静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

気まぐれな巡礼案内㉘ 番外編

投稿日:2021/04/16 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

遠江三十三所観音霊場では、6ケ所の番外の札所が伝えられています。(岡津の善光寺を除く)

昭和48年(1973)に出されました26番札所妙国寺の巡礼帳には

① 番外1番:掛川市天主台 古城山 平和観音

御詠歌:からののに くさむすかばね ふみこえて かえらぬひとぞ なみだなりける

くにのはな いざとむらわん かけがわの ふるしろやまに たかきかんのん

ただたのめ ぐぜいのふねの わたしもり しんにょのつきの てらすかぎりは

のりのみち ふみゆくたびの うれしさは じひのちちはは みちびけばこそ

つみほこり あらいながして かけがわに ぬぎやおさむる たびごろもかな

② 番外2番:森町明治町 福寿観世音

御詠歌:たずねきて ふくじゅのやまの かんぜおん ふかきめぐみに あうぞうれしき

➂ 番外3番:金谷町栄町 浄土宗 法性山 專求院

御詠歌:みほとけの ふかきめぐみの おおいがわ なりわたりゆく ここをのこして

➃ 番外4番:大東町中方 丸山聖観世音菩薩

御詠歌:はるあきの はなももみじも おうみがや ほとけのじひぞ いつもまるやま

➄ 番外5番:大須賀町西大渕 天台宗 千手山 普門寺

御詠歌:とおとうみ なだのあけぼの さながらに じひのかいうん いともとうとし

⑥ 番外6番:袋井市豊沢 法多山 尊永寺

御詠歌:やくよけの ねがいもふかき はったさん とうときじひを ながくまもりて

と記され、巡礼者がお参りするように設定されていますが、あまり知られてきませんでした。今回寄り道して、番外でわかる範囲を案内させていただきます。

私は上記の巡礼帳のほかに、番外を詳しく掲載した御詠歌帳や御朱印帳を見たことがありません。この昭和48年版巡礼帳を参考にして調査したと思われます金谷高校郷土史研究部の「産土」(平成3年9月18日発行、郷研誌17号)がありますが、34番(番外1番平和観音)と37番(番外4番丸山観音)は調査されていません。

番外2番には「三十五番札所」、同4番には「遠江第参拾七番」(平成6年)の石塔が建てられていますから、番外として正式認定か札所の了解があったと思われます。その時期については番外1番観音像が明治40年建立、2番も同じく明治40年(1907)建立、4番は昭和6年(1931)開眼供養とはっきりしていますから、同時期に番外を決めたとすれば4番を開眼した(昭和6年)頃と考えるのが妥当と思われます。ところが番外3番の專求院観音堂(明治41年7月竣功落成)正面上の御詠歌額(大正2年秋彼岸に横須賀の念仏講が全札所に奉納)に「遠江順礼第三十六番札所」と書かれて掲げられています。また番外札所が当時の掛川・森・金谷・大東・大須賀・袋井と分散配慮されているのも偶然とは考えにくく、今少し調査の必要があろうかと思います。

「※掛川城の挑戦」で小杉達氏は、明治から昭和初期の巡礼者の盛況を「明治の時代は賑やかな行事で信仰とレクレーションを兼ねたものであった。他面、農業の視察の機会でもあった。札所の所在地では参拝者に施行をし、又接待にも意を注いだ。」と掛川市誌を引用し、また「榛原郡誌」「周智郡誌」も引用し春秋の彼岸の巡礼者の多をさを記しています。

番外を設けることは〃三十三所の札所とゆかりの深い寺院〃との捉え方が定説ですが、遠江霊場の場合は、今少し柔軟に〃お参りのついでに、ここにも立ち寄るといいですね〃くらいの捉え方も必要のようです。昨今流行りの「御朱印」ですが、番外でいただくことのできる寺院は、番外3番專求院、番外5番普門寺、番外6番法多山は可能です。

番外1番、2番の銅像や高平山の大日如来坐像、大頭竜神社の銅鳥居等が戦時中の供出をギリギリのところで逃れ残されてきたこと、必死に守った人がいたこと、また多くの梵鐘や金属製品が供出によって失われたこと等、思いは交錯します。平和な時代を大切にしたいですね。

※掛川城の挑戦:榛村純一・若林淳之・著 平成6年3月発行

 

番外①番札所 古城山 平和観音

   (写真は平和観音像と移転時の石碑)

掛川市富士見台霊園・森林果樹公園入口の東側に祀られています。もともと掛川城天主台跡地に祀られていましたので、ご詠歌は旧地で詠まれています。平成元年現在地に移転された時の石碑(写真)に経緯が記されています。

「この像は日露戦争(1904~1905)において遠州地方の戦没将兵、1519柱の冥福を祈るため明治四十年(1907)※大日本報徳社社長※岡田良一郎(1839~1915)先生が掛川報徳婦人会と共に遠州地方をはじめ全国各地の篤志家よりの寄付金と青年、婦人、老人から拠出された古鏡、鉅、銭貨など銅製品をもとに、東京美術学校(現東京芸術大学)教授※竹内久一先生に依頼して鋳造されたもので、明治時代の古典的造形理念が清新な姿でよみがえった秀逸な作品である。像の高さは3.09mで5.09mの台座の上に立っている。このたび、掛川城の天守閣を建設するにあたって緑豊かなこの地に移転安置したものである。慈愛に満ちた、なさけ深い姿で、遠く富士山を眺め掛川の街を見守っている。平成元年九月」と記されています。また建立50周年の記念大法要が※河井弥八・※鈴木理一郎祭主のもと、※高階瓏仙禅師を導師に迎え昭和32年(1957)に盛大に執行された時の石碑も建てられています。正面の鐘には昭和63年満100歳の※杉本良氏の施主名が刻まれています。

掛川城建設による移転問題が出たころ(天守閣は平成6年1994年復元)宗教施設の捉え方の議論がなされたことを思い出されます。現地に立ち、慈愛に満ちた観音像を見上げ、来し方を想うとき、いつまでも平和な社会でありますようにと願わずにはいられません。又芸術的価値の高い作品でもありますから、大切に守り続けていただきたいものです。  お参りされるときは「古城山」は外してお唱え下さい。

 

※報徳:二宮尊徳の教えとその思想。「徳を以て徳に報いる。」物や人そのものにそなわっている「持ちまえ、取りえ、長所、美点、価値、恵み、おかげ」などを「徳」として、その「徳」をうまく使っ

て社会に役立てていくことを「報徳」と呼びました。(二宮尊徳資料館)

「掛川に根づいた報徳運動と歴史」 報徳運動は、江戸時代末期から、各地の困窮の村を救い、農民生活の安定化に貢献した実学的な手法として全国に浸透しました。特に静岡県には、明治30年

代、420社におよぶ「報徳社」が結成され、とりわけ、その活動が盛んだったのは、掛川を中心とした遠州地方でした。二宮尊徳から直接教えを受けた岡田佐平治、良一郎親子が中心となって繰り

広げられた掛川藩内の農村復興の努力は、やがて明治8年(1875)の遠江国報徳社創設に結実しました。また岡田良一郎は資産金貸付所を明治7年(1874)に創設し、それが掛川信用組合

を経て、日本で最古の掛川信用金庫となりました。また、産業に関する協同組合的思想は、産業組合となり農業協同組合の原点となっています。一方、明治10年(1877)岡田良一郎が開いた

私塾、冀北学舎は、明治17年まだ続き、県内外の、152人の逸材を輩出しました。岡田良一郎の息子である岡田良平、一木喜徳郎も、冀北学舎で学び、後に文部大臣や宮内大臣を務めました。大日

本報徳社の事業は、岡田家四代で終戦を迎え挫折しかかりましたが、GHQのインポーデン新聞課長の高評価などでよみがえり、戦後の復興を担いました。そして、第五代社長河井彌八(元参議院

議長)、第六代社長戸塚九一郎(元労働、建設大臣)と続き、第七代社長神谷慶治(元東京大学農学部長)を経て、第八代社長榛村純一(元掛川市長)に引き継がれ平成24年公益社団法人に移行

し、現在第九代社長鷲山恭彦 平成30年(2018)に引き継がれています。(公益社団法人 大日本報徳社より)

 

※岡田良一郎:天保10年(1839)~大正4年(1915)。掛川市倉真出身。雅号淡山。1875年・・遠江報徳社設立。1879年・・掛川信用金庫(現島田掛川信用金庫)設立。1880年・・現掛川西高等学

校初代校長。1911年・・大日本報徳社改称。 二宮尊徳の弟子。寺内内閣時文部大臣岡田良平(1864~1934)の父。明治23年衆議院議員。

※竹内久一:(1857~1916)。明治期を代表する彫刻家。代表作には「神武天皇立像」(1890)「伎芸天立像」(1893)日蓮上人銅像」(1894)「破風装飾木彫原型毘首羯磨・伎芸天

」(重文)等多数あり、当観音像も代表作の一つに数えられています。(明治時代の木彫の基礎を築いた人・・榛村純一談)


※河井弥八:(1877~1960)。掛川市出身。昭和2年(1927)~昭和11年(1936)・・宮内省侍従次長。昭和13年(1938)・・中央林業協力会副社長・大日本報徳社副社長・「食

料増産運動を推進・小笠山砂防工事等の指導。昭和28年(1953)・・参議院議長。昭和31年(1956)・・大日本報徳社社長。平成24年に掛川市上張に「河井弥八記念館」が設立され「サツマイ

モのやはちさん」という紙芝居も作成されています。

※鈴木理一郎:(1887~1980)掛川市伊達方。初代掛川市長。太平洋戦争中、掛川城天主台戦勝観音銅像を軍需品とするため再三軍や県の強制供出の勧告を受けながら、がんとして応じなかった。「日清・日露戦争以来の遺族のことを想えば私が守ってあげなければ」と遂に供出もせず守りとおしたというエピソードも残している。(東山口小史・平成10年発行)(平和観音は戦前は戦勝観音で戦後平和観音と改名された。)

※高階瓏仙:(たかしなろうせん)明治9年(1876)~昭和43年(1968)。道号は玉堂、別号は玉山人。総持寺第12世貫主・永平寺第71世貫主(1941)。曹洞宗第18世管長(1944)。全日本

仏教会長(1957)。地元関連では森町祟信寺住職(1905)、可睡斎住職(1931)。著書に「般若心経講義」「禅の要諦」「舌頭禅昧」など。

※杉本 良:(すぎもとりょう)(1887~1988)掛川市日坂。朝鮮総督府官僚・台湾総督府官僚。金谷町長。静岡市助役。著書「小夜中山御林百年」(1979)ほか。

杉本良さんとは祖父、父、私と三代に亘りご縁をいただきました。当山(永宝寺)入口のイチョウも良さんから「この種から20年待てば実がつくから」と教えられ20年後についた実をご仏壇に供えたこ

と、高野山から自坊に戻り、初めてご自宅に伺い、読経後に経の意味を教えていただいたことなど、多くを学ばせていただきました。

 (写真は百歳の記念に書いていただいたものです。)良氏は「百歳の春」と書いて、「みけたの春」と詠んでいました。

 

 

番外②番札所 森町 福寿観音

    (写真は福寿観音像とご詠歌碑)

森町旧周智農林高校(現在は体育館)の裏に森幼稚園があり、その裏山「庵山(あんやま)」に祀られています。昭和49年森町指定文化財になり、「庵山の観音像と鈴木藤三郎」として説明版が設置されています。それによれば【名称・・・延寿観世音(後に福寿観世音)建立・・・明治四十年(1907)九月建立 青銅製。鋳造模倣・・・奈良薬師寺聖観世音。彫刻・・・東京美術学校 伝※大熊氏廣の指導。鋳造場所・・・東京小名木川鈴木鉄工部。施主・・・鈴木藤三郎。像丈・・・百八十二センチ。安置場所・・・「黎明日本の開拓者」鈴木五郎著によれば、三体を鋳造したとされるが「鈴木藤三郎傳」では四体。東京小名木川鈴木邸の庭の浮島(一体、所在不明)。鎌倉市の別邸(一体、所在不明)。台湾製糖頭工場(一体現存)。静岡県周智郡森町庵山(一体現存)と記され、また鈴木藤三郎の略年表も記され、「安政二年(1855)古着商太田文四郎・ちえの末子として森本町に生まる。安政六年(1859)仲町菓子商鈴木伊三郎・やすの養嗣子となる。明治七年(1874)家督を継いで藤三郎と改名。茶貿易に従事。明治十年(1877)報徳の教えを活かしつつ、氷砂糖の製法研究を始める。明治十六年(1883)偶然にも氷砂糖の製法を発見。明治十七年(1884)福川泉吾の協力を得て森町明治町に工場を新設。明治二十一年(1888)南葛飾郡砂村に製糖工場を建設。明治三十三年(1900)台湾製糖株式会社を創立し、初代社長に就任。明治三十四年(1901)観音像を鋳造。明治三十五年(1902)台湾頭に観音像安置。明治三十六年(1903)衆議院議員に当選。明治三十九年(1906)福川泉吾とともに私立周智農林学校を創立。明治四十年(1907)日本醤油醸造株式会社を創立し社長に就任。明治四十一年(1908)栃木県今市町の報徳二宮神社に報徳文庫を奉納。同年(1908)サッカリン使用問題により辞職、私財を賠償に充てる。大正二年(1913)逝去。享年五十八歳。(墓所・森町随松院)。平成二十五年(2013)顕彰百年記念講演。以下略」と記されています。福寿観音にはこのような謂れがありました。写真の様に立派な観音像がお立ちでいらっしゃいます。

なおこの山には昔「心月庵」という※黄檗宗の寺院があり、延宝八年(1680)に※鉄牛和尚の開創、明治三十八年(1905)富士郡岩松村梅岡寺に合寺されました。「庵山」とはこの寺院の由来からよばれています。

   
(写真は庵山の由来、観音像と鈴木藤三郎の掲示、右は遺芳塔) 大正五年建立の石碑のご詠歌には「福寿」と刻されています。当所「延寿観音」が、大正三年鈴九家から福川家に譲渡されたのを機に「福寿観音」と変更したのではないかと推測されます。ここには観音様以外にも日清戦争以降の戦役で亡くなられた680余名が祀られている「遺芳塔」が建てられており、森町が一望でき、四季を彩る花も楽しめる景勝の地です。

※黄檗宗:(おうばくしゅう)1654年中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川四代将軍家綱公の尊崇を得て、1661年に開創された萬福寺を大本山とする禅宗。本山は京都府宇治市五ケ庄三番割34

※鉄牛和尚:(1628~1700) 鉄牛道機、号は自牧子。大慈普応国師。隠元に参禅して、萬福寺造営に尽くす。京都洛西葉室山浄住寺を中興。心月庵は浄住寺に関係する寺院。

※奈良薬師寺聖観音:白鳳時代の国宝・・・薬師寺の聖観世音菩薩はとても美しいお姿として知られています。薄い衣の襞から足が透けて見える彫刻法は、インドのグプタ王朝の影響を受けたものと云われま

す。右手を静かに下げ、柔らかく挙げられた左手、胸を張り足を揃て凛と立つ姿は白鳳の貴公子といえましょう。(東院堂の仏像より)

※大熊氏廣:(1856~1934)日本初の西洋式銅像とされる靖国神社の大村益次郎像で知られる彫刻家。代表作には浅草寺の瓜生岩子像・東京国立博物館のライオン像・佐原市諏訪公園の伊能忠敬像等

 

番外➂番札所 島田市金谷栄町 法性山 専求院(せんぐういん)聖観音菩薩

島田市金谷金谷河原2063-1 金谷小学校東100mの旧国1沿い北側の浄土宗寺院です。

   (写真は観音堂)

天正七年(1579)※方譽西向上人 阿弥陀堂の草庵を創る。その後慶長八年(1603)※尊蓮社三譽上人が法性山 專求院と改める。

江戸期三度の火災【享保15年(1730)安永元年(1772)文久3年(1863)】にあいながら守り抜かれた金剛界五仏の五智如来(島田市文化財)が祀られています。山号も大日如来の「法界体性智」からつけられたと思われます。どのような経緯で五智如来をお迎えされたのか興味を惹かれますが、今回は観音様に焦点を当てることを優先します。

境内西側の門をくぐりますと左手に観音堂があります。現お堂は明治41年に日露戦役記念として、観音講積み立てと寄付金により再建されたことが堂内の額装に記して残されています。今少し詳しく見てみますと、観音講の積み立額が613円8銭とあり、寄付金が664円45銭合計1277円53銭、現在に換算しますと(令和の初任給や物価も勘案し、当時の1円は現在約2万円相当)約2500万円ほどになりましょうか。ただこのうち、寺院と住職、世話人方の寄付金の頑張りが見え、ここにも寺院の並々ならぬ意気込みが感じられます。この立派な観音堂の内陣には、中央にお厨子に入った聖観世音菩薩,その東西には木彫三十三観音像が祀られ、格天井には見事な絵が描かれています。このことについて「かなやの史話・民話・伝説見て歩く」(平成17年発行・山田好行編集)には「明治四十年、十七世遠誉知奄上人が観音堂を建立しました。本尊の聖観音立像は※泰澄大師の作といわれ、比叡山に納めてあったもので、※法然上人が※桜が池に立ち寄り、内田の里に※応声教院を開くに際して、叡山から三尊の霊仏を移され、さらに三誉上人が專求院にその一体を移されたものと云われます。本尊の観世音菩薩は雷除けの観音といって、その昔泰澄上人が近江の※岩間寺で、雷神を封じたということで、人々にあがめられたと伝えています。(金谷郷土史研究会発行中町宮崎町誌より)と記し、観音堂について、二級建築士でもある編者は「遠江三十三番札所番外三番観音堂は純然たる※観音堂造りである。」とし、「堂内には※遠江三十三番札所の全観音像と番外三番の観音像を祀っている」また堂内格天井の絵について「※西照寺十一世住職木村龍湫(鉄棒和尚)の筆によると言われる格天井の絵画には四季の草花が描かれており見事です。」と記しています。

    (写真は観音堂本尊のお厨子と三十三観音像・念仏講奉納額)

泰澄大師作と伝えられています聖観音菩薩像、二尺程の立像です。台座と足元には金箔に塗られた状態が残されていますが、膝から上は黒く、長い歴史の痕跡を伺い知ることができます。左手に持つ蓮華は蕾で未敷蓮華といい、観音の慈悲によってこれから華が開くことから、成仏することを意味しています。また右手は通常どんな願いも受け止めるとして、掌を前に向けた施願印や蓮華を持つ左手に右手を添える姿が多いですが、ここの本尊様は大指(親指)と頭指(人差し指)を丸めてつけ合わしています。普段は秘仏として拝顔は叶いませんが、大切に後世に残していただきたい仏像です。

※方誉西向上人:專求院になる前の成仏寺を草創(天正7年1579)

※泰澄大師:682年~767年 奈良時代の高僧。白山開山。平泉寺建立。

※法然:長承2年(1133)~建歴2年(1212) 浄土宗の開祖

※桜が池:遠江古蹟図絵 37(神谷昌志著者)の解説によれば《蛇身となった法然の師皇圓阿闍梨》 城東郡佐倉村は今の御前崎市佐倉。同所に有る「桜ヶ池」は信仰の池として広く知られており、毎年秋の彼岸の中日とその翌日に行われるお櫃納の神事は遠州七不思議の一つに揚げられ無形民俗文化財に指定されている。大正期の紀行作家 田中貢太郎は「静岡遊行記」の中に【皇圓は法然の師匠で「扶桑略記」の著者である。皇圓は彌勒の出現を待つには、蛇身となって長寿を保たなくてはならぬと言って近衛院の久寿三年秋七月、勅許を得てこの池に来たり、宮司源信弘にそのことを告げたが、帰る時桜が池の水を携えて往き、臨終の際それを掌に注ぐと風雨が起こり、皇圓はそれによってこの池に来て入定化身した。承安五年の春になって他力浄土門を開いた法然は、智恵ありて生死の出て難き事を知り、道心有りて彌勒に会わんことを願うといえども、由なき畜趣に生を感じたもうは誠に御いたわしき事なりと言って、この桜が池に来て、阿弥陀経を読み、称名念仏していると、大龍があらわれて法然を見て涙を流した。法然は池水に棲ませたまうにはさぞ御不自由の御事もおわさんと問えば、ただ鱗に小虫のたかること苦しけれと言った。そこで法然が手にした水晶の念珠をもってさすり、師徒のいつくしみあれば、元の人体にてまみえさせたまえと言へば龍身変わりて阿闍梨の姿になった。そこで二人はこしかたゆくすえの物語をしたが、それが果てると阿闍梨はまた龍身となって池の中に沈んでしまった。】お櫃納は法然上人が師を供養するため赤飯を詰めた桧づくりのお櫃を池に納めたのが起源と言われています。

※応声教院:松風山 応声院 菊川市中内田字辻前にある浄土宗知恩院末。本尊は宗祖円光大師護持の破顔微笑の阿弥陀如来。寺記によれば「当院は往昔真言宗にして松風山天岳院と称し、文徳天皇の勅願所      として、比叡山座主慈覚大師斎衝二年(855)草創。その後治承元(1177)年圓光大師ここにきて浄土宗に改宗し、護国本寺応声院と称する。大師念仏会を修し山頂に皇圓阿闍梨供養の五輪石塔を築 く。里人法然塚という。その後二十九世の時横須賀に撰要寺をはじめる。その後本末の紛議で知恩院末となる。慶安二年(1649)朱印地十二石四斗。(小笠郡誌)

※尊蓮社三誉上人:尊蓮社三誉上人直往祖哲大和尚 天正16年(1588)開基。開山上人。応声教院三十世住職。

※岩間寺:岩間山正法寺 滋賀県大津市にある西國第十二番札所

※観音堂造り:典型的なお堂の建築方法という意味でしょうか。

※遠江三十三観音:三十三体の木彫観音像が祀られていますが、遠江霊場の像なのかは不明(西国三十三観音像ではないでしょうか)

※西照寺:島田市金谷中町にある、浄土真宗大谷派の寺院。

 

番外➃番札所 掛川市中方 丸山聖観世音菩薩

掛川市小貫の交差点を南に少し下り、右折して近江が谷池に向かう。池の西側駐車場入り口の横に狭い石段があり、気を付けて登りますと、そこが丸山観音です。小さな祠があり、中に観音菩薩と虚空蔵菩薩の二体の素朴な像が祀られています。(写真)登り口には石塔が立ちここが番外だとわかります。台風で社ごと飛ばされたため、社・仏像共に傷みが激しく、場所も少し移動したようです。縁者の話では、池で亡くなられた方々の供養のため池側を向いて祀られているそうです。

    
【写真は左から、登り口の石標・祠・厨子内左正観音右虚空蔵・厨子内勧請札・版木(丸山正観世音・遠州小笠郡城東村中方)(個人蔵)】

二体の菩薩像、台風の被害で傷みが進んでいますが、制作者名も記され、勧請供養の木札も祀られています。木札には「遠江第三十七番 丸山観世音菩薩 昭和六年三月十七日 開眼供養焉 ※東谷山七世現董 奉行 天嶺禅童〇二才〇衲」と記されています。

また観音菩薩像と虚空蔵菩薩像には、虚空蔵像の裏側に「施主 佐束村中方 ※鈴木長右ェ門 掛川 早瀬○○作」と墨書され、観音像の台座裏側には同じく「施主 佐束村 鈴木長右ェ門 掛川 早瀬○○作」と彫られています。登り口の石塔には表側に「遠江第参拾七番 丸山正観世音菩薩」と彫られ、裏側には「念願主 平成六年九月吉日 鈴木喜治郎」と彫られ、逆修のため朱字であることから存命中に建てられたことがわかります。鈴木さんのお宅には観音像の版木が残され、御影(お姿)として刷り配札したことがあったようです。

「丸山観音」は昭和に入ってから鈴木長右ェ門氏が個人的な信仰心で祀りだしたとしますと、なぜ番外札所にしたのか、順番の設定はどのように誰がしたのか等、多くの疑問が残ります。また同じ地区内の鈴木偉三郎氏が昭和62年に91歳にして発行された「遠江三十三所観世音霊場縁起」に「丸山正観音」について一行も触れていない事も腑に落ちません。(丸山観音勧請の年、偉三郎氏30代半ばで地元の耕地整理組合の書記をつとめ、地域の動向は把握していたと思われます。) 今少し調査してみたいと思います。

※東谷山:中方に有る曹洞宗寺院「宗禅寺」のこと。現住職は十世。

※鈴木長右エ門:(法多山諸尊堂と正面額には佐束村中方鈴木長右ェ門とあり)

 

番外➄番 大須賀 西大渕 千手山 普門寺

掛川市西大渕6429

小笠山を越えて南に向かいます。西大谷の池を過ぎなお南進しますと左手にスズキ自動車の工場があり、その西側になります。普門寺を入っていきますと広い境内に諸堂が立ち並び、春4月には藤が見ごろを迎えます。

聖観世音菩薩を本尊とする※天台宗寺院で、※遠州33観音霊場の12番札所になっています。

   (写真は左から境内・本堂の観音銅・案内看板)

普門寺について寺伝では「慶雲元年(704)文武天皇の勅命により、行基菩薩が千手の嶺に建てた。※法相宗として13代まで続いたが、14代の時から天台宗に変わった。その後、治承元年(1177)平重盛が高倉天皇の病気平癒と海上安全、船中無難を祈って寺の場所を現在地に移し、諸堂を再建するとともに、最澄作といわれる聖観世音菩薩を安置した。戦国時代(永禄~元亀)に兵乱に遭って諸堂全て焼失し、天正3年(1575)中興豪憲が帰山し再興。初代横須賀城主大須賀康高により諸堂が再建された。寺領も徳川氏より朱印高37石を贈られ朱印寺となった。」と説明されています。(小笠郡誌に同様文有り) 海上安全祈願のため弁財天(治承元年安芸の宮嶋から勧請)・九頭竜王(弘化年中信州戸隠山より勧請)・波切不動(僧文覚海上危難の際、船板で刻した不動明王像で、※文覚危難を免れ、この浜に着船し、報恩のため当寺に納めたとされる。)など水に拘わる諸尊が祀られています。また山内に西国三十三所観音堂宇があり、これは中興4世尊永法印が宝永元年に第1番を勧請し、その後寛政年中に其の外を施主志願によって勧請し、三十三所を揃えたとされています。     (写真は西國三十三所の1番とそのお堂、33番と御堂・三十三所案内板)

既説「岡津の善光寺(気まぐれな巡礼案内⑬」でふれましたが、善光寺如来も祀られていますから、巡礼者はここにもお参りします。(明治17年信濃の善光寺から一光三尊阿弥陀如来像を分霊。101人がお迎えした時の様子を見事に絵にした大きな額が善光寺堂内西側に飾られ、一見の価値があります。)

(写真は善光寺堂です。御朱印等はここで受けていただけます。)

 

※天台宗:延暦25年(806)伝教大師最澄によって開かれた宗派。比叡山延暦寺を総本山とし、全国に3337の寺院をかかえる。(平成28年現在)

※遠州33霊場:昭和59年に「遠州の地に仏國土を」と発足した観音霊場。湖西市から御前崎市にかけて7市1町に点在する。5ケ寺が遠江霊場と兼ねています。

※法相宗:飛鳥から奈良時代に開かれた奈良仏教で南都六宗の一つ。本山は奈良の薬師寺と興福寺。別名「唯識宗」とも言われる。南都六宗とは法相宗・律宗・三論宗・成実宗・俱舎宗・華厳宗で現在まで続いているのは法相宗・律宗・華厳宗です。

※文覚:保延5年(1139)~建仁3年(1203)平安末から鎌倉初期にかけての武士であり、真言僧。俗名遠藤盛遠(もりとお)。源頼朝・後白河法皇の庇護を受け、京都高雄の神護寺、東寺、高野山の大塔、東大寺、江の島弁天等の再興や勧請をした。「遠藤盛遠」としては近松門左衛門の平家女護島をはじめ、多くの浄瑠璃、長唄、小説、戯曲などに登場します。

 

さて今回は番外の6ケ寺をまとめて案内先にしてみました。番外参拝者は絶えて久しく、すでに忘れかけていたというのが現況でした。札所寺も「知りませんでした」というありさまで、今更という思いもありましたが、問い合わせをいただいたことを契機に調査してみますと、明治、大正、昭和初期の時代背景とともに、当時の人々が観音様に何を願い、求め、どう生きようとしていたのかが浮かび上がってきます。時代の渦に翻弄されながらもひたすら慈悲にすがり、自身と家族の平安を求める姿は、現代も、そしてこれからも変わることはないのでしょう。

未だ解明できていません「丸山観音」の存在は、私たちに何を問うているのか気がかりです。丸山正観音を祀り始め、法多山諸尊堂(旧観音堂)の正面に額を奉納した「鈴木長右ェ門」とはいかなる人物であったのか、興味は尽きませんが、何かわかりましたら更新します。

なお番外7番法多山はあまりに有名ですので、敢えて案内するまでもなく、今回は掲載しませんでした。いつの日か「北谷寺(遠江第5番札所)」の案内でふれることとします。

 (2021/4/16)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気まぐれな巡礼案内㉗

投稿日:2021/03/20 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

27番札所 瀧生山 永宝寺 昔名慈眼寺(当院)です。 菊川市西方6748-1

真言宗醍醐派に属する山伏(修験道)寺院です。  (写真は永宝寺全景と上がり口)

巡礼コースに慣れた人は、20番大原子の次に参拝して、日坂宿21番相伝寺に向かうコースを取る巡礼者も多いようです。気まぐれなこま切れ案内ですから、菊川駅からのルート案内とします。

菊川駅の真北、直線3キロの位置にあり、掛川市(八坂)と菊川市の境に近く菊川市分になります。

菊川駅から西進 JRを跨ぎJRに沿って西進し、信号機「西方」を右折北進、新幹線下を通り過ぎ100m程を右折 東進1.5キロ 橋際に「瀧之谷永宝寺」の看板あり、周囲800mの池の北側が27番札所です。

「永宝寺」の寺名は地元ではあまり知られていません。(昭和29年宗教法人取得に際し上内田の同宗派廃寺寺院名を踏襲したため。) 通称「法印さん」と書いて「ほうえんさん」と呼ばれ、屋号「瀧之谷」と合わせ「瀧之谷法印」(たきのやのほうえんさん)と呼ばれています。山伏の最高位が「法印」ですが、あえて全国的に「ほうえん」と読む訳は「陰陽道」との拘わりもあると説く学者もいるようです。一般的に江戸時代 山伏や陰陽師や学者などを「法印」と云っていました。それが徐々に山伏に限定するようになったようです。

 (写真は山伏の祖、役の行者と持仏堂本尊不動明王)(永宝寺由来看板)

池北側の階段を上りますと正面に朱色に塗られた観音堂があります。建てられてから200年以上経ています。(寛政二年九月再建落成) その時の棟札が残されています。「丁酉年村役人中相談仕観音堂建立仕度万人講相企申候而五ケ年立候ハバ少々金子御座候ニ付木挽入木取仕候十ケ年迄ニ木取大方致其故乙巳九月より取欠り木挽手間丙午年中欠り同年丙午之六月八日二〇之子立ヲ初其大工二百勺余木挽二百余大ききんニ付其まま置来る未年中年之世中二御仕候而十月中順旦那御取持ヲ以立申所其年米壱俵二付金三分壱貫弐百文ナリ 其ままニテ戌年かんおん十七年之開帳年二當是迄ハ所々村々法加いたし旦那不残御取持ニテ御堂諸願成就仕造作少々相残申候代々子孫いたる迄御堂之施主之御祈祷いたすべき者也 観瀧院養元写之置」と記され、構想から中開帳の13年間、その間に世情は天明の大飢きんもあり、苦労がしのばれます。椎などの雑木類が多くつかわれていますので、反りや乾燥にも時間がかかり今では聞くこともなくなった「※木挽き」の技術が試されたことでしょう。

 (写真は寛政2年1790年の観音堂再建の棟札表裏)その後明治41年に屋根替え修繕、昭和56年大規模修繕が行われて現在に至っています。

観音堂内陣正面のお厨子にお祀りされています本尊様は、当初からの十一面観世音菩薩と法蔵坊(500m程西南で地区の墓地)から現地に移転され、その後お堂建立の際現在地土中から発見された金銅製聖観音菩薩の二体を本尊として祀っています。

 (写真は現在御前立の旧本尊十一面観世音菩薩)    
当山には上記の伝えとして、「遠江順礼二十七番観音出現由来」が残されています。そのあとがきに、七世貴教院元譽(明和九年1772没)が宝暦十一辛巳歳(1761)六月吉日に「覚え」として「瀧の観音由来、書付なども之なく相知れず、だんだん相尋ね、古き老人に聞き、古き書物を尋ね、漸く相知れ数年心がけ 末代のために書くもの也」としるし「一、当国城東郡西方村瀧の観音は元来道場は潮海寺道の法蔵坊という所に古来よりあり、慈眼寺という真言道場也。法蔵坊は慈眼寺の弟子と知るべし。これまで何代年数を重ねたか知らず。今にこの地に慈眼寺屋敷という所在り。右法蔵坊遷化の後、無住にて、別當これなく、数年相経ち、その後堂を此のところに引く。別當なし。 一、当寺瀧生山の開山は元来濱松在笠井新田大楽院子なり。当所に足を留め杉本坊という山伏にて、後に寿本法印(寛文二年1662没)と申すなり。これ当所観音別當修験の先祖なり。この寿本法印の子観瀧院久仙(貞享3年1686没)という二代目なり。 一、観音堂大破に及び建立の時天和三亥歳(1683)春十八日に地形、山を崩し候得ば、今の堂の後ろなり。壱丈余土中より消炭壱俵ばかりのうちに、仏入埋あるなり、人足告げ知らせ、不審に思い、久仙掘り出し見るに金仏観音の像なり。早々京都仏師に見せしむる時に、仏師の曰くこれは唐仏にて、弘法大師御作、御長け五寸三分聖観音菩薩にて、西光?成らざるよし。祠ばかり新造入仏 その後その年中に堂建立でき、入仏開帳これあり。誠に観世音の出現有難く、国中参詣無量なり。それより今に至って、十七年目に今開帳出理。前までは二十七番観音は十一面観音也、今の前立是なり。 一、寛永五年(1628)に村上三右ェ門様御除地御寄付なり。山林竹木共に寛永九年(1632)御刻書あり。御墨付二通所持仕り候。以上」と元譽法印の調査報告が書されています。また後代の付記に「観音堂造営 天和三年(1683)亥春 正観音金仏土中出現 二代目 久仙法印に時開扉供養行」とも記されています。(少し読みやすく字を変えています。)

先に寛政2年(1790)観音堂建立開帳供養の棟札を掲載しましたが、その107年前に最初の観音堂は建立され、それまでも慈眼寺観音堂として法蔵坊から移転したお堂が建てられており、初代寿本法印が管理していたことになります。なぜこの場所に移動したかについては、境内をぐるっと囲む瀧池と関連します。瀧池(一之池堰)は寛文十年(1670)築池されています。この池を造るに当たり工事の安全を祈り、水の潤沢と安寧を子々孫々まで観音様に見守っていただきたいという大きな願いが込められていると思われるのです。また、明治初年の提出書類「観音堂の由緒」には「創立年月不詳 古来土人の口碑によるに、往昔この地に数十丈の瀑布あり、故に瀧山の称あり。山中常に雲霧を生じ、春夏秋冬の別なく朦朧として日光を見る稀なり。一毒蛇あり、屡人畜を害する久し、茲に一人の修行者 観世音の像を負い来たり、その地の閑静を愛し居る。数日能く勝地を卜し一室を結び、これに仏像を安置し、日々瀧水に身体を浄め、只管観音の加護を念じ、ついに毒蛇退治の功を奏す。土人その徳を頌して新たに堂宇を建設すという。以来明治七年に至る代々修験行者を以て住僧とす。則ち慈眼寺観瀧院是なり。」と観音堂建設の経緯や、修験者の土着経緯も云い伝えとして記され、地区字名も「雲明」と書いて「くもみょう」とした伝説も残されています。

(写真はこの地区の伝説をもとに使われている祭礼の法被)

修験者らが中世末期から近世の初頭にかけて村落へ定着していったことは歴史上知られています。村落の形成期にその構成要因として宗教者の果たす役割もあったのでしょう。伝説はそれとして、西方村の最奥部に宗教者が定着したことを意味します。

遠江33か所霊場の内、修験道寺院は現在13番大尾山顯光寺と永宝寺の二ケ寺ですが、各札所の変遷を見ますと多くの札所が修験道とかかわりを持っています。「巷の神々」と形容される修験者の布教活動と村落・地域との近距離感が絡み合って生み出されたからなのでしょうか、或いは観音霊場の創設から互助会的な役割として動の要素を多く持つ修験道(山伏)がかかわっていたからなのでしょうか。

ちなみに土中出現の聖観音像を写真で専門家に鑑定をお願いしましたが、同じような比較対象になる仏像の例が無いため、年代確定などができないとの返答でした。

※「木挽き」:大きな鋸が象徴。建築用材を調達するため、山林に入り、切り出す職。彼らには木の素性を熟知した目と技術が求められ、立ち木を見て、建築のどの部材に使用するのか見極め、伐採作業に当

たらせた。この地域では昭和40年代までは「木挽きさん」が存在した。

※公文名(くもみょう):平安時代以降荘園を管理する役人の総称ですが、とくに文書を取り扱う公文職をさす。中世になると年貢の徴収などを司る職もいい、これら公文職の役人に報酬として与えられた田

を公文の名田、公文名とよぶ。この地域は河村庄であり。菊川市本所に関連するものと思われる。また公文名地内には字名 玄徳(元得分)、久保田(公文田)、祢宜屋敷等の名が

残されています。

 

〇寄り道:修験道寺院って?  
なんとなく解ったようでわかりにくい寺院の分類に寄り道してみましょう。

日本仏教が多くの宗旨に分かれていることは御存知の通りです。13宗56派(1940年宗教団体法ができる以前の数え方)と言われています。この33観音札所も4宗旨(曹洞宗・浄土宗・真言宗・天台宗)があり、また同じ宗旨でも派が異なるものもあります。もともと地域密着型霊場ですから人々は宗旨にはこだわりません。現在遠江霊場は曹洞宗とその関連札所が23,浄土宗1,真言宗7,天台宗1,不明1となり、曹洞宗が断然多いことは、この地域の全寺院の7割が曹洞宗寺院であることと比例しています。 「修験道寺院」という名称は13宗56派には含まれていません。江戸幕府による「修験道法度」(慶長18年1613)、また明治初年の「修験道禁止令」により、真言宗系(当山派)天台宗系(本山派)のどちらかに属さなければならなくなったからです。永宝寺は真言系の当山派修験です。現在も檀家は持たず、加持祈祷や運命鑑定、カウンセリング等で維持する変則的?な寺院です。檀家を持たないから葬儀に拘わらない寺院というイメージは、寺から連想されるものとは異なっているかもしれません。しかし考えてみますと、仏教本来の姿はこちらのほうが近いといえるかもしれません。

山伏のイメージと言えば能「安宅(あたか)」(室町期成立)から歌舞伎の演目となった(元禄元年初演)「勧進帳」で武蔵坊弁慶が読み上げるシーンを思い浮かべる方も多いと思います。現在でも柴燈護摩の祭事に先立ち「山伏問答」を行う際、勧進帳を彷彿させるやり取りが行われます。その一部を紹介しますと、 山伏問答は道場主(問う行者)と旅の先達(答える行者)が道場の入り口で向かい合って行われます。 【問:旅の行者、住山何れなりや。答:遠江の国は城東郡の住、醍醐寺三宝院門跡配下の先達なり。問:今日当道場に来山の義は如何に。答:本日当道場に於て天下泰平・五穀成就祈願の護摩供ありと承り馳せ参ぜし者にて候、同行列に加えられんことを請い申す。問:三宝院配下の山伏と有るからには修験道の義御心得あるはず、当道場の掟としてお尋ね申さん。答:何なりとお答え申さん。】以下略。その後山伏の意味、修験道の意味、開祖、本尊、装束とその意味付けなどを矢継ぎ早に問われ、それらすべての返答を終え、【問:先ほどよりのお答え疑いなし、然らば然らばお通り召され。】と許可されて入場していく。このように歌舞伎調で山伏問答は行われます。

里に下りた山伏を里修験と呼びます。※修験道廃止前まではどこの村にも数件ありました。ここ西方村に二軒、本所村に三軒といった具合です。多くの神社(氏神社)は里修験者が司祭者でした。生活は農業との兼業が主で同一地域に生活する宗教者として村の構成の一翼を担っていたと思われます。(管轄は寺社奉行所であり、町奉行所とは一線を画していた) 明治元年※神仏判然令による修験道禁止令により廃止され、明治初年からの混乱期には札所と観音様を守るための壮絶な苦労と苦悩を14世寿軒法印は文書で残し、本末の利害関係、近隣寺院との訴訟に及ぶ軋轢、地域住民や役人を巻き込んだ宗教施設としての帰属問題など、生臭い混迷の様子が記されています。昭和29年に宗教法人を取得するまでは隣寺院の境外地境内となっていました。現在は「真言宗 醍醐派 永宝寺」が正式名称です。小さなお堂一つにも苦難の歴史があります、現在札所が残されていることはどれだけ多くの人たちの支えがあったことでしょうか。

 

※神仏判然令:慶応4年(1868)3月17日神社別當及び社僧の復飾令・明治元年(1868)3月28日神仏判然令(神仏分離令)・明治元年(1868)4月4日別當社僧の還俗令・明治3年(1870)10月                    17日天社禁止令(陰陽道廃止令)・明治4年(1871)2月23日寺社領上知令・明治5年(1872)4月21日神祇省の廃止と教部省設置・明治5年(1872)6月28日自葬を禁じ、葬儀は神官僧侶に依頼せしむ。修験の自葬も含む。・明治5年(1872)9月15日修験道廃止令・明治5年(1872)11月18日無檀家無住の寺院を廃す。(修験寺院の殆どは無檀家)・明治6年(1873)1月15日梓巫女、市子、憑祈祷、口寄せ等を禁ず。(修験道の活動禁止)・明治6年(1873)キリスト教禁止令の廃止。等修験宗は制度上天台・真言へ併合されたのみでなく、実質的にも主要な宗教活動の禁止という形で17万人と言われる修験者達は廃止により消えていきました。なお先進国からの非難もあり、明治6年以降表向きには宗教の自由としましたが、すでに元に戻ることはありませんでした。

当寺に残る「御触書」には「修験宗の儀 自今被廃止 本山当山羽黒派共 従来の本寺所轄の侭 天台真言の両本宗へ帰入被仰付候粂 各地方官に於て此の旨相心得、管内寺院へ相達すべく候事。但し将来営生の目的等無之を以て帰俗出願の向きは始末具状の上、教部省へ申し出るべく候。 壬申九月十五日」と、その時のお触れが残されています。(現実には廃仏毀釈で寺院自体が打ち壊される状態であり、真言天台への帰入は困難であった。帰属すべき本山自体も混乱状態であり、地方の小寺院の訴えが聞ける状況ではありませんでした。)また同「御触書」の添え書きに興味深いことが書かれています、「自今僧侶苗字相設 住職中の者は某寺住職 某氏名と可構事。但し苗字相設候はば管轄庁へ届け出るべきこと。」とあり、あらたに苗字を考えて附けることも添えられています。(修験道の場合通常は○○院○○との称名が個人名として使用されており、苗字は既に持っていたと思われますが、この際新たに付けた人も多くいたようです。当山の場合三浦姓を名乗りますが、分家はこの時滝本姓にしています。ただ後に本家からのクレームで三浦姓に戻っています。)

〇御詠歌

さえいずる つきをながむる たきのおと かみすみぬれば しももにごらず

山本石峰氏は「冴え出つる 月を眺むる 滝水の 上すみぬれば 下濁らず」として、その解説に「冴え出つる月は、自分の発菩提心の事だ。其の心の宿る滝水は清くして心清浄であれば従って下の動作も 精進になるぞ」と記しています。

私も月のきれいな夜、池面にうつる月を眺めながら、ついこのご詠歌を口ずさむときが多くなってきました。齢ですかねー。

 

〇化石層

 (中池の化石層と庭の飛び石)

2020年8月 中日新聞に「遠江国分寺・・・石段は菊川から?」との記事が掲載されました。「専門家調査では石の破片の大きさや密度、石の厚さから、菊川市公文名から切り出された可能性が高い」との説に、子供のころから化石に親しんでいた私は、早速※柴正博氏の調査報告書を読んでみました。その一部を掲載しますと、「※磐田市国分寺金堂の階段の敷石はどこの石」との表題で、「国分寺金堂の石段の敷石に使用されていた石は、貝化石の破片が層状に密集する岩石で、「貝化石※石灰岩」とよべるものでした。略 この岩石に類似するものを私は、菊川市公文名の奥山中池の南岸で見たことがありました。それは、掛川層群富田層に含まれる貝化石密集層の岩体で、これに類似する貝化石密集層を私はここ以外で見たことがなかったため、とくに印象に残っていました。

菊川市公文名の奥山中池の南岸に分布する貝化石密集層の岩石は硬く、国分寺跡金堂跡の石段の石にとても似ていました。細礫や粗粒砂も含みますが、ほとんどが破屑された貝殻の化石片からなり、それらははっきりとした※平行葉理を形成しています。それは、強い一方向の流れの中で堆積したために形成されます。この化石密集層はコンクリーションされた硬い岩層として厚さ1~2mをもち、砂泥互層中に挟まれています。その砂泥互層の走行傾斜、※N50°W、10~20°Sで、奥山中池の北西岸にも連続して分布しています。後日、その分布を精査した結果、西側の尾根を越えて※海老名付近にも分布することを確認しました。 このように破屑された貝化石破片が密集することは、波浪によりすでに砕かれた貝殻だけが堆積し、その後に海底の斜面に沿って流れ下った高密度の※重力流、たとえば※岩砕流のような流れによって、やや平坦な※海盆に堆積したことを意味します。通常、砂や泥などの堆積する海域では貝殻だけが破屑されて堆積することは無いため、このように貝殻の破片が集積することは砂や泥の堆積がほとんどなかった環境または時期(※海進期には一般的に沖合への砂泥の供給は減少する)に形成されたのではないかと考えられます。

掛川層群富田層は掛川層群下部層の最上部層で、後期鮮新世の今から358~309万年前に堆積したと考えられます。この化石密集層は、堆積物の供給が少なくなった海進期または最大海氾濫期付近(約310万年前)に堆積したと考えられます。また、この化石密集層の分布する場所は、この地域の掛川層群の基盤である倉真層群が分布する南側役1kmにあたり、この付近にも下位の倉真層群が小規模に分布しています。このことから、この石灰岩が堆積した時期に、この地層は岩石海岸の急傾斜の崖の下で、波浪の影響のない水深100m以下の深い海底の堆積盆地に堆積したと考えられます。この「貝化石石灰岩」は、このように特殊な堆積環境と堆積時期が重なって、さらに急崖を流れ下る重力流により形成されたものと考えられます。略 「貝化石石灰岩」は※平行ラミナが発達していて、そのラミナに沿って割れやすく、板状の石材を切り出すことが容易にできます。略 この「貝化石石灰岩」の新鮮な表面はまっ白で、貝殻片がキラキラと光り輝いています。「貝化石石灰岩」は寺の本殿へ上がる階段の敷石として使用されていて、その美しく輝く岩肌は開寺された当時の国分寺の美しさをより引き立たせていたものと思われます。」と記しています。 また、公文名のここだとの限定について氏は「掛川層群では、その分布の北部で貝化石密集層を多く見ることができ、とくに掛川市から袋井市にかけての掛川層群上部層の大日層には、貝化石密集層が分布します。掛川層群大日層は掛川層群上部に含まれ、今から約200万年前に大陸棚の上に堆積した浅海性の砂層または泥層からなる地層です。大日層は、富田層の「貝化石石灰岩」の層準と同じ海進期(海面上昇期)の堆積層ですが、その堆積環境は遠浅な波浪の有る海岸沖合で堆積したもので、富田層のそれとは異なっています。大日層では化石密集層が多く含まれるものの、貝化石は破屑されることはほとんどなく、コンクリーションされた化石密集層の厚さも数十cm程度です。また、大日層またはその上位の土方層の分布域にも公文名で見たような「貝化石石灰岩」の分布を今までに私は確認していません。」と記し、この公文名付近だけにしか産出されない独自性を確認しています。

90%以上貝化石だけという層が、どのようなメカニズムでできたのか、柴先生の説明を菲才な私が理解できるまではいきませんが、興味をそそられます。 この地域では「貝化石石灰岩」を昔からどの家庭でも活用しており、庭石、飛び石兼鶏の餌としての役割や記念碑の台座から土留め、石段にも多く現在も使われています。下池が寛文年間、中池が享保年間に造池されていますから、採掘場所の確定は出来ませんが、層が脆いため急傾斜地での崩落が多く、ブロック状の「貝化石石灰岩」を多く見かけます。この札所にも多く置かれていますし、観音堂の東側にも化石層が露出しています。下池の公園内にもこの層から崩落した「貝化石石灰岩」を集めてありますので、是非興味を持って、見て触れて地球の壮大な歴史ロマンを堪能していただけたらと思います。

 

※磐田市国分寺金堂:聖武天皇は天平13年(741)、全国六十数か国に国分僧寺と国分尼寺を造るよう命じました。静岡県内には遠江・駿河・伊豆の三国があり、遠江国の国分寺は磐田市に置かれました。

昭和40年代に史跡公園として整備され、平成18年度(2006)から発掘調査がされ、平成28年度から復元のための設計等を行っている。

※柴 正博:自己紹介に依れば、現在(2018)ふじのくに地球環境史ミュージアム客員教授・日本地質学会所属等、「地質調査入門」「駿河湾の形成 島弧の大規模隆起と海水準上昇」「モンゴル・ゴビ

に恐竜化石を求めて」など著書論文多数。掛川市文化財審議委員会委員。東京在住。1952年生まれ。

※石灰岩:炭酸カルシウムを主成分(50パーセント以上含む)とする堆積岩

※平行葉理(平行ラミナ):地層の断面を見たときに、層の中に見られる縞模様。水の流れによって、粒子が水底を運搬されて堆積するときに造られる。流れの速さや方向によって異なる形の葉理(ラミナ)

がつくられる。一つの地層の中をよく見るとより細かい地層があって、それが平行になっていること。うすい葉が重なっていて、一枚一枚剥がれるような堆積のでき方。

※N50° :走行傾斜の事で、北を基準にして50°西へ、10~20°南へずれていることを表わし、同じ傾斜がどこまで続いているかを調査して層の長さを調べる。

※海老名:掛川市八坂の最東の字名「あびな」と読み、公文名と境を接している。

※重力流:海の中で地滑りが起こるなどしてできた「濁り水」の流れで、通常海底には重さの有る砂や泥は堆積するが軽い貝殻は堆積しない。

※岩砕流:地震や火山などで岩砕がなだれをする現象。

※海進期:海水面の上昇の時期で、逆を海退という。海岸線が最も陸側へ移動した時期を最大海進期、海進最盛期とよばれる。

※コンクリーション:堆積物の凝固した物(天然セメント)通常球形・円形のものを指す。

※砂泥互層:砂層と泥層が交互に堆積している地層。何十、何百層に重なる。

※細礫:粒径が2ミリの礫(石)

※粗粒砂:粒径が0,5ミリの砂

※砕屑(サイセツ):細かく砕けたもの。

 

さて、今回は自分の所の札所案内でしたので、とりとめのない、まとまりも欠く内容となってしまいました。また、さぼりとずぼらな性格のため、時間がずいぶん経ってしまったように思います。この間にコロナ禍で生活の仕方も大きく変わり、不安な状況はいましばらく続くようです。生態系の最高位に君臨していたつもりの人類がこれほど脆弱であったことを思い知らされる期間でもありました。そんな人間にお構いなく桜は彼岸に咲きだしました。そういえばソメイヨシノも人間が作り出したクローン桜でした。

境内には池の対岸に渡る「野猿(やえん)」が平成2年に設置され、時々テレビ等で紹介されますので、体験に訪れる方も多くおられます。機会と体力とご縁がありましたら一度試してみてください。湖上と桜の花の中を「空中散歩」できます。     (2021/3)記

 

 

 

気まぐれな巡礼案内㉖

投稿日:2019/09/18 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

11番 安養山 西楽寺内観音寺 袋井市春岡384 ☎0538-48-6754

今年(平成31年)春から森町飯田 高平山遍照寺から移転しました11番札所です。

 本堂と本坊が離れています、札所のお参りと御朱印は本坊で行っています。(写真は本坊入り口)

 西楽寺へは国道1号線から上山梨(森町方面)に北上し、上山梨の信号を東進(271号線)、山名小学校の南側です。随所に案内標識があり、わかりやすいです。

前回の14番大雲院内知蓮寺同様 森町飯田 観音寺➡森町下飯田 高平山遍照寺内観音寺➡袋井市春岡 安養山西楽寺本坊内観音寺へと二回目の移動です。

昨年までお参りしていた高平山に観音霊場として参拝出来ないことは寂しいことですが、西楽寺奥の院として これからも霊場であり続けることに変わりはありません。高平山大仏もあり、今後の復興を期待したいと思います。

今回の案内は高平山に祀られる前の観音寺はどのような寺院だったのかを推定し、最初の移転地高平山を案内し、新地西楽寺を紹介します。


〇東補陀落山 観音寺について

森町は昔から遠州の小京都と言われてきました。そのルーツは平安時代にさかのぼります。観音寺があった飯田荘は白河・鳥羽・後白河上皇によって公認された強固な※荘園(※御起請地(ごきしょうち))で※蓮華王院(三十三間堂)の所領でした。白河天皇は承保二年(1075)に※法勝寺(ほっしょうじ)を造営、永保三年(1083)完成させています。 飯田荘観音寺はこの法勝寺の※直末寺院で、寺の境内からは※加法経を埋納した経塚がいくつか確認されています。飯田荘は皇室領の荘園として維持されてきました。 それ以前 森町飯田の坂田北遺跡からは養老年間(720年頃)には観音寺門前付近に集落が営まれていたことが判明しています。また「遠江国風土記傳」には「昔行基菩薩の開基なり。・・・淳和天皇・仁明天皇(823~850)両朝の勅願所なり、官符を以て寺田を賜る。今千石に凖す」とあり、いかに古くからの寺院かがうかがわれます。

飯田荘はこの観音寺を拠点に、京の都から僧侶や※神人(じにん)・※寄人(よりゅうど)などの交流が盛んとなり、太田川を京都の加茂川に見立て戸綿(とわた)の賀茂山に※賀茂三社を勧請し、荘園の南境に※祇園祭(山名神社)を始めました。同時進行で小国社を中心にした遠江の国神祀りも確立され「※都うつし」が推進されました。

太田川をはさんで、西は遠江の学問所である蓮華寺(天台宗)、東は※国王の氏寺法勝寺直末観音寺が大きな勢力を保持していたと考えられます。

飯田荘は、吉川流域を上郷(かみのごう)、戸綿を戸和田郷(とわたのごう)、現在の飯田を下郷(しものごう)と言い、現在の下飯田は山梨郷や宇刈郷と同じ文化圏にあった。と※図説森町史では解説しています。

※荘園:貴族、大寺院、法皇、上皇等が持っている私有地。

※御起請地:三代御起請地:白河・鳥羽・後白河の三代の上皇が承認したもの。

※蓮華王院:一般には「三十三間堂」として親しまれている。京都市東山区にある天台宗寺院。後白河上皇が平清盛に資材協力を命じて、自身の離宮内に創建(1165)した仏堂。

※法勝寺: (写真は法勝寺模型。京都市所蔵・森町史から転載)

現在の岡崎公園や京都市動物園周辺にあった。白河天皇が1076年(承保三年)に建立した。皇室から篤く保護されたが、応仁の乱(1467~)以降は衰退廃絶した。法勝寺は藤原氏の別荘地だったが、藤原師実が白河天皇に献上した。天皇はこの地に寺院を造ることを決め、1075年(承保二年)造営をはじめ、以後長期にわたって多数の建物を造った。1077年(承暦元年)に毘盧遮那仏を本尊とする金堂の落慶供養が執り行われた。1083年(永保三年)に高さ80mとされる八角九重塔と愛染堂が完成した。この法勝寺の造営は単に天皇の寺院建立にとどまらず、藤原政権と延暦寺との関係から、真言・南都仏教も含むあらゆる宗派の僧を起用し、皇室がすべての宗派の上に立つ宣言であり、実行の象徴でもありました。このことが天台宗一辺倒から新たな密教勢力(真言宗)が台頭する原動力となっていきます。後に案内します西楽寺にも関連してきます。

※直末寺(じきまつじ):総本山(ここでは法勝寺)直属の末寺。

※加法経:清浄に書写した法華経を意味する。比叡山の慈覚大師円仁が初めとされる。

※地頭:荘園を管理支配するために設置した職(地頭職)。荘園に駐在して軍事警察の役割も担った。荘園領主に対しては服従を命じられていましたが、時代が進むに、幅を利かせるようになった。

※神人(じにん):神職。

※寄人(よりゅうど):いくつかの意味がありますが、ここでは一般的に、平安時代以後庶務・執筆などを司った役職員。

※賀茂三社:都の地主神で上賀茂神社・中賀茂神社・下賀茂神社。

祇園祭:ここでは荘園の境界で疫病を祓う目的で行われる祭礼で、京都の祇園祭に倣う天王祭。(牛頭天王を祭る)

※都うつし:京都を模倣した都市設計や文化の流入。

※国王:法勝寺は別名を「国王の氏寺」と慈円は称し、白河院の権威の象徴とされた。院政の時代に天皇家によって建てられた六の「勝」のつく寺の最初の寺院。「国王の氏寺」とは単に天皇家の氏寺という意味だけでなく、太政官機構の頂点に位置する日本国の王の寺院という意味がある。

※図説森町史:平成11年森町発行

平安時代に皇室の堅固な荘園制度の下で「都うつし」が進展し、花開いた京文化は、やがて鎌倉時代に入り、地頭職の台頭による武家中心の時代となり、大きく変遷していきます。 鎌倉期⇒南北朝期⇒室町期の観音寺やその周辺(飯田荘)の動向を森町史を参考に見てみます。

建武三年(1336)遠江守護職は今川範国となり、応永十年(1403)斯波氏が遠江守護職に代わる69年間今川の支配が続き、斯波氏支配もその後百年続きます。永正五年(1508)今川氏親に守護職が代わり、永禄十二年(1569)今川氏真まで今川の支配が続きます。

応永三十年(1423)観音寺の塔頭寺院とおもわれる曼珠院で「円満抄聞書」を書写してることから、中世後期も多くの堂舎を持つ寺院であったようです。ただこの期間の動向は不明なことが多く、観音寺に関係する事柄を先既「森町史」年表から抜粋すると、1377年(永和三年)八月遠江国観音寺が本寺法勝寺再興のため、毎年※二貫文を支出することが定められる。とあります。 本寺法勝寺は1208年(承元二年)塔が落雷で焼失、1342年(南北朝期)火災により寺の南半分が失われる。1349年(貞和五年)再度火災にあい北半分も失われる。その後再建に尽力するが昔の姿は失われ、天台宗の一分派の拠点である小寺院に転落する。その後も追い打ちをかけるように相次ぐ戦乱・焼失により衰退した。本山のこのような衰退経緯をみると、直末観音寺も徐々に衰微したものと思われます。 ただ1390年(明徳元年)10月9日、東寺最勝光院方、観音寺少納言坊を遠江国原田荘細谷郷所務代官に補任する。とあり、これは戦乱の過程で、東寺は荘務権を実効的に行使できなくなり、荘園支配は現地で荘務を※請け負う代官へと移行したことをあらわす。(村井章介・静岡県史研究)と述べ、観音寺が金融業を営んでいたと推測しています。

その後、観音寺のことは「※円通松堂禅師語録」に散見します。文明~文亀のころ、松堂と親交を持った僧侶に光徳院・寺主翁顓(おうせん)・藤本坊等がみえる。今川時代では1557年(弘治三年)今川家の「祈願寺」となっています。1561年(永禄四年)今川氏真は観音寺の順虎に住持職は駿河増尾(慈悲尾)※増善寺長老の指南としており、増善寺の支配を受けるようになった。今川氏は寺領5町歩程を安堵したが今川氏滅亡の中、衰微してしていったであろう。(森町通史編より)

※ニ貫文:室町時代のニ貫文は今の金額に換算すると20万円くらいに相当します。毎年この金額を納入する寺院が大と見るか小みるかは異なりますが、小規模・弱体化していると推測できると思います。

※請負金額:20貫

※円通松堂禅師語録:松堂高盛(しょうどうこうせい)(1431~1505)。以前にも説明したかもしれませんが。遠江国佐野郡寺田村の生まれ、7歳のとき円通院の大輝霊曜の元で薙髪し高盛と称し、1452年(京徳元年)足利学校に学び儒・佛・詩等の学問を修め1458年(長禄二年)寺田に戻る。天台宗安里山長福寺住職が再興を曹洞宗僧高盛に託して去った話は有名です。また明応三年(1494)から同六年の原氏が滅亡するまでを記録した。

※増善寺:大雲院でも触れていますが、静岡市葵区慈悲尾にある曹洞宗の古刹。今川氏親の菩提寺。

 

1979年に日本楽器製造(株)が出した「観音堂横穴古墳群発掘調査報告書」・「研究報告第二集」があります。ゴルフ場造成工事に伴う発掘調査でしたが、100基を超える大規模な横穴古墳群では貴重な線刻壁画の発見など、当時話題となりました。その報告書の中に14~15世紀に成立した中世墳墓の副葬などから、寺院と密接な関係を持った寺院墓地の報告があり、また同報告書の中で5体の人骨の埋葬者の土壙墓について、観音堂横の5基の無縫塔・銘文との関連から、17~18世紀中葉の真言系僧侶の墓であるとしています。観音寺について報告書は「観音寺は『遠江風土記傳』巻九(寛政五年1793)には観音寺跡と記載されていて、近世末には草庵が僅かに存するだけで、在住する平僧のいない、名ばかりの寺院となっていたようです。そして最終的には明治四年廃寺となって、本尊は翌年飯田地区内る同じ真言宗寺院の遍照寺境内へ移転されている。略 この観音寺は中世末のいくつかの資料にも散見される寺であり、それらによれば今川義元以来の祈願所として寺領五町を寄進された有力寺院であり、開山を同じ頃の□虎としている。その後同寺の住職は鷲参-宋咄-順虎と相伝されたようであるが、これらの僧は真言宗派ではなく、同じく今川氏の帰依によって興隆した隣国駿河の曹洞宗寺院である増善寺の門派に属していて、この時期の観音寺は増善寺の末寺であったと思われる。こうした中世末と近世とにおける宗派の相違は、今川の没落を契機とした廃寺→真言宗派による再興という変遷を窺わしめるものである。近世観音寺は除地1石2斗8升1合という弱小寺院であり、中世観音寺と関連する周辺地名などから推測される往時のおもかげは既に失なっていたものであろう。」と報告しています。(写真2枚は発掘時の観音堂付近)

  写真は観音寺絵図・・江戸後期には観音堂だけになっているが、寺中からは平安末期の遺物が多く出土し、坊の跡ものこっていた。(図説森町史)

観音寺が森町の歴史に残した意味の大きさの概要は推測出来ました。栄枯盛衰を重ねたこの寺院がいつ頃観音霊場としてかかわりだしたのでしょうか。今川氏の祈願寺として、密教寺院から曹洞禅の支配に代わった頃と考えるのが妥当と思われます。本尊様は十一面観音様で行基作と言われてきました。此の観音様についての記録はなく、明治に入り高平山に移転すると新たに観音像が作成(明治37年8月再製・仏師大橋釼之介作)されており、その時点でどのように扱われたのか今となってはわかりません。

 

〇高平山 遍照寺

周智郡森町飯田2130

明治五年(1872)から平成30年(2018)までの146年間(観音堂は平成14年解体、16年間は本堂で祀る。)祀られた遍照寺について案内します。

親近感を以て「たかひらさん」と呼ばれています。「森町ふるさとの民話」に「高平山の鈴の音」という昔話があります。

 東海地方で最も大きいといわれている青銅の大仏様で知られている下飯田の遍照寺(へんしょうじ)には小さなお堂があります。このお堂は開山(かいざん)の木喰秀海(もくじきしゅうかい)というお坊さんをまつってある開山堂です。伝説によりますと秀海上人(しゅうかいしょうにん)は、鈴を鳴らし念仏をとなえながらここにうめられたということです。

関東大震災(大正12年)の2,3年前のある冬の夜のことです。山梨に住むあるおじいさんが、便所に起きたとき、どこからか、鈴の音がかすかに聞こえてきます。不思議に思いましたが、その夜は、そのまま寝てしまいました。 ところが、次の夜も、その次の夜も鈴の音は聞こえてくるではありませんか。そこで、近所の人たちに話し、ある夜、その鈴の音をたよりに、鈴の音の主(ぬし)をさがすことになりました。 鈴の音に耳を澄ましながら進んでいくと、だんだんと高平山(たかひらさん)に近づき、さらに山に登っていきます。そして、その音は、開山堂に消えていきました。 この話が広まっていったとき、村の人たちはいろいろなことをいいました。秀海上人がうめられるとき、「わたしが振った鈴の音が聞こえたら、もう一度ほりかえして新しいお堂を建ててほしい。」と言った。また、日本の国に大きな出来事が起こる前にわたしが鈴を振るから、鈴の音が聞こえたらきをつけなさい。と言った。とか言いあいました。

関東大震災の2,3年前から聞こえた鈴の音も、大震災のあと、ぴたりとやんで、それ以後聞こえませんでした。(森町ふるさと民話より)

〇高平山 遍照寺について:森町史通史編上巻 平成8年発行

遍照寺は本末関係では後に紹介する、袋井市山梨に所在する真言宗の古刹安養山西楽寺の末寺である。この寺は近世前半には木食聖を名乗る勧進聖たちが住職を勤めて栄えていたが、焼失し、天保年間頃には弘法大師堂と青銅製の大日如来像が残るだけとなった。この頃にはその名称も高平山弘法大師堂と称するようになり、堂守だけが置かれる程に衰退していた。(遠淡海地志)

木食とは本来は五穀を断つことを誓願し、これを修行の第一義とする修行者のことを指すが、この頃の遍照寺の木食聖はむしろ勧進聖としての性格が強く、こうした勧進聖の中遠での活動拠点となったのが遍照寺でした。

 (写真は上から旧観音堂・遍照寺の表札・遠景・近景・本堂前のオオヤマレンゲ)

遍照寺の由緒として、森町史資料に(明治45年発行・森町史資料刊行会)に「元和元年(1615)紀伊国高野山の住僧、木食秀海上人諸国遍歴の後、遠江国に来たり、遠近郷里の帰依を受く、殊に飯田村の寿徳と申す者、深く秀海上人を尊崇し、時に村内を探るに、峰平にして清浄無塵、極めて密場の地を得たり、依って彼の寿徳は大願主と成り、村内より其山芝一町四面余り秀海上人寄進致し、堂舎を建立し、弘法大師を安置せり、然して山により高平山と号し、大師の名号を以て遍照寺と名ずく。 除地高は一石五斗五升一合、当世迄九世に及ぶという。 境内に仏堂あり、本尊は観世音菩薩にして、飯田村観音寺にありしも、明治五年四月、浜松県庁の御達により、当寺境内へ奉祀せり、又大日如来一丈六尺の銅像(座像)あり、享保三年、遠近の善男善女の信施を受け、本寺西楽寺中興八世法印尊照の建立(開眼)なりと伝う。」

  高平山大仏について、説明版には昭和53年4月1日長指定文化財として「法界定印(ほうかいじょういん)を結んで座る胎蔵界大日如来像で、露座の金仏では東海地方最大のものである。六角形の冠をつけ、粂帛(じょうはく)を懸け、腕釧臂釧(わんせんひせん)をつけ、裳(も)をつけ右足を外にして結跏趺坐(けっかふざ)する。青銅製の縁結びの大仏である。八葉の蓮華座には、ぐるりと願主・鋳物師・寄付の施主名と金額がびっしり刻まれている。九年の歳月を経て1718年(享保三年)に造立され、勧進願主は遍照寺住職である木喰直心が務めている。その勧進に応じた遠州一円の村は、東は掛川から西は天竜川筋までの130ケ村にも及んでおり、355両3分200文が集まっている。江戸鋳物師太田近江が配下の鋳物師とともに鋳造したもので、森町住で徳川家康から御朱印を与えられ、遠江・駿河両国の鋳物師を支配した山田七郎左衛門が、駿遠両国鋳物師総大工職として名を刻んでいる。総高5m」と平成15年1月に森町教育委員会によって案内板が掲げられています。

少し脱線して、駿遠両国御鋳物師総大工職・山田七郎左衛門の下に制作された、高平山の胎蔵界大日如来像と菊川市の※大頭竜神社にある青銅製鳥居を比較してみます。

(写真は如来像と鳥居と寄付者名)

大日如来像は享保3年(1718)完成開眼。9年の歳月と浄財355両余・青銅鳥居は文政7年(1826)造立。3年半の歳月と寄進467両余(鳥居に刻まれている額の単純合計値)で※現在の金額に換算しますと、如来像が約2200万円・鳥居が約5600万円相当となります。 高平山の場合は木喰聖の勧進活動に呼応した篤信者による信仰色が濃く、大頭竜神社の場合は有力者を世話人として、宿・村々に奉加帳を廻す組織的な勧募方法による信仰色が強いように思われます。どちらも太平洋戦争への供出をかろうじて免れた貴重な文化財です。単純な比較は不遜ですが、敢えて紹介がてら掲載してみました。

※大頭竜神社:菊川市加茂にあり「大頭竜神社覚え書き」によれば、比叡山の日吉神社から大山昨命、大和の大三輪神社から大物主命を分霊して延暦11年(792)に天台宗大龍院の奥の院として祀り始める。天正8年(1580)避難先(富士)から帰村し本殿が再建される。その後本社・社殿・拝殿など増改築され徐々に整備されていく。現在の銅屋根本殿は大正14年から昭和3年にかけて建立されました。(1925~1928)

大頭竜神社の唐銅鳥居造立については「唐銅大鳥居造立之次第」が残され、文政4年(1821)奉加帳前文には「大頭竜大権現御本社造営其外社頭普請追々出来仕候へ共鳥居の儀不相当に有之候につき今般発願仕り唐銅御鳥居奉納仕度くと存じ候処難叶自力無拠各々様へ御助力相願候此旨宜敷く御承知御寄附下され候様奉願上候 尤も御奉納金の儀は神主方へ申し入置候間御参詣の砌り札場まで御届けくださる可く候 其節請書差上 猶又神前へ御姓名懸札可仕候 御寄附の程奉願上候以上」とかかれ、奉加帳は廻され、ここで集められた資金で高さ一丈八尺(約5.5m)間口一丈二尺五寸(約3.8m)の鳥居が三年半の歳月を要して、文政7年(1814)九月八日造立されました。(掛川市 舟木茂夫氏「いわちどり」四・大頭竜神社をめぐってより)

※金額換算:享保時代は米一升80文・一両62500円 文化文政時代は米一升120文・一両120000円として計算した。大日如来像には、ほぼ一両以上の浄財施主名が刻され、唐銅鳥居には一分(金100匹)以上の寄進者の名が刻されています。(その数は村・個人合わせて1100件を越し、その内訳が村、地域、講中等個人以外が376件に及び、勧募区域も信濃・相模・伊勢などの広範囲に及んでいます。)

〇西楽寺

以前、第八番月見山観正寺の案内で山梨と月見里の事柄を記しましたが、その中心はここ西楽寺にあると思われます。古刹であり、壮大な規模であったことが窺われる寺院です。袋井市では遠州三山と銘打ち、法多山・可睡斎・油山寺としていますが、真言三山として、油山寺の本寺西楽寺を入れる呼び方もされています。

 (写真は西楽寺本堂・静岡県文化財・昭和55年)

 本堂扁額:揮毫者は動潮(1709~1796)智山派第一の事相家といわれ、安永2年(1774)智積院22世住職。本堂屋根葺き替え(1787)頃の揮毫か。

「西楽寺」の寺名は古来より変わっていません。西方浄土を楽(ねが)う寺は阿弥陀如来を本尊様としています。またそれは阿弥陀信仰が盛んとなる平安後期の隆盛を指し、寺院としての最盛期はこの頃からと想像されます。

1997年(平成9年)御住職 丸山照範氏が記された文章から西楽寺を紹介します。「袋井市最北端に有り、市内最古の寺です。奈良時代・神亀元年(724)開創のお寺で、平安時代の寛治年間(1087~1093)には六条右大臣源顕房公(みなもとのあきふさこう)、堀河天皇の援助を受け、真言霊場として大いに栄えました。また、永正三(1506)年には足利十一代将軍義澄公より寺領六町が安堵(ど)され、その後も今川義元・氏真公、足利十三代将軍義輝公、豊臣秀吉公、徳川家康公をはじめとする代々の将軍から寺領を安堵され、学山といわれるほど多くの学徒が集まっていました。そして、慶応四(1868)年の明治維新の年には、有栖川宮(ありすがわのみや)が官軍五千の総大将に、参謀として西郷隆盛ほか三名を置き、東海道を江戸へ向かいます。途中、西楽寺不動明王の宝前において先勝祈願の御祈祷を行い、無事に江戸城無血開城ができたことを感謝し、この年から西楽寺が有栖川宮家のご祈祷所となりました。西楽寺本堂は、江戸時代・享保十三(1728)年に再建された本堂で、昭和十五年に内陣の厨子とともに県指定文化財となりました。しかし、長年風雨にさらされて老朽化が激しく、倒壊の危険もあり、平成三年から工期三年半、総工費二億八千万円をかけて修理されました。以下略」

 

※「西楽寺記」(延宝八年・1681)によれば、開山を1300年前聖武天皇が行基に命じたとされています。また規模も最盛期には12坊の塔頭寺院を持ち、堂塔伽藍を構えた大寺院だったようです。寺歴としてはっきりしてくるのは今川時代ですが、西楽寺に祀られています多くの仏像や平安時代の仏像からも規模の大きさを窺うことができます。(阿弥陀如来像・薬師如来像共に平安後期の作とされる。静岡県指定文化財)

(写真は江戸時代の西楽寺境内絵図)

※西楽寺記:(殿堂社伽藍縁記書上控) 遠州西楽寺堂社之覚として一、本堂 本間八間四方 一、鎮守 九尺之宮 一、末社荒神 三尺五寸之宮 一、末社天神 三尺之宮 一、拝殿 本間二間半七間 一、御供所 本間二間五間 一、稲荷宮 三尺五寸之宮 一、護摩堂 本間五間六間 一、釈迦堂 本間三間三間半 一、弘法大師御影堂 本間三間三間半 一、鐘楼堂 二間四方 一、仁王門 本間三間五間。これは延宝七年(1680)に西楽寺が寺社奉行に提出したもので、縁起についても記しています。「遠江国周知郡山名庄宇刈之郷西楽寺者、聖武天皇御暦神亀元年(724)甲子行基菩薩為草創梵閣中古堂社退転之時節、寛治元年(1087)丁卯 堀河院御宇六条右大臣顯房公企再興、備 叡慮改成真言之霊場醍醐報恩院為末寺、然所仁武田信玄公遠州江発向之刻、西楽寺堂社仏閣被及放火候、此旨 権現様江於濱松奉達 上聞候、或時仁西楽寺江被為立 御馬、駿州達穂寺院主坊幸遍被 召出、西楽寺被成下御祈祷所与被成 仰付候、以来御祈祷之護摩無懈怠致勤行、護摩之御板札従其砌 御城江差上申候、幸遍西楽寺致拝領右之通堂社仏閣建立仕候、雖然至近此仁堂社零落仕候ニ付葺替支度奉存候得共、近年買人手前榑木不自由ニ而自分ニ修復不罷成候故達高聞候、遠州船明二而御榑木弐萬丁御拝借被為 仰付被下置候者難有可奉存候、以御憐愍を堂社葺替罷成申候者、上納金之儀者西楽寺領百七十石之内本尊鎮守之修理領五十石 御寄附御座候を以、差上申様ニ被為 仰付被下置候者難有可奉存候、仍御訴訟之趣粗言上、如件」と記されています。

〇御詠歌

たからをば ぐぜいのふねに つみおさめ ごしきのしまえ つくぞうれしき

山本石峰氏は「宝をば 弘誓の船に 積みをさめ 五色の島へ 着くぞうれしき」として、その意味を「弘誓丸に衆生済度の宝を積み込んで、観世音船長は 大慈大悲の帆を挙げて、五蘊皆空の島へ入港した 万歳万歳万々歳」と訳しています。

この歌を詠んだ作者は、観音寺の山号「東補陀落山」を当然意識していたのではないかと思われます。

〇付記

観音寺について先記の山本石峰氏は「巡礼物語」内「遠江巡礼札所夢物語」の冒頭に、この調査の発端は森町の大洞院の歴史を研究していく中で、周智郡内の二ケ寺(観音寺と蓮華寺)が何らかの理由(縁)によって札所に選ばれたとの仮説から始まった。と記し「観音寺と崇信寺」「崇信寺と今川家」と項目を付けて書しています。「飯田村 観世(音)寺」:観世(音)寺は飯田村にあり、今は草庵となる。昔行基菩薩の開基なり。寺記に曰く西楽寺ありて淳和・仁明両朝の勅願所なり。官符を以て寺田を賜る。今千石地に準ず。後武家のために滅せられ、今川氏真より寺田十六町を寄せらる。住僧順虎は祈祷に誠情なり、氏真眼病を愁いて此の観音に詣ず。夢想ありて、閼伽の水をもって洗眼せしに、忽然として病癒えたり。今に井水湧出せり。「崇信寺と今川家」:駿東郡浮島村井出の大泉寺は石叟派崇信寺の末寺にして、同寺□世の開山とす。今川氏八代氏輝卒後に継嗣問題起こるや、寿桂尼は東駿の動揺を虜りて、其の咽喉に当れる浮島原を確保して、之を監視せんとす。而して浮島原の向背は大泉寺の帰趨如何にあり、依って大永五年六月大泉寺に交渉し、寺領を増加し、忠勤の力を求めて、東顧の憂いを除けり。義元戦死の後十代氏真は大泉寺和尚の配意にて飯田観世音に祈願を込め、眼病平癒し寺田を符進し報恩を致せり。」

このことから、今川との縁により大切な処との認識から札所に選定した旨が推測されます。

〇蛇足

今回の「観音寺」は調べるほどに、規模、歴史のボリュームの重さに圧倒されます。勿論観音霊場に参画したころには縮小していましたが、いにしえへの思いは膨らみます。「高平山」は親しみやすい山でした。今回受けてくださった「西楽寺」については多く勉強する事柄や、寺院が蔵している千を超す古文書類に興味がわきますが、菲才な私が下手に手出しできるような次元ではありません。西楽寺からはホームページやパンフレットも出されていますから、それらも見ていただくことをお奨めします。

パソコンのキーボードをたたく合間に外に出てみると、モクセイの香りが・・・、昨年の今頃はヒガンバナを追いかけていたななどと思いつつ、今回の長すぎた気まぐれを反省しつつ・・・。 (令和元年9月18日)

 

 

 

気まぐれな巡礼案内㉕

投稿日:2019/05/18 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

平成から令和と元号が代わり、新年を迎えた時のような印象を持つのは、大方の人の思いではないでしょうか。ただ狂騒ともいえる思惑と過剰な報道にはいささか閉口します。歴史が教える通り「天皇」を時の権力が利用する構造は変わらないということが後々証明されるのでしょうか。「君が代」を唄いながら「俺が代」だと。

大型連休と重なった五月一日、札所に御朱印を求め参拝される人も多く見かけました。皆それぞれが節目にあたり、新たな希望を抱きつつ・・・。

「万葉集」巻五、梅花の歌三十二首序文 〃時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑く(きよく)風和(かぜやわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かを)らす。加以(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて 蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに 封(こ)めらえて林に迷(まと)う。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。〃からの出典とのことですが、「令」が「冷」にならないよう平穏であってもらいたいです。

今回は14番札所 大雲院内知蓮寺を案内します。

瑞霧山 大雲院 掛川市上垂木87 電話0537-26-0553

1号線バイパス大池インターチェンジを降りて北進、大池インターチェンジ北の信号を直進しますと1キロ程で左手に桜木小学校があります。その500m程先、宮下橋の東側が県道原里大池線の馬場。この辺りが「年々(ねんねん)」です。東手入口に石塔(写真)が建ち、道なりに300m程で山門に到着します。

  
14番札所は「※知蓮寺」⇒「地蔵院内知蓮寺」⇒「大雲院内知蓮寺」と移り変わっていきます。 「知連山中(やまなか) お医者がいない お医者どころか 道もない」(異説有り)と地口で囃された辺境の地も 今では「ねむの木学園」のある「ねむの木村」として全国的に知られるところとなっています。

知連にあった知蓮寺の観音様は後に坂下(さかした)の「地蔵院」に移され、「地蔵院」廃寺により 現在「大雲院」に祀られています。(昭和50年1975)

「知連寺」について掛川誌稿上垂木村の項には「この村の上の山間に属村あり、東を知連、西を山中といい、その山高からずして渓間各深く入れり」と説明されています。また同書に「知連寺」について「知連寺に観音堂あり、地名を知連と呼ぶを以て思えば、古き寺と見えたり」とのみ記されています。

知蓮寺の正確な場所について※鈴木氏は古街道研究調査報告「遠江三十三所観音霊場巡礼道」(2015~)の中で「※桜木池付近の山頂(観音山)であることがわかった。」と記し、また地蔵院跡の項の中で「地蔵院跡地の尾根を北上すると知蓮寺跡地の観音山山頂(159m)に出る。」と報告しています。このことから現桜木池の南側の山頂の平坦部が該当します、最近まで白山社が祀られ、例年「初日の出会」も行われ眺望のよい場所です。茲に観音堂はあったようです。一説では桜木池の東山頂部に知蓮寺が在ったともいわれ、知蓮寺の境外地境内の可能性や知蓮寺の伽藍が広範囲に点在していたとも考えられます。

桐田幸昭著「史跡遠江三十三所観音霊場」に「掛川市倉真に知連段という所あり、この辺りの女、上垂木に嫁してこの地名を移すか」との伝承があることを記していますが、何かと倉真とのかかわりの伝承が残されています。その一つは、原川の人が倉真に嫁ぐとき持仏として持ってきたが、祀る人が無くなり、お堂を造り祀った(遠藤貞夫氏談)その後知蓮寺に移した。もう一つは倉真の奥に松葉のお城があり、駿府から嫁いだ姫が海の見える観音山から遠く故郷をしのんだ。ともいわれ、ご詠歌の「三筋川」は松葉の滝のこと、という説もあります。

(知蓮に入ると桜並木が出迎えてくれます。)

※知蓮寺:知蓮寺の「ち」は「知」「智」「池」・「れん」は「蓮」「連」「漣」等統一されていません。

※鈴木氏:鈴木茂伸 静岡市在住 著書に「古街道を行く」「静岡ふしぎ里かくれ里」他多数。各所の古街道を精力的に踏査されている。「遠江三十三所観音霊場巡礼道」調査だけでも原稿用紙520枚に及ぶ。

※桜木池:安政時代(1854~)に造池・昭和29年「桜木池竣功記念碑」には水量24万立方メートル・受益面積200町歩とされています。 
 

 

「地蔵院」については、明治19年(1886)の「寺院財産明細帳」に上垂木村字神田3573番地 大雲院末 平僧地として 開創「当院開創は寛文八年(1668)三月八日 本寺大雲院五世秀鷟(しゅうさく)を勧請す 村内古き寺と申伝ると雖も寛政二年(1790)三月総伽藍古文書記等悉皆焼失いたし 開創以来の実事詳らかず 本尊の傍らへ聖観世音菩薩は行基菩薩の刻像 則ち本國三十三所巡拝場第十四番 往古より三十三年目開帳仕り来たり候也」と記されています。また、延享四年(1747)の「上垂木村差出帳」には「観音堂壱ケ所 弐間半弐間 茅葺 但 堂守無御座候二付 先年御断申上 地蔵院寺中へ引越申候」とあり、1740年代前半に地蔵院へ移され、昭和50年(1975)に大雲院へ移転修繕されるまでの230数年間は地蔵院寺中で祀られ、寛政二年(1790)の火災も乗り越えて現在にいたっていることになります。「地蔵院」は写真のようにすでに跡地は植林されて歴代の住職墓石・井戸・池・本堂に登る石段と地蔵石像が語るだけとなっています。観音堂は歴代住職墓の下段にあったようです。昭和40年にお開帳を執行してこの地での閉めとしたようです。  (左から石段跡・地蔵石像・住職墓)

地蔵院の山号を田車山(でんしゃざん)といいます。寺の下に「車田」(くるまだ)という処があることから採った山号でしょうか。車田とは田植えを中央から外に回りながら植える方法で、またそのように植えた田を言い、「和」を意識した山号のように思われ興味深いです。

現在祀られています大雲院について掛川誌稿では「瑞霧山 大雲院」として「駿州阿部郡慈悲尾(しいのう)村※増善寺末 年々ガ谷という所にあり、開山は増善七世蘭室宋佐和尚、天正十九年(1591)十月二十三日を以て死す。寺田十七石(十二石5斗六合3勺上垂木村 5石二斗六升下垂木村にあり)慶長八年(1603)九月二十五日、御朱印を賜いぬ。」とあり。先既「寺籍財産明細帳」には山号の由来などが詳しく記されています。開創として「当院開創は古代より当地字御嶽山という処に、御嶽山等持院という真言の一小院あり、開山宋佐 茲に寓居して法運を謀り天正三年に外宗して曹洞宗に帰す。右宋佐は駿河の国富嶽の霊峰を越え雲霧城畔の懸川に投入す。初龍門五葉の増善寺に住して後、御嶽山等持院に錫を移し、此の地に安心立命の大事を究め、茲に於て大雲を起こし遍法界無辺の雨澤を塵世に播し、曾て瑞雲を発し今古不変の酪味を人天に与う。而して山を瑞霧山と号し、寺を大雲院と名づく。開山は※勅特賜大鑑自照禅師 当山開祖蘭室宋佐にして、諸伽藍を建立し尚隣地芝間を田畑に開墾すること不少。当山六世裏外積州代に易地して諸伽藍を移築したり跡地不残開墾田畑となり、慶長八年(1603)九月二十五日徳川朱印。高十七石と改まり賜る。安永年中(1772~)に十世慧海忍教代、諸伽藍不残焼失す。同暦八年(1779)二月同住職 檀徒に化縁し本堂再建す。文政五年(1822)以来十三世契天代諸堂再建する処今現在す。嘉永六年(1853)十四世秀芳代惣門一宇新築す。両側に西國三十三所の観音石像を安置す。志願成就也。明治四年(1871)維新の際朱印高十七石不残上地す。」と書かれています。

※増善寺:静岡市葵区慈悲尾302にあり、地蔵菩薩を本尊とする。開基を今川氏親 明応9年(1500)曹洞宗に改宗(以前は真言宗 慈悲寺)今川家官家となる。徳川家康の幼少時(竹千代)よく訪れたことでも知られる。増善寺の本寺は高尾の石雲院。

※勅特賜:天皇から直接賜ることを勅賜。京から離れているため推薦を受け間接的に賜ることを勅特賜というか。(談)

 

   
 (写真は上から北側墓地から・西北側から本堂を・歴代住職の墓・光明寺主揮毫の額・垂木の由来となった大松の板に揮毫した額、揮毫者は西有穆山、総持寺独住3世貫主1821~1910・本堂内)

大雲院本堂の本尊様は聖観音菩薩で脇佛に例の如く、不動明王・毘沙門天が祀られ、当初密教寺院であったであろうことが窺われます(真言宗 御嶽山等持院)。以前にも触れましたが、この三尊形式の儀軌的根拠はありませんが、この形式の多さは気にかかります。

天台僧の円仁(慈恵大師・元三大師)が唐からの帰朝時 嵐に逢い、観世音菩薩を念じたとき毘沙門天が現れ、嵐はおさまった。比叡山に戻った円仁は一宇を建立し観音と毘沙門天を祀った(848)。その後良源が不動明王を加えて三尊とした(974)。この祀り方が横川(よかわ)三尊形式といわれ、全国に広まったとされます。

遠江霊場の多くの札所がこの形式の祀り方をしています。これはこの地域で70%以上を占める曹洞宗寺院が旧寺院の本尊様をそのまま受け入れて継続してくれたことを意味します。400年以前の様子が推測できる根拠となることはありがたいことです。また曹洞宗がどのような方法で教線を広げていったかも推測できるのです。

ここで少し脱線します。

日ごろ曹洞宗の読経を聞いていますと、「修証義」や「観音経」に続いてご真言を唱えています。「なむからたんのーとらやーやー なむをりやー ぼろきーちー しふらーやー・・・」禅宗の唱える真言は相当崩したために意味不明になっていると、昔言われたことを鵜呑みにしたために関心を持ちませんでした。最近になって、ふと疑問に思い、この「大悲心陀羅尼」を調べていくと、私ども真言僧が普段唱えている「千手観音陀羅尼」のことであるとわかりました。崩したわけではなく、呉音(正音)・唐音と訓み方が異なるだけの違いのようでした。真言宗の唱え方ですと「のーぼーあらたんのーたらやーやー のーまくありやばろきてー じんばらやー・・・」となります。慚愧を込めてこの真言の意味を、長いですが訳しておきます。この真言の正式名称は「千手千眼観自在菩薩広大円満無礙(ぶかい)大悲心陀羅尼」云い、略して「千手大悲心陀羅尼」とも言います。直訳しますと「三宝に帰依し奉る。聖なる観世音菩薩、摩訶薩、大悲尊に帰依し奉る。※オーム、一切の畏怖中に救度をなし給う。それ故彼の尊に帰依せば聖なる観自在尊の威力は生ず。ニーラカンタ(青頸尊)よ、帰依し奉る。我れ心髄に回帰すべし、一切利益の成就、浄行、無勝、一切生類の生き方の浄化を願うべし。則ちオーム、世界を見抜くものよ、世界を見抜く智慧を持ったものよ、世界を超越的に見抜くものよ、オーオー、導くものよ、大菩薩よ、深く内省し給え、心髄を、為せ為せ働きを、完成させよ完成させよ、運べよ運べよ、勝利者よ、大勝利者よ、受持せよ受持せよ、受持自在王よ、進め進め、塵垢の離脱よ、無垢解脱よ、来たれ来たれ、世自在尊よ、貪欲の毒を消除し給え、瞋恚の毒を消除し給え、愚痴動揺の毒を消除し給え、フル、フル、マラ、フル、、フル、マラ、フル、フル、ハレー(文意不明)、生蓮華臍尊よ、サラサラ、シリシリ、スルスル(サラサラと流れ出よ)、悟れ悟れ、悟らしめ給え、悟らしめ給え、悲しみあるニーラカンタよ、愛欲の砕波に満足し歓喜せり、スバーハー。成就のために※スバーハー、大成就のためにスバーハー、成就瑜伽自在のためにスバーハー、ニーラカンタのためにスバーハー、猪面獅子面容損のためにスバーハー、蓮華手尊のためにスバーハー、宝輪相応尊のためにスバーハー、螺貝音声尊よ、菩提のためにスバーハー、大宝瓶執持尊のためにスバーハー、左肩方位に位置する黒色身勝者のためにスバーハー、虎皮衣服被着尊のためにスバーハー、三宝に帰依し奉る。聖なる観自在尊に帰依し奉る、スバーハー。オーム、彼らは成就せよ、真言句のためにスバーハー。」という意味になります。

なおこの陀羅尼文では、千手観音はシバ・ビシュヌ等のヒンズー教の神々のあらゆる特性を兼ね備えた神として称えられている。(意訳等 八田幸雄著真言事典より)

この陀羅尼の功徳は、臨終のとき 十方から多くの仏さまが来て、自分が願う浄土に導いてくださる。また心に無量の三昧を得て、あらゆる願いをかなえ、あらゆる罪障を無くし、※十五種の善生を得て、※十五種の悪死を免れる功徳があるとされています。(密教大辞典)

お経はお唱えするだけでも安心と、先祖供養になるのですが、ある程度内容が解って唱えるにこしたことはないでしょう。 お説教じみた寄り道でした。

※オーム:一般的には南無と音訳し、帰依・帰命

※スバーハー:訳としては成就を意味しますが、言霊として扱っているようです。

※十五種の善生:①所生の処に常に善王に逢う。 ②常に善國に生ず。 ③常に好事に値う。 ④常に善友に逢う。 ➄身根常に具足することを得る。 ⑥道心純熟する。 ➆禁戒を犯さず。 ⑧所有の眷属恩義  和順する。 ⑨資具財食常に豊足することを得る。 ⑩常に他人の恭敬扶接を得る。 ⑪所有の財宝他に劫奪せらるることなし。 ⑫意欲の求むるところ皆悉く称逐する。 ⑬龍天善神常に擁衝する。 ⑭所生の処に佛を見る。 ⑮所聞の正法の甚深の義を悟る。

※十五種の悪死:①その人をして飢餓困苦して死せず。 ②伽禁杖楚(かきんじょうそ)のために死せず。 ③怨家讐対(えんかしゅうたい)のために死せず。 ④軍陣に相殺するために死せず。 ➄犲(虎)狼悪獣の残害のために死せず。 ⑥毒蛇蚖蠍(どくじゃがんかつ)にあてらるるために死せず。 ➆水火の焚漂(ふんひょう)するがために死せず。 ⑧毒薬にあてらるるがために死せず。 ⑨虫毒に害せらるるがために死せず。 ⑩狂乱に失念するがために死せず。 ⑪山樹崖岸より墜落するがために死せず。 ⑫悪人に厭魅(えんみ)するがために死せず。 ⑬邪神悪鬼の便りを得るがために死せず。 ⑭悪病の身に纏うがために死せず。 ⑮非分の自害のために死せず。  (「禅宗の陀羅尼」木村俊彦・竹中智泰著より)

〇大雲院の鎮守について

この寺院の鎮守は現在白山社など多くを合祀して祀られていますが、「寺籍財産明細帳」に依れば、「鎮守堂」として縦四尺横三尺の建物に「雨宝童子」が祀られています。
神仏習合理論から生まれた両部神道(真言宗)があり、その特徴的な神が雨宝童子です。ここからもこの寺院が御嶽山等持院(真言宗)を引き継いでいることがわかるのですが、江戸期には除病・招福のご利益あらたかとして、篤い信仰を集めた神です。天では、月日星となり、日本では大日霊(おおひるめ)月夜見(つくよみ)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の三神となり、インドでは毘盧遮那(びるしゃな)阿弥陀、釈迦の三身となり、中国では伏義、神農、皇帝の三聖となり、全てに遍満する強大な神とされ、又その姿は天照大神が日向に降りた時の姿とされています。この地域で「雨宝童子」が鎮守として祀られているのは珍しいです。

〇観音堂

   (観音堂・堂内・御詠歌・お厨子)

昭和40年地蔵院でのお開帳を済ませ、昭和50年に大雲院内に移築(回廊の撤去・屋根替え修繕等)、その後お開帳を執行し現在に至っています。本尊聖観音様は行基菩薩作と云われ、遠州霊場第5番も兼ねた観音様として信仰を集めています。

〇ご詠歌

とうとやと きていまたきの みすじがわ よろずよかけて すすぐぼんのう

山本石峰氏は御詠歌を 十四番地蔵院として「尊とやと 来て今滝の三すじ川 萬代かけて そそぐ煩悩」と書し、「和歌の本体」で、慈悲無量の観音力を杖と頼んで来て見れば、三途の川に出逢えた。さて、善悪中有との川の水で煩悩の垢を洗落すか 思案中だ。と解説しています。

あえてみすじがわ(三筋川)を「三途川」と書くことにより、地獄・餓鬼・畜生のどこに堕とされるのか、はたまた川の水が煩悩を洗い落とし極楽浄土に向かえるか・・・よくよく考えなくてはと問うています。〃萬代かけて〃とは 急ぐことはないよ、業は必ず転生して極楽に生じるから。との答えが隠されています。

御詠歌の三筋川は知蓮桜木池辺りの川筋でしょうか、広く垂木川・原野谷川・逆川を俯瞰して詠んでいるのでしょうか。また倉真の松葉の滝が筋状に流れるさまを詠んでいるのでしょうか。 歌に詠む みすじがわ が合流して観音様が三度目のこの寺院にいつまでも留まることを願わずにはいられません。

今回大雲院と境内に祀られている知蓮寺を案内させていただきましたが、大雲院の開祖蘭室宋佐和尚の師僧仙翁崇滴和尚は今川氏親の妻、寿桂尼を弔う寺院を開山した人でもあり、本寺増善寺は今川の菩提寺です。ここにも今川氏との関係が色濃く出ています。

広大で緑豊かな境内をのんびりと散策してみてください。珍しい樹木や花、多くの石碑等まだまだ案内しきれない所が多くあります。また、時間が有りましたら知連山中の「ねむの木村」を訪れるのも良いですね。  (今年も咲いたシライトソウとホウの花))2019年5月

 

気まぐれな巡礼案内㉔

投稿日:2018/11/08 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第26番 杖操山(じょうそうざん)妙国寺 本尊十一面観世音菩薩

島田市神谷城(かみやしろ)1609

御詠歌  はるばると 参りて拝む観世音 罪深くとも 救いたまえや

旧国1(県道415号線)を東進し前々回案内しました「常現寺」の横を静岡方面に進み、小夜の中山トンネルを越え島田市(旧金谷町)に入ります。トンネルから500m程先を右折南進します。国1バイパス下を通り抜けますと、現在473号線国1バイパス取り付け道路の工事中(2021年完成予定)の先が菊川の宿ですが、なお南進し約1Kmで第25番松島岩松寺入口となります。そのまま進みJRを超え、右手保育園の先を右折し水神橋を渡りますと100mほど先を写真のようにJRのガードをくぐり(マイクロバス不可)、左手に向かい26番妙国寺です。以前は「砂の灸」の大きな看板が南北に走るJRの車窓から見られました。

  
「掛川誌稿」では「西深谷村」の項に「菊川の南にありて、川流に傍へる村なり。其の西岸にあるを西深谷と呼び、東岸にあるを東深谷と呼ぶ。両山に挟まれて、深谷にある故に村名とす。東深谷は榛原郡に属せり。」と記され、また「妙國寺」として「曹洞、金谷駅、※洞善院末、公文名と云う所に有り。本尊十一面観音、二十六番札所」と記されています。

 

〇 妙国寺は昭和48年(1973)に開帳をしています。その開帳記念として「遠江三十三ケ所 観音札所 御詠歌」の冊子(写真)を出しています。その中で26番妙国寺の歴史について「二十六番妙国寺付近は応仁の乱より戦国時代に入る頃には人々の移動激しく、街道筋から少しはずれた場所で隠棲する人が住みついたものと考えられる。(500年前・1470年ごろ) 妙国寺も凡そ460年くらい前(1510年、室町時代後期)に、現在地より300m程登った「寺の跡(てらがいと)」と言われる場所に普門殿という観音堂が創られ、後に寺となる。(356年前、1616年元和二丙辰年。妙国寺過去帳による。)その後の256年前、1716年享保元丙申年5月14日示寂の金谷洞善院9世実参黙真大和尚が開山となり、現在地に移して普門山明国寺とす、文化のころに妙光山妙国寺とし、明治末期頃に現在の杖操山妙国寺となる。」と序文に記しています。
昭和63年(1988)浜名湖出版発行(発行人 瀧 茂)の「心の旅路を歩く」と題する遠江三十三観音霊場巡拝の案内誌が発行されています。 表紙の写真は妙国寺の人たちの巡礼風景を撮影したものです。当時 寺の管理者は相良(現牧之原市)心月寺の小柳良孝住職(1994・平成6年寂)で「砂の灸」も小柳住職が施療していました。一方熱心な観音信者で巡礼の先達をされた方が、妙国寺の隣家の落合義男氏(2011・平成23年没)です。彼の功績は普段札所を守り、多くの人たちを巡礼に導いたことだけでなく、巡礼道の旧道調査を行い、昭和63年には「古人の歩いた遠江三十三観音巡礼」地図発行(写真)や道標の掘り起こし等多岐にわたり、巡礼者の顔として晩年まで一筋に尽くされました。 現在は空き家となってしまっていますが、いつの時代も熱心な信者がいたからこそ札所も守り続けられてきたのでしょう。篤信者の力に負うところ大とともに「つないで行く」ことの大切さも教えられました。

 
※洞善院:島田市金谷100番地にある曹洞宗の古刹。金龍山洞善院。天正15年(1587)哉翁宋咄(さいおうそうとつ)(天龍円鑑禅師)を開山とする。なお開山哉翁宋咄和尚は今川の家臣朝比奈氏の出。

石高10石 現在の本堂は文化2年(1805)再建。「金龍山」の扁額は日坂常現寺同様 月舟宗胡筆。当寺はかつては11の末寺を持っていた。24番観音寺も同院の末寺でした。

〇「※菊石」について

境内にはいると、いくつかの丸い石が置かれ、目に付きます。

  
厳密には「菊石」ではありませんが、一般的に「菊石」と呼び慣わしています。菊石については「掛川誌稿」でも若干触れています。「菊川に出つ、其の石平圓にして厚からす、又其質脆くして摧け易し、大鹿村田間の路蒡に二枚あり、太鼓岩と呼ぶ、又川の中に三枚あり、径ニ尺余、三尺には足らす、同村宝盛寺にあるは車輪の如し是又菊川より出つ、渓流奔激の間にして破裂して、菊及亀甲の文をなすもの也、或は菊川の名此石あるより起るとも云へり」と記され、昔からこの地域の珍石・名石として認められていたようです。

「菊川」の名前の由来ともなりましたこの石について少し詳しく見てみましょう。

   写真は左から「夜泣き石」「亀甲石」「亀石?」「子生まれ石」

妙国寺に置かれている「菊石」は「馬蹄石」といわれるもので、大きくはこの「馬蹄石」の中に「菊石」「亀甲石」「亀石」「子生まれ石」「玉ねぎ石」などが含まれると思われます。また「亀甲石」」と「亀石」は同じで違いはありません。「菊石」「亀甲石」「馬蹄石」は菊川市富田上・掛川市東山小鮒川・島田市佐夜鹿などの菊川最上流部などで多く産出していますが、最近の(平成30年)庭石採取場所聞き取り調査では倉沢区域まで、今少し広範囲で産出されています。「子生まれ石」は牧之原市西萩間の萩間川支流の崖が主産地で繭型のものも見られ、近くの※大興寺歴代住職の墓石にもなっています。

① 菊石や亀甲石はどのようにしてできたのでしょうか。

泥質の地層内に石灰分(炭酸カルシウム)が集まった部分ができると、その部分が硬い泥灰岩となって、ノジュール(塊)になります。➡その塊に割れ目ができる。➡割れ目に方解石(純粋な炭酸カルシュー

ム)が沈積され、方解石脈ができる。➡浸食作用が働き、地表へ現れて雨水があたると、方解石脈との部分が早く溶解されて、菊花(亀甲)状の模様ができる。 このようにして亀甲石はできるのですが、「菊

石」のように円盤状の形と放射同心円状の模様が、どうしてできたのかは不思議というほかありません。地層の圧縮が関係しているのでしょうか。

②地層は

これらの石が産出する地層は、古第三紀層(白亜紀の次で約6600万年~2303万年前)の三笠層群です。ただ「子生まれ石」は第三紀鮮新世(約500万年~258万年前)の掛川層群堀之内層という比較的新しい

地層で、割れ目や方解石脈もありません。(①②共に※氏家宏氏報告書の大庭正八氏書簡と菊川駅設置の菊石調査から)

 

※菊石:  写真は既記「掛川誌稿」の宝盛寺にあり、車輪の如しと記された菊石です。島田市佐夜鹿の公会堂敷地内に置かれ、鎌倉後期鬼神伝説にまつわる、上杉景定卿  と※白菊姫伝説発祥の「菊石」で直径約110㎝厚さ25㎝。この石は桜が渕(白菊姫が投身した渕)から引き揚げられ、姫の菩提のために宝盛寺に納め供養され、明治中期まで祀られてきました。昭和20年代に「夜泣き石」の場所に移されましたが〃伝説発祥の地に置くべし〃と平成15年から現在地佐夜鹿公民館敷地内に置かれています。(伝説の白菊姫は観音菩薩の化身により救われる)

※菊石伝説:今からおよそ七百年前の鎌倉後期、深山渓谷の菊川の里に鬼神が棲み、住民を苦しめた。そこで追手として遣わされたのが上杉景定卿。愛宕の庄司という長者の家に滞在するのだが、長者には一人娘の白菊姫がいた。景定卿はその美しさにひかれ、いつしか懇ろな仲になる。さて鬼神を退治した景定卿、いよいよ都へ帰る日となり、別れが忍びがたい白菊姫に観音菩薩像を形見として渡す。季節が移り、姫が身重になっていることを長者夫婦が知ることになる。問い詰められ、思い余った姫は、菊川の桜が渕に身を投げた。が不思議なことに沈んだはずの姫の身が再び浮き上がってくる。やがて気が付くとわが身が助かり、目の前には一人の老僧。この老僧こそ観音菩薩の化身、姫に都に行くよう勧めて立ち去る。一方姫の姿が見えぬ夫婦は、もしかして身投げかと嘆き、せめて身柄なりともと網を入れて引き揚げると菊花模様の石がかかった。夫婦は姫の菩提のため宝盛寺に納め、供養した。(2002年6月30日静岡新聞 石は語るより)

※氏家宏:(1931~2006)琉球大学名誉教授・日本古生物学会・日本地質学会  「中部日本の相良ー掛川堆積盆地の地質」(1962)・「静岡県西部、三笠層群の質構造」(1980)など、この地域で早くから調査研究され、産出される化石研究の先駆者。郷土の地質学者大庭正八氏は氏家氏に師事し、その影響を多く受けた。なお大庭正八氏は地質学より東海道の鉄道建設に関する研究やオット機関車の考証などその分野での造詣の深さで知られるが、「菊石」についての書簡の中で、御前崎の「風食礫」(静岡県文化財)にも匹敵する文化財であると述べ、菊石の散逸に警鐘を鳴らし、貴重な文化財を守るべき為政者の認識の低さを嘆いています。

※大興寺:牧之原市西萩間にある曹洞宗の古刹で龍門山大興寺。室町期総持寺八世大徹宗令禅師の開山。「子生まれ石」を歴代住職の墓石として、大きなものは1mを超す。ほとんどが繭形をしている。近くには「子生まれ温泉」があります。

  
 

〇御詠歌

はるばると 参りておがむ観世音 罪深くとも 救いたまえや

山本石峰氏は「※五濁の身と生まれ、煩悩に苦しむこの覇絆(きはん)は自力では解けぬ、是非お助けください。罪は深からんも※弘誓(ぐぜい)の願力で他力本願」と記しています。

※五濁(ごじょく):劫・見・煩悩・衆生・命の五つの濁りをいう。劫濁は時代(末世)に生じる天災や社会悪等悪世のこと。見濁は思想の濁りで。煩悩濁は衆生が煩悩に悩まされ、悪徳が世にはびこること。衆生濁は人の資質が心身ともに堕落し、低下すること。命濁は人間の知能生命が発達しなくなること。

※弘誓(ぐぜい):観音様があらゆる衆生を救って、彼岸に渡そうとする広大な誓願。

 

今回の案内では、観音様を縁として境内に置かれています馬蹄石に着目してみました。。なぜこの地域から産出されるのかは謎というほかありません。巡礼の途中にちょっと寄り道をして石巡りをするのも楽しいと思います

昭和40~50年代に山を崩し茶畑への開墾事業が進められ、土中から多くの馬蹄石が産出しましたが、そのほとんどが散逸してしまいました。小さなものは個人所有として家に飾られ、大きなものは庭石に置かれ歳月の中で分解し無くなっています。文化財として、又貴重な遺産としての見地からの保存がおろそかにされたからです。境内の石も、近在の庭に置かれた石も、何処で産出したのかが確定できなくなってしまい推測にならざるを得ません。

 

菊川の流れに沿ったこの地域に以前から気になっていることがあります。それは、西深谷、東深谷,石神、上倉沢、下倉沢、友田、吉沢から潮海寺に至るまで、薬師如来と牛頭天王の祇園信仰が広い範囲に残され、薬師信仰に基づいて村づくりを進めたのかと思えるほどです。潮海寺の信仰圏と云えばそれまでなのですが、薬師如来には脇侍佛として、日光菩薩・月光菩薩が控え、四天王が守り、十二神将が護法善神として守っています。これらを村民氏族に当てはめ、薬師曼荼羅を作り上げるという構図があったのではないか、という夢のような推測です。そう思わされるほどこの地域には氏神に「天王社」「津島社」が祀られています。村づくりが仏の世界観に基づいて行われたとすれば大変興味深いことです。

奇しくも本日11月8日は下倉沢の石沢家一統が祀る摩利支天の祭日です。(8日は薬師如来の縁日です)この氏族はかつては石神地区に住して四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)を氏神として祀っていました。其の後上倉沢に移動し、棚田百選にも選ばれている「千框(せんがまち)」を開発します(1000枚を超える棚田)。この頃何らかの事情によって氏神を摩利支天に変えています。その後下倉沢に移動し現在に至っています。今ではこの一統が千框を作りあげたことすら忘れられています。何故猪に跨り、光と速さを象徴する摩利支天に変わったのか問うてみたいのですが・・・。まもなく2019年平成最後の年 亥歳を迎えます。