとに、東京美術学校(現東京芸術大学)教授※竹内久一先生に依頼して鋳造されたもので、明治時代の古典的造形理念が清新な姿でよみがえった秀逸な作品である。像の高さは3.09mで5.09mの台座の上に立っている。このたび、掛川城の天守閣を建設するにあたって緑豊かなこの地に移転安置したものである。慈愛に満ちた、なさけ深い姿で、遠く富士山を眺め掛川の街を見守っている。平成元年九月」と記されています。また建立50周年の記念大法要が※河井弥八・※鈴木理一郎祭主のもと、※高階瓏仙禅師を導師に迎え昭和32年(1957)に盛大に執行された時の石碑も建てられています。正面の鐘には昭和63年満100歳の※杉本良氏の施主名が刻まれています。

掛川城建設による移転問題が出たころ(天守閣は平成6年1994年復元)宗教施設の捉え方の議論がなされたことを思い出されます。現地に立ち、慈愛に満ちた観音像を見上げ、来し方を想うとき、いつまでも平和な社会でありますようにと願わずにはいられません。又芸術的価値の高い作品でもありますから、大切に守り続けていただきたいものです。  お参りされるときは「古城山」は外してお唱え下さい。

 

※報徳:二宮尊徳の教えとその思想。「徳を以て徳に報いる。」物や人そのものにそなわっている「持ちまえ、取りえ、長所、美点、価値、恵み、おかげ」などを「徳」として、その「徳」をうまく使っ

て社会に役立てていくことを「報徳」と呼びました。(二宮尊徳資料館)

「掛川に根づいた報徳運動と歴史」 報徳運動は、江戸時代末期から、各地の困窮の村を救い、農民生活の安定化に貢献した実学的な手法として全国に浸透しました。特に静岡県には、明治30年

代、420社におよぶ「報徳社」が結成され、とりわけ、その活動が盛んだったのは、掛川を中心とした遠州地方でした。二宮尊徳から直接教えを受けた岡田佐平治、良一郎親子が中心となって繰り

広げられた掛川藩内の農村復興の努力は、やがて明治8年(1875)の遠江国報徳社創設に結実しました。また岡田良一郎は資産金貸付所を明治7年(1874)に創設し、それが掛川信用組合

を経て、日本で最古の掛川信用金庫となりました。また、産業に関する協同組合的思想は、産業組合となり農業協同組合の原点となっています。一方、明治10年(1877)岡田良一郎が開いた

私塾、冀北学舎は、明治17年まだ続き、県内外の、152人の逸材を輩出しました。岡田良一郎の息子である岡田良平、一木喜徳郎も、冀北学舎で学び、後に文部大臣や宮内大臣を務めました。大日

本報徳社の事業は、岡田家四代で終戦を迎え挫折しかかりましたが、GHQのインポーデン新聞課長の高評価などでよみがえり、戦後の復興を担いました。そして、第五代社長河井彌八(元参議院

議長)、第六代社長戸塚九一郎(元労働、建設大臣)と続き、第七代社長神谷慶治(元東京大学農学部長)を経て、第八代社長榛村純一(元掛川市長)に引き継がれ平成24年公益社団法人に移行

し、現在第九代社長鷲山恭彦 平成30年(2018)に引き継がれています。(公益社団法人 大日本報徳社より)

 

※岡田良一郎:天保10年(1839)~大正4年(1915)。掛川市倉真出身。雅号淡山。1875年・・遠江報徳社設立。1879年・・掛川信用金庫(現島田掛川信用金庫)設立。1880年・・現掛川西高等学

校初代校長。1911年・・大日本報徳社改称。 二宮尊徳の弟子。寺内内閣時文部大臣岡田良平(1864~1934)の父。明治23年衆議院議員。

※竹内久一:(1857~1916)。明治期を代表する彫刻家。代表作には「神武天皇立像」(1890)「伎芸天立像」(1893)日蓮上人銅像」(1894)「破風装飾木彫原型毘首羯磨・伎芸天

」(重文)等多数あり、当観音像も代表作の一つに数えられています。(明治時代の木彫の基礎を築いた人・・榛村純一談)


※河井弥八:(1877~1960)。掛川市出身。昭和2年(1927)~昭和11年(1936)・・宮内省侍従次長。昭和13年(1938)・・中央林業協力会副社長・大日本報徳社副社長・「食

料増産運動を推進・小笠山砂防工事等の指導。昭和28年(1953)・・参議院議長。昭和31年(1956)・・大日本報徳社社長。平成24年に掛川市上張に「河井弥八記念館」が設立され「サツマイ

モのやはちさん」という紙芝居も作成されています。

※鈴木理一郎:(1887~1980)掛川市伊達方。初代掛川市長。太平洋戦争中、掛川城天主台戦勝観音銅像を軍需品とするため再三軍や県の強制供出の勧告を受けながら、がんとして応じなかった。「日清・日露戦争以来の遺族のことを想えば私が守ってあげなければ」と遂に供出もせず守りとおしたというエピソードも残している。(東山口小史・平成10年発行)(平和観音は戦前は戦勝観音で戦後平和観音と改名された。)

※高階瓏仙:(たかしなろうせん)明治9年(1876)~昭和43年(1968)。道号は玉堂、別号は玉山人。総持寺第12世貫主・永平寺第71世貫主(1941)。曹洞宗第18世管長(1944)。全日本

仏教会長(1957)。地元関連では森町祟信寺住職(1905)、可睡斎住職(1931)。著書に「般若心経講義」「禅の要諦」「舌頭禅昧」など。

※杉本 良:(すぎもとりょう)(1887~1988)掛川市日坂。朝鮮総督府官僚・台湾総督府官僚。金谷町長。静岡市助役。著書「小夜中山御林百年」(1979)ほか。

杉本良さんとは祖父、父、私と三代に亘りご縁をいただきました。当山(永宝寺)入口のイチョウも良さんから「この種から20年待てば実がつくから」と教えられ20年後についた実をご仏壇に供えたこ

と、高野山から自坊に戻り、初めてご自宅に伺い、読経後に経の意味を教えていただいたことなど、多くを学ばせていただきました。

 (写真は百歳の記念に書いていただいたものです。)良氏は「百歳の春」と書いて、「みけたの春」と詠んでいました。

 

 

番外②番札所 森町 福寿観音

    (写真は福寿観音像とご詠歌碑)

森町旧周智農林高校(現在は体育館)の裏に森幼稚園があり、その裏山「庵山(あんやま)」に祀られています。昭和49年森町指定文化財になり、「庵山の観音像と鈴木藤三郎」として説明版が設置されています。それによれば【名称・・・延寿観世音(後に福寿観世音)建立・・・明治四十年(1907)九月建立 青銅製。鋳造模倣・・・奈良薬師寺聖観世音。彫刻・・・東京美術学校 伝※大熊氏廣の指導。鋳造場所・・・東京小名木川鈴木鉄工部。施主・・・鈴木藤三郎。像丈・・・百八十二センチ。安置場所・・・「黎明日本の開拓者」鈴木五郎著によれば、三体を鋳造したとされるが「鈴木藤三郎傳」では四体。東京小名木川鈴木邸の庭の浮島(一体、所在不明)。鎌倉市の別邸(一体、所在不明)。台湾製糖頭工場(一体現存)。静岡県周智郡森町庵山(一体現存)と記され、また鈴木藤三郎の略年表も記され、「安政二年(1855)古着商太田文四郎・ちえの末子として森本町に生まる。安政六年(1859)仲町菓子商鈴木伊三郎・やすの養嗣子となる。明治七年(1874)家督を継いで藤三郎と改名。茶貿易に従事。明治十年(1877)報徳の教えを活かしつつ、氷砂糖の製法研究を始める。明治十六年(1883)偶然にも氷砂糖の製法を発見。明治十七年(1884)福川泉吾の協力を得て森町明治町に工場を新設。明治二十一年(1888)南葛飾郡砂村に製糖工場を建設。明治三十三年(1900)台湾製糖株式会社を創立し、初代社長に就任。明治三十四年(1901)観音像を鋳造。明治三十五年(1902)台湾頭に観音像安置。明治三十六年(1903)衆議院議員に当選。明治三十九年(1906)福川泉吾とともに私立周智農林学校を創立。明治四十年(1907)日本醤油醸造株式会社を創立し社長に就任。明治四十一年(1908)栃木県今市町の報徳二宮神社に報徳文庫を奉納。同年(1908)サッカリン使用問題により辞職、私財を賠償に充てる。大正二年(1913)逝去。享年五十八歳。(墓所・森町随松院)。平成二十五年(2013)顕彰百年記念講演。以下略」と記されています。福寿観音にはこのような謂れがありました。写真の様に立派な観音像がお立ちでいらっしゃいます。

なおこの山には昔「心月庵」という※黄檗宗の寺院があり、延宝八年(1680)に※鉄牛和尚の開創、明治三十八年(1905)富士郡岩松村梅岡寺に合寺されました。「庵山」とはこの寺院の由来からよばれています。

   
(写真は庵山の由来、観音像と鈴木藤三郎の掲示、右は遺芳塔) 大正五年建立の石碑のご詠歌には「福寿」と刻されています。当所「延寿観音」が、大正三年鈴九家から福川家に譲渡されたのを機に「福寿観音」と変更したのではないかと推測されます。ここには観音様以外にも日清戦争以降の戦役で亡くなられた680余名が祀られている「遺芳塔」が建てられており、森町が一望でき、四季を彩る花も楽しめる景勝の地です。

※黄檗宗:(おうばくしゅう)1654年中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川四代将軍家綱公の尊崇を得て、1661年に開創された萬福寺を大本山とする禅宗。本山は京都府宇治市五ケ庄三番割34

※鉄牛和尚:(1628~1700) 鉄牛道機、号は自牧子。大慈普応国師。隠元に参禅して、萬福寺造営に尽くす。京都洛西葉室山浄住寺を中興。心月庵は浄住寺に関係する寺院。

※奈良薬師寺聖観音:白鳳時代の国宝・・・薬師寺の聖観世音菩薩はとても美しいお姿として知られています。薄い衣の襞から足が透けて見える彫刻法は、インドのグプタ王朝の影響を受けたものと云われま

す。右手を静かに下げ、柔らかく挙げられた左手、胸を張り足を揃て凛と立つ姿は白鳳の貴公子といえましょう。(東院堂の仏像より)

※大熊氏廣:(1856~1934)日本初の西洋式銅像とされる靖国神社の大村益次郎像で知られる彫刻家。代表作には浅草寺の瓜生岩子像・東京国立博物館のライオン像・佐原市諏訪公園の伊能忠敬像等

 

番外➂番札所 島田市金谷栄町 法性山 専求院(せんぐういん)聖観音菩薩

島田市金谷金谷河原2063-1 金谷小学校東100mの旧国1沿い北側の浄土宗寺院です。

   (写真は観音堂)

天正七年(1579)※方譽西向上人 阿弥陀堂の草庵を創る。その後慶長八年(1603)※尊蓮社三譽上人が法性山 專求院と改める。

江戸期三度の火災【享保15年(1730)安永元年(1772)文久3年(1863)】にあいながら守り抜かれた金剛界五仏の五智如来(島田市文化財)が祀られています。山号も大日如来の「法界体性智」からつけられたと思われます。どのような経緯で五智如来をお迎えされたのか興味を惹かれますが、今回は観音様に焦点を当てることを優先します。

境内西側の門をくぐりますと左手に観音堂があります。現お堂は明治41年に日露戦役記念として、観音講積み立てと寄付金により再建されたことが堂内の額装に記して残されています。今少し詳しく見てみますと、観音講の積み立額が613円8銭とあり、寄付金が664円45銭合計1277円53銭、現在に換算しますと(令和の初任給や物価も勘案し、当時の1円は現在約2万円相当)約2500万円ほどになりましょうか。ただこのうち、寺院と住職、世話人方の寄付金の頑張りが見え、ここにも寺院の並々ならぬ意気込みが感じられます。この立派な観音堂の内陣には、中央にお厨子に入った聖観世音菩薩,その東西には木彫三十三観音像が祀られ、格天井には見事な絵が描かれています。このことについて「かなやの史話・民話・伝説見て歩く」(平成17年発行・山田好行編集)には「明治四十年、十七世遠誉知奄上人が観音堂を建立しました。本尊の聖観音立像は※泰澄大師の作といわれ、比叡山に納めてあったもので、※法然上人が※桜が池に立ち寄り、内田の里に※応声教院を開くに際して、叡山から三尊の霊仏を移され、さらに三誉上人が專求院にその一体を移されたものと云われます。本尊の観世音菩薩は雷除けの観音といって、その昔泰澄上人が近江の※岩間寺で、雷神を封じたということで、人々にあがめられたと伝えています。(金谷郷土史研究会発行中町宮崎町誌より)と記し、観音堂について、二級建築士でもある編者は「遠江三十三番札所番外三番観音堂は純然たる※観音堂造りである。」とし、「堂内には※遠江三十三番札所の全観音像と番外三番の観音像を祀っている」また堂内格天井の絵について「※西照寺十一世住職木村龍湫(鉄棒和尚)の筆によると言われる格天井の絵画には四季の草花が描かれており見事です。」と記しています。

    (写真は観音堂本尊のお厨子と三十三観音像・念仏講奉納額)

泰澄大師作と伝えられています聖観音菩薩像、二尺程の立像です。台座と足元には金箔に塗られた状態が残されていますが、膝から上は黒く、長い歴史の痕跡を伺い知ることができます。左手に持つ蓮華は蕾で未敷蓮華といい、観音の慈悲によってこれから華が開くことから、成仏することを意味しています。また右手は通常どんな願いも受け止めるとして、掌を前に向けた施願印や蓮華を持つ左手に右手を添える姿が多いですが、ここの本尊様は大指(親指)と頭指(人差し指)を丸めてつけ合わしています。普段は秘仏として拝顔は叶いませんが、大切に後世に残していただきたい仏像です。

※方誉西向上人:專求院になる前の成仏寺を草創(天正7年1579)

※泰澄大師:682年~767年 奈良時代の高僧。白山開山。平泉寺建立。

※法然:長承2年(1133)~建歴2年(1212) 浄土宗の開祖

※桜が池:遠江古蹟図絵 37(神谷昌志著者)の解説によれば《蛇身となった法然の師皇圓阿闍梨》 城東郡佐倉村は今の御前崎市佐倉。同所に有る「桜ヶ池」は信仰の池として広く知られており、毎年秋の彼岸の中日とその翌日に行われるお櫃納の神事は遠州七不思議の一つに揚げられ無形民俗文化財に指定されている。大正期の紀行作家 田中貢太郎は「静岡遊行記」の中に【皇圓は法然の師匠で「扶桑略記」の著者である。皇圓は彌勒の出現を待つには、蛇身となって長寿を保たなくてはならぬと言って近衛院の久寿三年秋七月、勅許を得てこの池に来たり、宮司源信弘にそのことを告げたが、帰る時桜が池の水を携えて往き、臨終の際それを掌に注ぐと風雨が起こり、皇圓はそれによってこの池に来て入定化身した。承安五年の春になって他力浄土門を開いた法然は、智恵ありて生死の出て難き事を知り、道心有りて彌勒に会わんことを願うといえども、由なき畜趣に生を感じたもうは誠に御いたわしき事なりと言って、この桜が池に来て、阿弥陀経を読み、称名念仏していると、大龍があらわれて法然を見て涙を流した。法然は池水に棲ませたまうにはさぞ御不自由の御事もおわさんと問えば、ただ鱗に小虫のたかること苦しけれと言った。そこで法然が手にした水晶の念珠をもってさすり、師徒のいつくしみあれば、元の人体にてまみえさせたまえと言へば龍身変わりて阿闍梨の姿になった。そこで二人はこしかたゆくすえの物語をしたが、それが果てると阿闍梨はまた龍身となって池の中に沈んでしまった。】お櫃納は法然上人が師を供養するため赤飯を詰めた桧づくりのお櫃を池に納めたのが起源と言われています。

※応声教院:松風山 応声院 菊川市中内田字辻前にある浄土宗知恩院末。本尊は宗祖円光大師護持の破顔微笑の阿弥陀如来。寺記によれば「当院は往昔真言宗にして松風山天岳院と称し、文徳天皇の勅願所      として、比叡山座主慈覚大師斎衝二年(855)草創。その後治承元(1177)年圓光大師ここにきて浄土宗に改宗し、護国本寺応声院と称する。大師念仏会を修し山頂に皇圓阿闍梨供養の五輪石塔を築 く。里人法然塚という。その後二十九世の時横須賀に撰要寺をはじめる。その後本末の紛議で知恩院末となる。慶安二年(1649)朱印地十二石四斗。(小笠郡誌)

※尊蓮社三誉上人:尊蓮社三誉上人直往祖哲大和尚 天正16年(1588)開基。開山上人。応声教院三十世住職。

※岩間寺:岩間山正法寺 滋賀県大津市にある西國第十二番札所

※観音堂造り:典型的なお堂の建築方法という意味でしょうか。

※遠江三十三観音:三十三体の木彫観音像が祀られていますが、遠江霊場の像なのかは不明(西国三十三観音像ではないでしょうか)

※西照寺:島田市金谷中町にある、浄土真宗大谷派の寺院。

 

番外➃番札所 掛川市中方 丸山聖観世音菩薩

掛川市小貫の交差点を南に少し下り、右折して近江が谷池に向かう。池の西側駐車場入り口の横に狭い石段があり、気を付けて登りますと、そこが丸山観音です。小さな祠があり、中に観音菩薩と虚空蔵菩薩の二体の素朴な像が祀られています。(写真)登り口には石塔が立ちここが番外だとわかります。台風で社ごと飛ばされたため、社・仏像共に傷みが激しく、場所も少し移動したようです。縁者の話では、池で亡くなられた方々の供養のため池側を向いて祀られているそうです。

    
【写真は左から、登り口の石標・祠・厨子内左正観音右虚空蔵・厨子内勧請札・版木(丸山正観世音・遠州小笠郡城東村中方)(個人蔵)】

二体の菩薩像、台風の被害で傷みが進んでいますが、制作者名も記され、勧請供養の木札も祀られています。木札には「遠江第三十七番 丸山観世音菩薩 昭和六年三月十七日 開眼供養焉 ※東谷山七世現董 奉行 天嶺禅童〇二才〇衲」と記されています。

また観音菩薩像と虚空蔵菩薩像には、虚空蔵像の裏側に「施主 佐束村中方 ※鈴木長右ェ門 掛川 早瀬○○作」と墨書され、観音像の台座裏側には同じく「施主 佐束村 鈴木長右ェ門 掛川 早瀬○○作」と彫られています。登り口の石塔には表側に「遠江第参拾七番 丸山正観世音菩薩」と彫られ、裏側には「念願主 平成六年九月吉日 鈴木喜治郎」と彫られ、逆修のため朱字であることから存命中に建てられたことがわかります。鈴木さんのお宅には観音像の版木が残され、御影(お姿)として刷り配札したことがあったようです。

「丸山観音」は昭和に入ってから鈴木長右ェ門氏が個人的な信仰心で祀りだしたとしますと、なぜ番外札所にしたのか、順番の設定はどのように誰がしたのか等、多くの疑問が残ります。また同じ地区内の鈴木偉三郎氏が昭和62年に91歳にして発行された「遠江三十三所観世音霊場縁起」に「丸山正観音」について一行も触れていない事も腑に落ちません。(丸山観音勧請の年、偉三郎氏30代半ばで地元の耕地整理組合の書記をつとめ、地域の動向は把握していたと思われます。) 今少し調査してみたいと思います。

※東谷山:中方に有る曹洞宗寺院「宗禅寺」のこと。現住職は十世。

※鈴木長右エ門:(法多山諸尊堂と正面額には佐束村中方鈴木長右ェ門とあり)

 

番外➄番 大須賀 西大渕 千手山 普門寺

掛川市西大渕6429

小笠山を越えて南に向かいます。西大谷の池を過ぎなお南進しますと左手にスズキ自動車の工場があり、その西側になります。普門寺を入っていきますと広い境内に諸堂が立ち並び、春4月には藤が見ごろを迎えます。

聖観世音菩薩を本尊とする※天台宗寺院で、※遠州33観音霊場の12番札所になっています。

   (写真は左から境内・本堂の観音銅・案内看板)

普門寺について寺伝では「慶雲元年(704)文武天皇の勅命により、行基菩薩が千手の嶺に建てた。※法相宗として13代まで続いたが、14代の時から天台宗に変わった。その後、治承元年(1177)平重盛が高倉天皇の病気平癒と海上安全、船中無難を祈って寺の場所を現在地に移し、諸堂を再建するとともに、最澄作といわれる聖観世音菩薩を安置した。戦国時代(永禄~元亀)に兵乱に遭って諸堂全て焼失し、天正3年(1575)中興豪憲が帰山し再興。初代横須賀城主大須賀康高により諸堂が再建された。寺領も徳川氏より朱印高37石を贈られ朱印寺となった。」と説明されています。(小笠郡誌に同様文有り) 海上安全祈願のため弁財天(治承元年安芸の宮嶋から勧請)・九頭竜王(弘化年中信州戸隠山より勧請)・波切不動(僧文覚海上危難の際、船板で刻した不動明王像で、※文覚危難を免れ、この浜に着船し、報恩のため当寺に納めたとされる。)など水に拘わる諸尊が祀られています。また山内に西国三十三所観音堂宇があり、これは中興4世尊永法印が宝永元年に第1番を勧請し、その後寛政年中に其の外を施主志願によって勧請し、三十三所を揃えたとされています。     (写真は西國三十三所の1番とそのお堂、33番と御堂・三十三所案内板)

既説「岡津の善光寺(気まぐれな巡礼案内⑬」でふれましたが、善光寺如来も祀られていますから、巡礼者はここにもお参りします。(明治17年信濃の善光寺から一光三尊阿弥陀如来像を分霊。101人がお迎えした時の様子を見事に絵にした大きな額が善光寺堂内西側に飾られ、一見の価値があります。)

(写真は善光寺堂です。御朱印等はここで受けていただけます。)

 

※天台宗:延暦25年(806)伝教大師最澄によって開かれた宗派。比叡山延暦寺を総本山とし、全国に3337の寺院をかかえる。(平成28年現在)

※遠州33霊場:昭和59年に「遠州の地に仏國土を」と発足した観音霊場。湖西市から御前崎市にかけて7市1町に点在する。5ケ寺が遠江霊場と兼ねています。

※法相宗:飛鳥から奈良時代に開かれた奈良仏教で南都六宗の一つ。本山は奈良の薬師寺と興福寺。別名「唯識宗」とも言われる。南都六宗とは法相宗・律宗・三論宗・成実宗・俱舎宗・華厳宗で現在まで続いているのは法相宗・律宗・華厳宗です。

※文覚:保延5年(1139)~建仁3年(1203)平安末から鎌倉初期にかけての武士であり、真言僧。俗名遠藤盛遠(もりとお)。源頼朝・後白河法皇の庇護を受け、京都高雄の神護寺、東寺、高野山の大塔、東大寺、江の島弁天等の再興や勧請をした。「遠藤盛遠」としては近松門左衛門の平家女護島をはじめ、多くの浄瑠璃、長唄、小説、戯曲などに登場します。

 

さて今回は番外の6ケ寺をまとめて案内先にしてみました。番外参拝者は絶えて久しく、すでに忘れかけていたというのが現況でした。札所寺も「知りませんでした」というありさまで、今更という思いもありましたが、問い合わせをいただいたことを契機に調査してみますと、明治、大正、昭和初期の時代背景とともに、当時の人々が観音様に何を願い、求め、どう生きようとしていたのかが浮かび上がってきます。時代の渦に翻弄されながらもひたすら慈悲にすがり、自身と家族の平安を求める姿は、現代も、そしてこれからも変わることはないのでしょう。

未だ解明できていません「丸山観音」の存在は、私たちに何を問うているのか気がかりです。丸山正観音を祀り始め、法多山諸尊堂(旧観音堂)の正面に額を奉納した「鈴木長右ェ門」とはいかなる人物であったのか、興味は尽きませんが、何かわかりましたら更新します。

なお番外7番法多山はあまりに有名ですので、敢えて案内するまでもなく、今回は掲載しませんでした。いつの日か「北谷寺(遠江第5番札所)」の案内でふれることとします。

 (2021/4/16)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第18番札所お開帳

投稿日:2021/04/11 カテゴリー:事務局からのお知らせ

令和3年4月4日  予定通り33年目のお開帳が執り行われました。 法要・御詠歌とも滞りなく進行し、コロナ禍のため余興等は中止しましたが、マスク着用などルールを守り、観音堂建て替えに拘わりました役員方をはじめ、地元の方々等多くの人たちが33年に一度の機会を求め訪れていました。霊場保存会としまして、お開帳の慶事をお祝いするとともに、今日を迎えるまでの奉仕に対しねぎらいを申し上げます。

       次回は2055年です。

境内南側にはこの札所の歴史や言い伝えが記された看板が設置されました。また鰐口も新しくなりました。日常の穏やかさが戻りましたら是非ゆっくりとお参りしてください。