静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

気まぐれな巡礼案内⑳

投稿日:2018/05/03 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第22番 天王山 観泉寺内長福寺 掛川市東山1219 本尊 千手観音  鎮守 白山妙理権現

今年(平成30年)は例年になく季節の移ろいが早いようです。三月末には桜も散り、四月半ば新茶の摘採が始まり、お茶を基幹産業とするこの地域では五月二日の八十八夜頃まで忙殺される日々が続きます。

世界農業遺産に認定(2013年)され、茶草場農法の要となっている東山に茶摘みが始まったころ訪れてみました。

     
日坂から粟が岳に向かって行けば要所に看板があります。粟が岳の東に位置し 三角の曲輪風の寺の段に山門と塀に囲まれ要塞のようにお寺は建っています。

22番観泉寺から眺める粟が岳は濃緑の茶文字が一段と鮮明に映えます。京都の東山との文字縁により、大文字をヒントに造られたのでしょうか。いつの世も人は象徴的なものを作り出し、様々な思いを投影しようとするのでしょうか。

粟が岳に目を奪われがちですが、寺の東側には茶園がアーチ状に広がり、西側には村の家並みが見渡される素晴らしい眺めの場所に寺院はあります。

現在の本堂は平成五年に建て替えられたもので、翌六年四月落慶式が行われ、落慶法要には本堂額の揮毫者※余語翠巌(よごすいがん)老師を招き 記念講演には※青山俊董老師が来山し、檀徒のみならず、近在から多くの方々が訪れました。 私も講演をお聞きし、感銘を受けたことを昨日のように思い出します。また、住職になられた西 俊芳師は夫の死後 寺院を護るため70歳になって出家、若い修行尼僧とともに苦行され住職となられた方で 寺と地元とのかかわりを大切にして、活発な布教活動をなさっていました。後代を継がれた現御住職も清僧の禅家として寺院を守っておられます。※余語翠巌(よごすいがん):(1912~1996)神奈川県南足柄市大雄町の大雄山最乗寺前山主 著書に 「自己をならふというは」「禅の十戒」など多数。

※青山俊董(あおやましゅんどう):(1933~)名古屋市千種区 愛知専門尼僧堂堂長(昭和51~) 仏教伝道文化賞(2006) 曹洞宗の僧階「大教師」に尼僧として初就任 著書に「茶禅閑話-茶の湯十二話」「泥があるから、花は咲く」など多数。

寺院も時代の動静に無頓着でいられるわけではありません、特に檀徒を抱える※滅罪寺院はことさらです。近年の三十年余を見ても、村の過疎化、少子高齢化、寺院離れなど深刻な問題を抱えています。長福寺と観泉寺のわかりにくい歴史も同様です。

観泉寺については 明治19年(1886)2月に提出された「寺籍財産明細帳」に遠江國 佐野郡日坂宿常現寺末 東山村字アラヤ六十八番地 ※平僧地 観泉寺。

開創として「確乎たる古記なく 由緒詳ならずと雖も姑く本寺の旧記によれば 当寺草創は大永七年(1527)四月にして 開山は本寺第二世宗梁なり 伝え聞く、村内一旧家あり 杉山吉左エ門と云う その祖先深く仏法を崇めし 私に小堂を構え 一体の観音大士を奉して常に信す 大士霊験あり 漸々信徒を増し 遂に之を一寺に興し 爾来当国に西国霊場を擬し 所謂順礼札所なるものを創する事あり 人能く大士の霊感を知り当寺本尊は即第二十二番観音薩埵なり 然れども其時代人物考ふべからず 寛延四年(1751)正月中 当時の住僧信徒と謀り今の堂宇を建営し尋ねて現在所有の田圃を購求し稍々維持の方法を得たりという。」と記され、この寺が個人の持ち堂から一寺院になった経緯をっ伝えています。

また観音の霊験があらたかであることや、遠江三十三所への参画にも触れています。寺禄を受けていないため、寺院の維持方法の手立てを模索してきた様子もわかります。

しかし「掛川誌稿」(文化二年~文政)(1805~)の東山村の項には下村の天王山長福寺と深川寺の二ケ寺のみが記され、観泉寺名が無いこと、観音の霊験あらたかな話は下村の長福寺のことと思われ判別がむつかしいことなどの矛盾点もみられます。

また延享四年(1747)の「東山村明細帳」には「千手観音堂一ヶ所 弐間に弐間 宮殿(お厨子)二尺四寸に弐尺一寸 略 是は当村二十二番観音堂に札納候所に前々貞享四卯年(1688)迄は 此観音堂札納候所に同年九月(1688)より当村の観泉寺へ子細在之 札納候」とあり、一方昭和44年に発行された「東山郷土誌」には「長福寺は本村最古の寺院なりしが如く その創立は遠く足利将軍時代にありしと雖も、寛文中に至りて観泉寺に合したれば、大正二年(1913)の現在は下組深泉寺、上組観泉寺の二寺」 また、長福寺について「天王山長福寺と称し、西奥側竹下にありき、其の創立は遠く 永政年間頃(永正1504~1521の誤)真言宗に属し境内に遠江二十二番札所あり、※後百五十一年を経 寛文六年(1666)に至りて本堂を寺の段に移して観泉寺と称したりしも、二十二番観音堂のみは依然其の境内にあり 享保卯年(1723)の頃までは彼岸巡礼毎年ここに参拝ありしが、堂宇大いに廃頽 其の後百四十余年を経、明治維新に至り堂宇亦朽絶 其の宮殿と寺号のみを残す、村内協議の上 明治十三年(1880)八月 大士(観音)を観泉寺に移し、爾来同寺の本尊と公称するに至り 今や寺跡は白畑となり、更に当時の跡を留めるにすぎぬ」と記し、また観泉寺については「寛文六年(1666)長福寺本堂をここに移し、寺号天王山をそのまま襲用 天王山観泉寺と称せり、日坂常現寺の末寺にして曹洞宗に属す。」と記されています。

※滅罪寺院:葬儀や法事を主とする寺院を観光・祈祷寺院から見た呼び方

※平僧地:中世末期から近世初期にかけて曹洞宗寺院は法系による縦の線と地縁関係による横の線とを織り交ぜた巧妙な江戸幕府の宗教政策によって近世封建社会に組み入れられた。大本山・中本寺・小本寺・  平僧地等と寺格が決められ、普通の寺院は法地、平僧地は最下位の寺格で、正式ではない僧侶(嗣法を持たない僧や尼僧)などが住した小院や庵をいう。なお観泉寺は「明治三十六年(1903)檀徒より維持金三百余円を拠出して法地起立となれり」とあり、平僧地から法地になったことが記されている。現在曹洞宗は大本山・格地・法地・准法地と寺格の序列は変わっている。

※1515年は永正十二年となり、長福寺開創年となるか。

 

上記などから、江戸期から明治期にかけて様々な動静があったであろうことが推察されます。どれが史実を伝えているのか確定は出来かねますが、長福寺の位置が明確なことや、明治13年観音を観泉寺に移したとする「東山郷土誌」の信憑性が高いと思われます。また長福寺の過去帳が天保年間迄しっかり記載され、その後全く記載されていないことを考えると、観泉寺に本堂を移した後も檀家は明治維新まで区別して扱われたことが考えられます。 観音堂も巡礼者は旧長福寺にお参りしてきた(明治二年発行の當国順礼札所御詠歌には二十二番ちやうふくじ とのみ記されている。)が、維持管理は観泉寺で行われたのでしょう。明治13年以降は観泉寺に本尊様としてお迎えするということで完全に合併されたとみるべきでしょう。

 

山門の脇から本堂の段に入りますと、寺壁と思われたところが、※三十三観音石像と※四十九院石像の長いお堂(高さ三尺90センチ・横十五間27メートル)であることに気づきます。

本堂の南から西南に観音石像、東南から東に四十九院が並びます。これは南方観音浄土 東方弥勒浄土に合致し、現当二世(現在と未来)安楽を意味しています。過去・現在・未来は仏様では釈迦・観音・彌勒で表します。曹洞宗寺院は釈迦如来を本尊とします。ここに観音・彌勒を祀ることにより三世に迷う全を救済することを示しているのです。

 
※三十三観音石像と四十九院石像:明治19年提出の「寺籍財産明細帳」によれば、「観音菩薩は三十三躰石像 御丈壱尺弐寸。四九本石塔 方四寸五歩 丈壱尺弐寸」として「嘉永元年(1848)八月中 当時住僧 物宗 遠近同志と謀り以て之を新造す。」と記されています。

※四十九院:平安時代後半になると、釈尊入滅から500年(正法)が過ぎ、正しい修行が行われないため悟りが開けない1000年の時代(像法)も過ぎ、教えだけが残る末法の時代に入るのが1052年(永正七年)とされる説が信じられていました。この末法思想が様々な新興宗教を生む下地になるのですが、弥勒菩薩(慈氏)が56億7000万年後に兜率天(とそつてん)からこの世に降り立ち龍華樹(りゅうげじゅ)の下で悟りを得て仏となり、三度に渡って教えを説き、過去に釈迦如来の救いから漏れた魂を救済するという信仰が平安時代に盛んになり、経典を塚に埋める埋経(まいきょう)も功徳によ  り彌勒の法会に列する為であり、また死後弥勒浄土に転生して弥勒菩薩とともに過ごし、ともに下生(げしょう)したいと願う弥勒菩薩(慈氏)未來佛への信仰も盛んになりました。その後は阿弥陀如来による極楽往生の信仰に徐々に変わって行くことになります。高野山の弘法大師入定説も弥勒信仰によります。 四十九院はこの兜率天(弥勒浄土)にあるとされる49の宮殿のことで、本来は一つ一つの院に種子(梵字)と尊名がありますが、院名のみ記しておきます。「恒説華厳院・覆護衆生院・念仏三昧院・修習慈悲院・鎮國方等院・小欲知足院・地蔵十輪院・精進修行院・恒修菩薩院・展明十悪院・灌頂道場院・常行説因院・法華三昧院・求聞持蔵院・彌勒法相院・金剛吉祥院・平等忍辱院・守護國土院・般若不断院・彼担三昧院・常念七佛院・常念常楽院・多聞天王院・常念普賢院・常念不動院・三説真実院・如来密蔵院・説法利他院・金剛修法院・恒念観音院・梵釈四王院・施薬悲田院・念観文殊院・造像図畫院・安養浄土院・檀度利益院・観虚空蔵院・唯學傳法院・理観薬師院・供養三宝院・不二浄名院・常行律儀院・理正天王院・因明修学院・招提救護院・常念総持院・伴行衆生院・労他修福院・常行如意院」の四十九になります。観泉寺の四十九院の種子は全て阿字に統一されています。

 

御詠歌「おしなべて 佛あらたと 聞くときは もと木うら木も 南無観世音」

山本石峰氏は「弘誓の観音力は、ありがたいことと承って巡礼に出かけました。元木末木とは現世来世ともまで 成仏するように観音様にお任せ申します。」と記されています。

 

「西国三十三所」は今年開創1300年です。718年徳道上人(長谷寺開基)が閻魔様から33の宝印と起請文を授かり、観音の霊場参りのご利益を説き広めた(西國順礼縁起)年から数えます。その後平安時代に花山法皇(968~1008)が摂津国の中山寺から宝印を探し出し、熊野から三十三の観音霊場を巡拝し修行をしたのが現在の西國順礼の始まりとされています。

古くから観音様を通して日本人は「慈悲」を大切な考え方としてきました。慈悲とは他人の苦しみや悲しみに共感することであり、人々のために努力を惜しまない心である。大災害などで たとえ自分は無事だったとしても、被害を受けた人々の苦しみや悲しみを自分のこととして受け止め、他者のために努力する(哲学者内山節)。この心があり続ける限り、観音様も日本人の心に生き続けるのです。本尊千手観音様の千の手・千の眼は無限を意味し、決して見逃すことなく救おうとしてくださっています。

茶工場(天王山)から粟が岳を見る。

 

 

気まぐれな巡礼案内⑲

投稿日:2018/04/10 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

今年 平成30年は「西国三十三所」開創1300年の記念の年です。各札所では記念事業が行われ、例年以上に賑わうことでしょう。「西国」と云われることでもわかるように東の江戸から見た呼び方です。江戸時代中期に庶民の楽しみの一つとして 巡礼は盛んになり、一生に一度の大旅行として現在の形に定着します。

江戸中期の巡礼案内書「西国順礼細見紀」に巡礼の十徳が書かれています。

1つには ※三悪道に迷わず。

2つには 臨終※正念なるべし。

3つには 巡礼する人の家には佛※影向あるべし。

4つには 六観音の※梵字 額に座るべし。

5つには 福地円満なるべし。

6つには 子孫繁盛すべし・

7つには 一生の間 総供養にあたるべし。

8つには ※補陀落世界に生ず。

9つには 必ず浄土に往生す。

10には 所願成就するなり。

巡礼者は上記の徳を信じ、ご利益を確信し・・・巡ったのでしょう。そこには修行の苦しさより慈悲のありがたさと楽しさが伝わってきます。

※三悪道:地獄・餓鬼・畜生の下層界のことで、悪行を重ねた人間が死後に赴くといわれる。

※正念:八正道の一つですが、ここでは雑念を去った安らかな心。

※影向:仏さまが迎えに来ること。

※梵字:古代インドで発祥した文字、サンスクリット語表記の文字ですが、種子(一字で佛を表す)を意味し、ここでは全ての観音様が現れ見守ってくださることを意味する。

※補陀落:南方の彼方にある観音菩薩が住まう浄土のこと。

 

「ご詠歌」に関連してもこんな話が伝わっています。

若狭では女性の旅行は禁止されていたが、西国順礼の女性は、ご詠歌を唄わせて巡礼の旅であることを証明させて許可されたと。(※稚狭考)

※稚狭考:板屋一助著 明和四年(1767) 10巻

西国の順礼歌の(ご詠歌)の成立は、一般民衆が巡礼に参加し始めた室町時代以降とされ、天文年間(1532~1554)の「西國順礼縁起」が巡礼歌の初見とされています。

「ご詠歌」は仏の教えを説く和歌で、声を出し唄うように唱えることによって ご利益を得ることができ、極楽往生や成仏ができるとする考えから生まれた奉納歌です。作者は詠み人知らずで、複数の人によって作られたと考えられています。遠江の「ご詠歌」も作者不詳の 詠み人知らずです。

遠江三十三所の「ご詠歌」について「掛川市史」では、西国札所のご詠歌を参考には したであろうが模倣はされてなく、遠江札所ご詠歌の宗教性、哲学性の優位を認め、江戸時代この地の人々によって語り伝えられ発展した非凡な口誦文化であり、注目さるべき民衆の文芸であり、民衆の文化であったのである。と称賛しています。

 

今回は霊場唯一の浄土宗寺院 21番 宝聚山(ほうしゅさん)相伝寺内光善寺にスポットを当ててみたいと思います。 
掛川市日坂宿内旅籠「川坂屋」の向かい側にあります。掛川市日坂928

県道415号線(日坂澤田線)を東進 「掛川道の駅」の信号を過ぎ 右手にパワースポットとして近年参拝者で賑わう「掛川八坂事任八幡宮前」の信号を左折すれば日坂宿です。奥野川(逆川)にかかる橋(ふるみやばし)を渡れば下木戸高札場(写真)が復元されており、ここは相伝寺境内の東南端です。
日坂宿は※品川宿から東海道25番目の宿場で 東に小夜の中山・牧之原をひかえ、問屋場(慶長6年1601設ける)、伝馬の継ぎ立てなど 休憩・宿泊・運輸・通信を担う宿場としての役割を担い、西口から東口までの約700メートルの町並みの形態は今もさほど変わらず保存され、ウォーキングや観光で訪れる人たちも多く、現代アートのイベントや「東海道日坂駕籠(かご)駅伝大会」なども近年は行われています。

※東海道五十三次:「華厳経」による善財童子が求法のため、53人の善知識を尋ね教えを請い、阿弥陀浄土を願う。という仏道修行の段階を示したことに喩えて五十三次としたともいわれる。

 

本尊様は聖観音様で毎年8月10日に開扉されて拝むことができます。
札所「光善寺」についての文書はほとんどなく、由緒は口碑だけです。昭和63年桐田榮氏著の「遠江三十三所案内」を引用しますと「光善寺 往古は※東山椎林という所にあって、天台宗に属し光善院と称したが、松葉城が落城(明応五年九月十日・1496)の後、松永氏が光善院にあった正観音を背負って宗那川(さんながわ)を下り、日坂宿の庄司に安置した。慶長二年(1597)十一月 日坂本陣の扇屋片岡清兵衛吉政(光善院心譽相伝一法居士)が開基となり、京より浄土僧を招く。この招きに応じて往譽という者、阿弥陀像を持ってきて本郷の傍らに相伝寺を創立した。ところが安政年間に日坂で大火があり、町並み及び寺院のほとんどが焼失したので、日坂宿の浄土宗の三か寺は合併し、現在位置に本堂を建立し、宝珠山相伝寺と称することとなった。この時光善院は相伝寺の境内堂となり、宿駅の遠江三十三所として街道を往来する旅人や順礼の尊崇の的となった。」と記しています。

浄土宗寺院は三か寺ではなく二ケ寺と思われますが、その一つ沓掛(くつかけ)の浄土院は嘉永五年(1852)の大火で類焼したといわれ、その二年後には安政の大地震が発生しています。ただ この時代には三十三所は確定しており、それ以前から巡礼も盛んにおこなわれていたことを考えると、札所「光善寺」は相伝寺境内に既に祀られていたと思われます。

※東山椎林:日坂から3キロ程奥の東山椎林と思われる。「椎林」バス停から300メートルほど上にバス停「落合」があり、このバス停の前に「老人憩の家」がある、この一帯が「光善寺」跡といわれています。(写真)ただこの辺りは「久保貝戸」であり「椎林」からは離れています。
「椎林」バス停のところには十一面観音を祀るお堂があります。堂内の棟札に明暦戊戌(1658)・延宝九年(1681)の年号札があり、享保三年(1728)堂宇再建の棟札には 村中の助力によって完成したことも記されています。「光善寺」と関連はあるのだろうか、推測ではありますが、観音が日坂に移された後 跡地付近に地元民が「観音様」を祀った。とは考えられないだろうか・・・。お堂の向きも何故か日坂の方を向いているように思えるのですが・・・?
 

相伝寺の境内に入ってまず目に入るのが、西国三十三観音石像です。御影石に彫られた三十三体が、三段に十一体づつ並び迎えてくれます。
境内を見渡しますと墓標も含め石像などの多さに興味がそそられます。その中 少し変わったお地蔵様が置かれていました。(写真)
六角柱に六体の地蔵が彫られた「千浦地蔵(ちうら)」と呼ばれ親しまれている石像です。下方に施主千浦と彫られています。天保十一年(1840)宿場図には 古宮橋の下7区画目に「千浦」の屋号が見られます。この家が奉納したお地蔵様のようです。元は現国1バイパスの下に如意輪観音像とともに祀られ、姿から歯痛止めの観音様として、セットでお参りも多く 縁日には甘酒の接待も行われたようです。

近在でも寺の入り口や墓地で六体の地蔵尊(六地蔵)を見かけます。どれも同じように見えますが、少しずつ異なります。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)のそれぞれの苦界から救う役割を担っています。名前も檀陀(だんだ)・宝珠(ほうじゅ)・宝印(ほういん)・持地(じじ)・除蓋障(じょがいしょう)・日光(にっこう)と名付けられた六体地蔵です。

観音も地蔵も同じ菩薩として親しまれ、どちらも苦悩から救ってくださることに変わりはありません。深い慈悲の心をもって さまざまな苦しみから救ってくださろうとしている菩薩様です。

「千浦地蔵」 ユニークな彫り方のお地蔵様ですが、高い技術を持った石工職人がいた証でもあります。

古宮には代々石工を営む「石工内田」と刻銘の「石由」があり、現在まで18代続いていますし近郷にも多く職人がいたことでしょう。

「日坂石」は石像・石碑・石塔・石段・墓石など多様に利用され、この地域の中近世石塔の90%以上を占めています。この「日坂石」は灰緑色の大小チャート礫を多く含み空隙の多い粗性の礫砂岩から、微砂主体のキメ細かい凝灰岩質砂岩まで様々な変異があり、風化や経年変化で含有鉄分が褐色に変化することもあるが、本来は淡灰褐色を呈する石材と考えられる。(桃崎祐輔:中世石造物の展開とその意義)また、「日坂石」は周智郡森町から掛川市日坂にかけて分布している第三紀中新世(2303万年前~258万年前)の倉真層群の天方砂岩層から産出している公算が高い(野澤1998)といわれています。

写真の日坂宿西側の本宮山北側石丁場に行ってみました。昭和40年代までは切り出され加工されていました。 
採石場(高さ30~40メートル・幅70メートルに及ぶ)は見上げると覆いかぶさるような断崖に圧倒され、恐怖すら覚えます。夥しい数の廃石材で小山ができ、切り出したのか崩落したのか巨大な岩が横たわっています。この岩山の石を材料として多年にわたり様々な石像などが加工制作されたわけです。

 

「相伝寺」を語るには「本陣」「扇屋」「片岡清兵衛」について若干触れておかなければなりません。

寺では開基(寺を作った人)を扇屋清兵衛としています。代々片岡清兵衛を名乗り本陣を勤めていますが、三代目片岡清兵衛は俗に「560俵さま」と呼ばれ、日坂宿を困窮から救った義民として徳を讃えられています。戒名も先記「光善院心譽相伝一法居士」とされ、ここから「相伝寺」名が付けられ、「光善寺」から光善院とつけられたのでしょう。

本陣片岡家は初め安間姓を称して今川氏に仕えていたが、今川氏滅亡の後は日坂に居を構えて片岡姓に改めた。天正十一年(1583)十二月 徳川家康に仕えて三州長久手の戦の功により、家康から扇を与えられ、のち日坂宿に本陣を営むに当たって屋号を扇屋と称した。(掛川市史) 先述の「千浦地蔵」の千浦家も片岡家の分家で現在は片岡姓を称している。

 

御詠歌  春は花 秋はもみじの つゆまでも 宿れる月も ひかりよき寺

石峰氏は「現世の人の命は 草葉に置ける露の如く 朝に夕にを知らぬ 無常だぞ 月の光をまんべんなく宿って ただ一つ見捨てない この月の光とて 大慈大悲の観音力を具体的に詠じたまでぞ」と解釈しています。(詠歌中和歌の本体)

車での「掛川道の駅」、歩いての「日坂宿」、パワースポット?「事任八幡」、山歩きの「粟が岳と倉真温泉」、世界農業遺産の「茶草場農法地」・・・と掛川市東部に多くの人の目が向けられています。点から線になりつつあるこの中でも マイナーな観音様もお忘れなく…。  
 

気まぐれな巡礼案内⑱

投稿日:2018/01/16 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第28番 拈華山(ねんげさん) 正法寺 菊川市西方1329

鎮守は白山妙理権現です。
菊川市立堀之内小学校の第二応援歌に「緑も深き ねんげ山 若き血潮は高鳴りて 示すは今日のたたかいぞ ふるえ 堀小健男児」と拈華山(ねんげやま)が歌われています。

菊川市役所の西に常葉学園菊川校があります。この山を「高田ヶ原」といい、その西側の谷が西方堀田です。

掛川方面から来ますと、JRに沿って東進し「菊川市堀田地内」と書かれた歩道橋の信号を右折 JRガードをくぐり 道なりに200m真っ直ぐに進めば、28番札所の正法寺に突き当たります。 裏山が城跡の興味いっぱいの札所です。

① 正法寺について「掛川誌稿」には「除地三石、本堂七間、本尊正観音、開山※龍雲寺三世實傳和尚 元亀元年(1570)九月二十三日寂、此の寺

堀田正法と云う人の開基なり」と記されています。

「菊川町史」には「天正二年(1574)宗貞開創(實傳宗貞) (以前は真言宗に属していたといわれる)山号を拈    華山と称し、聖観音を本尊とする。この本尊は鎌倉仏師の祖※運慶の作と伝えられている。又遠江三十三所の霊      場として代々信者の帰敬があつかった。安政三年(1856)冬 失火により諸堂悉く焼失するも、本尊の霊像はそ    の厄を免れ、諸堂建立の企てをするも、明治の廃仏毀釈により、小堂宇を建立するにとどまった。五十年後、大      正十四年(1925)現在のお堂の竣工を見るに至った。」と記されています。

※潮海寺75坊の一つと云われる この寺院が、戦乱の騒擾期に曹洞宗に改宗・創建され今日に至っています。

寺院の東側の広い場所を小字名「寺田」と云い、ここを流れる川を「寺田川」、菊川駅方面への道を「宇東坂(う  とうざか)」と云いますから古くは現在地より東北位に寺院はあったのかもしれません、

御詠歌は現在地で詠まれていますので、近世には既にこの場所に寺院はあったようです。また正法寺を堀田城の      館 跡とする説もありますが、現在は否定されています。

堀田城跡発掘調査報告書によれば 「中世堀田城の東側、正法寺周辺に屋敷が広がり、集落を形成することが堀   田遺跡、堀田東遺跡の調査で明らかになっている。この調査結果では、12世紀後半から13世紀・14世紀から15世     紀の二時期に画期がみられ、16世紀になると集落は水田地帯へと変貌するようである。」と記されています。

境内に入りますと、本堂の前に梅の古木、その隣に釣り鐘堂があり、その下には、遠江巡礼記念の石碑が建てられ ています。  
本堂は間口7間、火災から50年後 阿弥陀浄土に手を合わすかのように東向きに建てられています。正面玄関の両脇には大きな火灯窓(かとうま

ど)があり、禅宗寺院の風格が醸し出されています。

本堂の中は広く、須弥壇の手前には狛犬が祀られ、正面の大きな厨子に本尊様は祀られています。

この寺院には「丸に渡辺星」と云われる寺紋が多く見られますが理由は不明のようです。

 
※洞谷山龍雲寺:菊川市西方3780-1にある。曹洞宗の古刹寺院で、室町中期 永正11年(1514)に開創。開山は法山宗益で、長松院二世教之一訓

和尚(掛川市大野)の法脈を継ぐ名僧。

※運慶:(1150頃~1223) 平安末期から鎌倉初期に活躍した仏師。力強い作風が特徴とされている。県内では「かんなみ佛の里」に願成就院の仏像が祀られている。平成29年9月より11月まで、東京上野の東京国立博物館で雲慶展が開催され、期間内に60万人を超える入場者数があり、好評を博した。

 

 

②裏山(城山)に登ってみましょう。

掛川誌稿には「正法寺の後山を城山と呼ぶ、太鼓の丸など言う所 存せり、堀田正法と云う人、此の所に居りしという」とあります。

寺を起点に墓地の西側から登っていきます。  五分ほどで東の※郭(くるわ)

に出、ここには秋葉社があり、「学習の鐘」が吊り下げられています。
この鐘は学校の始業時・終業時に用務員さんが鳴らし、知らせてくれた、懐かしい鐘です。

秋葉社の横には大きな火箸・十能(じゅうのう)・すりこ木が奉納されています。
火に携わる職業人にとって 火を自由に操り、技術を磨くことは火防と共に大切なことです。この願いを込めて神社に奉納されたものです。また すりこ木は「身を削り 人につくさん すりこぎの その味知れる 人ぞ尊し」などと詠われ、努力の大切さを諭しています。

秋葉社のところが、先記の「※太鼓の丸」の郭でしょうか。報告書によれば 長さ14m、幅12mの不整形な出曲輪(でくるわ)的存在で、南方部から谷間に入る敵の動きを監視したり、東方一帯の物見が可能である。とされ、少し立木が邪魔をしますが、西北から東南に眺望が開け、全体が俯瞰できます。

北側には東西に主要道路(川崎往還)が通り、西方川(松下川)が北から東に巡っていて、交通の要衝です。
秋葉社を西に進むと堀切があり、この尾根筋に沿って郭が連続しています。
最西の郭が本丸(本郭)と考えられています。先の報告書によれば、全長26m 幅9~13mの不整形な曲輪で、西側に向けて突出部があり、堀切

に面している。(幅4m 長さ9m余 深さ0.8m余)
静岡県の重要遺跡となっている堀田城跡の本格的な調査は過去4回(平成5年墓地整理に伴う第一次調査・平成7年西方川河川改修に伴う第二次調査・平成13年斎藤慎一氏指導による測量、踏査の第三次調査・平成16年西方川災害復旧工事に伴う第四次調査)行われ、かなり詳しくわかってきています。

「標高72m前後、西方川筋から比高差50m 東西200m 南北180mの山城で,第2次調査での出土品から15世紀後半には堀田城が機能していたこと、第2次3次調査により主郭の最重要部分に明確な※虎口(こぐち)が確認され、この主郭内虎口から北尾根に沿って下る道が正面の登城路であり、城と関連深い集落や館は この方面に在った(現田ヶ谷龍雲寺方面に「中」「御所ノ谷」などの小字あり)と推測される。いずれにせよ、堀田城は15世紀後半頃、西方を所領とする領主層によって築かれた、※西方の要害という機能が浮かび上がってくる。」と 当時江戸東京博物館学芸員の齋藤慎一氏は書しています。(堀田城跡発掘調査報告書 第4次調査)

また「地元に戦国期の土豪である※松下之綱(嘉兵衛)(1537~1598)の城とする伝承がある(今川氏滅亡後徳川家康に仕え天正2年(1574)第一次高天神城の攻防で戦う)が、根拠を示す資料はなく、松下氏は今川氏の被官人として頭陀寺城主であるため、可能性はない。」と否定していますが、私情ですがロマンとして短期間であっても小字松下や松下川の名から可能性は残しておきたいように思います。伏木が谷の伏木久内や宇都宮泰宗の子貞泰(遠江の守 堀田正法)についても今後の研究に委ねたいと思います。

また堀田城について第2次調査のまとめとして、「創建は室町中期頃の横地城の支城として機能したものであろうが、戦国期には、陣城として改修されたと考えられる。永禄十一年(1568)の掛川城攻めの陣城、または天正三年(1575)徳川軍による諏訪原城攻めの陣城等、この地域の軍事的緊張時に活用したことが考えられる。」としています。

最近、地域の有志によって「郷援隊」が創られ、城址に目を向けようとしています。現状の案内板を訂正し、新たな城跡地図や案内板が作成され、学術的にも貴重な史蹟が後世に保存されることを期待します。

  
※郭(くるわ):曲輪とも書く。城の内外を土塁・石垣・堀などで区画した区域。堀田城の場合 尾根筋を削り平坦部をつくる※連郭式山城。

※太鼓の丸:太鼓櫓を設け、物見台の役割と家臣の集合などの合図をした場所。

※連郭式山城:多数の郭で構成された中世の山城。堀田城は現在16の郭が確認されている。

※大手口(追手):表口のこと。搦手(からめて)は裏口のこと。

※虎口(こぐち):城郭における最も要所にある出入り口のこと。

※松下嘉兵衛:松下之綱(ゆきつな)のこと(1537~1598)木下藤吉郎(後の秀吉)の武芸・学問・兵法の師とされる。今川家家臣(頭陀寺城主)~徳川に仕仕える(武田と戦う)~豊臣秀吉家臣(久野城主16000石)

※西方:河村庄に由来する。正応二年(1289)には「遠江国河村庄東方」の文言が見えることから、「西方」もこの時期には呼称として存在していたと考えられる。

河村庄は寛治4年(1090)白河上皇が賀茂御祖社に寄進した荘園で、其の後 松尾社・新日吉社が荘園領主となる。その後建久2年(1191)開発領主とされる「三郎高秀」が北条時政に寄進している。河村庄の領有は複雑化し、「※下地中分」が行われ、地頭方の「東方」と領家方の「西方」が成立したと思われる。また西方には公文が置かれたため、「公文名」の地名が残る。(堀田城と河村庄西方)

※下地中分:鎌倉時代に入ると荘園領主と現地管理人との関係が複雑化してくる。荘園領主側は折半する形で領主と現地管理者(地頭)に分け荘園を維持しようとした、徐々に地頭方(武士団)が勢力を強めていく。本所・伊達方・鴨方などの地名が近在に残る。

 

③ 御詠歌 「やつだにや 梅の名木 のりのてら 潮にひびく 鐘のおとずれ」

山本石峰氏は「上の句は正法寺境内を極楽浄土と見て、観音様に※発菩提心を申し上げた。なんの答えも無く 消え失せて潮海寺がボーン、ボーン」と記しています。

氏は「潮に」を※潮海寺としています。「うしお」を「波のように押しては引く鐘の音」と解釈していましたので 再考です。氏は「河城郷土誌」で潮海寺について綿密に調査しています、その関連を考えたのだと思われます。

※潮海寺:広巌城山潮海寺 菊川氏潮海寺にある真言宗の古刹。

天平年間(729~749)の草創といわれ、河村庄内に3000石を領したといわれる。

平安末期成立の「後拾遺往生伝」の中に潮海寺の住僧(大聖・小聖)の話がある(1087~1093)。また  元亀天正(1570年代)の頃兵火で焼失した本堂の再建用材調達の許可が、徳川家康の家臣 大須賀五郎左衛門康高から出されている。

昭和51年の予備調査で 本堂(薬師堂)創建時 間口23m奥行き18mの威容で、遠州では磐田の国分寺に次ぐ大寺院。礎石、布目瓦が出土する。

現在のJR踏切の南から一直線に北に向かって道路が1㎞薬師堂に伸びています。この道に沿って古代から中世にかけて門前町が形成されていたことは発掘調査(潮海寺門前町遺跡 平成7年)によって証明されています。

この地に大寺院が建立された理由は謎に包まれています。「征夷大将軍坂上田村麻呂」伝説(金剛城山薬師如来略縁起)が有力なのでしょうか。勅願時でない大寺院の謎は未だ解き明かされていません。現在の薬師堂は明治11年再建されました。

※発菩提心:悟りを求めようと決心すること。

 

28番「正法寺」を訪れ、城跡にのぼり 戦国時代に思いを馳せ、学習の鐘に平和と平穏を誓う。

人間の愚かさと儚さを見続けてきた観音様は、憐れむように微笑みを浮かべ すべてを受け入れ「今を大切にして生きるんだよ」と説いてくださる。そんな思いにしてくれる札所です。

 

 

 

気まぐれな巡礼案内⑰

投稿日:2017/11/11 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第19番 明照山 慈明寺 (掛川市小原子134)
寺院名を問われても答えにくいケースがあります、ここもその一つです。

20番大原子の西側の谷にあり、大原子(おおばらこ)に対して、小原子(おばらこ)となります。ただ観音堂を聞くときは、おおばらこ の観音様に対して、こばらこ の観音様という言い方がわかりやすいです。

今は行政が一つになっていますが(大原子と小原子)大きな大原子は一村とはならず、伊達方・千羽番地。小原子は八軒で一村です(掛川史稿)。その成立も古く、天正17年(1589)には既に一村として成立していたようです(掛川史稿)。 現在も八軒です(2017)。

※東山口村郷土史には「この部落は小村なるも 昔より その名聞こえたり。旧石高四十六石なりと 氏神白山神社は六百年も前に加賀の白神社より勧請した。当時より河村新左エ門が鍵取り役だった。当時の戸数四戸なりしと また永享三年(1431)に慈明寺を建てた 遠江札所観音十九番 子育観音とし霊験あり 子を持つ親心、遠近の人々来参す。」と また「この仏体は佐夜の中山 久延寺 子育観音が仏教宣布の美女と化し この里人に読経を誦せしめ 童男童女愛撫のやさしき心を教えられた話あり」と記されています。

 

 

「掛川道の駅」から国1を北に突っ切り(広域農道)約1.7キロ 西寄りに進み、十字路を北に入ったほうが解りやすいです。

細い道ですが、三百メートルほど行きますと、道横に観音堂があります。

銀杏が入口に在り、子育て観音を象徴するように 銀杏の木から多くの※乳根(ちちね)が出て 迎えてくれます。

境内にはモッコクや泰山木(幹回り1.4m)の古木も植えられています。

銀杏の下に500キロ位はあろうかと思われる石が据えられ、注連縄が張られ、賽銭もあげられています。(写真)
この石は 20年程前、大原子と小原子の境の山を崩す開墾事業が行われた時 掘り出されたもので、この付近では見られない珍しい石ということで、観音堂の境内に置かれています。ただ先記の村史には「昔から伝えられし金鉱も、しばしば調査の人来る」と記され、ロマンも感じさせてくれます。

お堂の中には 子さずけ・安産・子育ての御利益を願う奉納品が供えられています。(写真) 
本尊様は聖観音さまです。両側に不動明王(東)と毘沙門天(西)が脇佛として祀られています。

御厨子の中に祀られていますが、彩色も緻密にほどこされ、かなり古い像と見受けられます。(写真)


この観音三尊形式は遠江三十三カ所札所でも、密教系の札所の多くが 同様の祀り方をしています。

はっきりとした理由は解りません。

通常 本尊様(観音)の左右に控える明王や天部の像を脇立(わきだち)と云い、本尊様(観音)の補佐・強化を役割とします。

毘沙門天は「法華経」によると、観音の化身とされていることが脇立の要素の一つかもしれません。(安藤希章著「神殿大観」)

不動明王が観音様の脇立の理由は、一般に観音は母親にたとえられ、不動明王は父親にたとえられることからでしょうか。仏様ランキングでは、如来→菩薩→明王→天部の順になり、観音菩薩は正法明佛という如来が衆生済度のために、今は菩薩の身でいるのです。いずれにせよ、鎮守の白山社も含め、祭祀形式から密教系の寺院だったことが推測されます。

お堂の中に お勤めに使用している「鉦鈷」(写真)が置かれています。「文久三年癸亥之春(1861) 本所村 榛葉平太夫」と刻されています。

鉦鈷以外にも香炉など近在の人々の信仰による寄進があって維持されてきています。

本尊様の伝説は 由緒に「往古美麗なる一婦人来たりて 吾為に経文を読誦せよ 吾れ妻となり 童男童女を養育せんと 村内の人々之を聞き 盛んに読誦し 忽ちにして学誦し 其の妻たることを乞う 美人曰く 吾一人なれば 多くの人の妻たるを得ず 若し吾を思わば 経文を読誦せよ 吾必ず童男童女を守護せん と云い終わるや その姿なし 之れ佐夜の中山 子育観音の化身ならん 本尊は行基菩薩の作 遠江十九番の札所として 庶人の信仰厚く 子を持つ親 遠近より来集す」(東山口村郷土史)と伝えられ、小夜の中山の子育て観音との関連性を示唆しています。また18番新福寺の伝説とも、どこか共通点があります。

史実によれば、永享3年(1432)創建。元禄15年(1702)再興。60年ほど前までは、茅葺きのお堂だったようです。

お堂の西脇から裏山に登ってみましょう。スロープと70段ほどの階段で 氏神※白山社に着きます。参道脇には矢竹が生えています。社の前に昔は大きな鳥居杉が立っていたようで、名残の株があります。 
社の由緒書には「延文元年(1356)の頃 加賀の国より勧請 天正二年(1574)祠を建立す」とあります。(東山口村郷土史には永禄元年(1558)加賀の国より勧請ときされる) 寺社はほぼ同時期に勧請されますから、ゆうに400年以上は経ているようです。

氏神白山社の後ろの一段高い所に石碑が祀られています。剥離して「山」のみ判読可能です。 横には「嘉永六年(1853)」が読み取れます。

地元の方に尋ねると、これは「大峯山」と云い、東北の山から移したものだとの説明でした。大原子に小字名「大峯」とあり、その場所からと思われます。山岳霊山への信仰はここにも発見できます。

御詠歌「望月や 明らかなるをしるべにて 歩みをはこぶ 人ぞたのもし」 を山本石峰氏は「暗い座敷で浮世の夢を見ていたら、外に十五の月が出て、飛び出して見ると 胸の中が清く、これぞ発菩提心。月は観音のたとえなり。」と解説しています。

喧騒からはなれ ゆったりとした時を過ごす。 子どもの頃 学校から帰って、ランドセルを放り投げ 境内で鬼ごっこに興じた 眼を閉じれば そんな光景が映しだされてくる札所です。

次の20番には、山道を通ればすぐですが、今は通る人もいないため荒れています。

※東山口村郷土:昭和29年解村記念(掛川市への合併)として伊藤儀弥太氏が編者として出版された。

※乳根(ちちね):通常は 土壌が酸欠状態のため、根(気根)を出すことにより、枯れることを免れようとしている。と説明されますが、正確な原因は学会でも出ていないようで、「古い時代の植物の特性を残した特殊な形」かもしれないようです。「垂乳根(たらちね)は母親、親にかかる枕詞

※白山社:白山は越中・加賀・美濃・飛騨の五か国にまたがる 標高2702mの山で、立山・富士山とともに古来より日本三名山とも日本三霊山ともされる信仰の山です。仁寿三年(852)には「白山比咩(ひめ)大神」として史料に登場。養老年間(717~724)泰澄により「白山妙理大菩薩」として白山は開かれたとされています。 山岳信仰の伝播は後世、熊野と白山が二分するほどとなり、天台宗寺院はほとんどが白山社を鎮守として祀つるようになります。全国には三千以上祀られています。遠江札所でも何ヵ寺か鎮守としています。曹洞宗との関りも、道元禅師が著した「碧巌録」の写本時(宋からの帰国前)白山権現が手助けをした。 との伝承から、永平寺は鎮守神として祀り、僧侶(雲水)は白山に参詣登山する習わしが今も続いています。 また、白山権現の本地佛は十一面観音とされ、観音様とのご縁も深いです。(参照:山岳宗教史研究叢書10など)

 

気まぐれな巡礼案内⑯

投稿日:2017/10/24 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第18番 逆川 新福寺

国1千羽インターを降り南進し山鼻の信号を南へ 池下の信号を右折、西に向かい約四百メートルで左側に創輝(株)掛川工場。手前東側の道を南進していくと山裾に方形造りの観音堂に庫裡が続く新福寺が見えてきます。目印(会社)を見過ごすと 迷いやすい札所です。
観音堂に鈴と鰐口が掛けられています。

鰐口には、表面に「貞享元甲子年(1684)八月吉祥日」裏面に「奉禮三十三所 老若男女以助力掛之 遠州佐野郡新福寺村 順礼観世音菩薩 十八番」と刻されています。 当時は新福寺村と云う呼び方をしていたようです。

また、大勢の人々の協力によって作成されたと記されています。

120年後の「掛川誌稿」では「池下村にあるけれども、牛頭に属せり」としています。通常寺院は寺号山号がセットなのですが、ここだけ山号が伝わっていません。 
境内西南側に大正二年山崎茂七夫妻が奉納した、赤い帽子をかぶった弘法大師石像が二体、また南側には六体の地蔵尊が迎えてくれます。

一段高い墓地の一角には一石五輪塔も並べられ、古い歴史を語りかけています。
お堂は年2回の彼岸だけ開けるため、松島十湖撰の奉納額・富田秀甫の俳諧献詠額が鮮明に残されています。(遠江三十三観音霊場巡りと奉額俳句・奉納連歌解説)

此の寺の歴史伝説は、「遠江霊場第十八番新福寺由来」に、「当堂に安置奉る十一面観世音菩薩の由来を按ずるに 往昔屡々祝融に罹り 書類悉く灰燼に属し 由緒詳かならずと雖も 古老の口碑に就き諮すに謂く 人皇第百壱代後花園帝 享徳二癸酉七月の頃 異僧来たり 仏教三世の因果因縁を説示するに及び 人民大に信仰し 該僧をして 此地に留まり 長く村民を教養せんことを冀ふに 僧の云く、我は諸国巡廻の祈願あれば 此所に留り衆人の願を満足せしむる能はす 依って我が日常信仰し負い来る菩薩を諸人の為め 此の地に留む 就て汝等永く信心を忘却せず 現当二世の安楽を祈れと 即ち行基菩薩の御作なる十一面観世音菩薩を賜ふ 依て村民大に歓喜し 信者と疋日謀り 一小堂を建立し菩薩を安置し奉るに及び 近隣衆庶追々傳聞し 信者大に繁殖するに従ひ 後天文五年堂宇を再建する所にして 実に遠江三十三カ所の其の一たり 爾来四百有余年 霊徳昭々として 遠近に洽く群生を利済し給ふ 此を以て毎彼岸に際し 十方信心の男女参拝 陸続群れをなす 曩きに明治三十二年堂宇の修繕を加え稍旧観を改めたるも 今や庫裡の荒廃視るに忍びず 信徒と謀り□々修繕を相加へ漸く竣功したるに付 開帳供養を修行せんとす 然れども当区は少数にして 且つ微力なり 普く十方有縁の信者の喜捨を請ひ 素願を成就せんとす 冀くは信心の施主 各々応分の浄財を喜捨し菩薩の宝前に拝け給はんことを」と、大正十一年九月に開扉特別寄附緒言として書かれています。
札所の御詠歌が謎を生みます。

「はるばると のぼりてみれば さよのやま ふじのたかねに ゆきぞみえける」

昔から様々に言われてきましたが、確定的なことはわかっていません。

小夜の中山と関連する言い伝えは、①久延寺の奥之院説 ②小夜の中山からの寺院移動説 ③新福寺村へ住民転入説等です。

小夜の中山から富士を詠んだ歌はそれほど多くはありません。

富士歴覧記 明応八年五月八日(1499)飛鳥井雅康の 「大かたに ききしはものか みてそしる 名よりも高き ふじのたかねは」。

富士紀行 永享四年九月十日(1432) 大納言飛鳥井雅世の 「君よりも 君をやしたう 今日さらに 又あらわるる 富士のたかねは」。

 

覧富士記 永享四年九月(1432) 足利将軍義教の富士遊覧に従って。尭孝法師の 「名にしをえば ひる越てだに 富士もみず 秋雨くらき さよの中山」 「秋の雨も はるるばかりの ことのはを ふじのねよりも 高くこそみれ」 「あま雲の よそにへだてて ふじのねは さやにもみえず さやの中山」 「富士のねも 面かげばかり ほのぼのと 雪よりしらむ さよの中山」 「それをみる おもかげうすし 富士のねの 雪かあらぬか さよの中山」。 くらいでしょうか。

「小夜の山」と詠まれている歌は見かけません。全て「小夜の中山」です。

「さや」か「さよ」かは、古今集から賀茂真淵に至るまで論は交わされてきました。「佐夜」「小夜」は近世に入ると「小夜」が主流になってきます。

御詠歌が、敢えて「小夜の山」としていることに注目してみますと、幻の寺院「佐夜山寺」が浮かびます。

この寺院の場所については、海老名(あびな)の奥に滝があり、その上に「会下の平(えげのだいら)」があり、その付近とされていますが、地元の人はより高所を云い、確定されていません

また「久延寺」について※「中世佐夜中山考」で著者は「久延寺が何時、誰によって開創されたか、今は諸伝説や口碑が乱れ伝えられて実相は全く不明である。その初めは、海老名の瀑布の下、会下の平に佐夜山寺という精舎があったが、これと何か関係があるであろう。」と記しています。

小夜の中山から富士の見える場所はごく限られ、久延寺付近だけです。

当霊場でも、最近では粟が嶽の観音が日坂常現寺におろし祀られましたし、日坂相伝寺内光善寺は東山から一族が新地に転出した時に持ってきたとも言われます。ただどちらも「元々はここですよ」と解かるようにしてあります。

伝承がないことは、不思議というほかありません。いつの日か明らかになる日が来ることことを期待したいと思います。

山本石峰氏は「遠江三十三カ所ご詠歌 詠歌中和歌の本体」で、この札所の御詠歌について「巡礼の日数重ねて 小夜の長山に来たら、富士の白雪が見えた、見ただけでは雪の味は分からぬ、ここからが一修行 白雪は観音と思え」と訳しています。

 

本尊様の脇佛に地蔵菩薩が祀られています。(写真)尺三寸(40センチ)程の立像です。彩色が繊細にほどこされ、玉眼が入れられた立派な寄木造りです。かなりの時代を経た仏像のように見受けられます。このお地蔵さまにも数多の願いが込められているのでしょう。

本尊様は二重のお厨子に入れられています。ここにも本尊様の移動説が隠されているのかもしれません。また、前回のお開帳に使われた五色の糸が、観音様の手にしっかりと結ばれ、次回への結縁を待っています。

新福寺は2021年 お開帳を迎えます。役員の方は既に計画段階入っているようです。 どのようにすれば地元の方々が観音様に目を向け、将来に観音信仰を続けていけるだろうかと、真剣に考えてくださっています。

花火を大きく上げることより、継続することに焦点を当てるという困難な道を歩もうとしていることに敬意を表したいと思います。

 

※「中世佐夜中山考」 桐田幸昭 昭和46年(1971)刊