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寺院からのお知らせ

気まぐれな巡礼案内㉔

投稿日:2018/11/08 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第26番 杖操山(じょうそうざん)妙国寺 本尊十一面観世音菩薩

島田市神谷城(かみやしろ)1609

御詠歌  はるばると 参りて拝む観世音 罪深くとも 救いたまえや

旧国1(県道415号線)を東進し前々回案内しました「常現寺」の横を静岡方面に進み、小夜の中山トンネルを越え島田市(旧金谷町)に入ります。トンネルから500m程先を右折南進します。国1バイパス下を通り抜けますと、現在473号線国1バイパス取り付け道路の工事中(2021年完成予定)の先が菊川の宿ですが、なお南進し約1Kmで第25番松島岩松寺入口となります。そのまま進みJRを超え、右手保育園の先を右折し水神橋を渡りますと100mほど先を写真のようにJRのガードをくぐり(マイクロバス不可)、左手に向かい26番妙国寺です。以前は「砂の灸」の大きな看板が南北に走るJRの車窓から見られました。

  
「掛川誌稿」では「西深谷村」の項に「菊川の南にありて、川流に傍へる村なり。其の西岸にあるを西深谷と呼び、東岸にあるを東深谷と呼ぶ。両山に挟まれて、深谷にある故に村名とす。東深谷は榛原郡に属せり。」と記され、また「妙國寺」として「曹洞、金谷駅、※洞善院末、公文名と云う所に有り。本尊十一面観音、二十六番札所」と記されています。

 

〇 妙国寺は昭和48年(1973)に開帳をしています。その開帳記念として「遠江三十三ケ所 観音札所 御詠歌」の冊子(写真)を出しています。その中で26番妙国寺の歴史について「二十六番妙国寺付近は応仁の乱より戦国時代に入る頃には人々の移動激しく、街道筋から少しはずれた場所で隠棲する人が住みついたものと考えられる。(500年前・1470年ごろ) 妙国寺も凡そ460年くらい前(1510年、室町時代後期)に、現在地より300m程登った「寺の跡(てらがいと)」と言われる場所に普門殿という観音堂が創られ、後に寺となる。(356年前、1616年元和二丙辰年。妙国寺過去帳による。)その後の256年前、1716年享保元丙申年5月14日示寂の金谷洞善院9世実参黙真大和尚が開山となり、現在地に移して普門山明国寺とす、文化のころに妙光山妙国寺とし、明治末期頃に現在の杖操山妙国寺となる。」と序文に記しています。
昭和63年(1988)浜名湖出版発行(発行人 瀧 茂)の「心の旅路を歩く」と題する遠江三十三観音霊場巡拝の案内誌が発行されています。 表紙の写真は妙国寺の人たちの巡礼風景を撮影したものです。当時 寺の管理者は相良(現牧之原市)心月寺の小柳良孝住職(1994・平成6年寂)で「砂の灸」も小柳住職が施療していました。一方熱心な観音信者で巡礼の先達をされた方が、妙国寺の隣家の落合義男氏(2011・平成23年没)です。彼の功績は普段札所を守り、多くの人たちを巡礼に導いたことだけでなく、巡礼道の旧道調査を行い、昭和63年には「古人の歩いた遠江三十三観音巡礼」地図発行(写真)や道標の掘り起こし等多岐にわたり、巡礼者の顔として晩年まで一筋に尽くされました。 現在は空き家となってしまっていますが、いつの時代も熱心な信者がいたからこそ札所も守り続けられてきたのでしょう。篤信者の力に負うところ大とともに「つないで行く」ことの大切さも教えられました。

 
※洞善院:島田市金谷100番地にある曹洞宗の古刹。金龍山洞善院。天正15年(1587)哉翁宋咄(さいおうそうとつ)(天龍円鑑禅師)を開山とする。なお開山哉翁宋咄和尚は今川の家臣朝比奈氏の出。

石高10石 現在の本堂は文化2年(1805)再建。「金龍山」の扁額は日坂常現寺同様 月舟宗胡筆。当寺はかつては11の末寺を持っていた。24番観音寺も同院の末寺でした。

〇「※菊石」について

境内にはいると、いくつかの丸い石が置かれ、目に付きます。

  
厳密には「菊石」ではありませんが、一般的に「菊石」と呼び慣わしています。菊石については「掛川誌稿」でも若干触れています。「菊川に出つ、其の石平圓にして厚からす、又其質脆くして摧け易し、大鹿村田間の路蒡に二枚あり、太鼓岩と呼ぶ、又川の中に三枚あり、径ニ尺余、三尺には足らす、同村宝盛寺にあるは車輪の如し是又菊川より出つ、渓流奔激の間にして破裂して、菊及亀甲の文をなすもの也、或は菊川の名此石あるより起るとも云へり」と記され、昔からこの地域の珍石・名石として認められていたようです。

「菊川」の名前の由来ともなりましたこの石について少し詳しく見てみましょう。

   写真は左から「夜泣き石」「亀甲石」「亀石?」「子生まれ石」

妙国寺に置かれている「菊石」は「馬蹄石」といわれるもので、大きくはこの「馬蹄石」の中に「菊石」「亀甲石」「亀石」「子生まれ石」「玉ねぎ石」などが含まれると思われます。また「亀甲石」」と「亀石」は同じで違いはありません。「菊石」「亀甲石」「馬蹄石」は菊川市富田上・掛川市東山小鮒川・島田市佐夜鹿などの菊川上流部などで多く産出し、「子生まれ石」は牧之原市西萩間の萩間川支流の崖が主産地で繭型のものも見られ、近くの※大興寺歴代住職の墓石にもなっています。

① 菊石や亀甲石はどのようにしてできたのでしょうか。

泥質の地層内に石灰分(炭酸カルシウム)が集まった部分ができると、その部分が硬い泥灰岩となって、ノジュール(塊)になります。➡その塊に割れ目ができる。➡割れ目に方解石(純粋な炭酸カルシュー

ム)が沈積され、方解石脈ができる。➡浸食作用が働き、地表へ現れて雨水があたると、方解石脈との部分が早く溶解されて、菊花(亀甲)状の模様ができる。 このようにして亀甲石はできるのですが、「菊

石」のように円盤状の形と放射同心円状の模様が、どうしてできたのかは不思議というほかありません。地層の圧縮が関係しているのでしょうか。

②地層は

これらの石が産出する地層は、古第三紀層(白亜紀の次で約6600万年~2303万年前)の三笠層群です。ただ「子生まれ石」は第三紀鮮新世(約500万年~258万年前)の掛川層群堀之内層という比較的新しい

地層で、割れ目や方解石脈もありません。(①②共に※氏家宏氏報告書の大庭正八氏書簡と菊川駅設置の菊石調査から)

 

※菊石:  写真は既記「掛川誌稿」の宝盛寺にあり、車輪の如しと記された菊石です。島田市佐夜鹿の公会堂敷地内に置かれ、鎌倉後期鬼神伝説にまつわる、上杉景定卿  と※白菊姫伝説発祥の「菊石」で直径約110㎝厚さ25㎝。この石は桜が渕(白菊姫が投身した渕)から引き揚げられ、姫の菩提のために宝盛寺に納め供養され、明治中期まで祀られてきました。昭和20年代に「夜泣き石」の場所に移されましたが〃伝説発祥の地に置くべし〃と平成15年から現在地佐夜鹿公民館敷地内に置かれています。(伝説の白菊姫は観音菩薩の化身により救われる)

※菊石伝説:今からおよそ七百年前の鎌倉後期、深山渓谷の菊川の里に鬼神が棲み、住民を苦しめた。そこで追手として遣わされたのが上杉景定卿。愛宕の庄司という長者の家に滞在するのだが、長者には一人娘の白菊姫がいた。景定卿はその美しさにひかれ、いつしか懇ろな仲になる。さて鬼神を退治した景定卿、いよいよ都へ帰る日となり、別れが忍びがたい白菊姫に観音菩薩像を形見として渡す。季節が移り、姫が身重になっていることを長者夫婦が知ることになる。問い詰められ、思い余った姫は、菊川の桜が渕に身を投げた。が不思議なことに沈んだはずの姫の身が再び浮き上がってくる。やがて気が付くとわが身が助かり、目の前には一人の老僧。この老僧こそ観音菩薩の化身、姫に都に行くよう勧めて立ち去る。一方姫の姿が見えぬ夫婦は、もしかして身投げかと嘆き、せめて身柄なりともと網を入れて引き揚げると菊花模様の石がかかった。夫婦は姫の菩提のため宝盛寺に納め、供養した。(2002年6月30日静岡新聞 石は語るより)

※氏家宏:(1931~2006)琉球大学名誉教授・日本古生物学会・日本地質学会  「中部日本の相良ー掛川堆積盆地の地質」(1962)・「静岡県西部、三笠層群の質構造」(1980)など、この地域で早くから調査研究され、産出される化石研究の先駆者。郷土の地質学者大庭正八氏は氏家氏に師事し、その影響を多く受けた。なお大庭正八氏は地質学より東海道の鉄道建設に関する研究やオット機関車の考証などその分野での造詣の深さで知られるが、「菊石」についての書簡の中で、御前崎の「風食礫」(静岡県文化財)にも匹敵する文化財であると述べ、菊石の散逸に警鐘を鳴らし、貴重な文化財を守るべき為政者の認識の低さを嘆いています。

※大興寺:牧之原市西萩間にある曹洞宗の古刹で龍門山大興寺。室町期総持寺八世大徹宗令禅師の開山。「子生まれ石」を歴代住職の墓石として、大きなものは1mを超す。ほとんどが繭形をしている。近くには「子生まれ温泉」があります。

  
 

〇御詠歌

はるばると 参りておがむ観世音 罪深くとも 救いたまえや

山本石峰氏は「※五濁の身と生まれ、煩悩に苦しむこの覇絆(きはん)は自力では解けぬ、是非お助けください。罪は深からんも※弘誓(ぐぜい)の願力で他力本願」と記しています。

※五濁(ごじょく):劫・見・煩悩・衆生・命の五つの濁りをいう。劫濁は時代(末世)に生じる天災や社会悪等悪世のこと。見濁は思想の濁りで。煩悩濁は衆生が煩悩に悩まされ、悪徳が世にはびこること。衆生濁は人の資質が心身ともに堕落し、低下すること。命濁は人間の知能生命が発達しなくなること。

※弘誓(ぐぜい):観音様があらゆる衆生を救って、彼岸に渡そうとする広大な誓願。

 

今回の案内では、観音様を縁として境内に置かれています馬蹄石に着目してみました。。なぜこの地域から産出されるのかは謎というほかありません。巡礼の途中にちょっと寄り道をして石巡りをするのも楽しいと思います

昭和40~50年代に山を崩し茶畑への開墾事業が進められ、土中から多くの馬蹄石が産出しましたが、そのほとんどが散逸してしまいました。小さなものは個人所有として家に飾られ、大きなものは庭石に置かれ歳月の中で分解し無くなっています。文化財として、又貴重な遺産としての見地からの保存がおろそかにされたからです。境内の石も、近在の庭に置かれた石も、何処で産出したのかが確定できなくなってしまい推測にならざるを得ません。

 

菊川の流れに沿ったこの地域に以前から気になっていることがあります。それは、西深谷、東深谷,石神、上倉沢、下倉沢、友田、吉沢から潮海寺に至るまで、薬師如来と牛頭天王の祇園信仰が広い範囲に残され、薬師信仰に基づいて村づくりを進めたのかと思えるほどです。潮海寺の信仰圏と云えばそれまでなのですが、薬師如来には脇侍佛として、日光菩薩・月光菩薩が控え、四天王が守り、十二神将が護法善神として守っています。これらを村民氏族に当てはめ、薬師曼荼羅を作り上げるという構図があったのではないか、という夢のような推測です。そう思わされるほどこの地域には氏神に「天王社」「津島社」が祀られています。村づくりが仏の世界観に基づいて行われたとすれば大変興味深いことです。

奇しくも本日11月8日は下倉沢の石沢家一統が祀る摩利支天の祭日です。(8日は薬師如来の縁日です)この氏族はかつては石神地区に住して四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)を氏神として祀っていました。其の後上倉沢に移動し、棚田百選にも選ばれている「千框(せんがまち)」を開発します(1000枚を超える棚田)。この頃何らかの事情によって氏神を摩利支天に変えています。その後下倉沢に移動し現在に至っています。今ではこの一統が千框を作りあげたことすら忘れられています。何故猪に跨り、光と速さを象徴する摩利支天に変わったのか問うてみたいのですが・・・。まもなく2019年平成最後の年 亥歳を迎えます。