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寺院からのお知らせ

気まぐれな巡礼案内⑳

投稿日:2018/05/03 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第22番 天王山 観泉寺内長福寺 掛川市東山1219 本尊 千手観音  鎮守 白山妙理権現

今年(平成30年)は例年になく季節の移ろいが早いようです。三月末には桜も散り、四月半ば新茶の摘採が始まり、お茶を基幹産業とするこの地域では五月二日の八十八夜頃まで忙殺される日々が続きます。

世界農業遺産に認定(2013年)され、茶草場農法の要となっている東山に茶摘みが始まったころ訪れてみました。

     
日坂から粟が岳に向かって行けば要所に看板があります。粟が岳の東に位置し 三角の曲輪風の寺の段に山門と塀に囲まれ要塞のようにお寺は建っています。

22番観泉寺から眺める粟が岳は濃緑の茶文字が一段と鮮明に映えます。京都の東山との文字縁により、大文字をヒントに造られたのでしょうか。いつの世も人は象徴的なものを作り出し、様々な思いを投影しようとするのでしょうか。

粟が岳に目を奪われがちですが、寺の東側には茶園がアーチ状に広がり、西側には村の家並みが見渡される素晴らしい眺めの場所に寺院はあります。

現在の本堂は平成五年に建て替えられたもので、翌六年四月落慶式が行われ、落慶法要には本堂額の揮毫者※余語翠巌(よごすいがん)老師を招き 記念講演には※青山俊董老師が来山し、檀徒のみならず、近在から多くの方々が訪れました。 私も講演をお聞きし、感銘を受けたことを昨日のように思い出します。また、住職になられた西 俊芳師は夫の死後 寺院を護るため70歳になって出家、若い修行尼僧とともに苦行され住職となられた方で 寺と地元とのかかわりを大切にして、活発な布教活動をなさっていました。後代を継がれた現御住職も清僧の禅家として寺院を守っておられます。※余語翠巌(よごすいがん):(1912~1996)神奈川県南足柄市大雄町の大雄山最乗寺前山主 著書に 「自己をならふというは」「禅の十戒」など多数。

※青山俊董(あおやましゅんどう):(1933~)名古屋市千種区 愛知専門尼僧堂堂長(昭和51~) 仏教伝道文化賞(2006) 曹洞宗の僧階「大教師」に尼僧として初就任 著書に「茶禅閑話-茶の湯十二話」「泥があるから、花は咲く」など多数。

寺院も時代の動静に無頓着でいられるわけではありません、特に檀徒を抱える※滅罪寺院はことさらです。近年の三十年余を見ても、村の過疎化、少子高齢化、寺院離れなど深刻な問題を抱えています。長福寺と観泉寺のわかりにくい歴史も同様です。

観泉寺については 明治19年(1886)2月に提出された「寺籍財産明細帳」に遠江國 佐野郡日坂宿常現寺末 東山村字アラヤ六十八番地 ※平僧地 観泉寺。

開創として「確乎たる古記なく 由緒詳ならずと雖も姑く本寺の旧記によれば 当寺草創は大永七年(1527)四月にして 開山は本寺第二世宗梁なり 伝え聞く、村内一旧家あり 杉山吉左エ門と云う その祖先深く仏法を崇めし 私に小堂を構え 一体の観音大士を奉して常に信す 大士霊験あり 漸々信徒を増し 遂に之を一寺に興し 爾来当国に西国霊場を擬し 所謂順礼札所なるものを創する事あり 人能く大士の霊感を知り当寺本尊は即第二十二番観音薩埵なり 然れども其時代人物考ふべからず 寛延四年(1751)正月中 当時の住僧信徒と謀り今の堂宇を建営し尋ねて現在所有の田圃を購求し稍々維持の方法を得たりという。」と記され、この寺が個人の持ち堂から一寺院になった経緯をっ伝えています。

また観音の霊験があらたかであることや、遠江三十三所への参画にも触れています。寺禄を受けていないため、寺院の維持方法の手立てを模索してきた様子もわかります。

しかし「掛川誌稿」(文化二年~文政)(1805~)の東山村の項には下村の天王山長福寺と深川寺の二ケ寺のみが記され、観泉寺名が無いこと、観音の霊験あらたかな話は下村の長福寺のことと思われ判別がむつかしいことなどの矛盾点もみられます。

また延享四年(1747)の「東山村明細帳」には「千手観音堂一ヶ所 弐間に弐間 宮殿(お厨子)二尺四寸に弐尺一寸 略 是は当村二十二番観音堂に札納候所に前々貞享四卯年(1688)迄は 此観音堂札納候所に同年九月(1688)より当村の観泉寺へ子細在之 札納候」とあり、一方昭和44年に発行された「東山郷土誌」には「長福寺は本村最古の寺院なりしが如く その創立は遠く足利将軍時代にありしと雖も、寛文中に至りて観泉寺に合したれば、大正二年(1913)の現在は下組深泉寺、上組観泉寺の二寺」 また、長福寺について「天王山長福寺と称し、西奥側竹下にありき、其の創立は遠く 永政年間頃(永正1504~1521の誤)真言宗に属し境内に遠江二十二番札所あり、※後百五十一年を経 寛文六年(1666)に至りて本堂を寺の段に移して観泉寺と称したりしも、二十二番観音堂のみは依然其の境内にあり 享保卯年(1723)の頃までは彼岸巡礼毎年ここに参拝ありしが、堂宇大いに廃頽 其の後百四十余年を経、明治維新に至り堂宇亦朽絶 其の宮殿と寺号のみを残す、村内協議の上 明治十三年(1880)八月 大士(観音)を観泉寺に移し、爾来同寺の本尊と公称するに至り 今や寺跡は白畑となり、更に当時の跡を留めるにすぎぬ」と記し、また観泉寺については「寛文六年(1666)長福寺本堂をここに移し、寺号天王山をそのまま襲用 天王山観泉寺と称せり、日坂常現寺の末寺にして曹洞宗に属す。」と記されています。

※滅罪寺院:葬儀や法事を主とする寺院を観光・祈祷寺院から見た呼び方

※平僧地:中世末期から近世初期にかけて曹洞宗寺院は法系による縦の線と地縁関係による横の線とを織り交ぜた巧妙な江戸幕府の宗教政策によって近世封建社会に組み入れられた。大本山・中本寺・小本寺・  平僧地等と寺格が決められ、普通の寺院は法地、平僧地は最下位の寺格で、正式ではない僧侶(嗣法を持たない僧や尼僧)などが住した小院や庵をいう。なお観泉寺は「明治三十六年(1903)檀徒より維持金三百余円を拠出して法地起立となれり」とあり、平僧地から法地になったことが記されている。現在曹洞宗は大本山・格地・法地・准法地と寺格の序列は変わっている。

※1515年は永正十二年となり、長福寺開創年となるか。

 

上記などから、江戸期から明治期にかけて様々な動静があったであろうことが推察されます。どれが史実を伝えているのか確定は出来かねますが、長福寺の位置が明確なことや、明治13年観音を観泉寺に移したとする「東山郷土誌」の信憑性が高いと思われます。また長福寺の過去帳が天保年間迄しっかり記載され、その後全く記載されていないことを考えると、観泉寺に本堂を移した後も檀家は明治維新まで区別して扱われたことが考えられます。 観音堂も巡礼者は旧長福寺にお参りしてきた(明治二年発行の當国順礼札所御詠歌には二十二番ちやうふくじ とのみ記されている。)が、維持管理は観泉寺で行われたのでしょう。明治13年以降は観泉寺に本尊様としてお迎えするということで完全に合併されたとみるべきでしょう。

 

山門の脇から本堂の段に入りますと、寺壁と思われたところが、※三十三観音石像と※四十九院石像の長いお堂(高さ三尺90センチ・横十五間27メートル)であることに気づきます。

本堂の南から西南に観音石像、東南から東に四十九院が並びます。これは南方観音浄土 東方弥勒浄土に合致し、現当二世(現在と未来)安楽を意味しています。過去・現在・未来は仏様では釈迦・観音・彌勒で表します。曹洞宗寺院は釈迦如来を本尊とします。ここに観音・彌勒を祀ることにより三世に迷う全を救済することを示しているのです。

 
※三十三観音石像と四十九院石像:明治19年提出の「寺籍財産明細帳」によれば、「観音菩薩は三十三躰石像 御丈壱尺弐寸。四九本石塔 方四寸五歩 丈壱尺弐寸」として「嘉永元年(1848)八月中 当時住僧 物宗 遠近同志と謀り以て之を新造す。」と記されています。

※四十九院:平安時代後半になると、釈尊入滅から500年(正法)が過ぎ、正しい修行が行われないため悟りが開けない1000年の時代(像法)も過ぎ、教えだけが残る末法の時代に入るのが1052年(永正七年)とされる説が信じられていました。この末法思想が様々な新興宗教を生む下地になるのですが、弥勒菩薩(慈氏)が56億7000万年後に兜率天(とそつてん)からこの世に降り立ち龍華樹(りゅうげじゅ)の下で悟りを得て仏となり、三度に渡って教えを説き、過去に釈迦如来の救いから漏れた魂を救済するという信仰が平安時代に盛んになり、経典を塚に埋める埋経(まいきょう)も功徳によ  り彌勒の法会に列する為であり、また死後弥勒浄土に転生して弥勒菩薩とともに過ごし、ともに下生(げしょう)したいと願う弥勒菩薩(慈氏)未來佛への信仰も盛んになりました。その後は阿弥陀如来による極楽往生の信仰に徐々に変わって行くことになります。高野山の弘法大師入定説も弥勒信仰によります。 四十九院はこの兜率天(弥勒浄土)にあるとされる49の宮殿のことで、本来は一つ一つの院に種子(梵字)と尊名がありますが、院名のみ記しておきます。「恒説華厳院・覆護衆生院・念仏三昧院・修習慈悲院・鎮國方等院・小欲知足院・地蔵十輪院・精進修行院・恒修菩薩院・展明十悪院・灌頂道場院・常行説因院・法華三昧院・求聞持蔵院・彌勒法相院・金剛吉祥院・平等忍辱院・守護國土院・般若不断院・彼担三昧院・常念七佛院・常念常楽院・多聞天王院・常念普賢院・常念不動院・三説真実院・如来密蔵院・説法利他院・金剛修法院・恒念観音院・梵釈四王院・施薬悲田院・念観文殊院・造像図畫院・安養浄土院・檀度利益院・観虚空蔵院・唯學傳法院・理観薬師院・供養三宝院・不二浄名院・常行律儀院・理正天王院・因明修学院・招提救護院・常念総持院・伴行衆生院・労他修福院・常行如意院」の四十九になります。観泉寺の四十九院の種子は全て阿字に統一されています。

 

御詠歌「おしなべて 佛あらたと 聞くときは もと木うら木も 南無観世音」

山本石峰氏は「弘誓の観音力は、ありがたいことと承って巡礼に出かけました。元木末木とは現世来世ともまで 成仏するように観音様にお任せ申します。」と記されています。

 

「西国三十三所」は今年開創1300年です。718年徳道上人(長谷寺開基)が閻魔様から33の宝印と起請文を授かり、観音の霊場参りのご利益を説き広めた(西國順礼縁起)年から数えます。その後平安時代に花山法皇(968~1008)が摂津国の中山寺から宝印を探し出し、熊野から三十三の観音霊場を巡拝し修行をしたのが現在の西國順礼の始まりとされています。

古くから観音様を通して日本人は「慈悲」を大切な考え方としてきました。慈悲とは他人の苦しみや悲しみに共感することであり、人々のために努力を惜しまない心である。大災害などで たとえ自分は無事だったとしても、被害を受けた人々の苦しみや悲しみを自分のこととして受け止め、他者のために努力する(哲学者内山節)。この心があり続ける限り、観音様も日本人の心に生き続けるのです。本尊千手観音様の千の手・千の眼は無限を意味し、決して見逃すことなく救おうとしてくださっています。

茶工場(天王山)から粟が岳を見る。