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寺院からのお知らせ

気まぐれな巡礼案内⑦

投稿日:2017/02/21 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

30番盛岩院内青木寺です。ホームページの案内と若干異なる所もあります。

※「岩滑らかに 水清き郷」として修行僧が名付けたとされる岩滑、この地域には※「名僧横穴群」や「松ヶ谷横穴・清水ヶ谷横穴群」があり、遥か1500年昔から人々が暮らしてきたことを物語っています。 菊川、稲荷部川の合流部と佐束川に挟まれた丘 その中、東南の先端部「観音平」に青木寺はありました。宝暦14年(1764)大破に付き再建されましたが、明治6年(1873)盛岩院境内に移されました。

本尊様については、実に立派な御厨子に祀られています。昭和55年(1980)専門家によって鑑定され、「中国宋代美術の影響を受け、鎌倉後期の様式の流れを汲んで作られたもの。その製作は南北朝(1336~1392)の頃と推定される。また内蔵されている観音像は明和元年(1764)作成されたと記されている。」との結果が出ています。(岩滑の昔を偲ぶより) 胎内佛は観音堂が再建された時に祀られたことになります。

初めて30番札所をお訪ねした時、「ここの本尊様は変わっていて、お腹ごもりの観音様と云い、千手観音様の腹中に聖観音様を安置するお姿」だと老婆が話してくださいました。また、この観音様のあらたかなことは、昔話に「青木前の道を馬に乗って通る時、お堂の前まで来ると必ず馬が暴れ出し、乗っている人は馬から落とされてしまう。あまり何度も何度も続くので村人は、観音様を背中向きにしてしまわれた。その後、誰も落馬する者はいなくなった。という語り伝えがあるほどです。」とも話してくださり、観音様と田舎の人々との素朴なかかわりをほほえましく感じたものでした。

〇御詠歌

行き見よと 誰いそぐらん磯山の 松の葉超ゆる 沖つ白浪

山本石峰氏は「遠江三十三ケ所御詠歌 詠歌中和歌ノ本体」で「この歌の註解は面倒だ、地理的に当時上平川一体(帯)は池沼地で池村の字名はその名残なり。稲荷部青木山より眺めたる景色を詠みたるなり。

而して白浪の枕詞を結句に置きたる作者の技巧深く味わう可し。生住死滅の原理を白浪の二字にて説破せり。扨 誰人も死後を考えず齷齪(あくせく)するが、左様に急ぐもので無いよ。先現在世の務めを篤く

考へて未来世の因を作って果を願い玉へ。磯山とは人間最後の死に際なり。因果の道理で死変わり生変わりするのは、沖つ白浪の寄せては返し、返しては寄せる如くして先々※阿耨多羅三藐三菩提を成就してから

ソロソロお出掛けだ、急ぎ玉ふな。」ときしています。

寺院の境内には地元人々の信仰の様子が凝縮されています。ここ盛岩院にも多くの石仏、記念碑、供養塔が立ち並び、観音信仰のみならず、多様な信仰がうかがえます。その中で一際大きな西国巡礼供養塔には大正10年(1921)9月5日に出立して10月9日に帰村したと刻されています。軌道が有ったとはいえ、生涯に一度の長旅であったでしょう。またその横には他ではあまり見かけない「大峯山上役行者」と刻された石塔が立ち、同行11人と記されています。観音供養塔と同年のところから、掛川市本郷「長福寺の鐘」伝説を知っていて西国巡礼のついでに大峯山に登拝したのかもしれません。等と広々とした「盛岩院」の境内をゆっくり散策していますと、様々な想像が湧いてきます。

※「修行僧から命名された地名」S59・8/19安藤保兵記

※名僧横穴群・松ヶ谷横穴・清水ヶ谷横穴群;横穴は古墳時代(6世紀後半~7世紀初)に南斜面に掘られ、内部に死者を安置し、副葬品を納め、入口を川原石で塞ぐ形式の墓で平成2年・平成6年本格調査が行われ、馬具・玉類・須恵器等多くの貴重な副葬品が出土しました。

※阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい):阿耨多羅は無上、三藐三菩提は正等正覚と訳す。佛果円満の一切智智を指す。正しい悟り。

IMG_3015観音仏を左にとっていくと青木寺の有った「観音平」に出ます。

IMG_3004広い境内、正面が観音堂、岡の向こう側が「観音平」

IMG_3007立派な御厨子

IMG_3010鰐口には「遠江州笠原庄岩滑郷真福寺 時長禄戊寅二年三月吉日 願主聰學大工十郎」と刻されています。

2017・2/21公開