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気まぐれな巡礼案内⑱

投稿日:2018/01/16 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第28番 拈華山(ねんげさん) 正法寺 菊川市西方1329

鎮守は白山妙理権現です。
菊川市立堀之内小学校の第二応援歌に「緑も深き ねんげ山 若き血潮は高鳴りて 示すは今日のたたかいぞ ふるえ 堀小健男児」と拈華山(ねんげやま)が歌われています。

菊川市役所の西に常葉学園菊川校があります。この山を「高田ヶ原」といい、その西側の谷が西方堀田です。

掛川方面から来ますと、JRに沿って東進し「菊川市堀田地内」と書かれた歩道橋の信号を右折 JRガードをくぐり 道なりに200m真っ直ぐに進めば、28番札所の正法寺に突き当たります。 裏山が城跡の興味いっぱいの札所です。

① 正法寺について「掛川誌稿」には「除地三石、本堂七間、本尊正観音、開山※龍雲寺三世實傳和尚 元亀元年(1570)九月二十三日寂、此の寺

堀田正法と云う人の開基なり」と記されています。

「菊川町史」には「天正二年(1574)宗貞開創(實傳宗貞) (以前は真言宗に属していたといわれる)山号を拈    華山と称し、聖観音を本尊とする。この本尊は鎌倉仏師の祖※運慶の作と伝えられている。又遠江三十三所の霊      場として代々信者の帰敬があつかった。安政三年(1856)冬 失火により諸堂悉く焼失するも、本尊の霊像はそ    の厄を免れ、諸堂建立の企てをするも、明治の廃仏毀釈により、小堂宇を建立するにとどまった。五十年後、大      正十四年(1925)現在のお堂の竣工を見るに至った。」と記されています。

※潮海寺75坊の一つと云われる この寺院が、戦乱の騒擾期に曹洞宗に改宗・創建され今日に至っています。

寺院の東側の広い場所を小字名「寺田」と云い、ここを流れる川を「寺田川」、菊川駅方面への道を「宇東坂(う  とうざか)」と云いますから古くは現在地より東北位に寺院はあったのかもしれません、

御詠歌は現在地で詠まれていますので、近世には既にこの場所に寺院はあったようです。また正法寺を堀田城の      館 跡とする説もありますが、現在は否定されています。

堀田城跡発掘調査報告書によれば 「中世堀田城の東側、正法寺周辺に屋敷が広がり、集落を形成することが堀   田遺跡、堀田東遺跡の調査で明らかになっている。この調査結果では、12世紀後半から13世紀・14世紀から15世     紀の二時期に画期がみられ、16世紀になると集落は水田地帯へと変貌するようである。」と記されています。

境内に入りますと、本堂の前に梅の古木、その隣に釣り鐘堂があり、その下には、遠江巡礼記念の石碑が建てられ ています。  
本堂は間口7間、火災から50年後 阿弥陀浄土に手を合わすかのように東向きに建てられています。正面玄関の両脇には大きな火灯窓(かとうま

ど)があり、禅宗寺院の風格が醸し出されています。

本堂の中は広く、須弥壇の手前には狛犬が祀られ、正面の大きな厨子に本尊様は祀られています。

この寺院には「丸に渡辺星」と云われる寺紋が多く見られますが理由は不明のようです。

 
※洞谷山龍雲寺:菊川市西方3780-1にある。曹洞宗の古刹寺院で、室町中期 永正11年(1514)に開創。開山は法山宗益で、長松院二世教之一訓

和尚(掛川市大野)の法脈を継ぐ名僧。

※運慶:(1150頃~1223) 平安末期から鎌倉初期に活躍した仏師。力強い作風が特徴とされている。県内では「かんなみ佛の里」に願成就院の仏像が祀られている。平成29年9月より11月まで、東京上野の東京国立博物館で雲慶展が開催され、期間内に60万人を超える入場者数があり、好評を博した。

 

 

②裏山(城山)に登ってみましょう。

掛川誌稿には「正法寺の後山を城山と呼ぶ、太鼓の丸など言う所 存せり、堀田正法と云う人、此の所に居りしという」とあります。

寺を起点に墓地の西側から登っていきます。  五分ほどで東の※郭(くるわ)

に出、ここには秋葉社があり、「学習の鐘」が吊り下げられています。
この鐘は学校の始業時・終業時に用務員さんが鳴らし、知らせてくれた、懐かしい鐘です。

秋葉社の横には大きな火箸・十能(じゅうのう)・すりこ木が奉納されています。
火に携わる職業人にとって 火を自由に操り、技術を磨くことは火防と共に大切なことです。この願いを込めて神社に奉納されたものです。また すりこ木は「身を削り 人につくさん すりこぎの その味知れる 人ぞ尊し」などと詠われ、努力の大切さを諭しています。

秋葉社のところが、先記の「※太鼓の丸」の郭でしょうか。報告書によれば 長さ14m、幅12mの不整形な出曲輪(でくるわ)的存在で、南方部から谷間に入る敵の動きを監視したり、東方一帯の物見が可能である。とされ、少し立木が邪魔をしますが、西北から東南に眺望が開け、全体が俯瞰できます。

北側には東西に主要道路(川崎往還)が通り、西方川(松下川)が北から東に巡っていて、交通の要衝です。
秋葉社を西に進むと堀切があり、この尾根筋に沿って郭が連続しています。
最西の郭が本丸(本郭)と考えられています。先の報告書によれば、全長26m 幅9~13mの不整形な曲輪で、西側に向けて突出部があり、堀切

に面している。(幅4m 長さ9m余 深さ0.8m余)
静岡県の重要遺跡となっている堀田城跡の本格的な調査は過去4回(平成5年墓地整理に伴う第一次調査・平成7年西方川河川改修に伴う第二次調査・平成13年斎藤慎一氏指導による測量、踏査の第三次調査・平成16年西方川災害復旧工事に伴う第四次調査)行われ、かなり詳しくわかってきています。

「標高72m前後、西方川筋から比高差50m 東西200m 南北180mの山城で,第2次調査での出土品から15世紀後半には堀田城が機能していたこと、第2次3次調査により主郭の最重要部分に明確な※虎口(こぐち)が確認され、この主郭内虎口から北尾根に沿って下る道が正面の登城路であり、城と関連深い集落や館は この方面に在った(現田ヶ谷龍雲寺方面に「中」「御所ノ谷」などの小字あり)と推測される。いずれにせよ、堀田城は15世紀後半頃、西方を所領とする領主層によって築かれた、※西方の要害という機能が浮かび上がってくる。」と 当時江戸東京博物館学芸員の齋藤慎一氏は書しています。(堀田城跡発掘調査報告書 第4次調査)

また「地元に戦国期の土豪である※松下之綱(嘉兵衛)(1537~1598)の城とする伝承がある(今川氏滅亡後徳川家康に仕え天正2年(1574)第一次高天神城の攻防で戦う)が、根拠を示す資料はなく、松下氏は今川氏の被官人として頭陀寺城主であるため、可能性はない。」と否定していますが、私情ですがロマンとして短期間であっても小字松下や松下川の名から可能性は残しておきたいように思います。伏木が谷の伏木久内や宇都宮泰宗の子貞泰(遠江の守 堀田正法)についても今後の研究に委ねたいと思います。

また堀田城について第2次調査のまとめとして、「創建は室町中期頃の横地城の支城として機能したものであろうが、戦国期には、陣城として改修されたと考えられる。永禄十一年(1568)の掛川城攻めの陣城、または天正三年(1575)徳川軍による諏訪原城攻めの陣城等、この地域の軍事的緊張時に活用したことが考えられる。」としています。

最近、地域の有志によって「郷援隊」が創られ、城址に目を向けようとしています。現状の案内板を訂正し、新たな城跡地図や案内板が作成され、学術的にも貴重な史蹟が後世に保存されることを期待します。

  
※郭(くるわ):曲輪とも書く。城の内外を土塁・石垣・堀などで区画した区域。堀田城の場合 尾根筋を削り平坦部をつくる※連郭式山城。

※太鼓の丸:太鼓櫓を設け、物見台の役割と家臣の集合などの合図をした場所。

※連郭式山城:多数の郭で構成された中世の山城。堀田城は現在16の郭が確認されている。

※大手口(追手):表口のこと。搦手(からめて)は裏口のこと。

※虎口(こぐち):城郭における最も要所にある出入り口のこと。

※松下嘉兵衛:松下之綱(ゆきつな)のこと(1537~1598)木下藤吉郎(後の秀吉)の武芸・学問・兵法の師とされる。今川家家臣(頭陀寺城主)~徳川に仕仕える(武田と戦う)~豊臣秀吉家臣(久野城主16000石)

※西方:河村庄に由来する。正応二年(1289)には「遠江国河村庄東方」の文言が見えることから、「西方」もこの時期には呼称として存在していたと考えられる。

河村庄は寛治4年(1090)白河上皇が賀茂御祖社に寄進した荘園で、其の後 松尾社・新日吉社が荘園領主となる。その後建久2年(1191)開発領主とされる「三郎高秀」が北条時政に寄進している。河村庄の領有は複雑化し、「※下地中分」が行われ、地頭方の「東方」と領家方の「西方」が成立したと思われる。また西方には公文が置かれたため、「公文名」の地名が残る。(堀田城と河村庄西方)

※下地中分:鎌倉時代に入ると荘園領主と現地管理人との関係が複雑化してくる。荘園領主側は折半する形で領主と現地管理者(地頭)に分け荘園を維持しようとした、徐々に地頭方(武士団)が勢力を強めていく。本所・伊達方・鴨方などの地名が近在に残る。

 

③ 御詠歌 「やつだにや 梅の名木 のりのてら 潮にひびく 鐘のおとずれ」

山本石峰氏は「上の句は正法寺境内を極楽浄土と見て、観音様に※発菩提心を申し上げた。なんの答えも無く 消え失せて潮海寺がボーン、ボーン」と記しています。

氏は「潮に」を※潮海寺としています。「うしお」を「波のように押しては引く鐘の音」と解釈していましたので 再考です。氏は「河城郷土誌」で潮海寺について綿密に調査しています、その関連を考えたのだと思われます。

※潮海寺:広巌城山潮海寺 菊川氏潮海寺にある真言宗の古刹。

天平年間(729~749)の草創といわれ、河村庄内に3000石を領したといわれる。

平安末期成立の「後拾遺往生伝」の中に潮海寺の住僧(大聖・小聖)の話がある(1087~1093)。また  元亀天正(1570年代)の頃兵火で焼失した本堂の再建用材調達の許可が、徳川家康の家臣 大須賀五郎左衛門康高から出されている。

昭和51年の予備調査で 本堂(薬師堂)創建時 間口23m奥行き18mの威容で、遠州では磐田の国分寺に次ぐ大寺院。礎石、布目瓦が出土する。

現在のJR踏切の南から一直線に北に向かって道路が1㎞薬師堂に伸びています。この道に沿って古代から中世にかけて門前町が形成されていたことは発掘調査(潮海寺門前町遺跡 平成7年)によって証明されています。

この地に大寺院が建立された理由は謎に包まれています。「征夷大将軍坂上田村麻呂」伝説(金剛城山薬師如来略縁起)が有力なのでしょうか。勅願時でない大寺院の謎は未だ解き明かされていません。現在の薬師堂は明治11年再建されました。

※発菩提心:悟りを求めようと決心すること。

 

28番「正法寺」を訪れ、城跡にのぼり 戦国時代に思いを馳せ、学習の鐘に平和と平穏を誓う。

人間の愚かさと儚さを見続けてきた観音様は、憐れむように微笑みを浮かべ すべてを受け入れ「今を大切にして生きるんだよ」と説いてくださる。そんな思いにしてくれる札所です。

 

 

 

気まぐれな巡礼案内⑰

投稿日:2017/11/11 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第19番 明照山 慈明寺 (掛川市小原子134)
寺院名を問われても答えにくいケースがあります、ここもその一つです。

20番大原子の西側の谷にあり、大原子(おおばらこ)に対して、小原子(おばらこ)となります。ただ観音堂を聞くときは、おおばらこ の観音様に対して、こばらこ の観音様という言い方がわかりやすいです。

今は行政が一つになっていますが(大原子と小原子)大きな大原子は一村とはならず、伊達方・千羽番地。小原子は八軒で一村です(掛川史稿)。その成立も古く、天正17年(1589)には既に一村として成立していたようです(掛川史稿)。 現在も八軒です(2017)。

※東山口村郷土史には「この部落は小村なるも 昔より その名聞こえたり。旧石高四十六石なりと 氏神白山神社は六百年も前に加賀の白神社より勧請した。当時より河村新左エ門が鍵取り役だった。当時の戸数四戸なりしと また永享三年(1431)に慈明寺を建てた 遠江札所観音十九番 子育観音とし霊験あり 子を持つ親心、遠近の人々来参す。」と また「この仏体は佐夜の中山 久延寺 子育観音が仏教宣布の美女と化し この里人に読経を誦せしめ 童男童女愛撫のやさしき心を教えられた話あり」と記されています。

 

 

「掛川道の駅」から国1を北に突っ切り(広域農道)約1.7キロ 西寄りに進み、十字路を北に入ったほうが解りやすいです。

細い道ですが、三百メートルほど行きますと、道横に観音堂があります。

銀杏が入口に在り、子育て観音を象徴するように 銀杏の木から多くの※乳根(ちちね)が出て 迎えてくれます。

境内にはモッコクや泰山木(幹回り1.4m)の古木も植えられています。

銀杏の下に500キロ位はあろうかと思われる石が据えられ、注連縄が張られ、賽銭もあげられています。(写真)
この石は 20年程前、大原子と小原子の境の山を崩す開墾事業が行われた時 掘り出されたもので、この付近では見られない珍しい石ということで、観音堂の境内に置かれています。ただ先記の村史には「昔から伝えられし金鉱も、しばしば調査の人来る」と記され、ロマンも感じさせてくれます。

お堂の中には 子さずけ・安産・子育ての御利益を願う奉納品が供えられています。(写真) 
本尊様は聖観音さまです。両側に不動明王(東)と毘沙門天(西)が脇佛として祀られています。

御厨子の中に祀られていますが、彩色も緻密にほどこされ、かなり古い像と見受けられます。(写真)


この観音三尊形式は遠江三十三カ所札所でも、密教系の札所の多くが 同様の祀り方をしています。

はっきりとした理由は解りません。

通常 本尊様(観音)の左右に控える明王や天部の像を脇立(わきだち)と云い、本尊様(観音)の補佐・強化を役割とします。

毘沙門天は「法華経」によると、観音の化身とされていることが脇立の要素の一つかもしれません。(安藤希章著「神殿大観」)

不動明王が観音様の脇立の理由は、一般に観音は母親にたとえられ、不動明王は父親にたとえられることからでしょうか。仏様ランキングでは、如来→菩薩→明王→天部の順になり、観音菩薩は正法明佛という如来が衆生済度のために、今は菩薩の身でいるのです。いずれにせよ、鎮守の白山社も含め、祭祀形式から密教系の寺院だったことが推測されます。

お堂の中に お勤めに使用している「鉦鈷」(写真)が置かれています。「文久三年癸亥之春(1861) 本所村 榛葉平太夫」と刻されています。

鉦鈷以外にも香炉など近在の人々の信仰による寄進があって維持されてきています。

本尊様の伝説は 由緒に「往古美麗なる一婦人来たりて 吾為に経文を読誦せよ 吾れ妻となり 童男童女を養育せんと 村内の人々之を聞き 盛んに読誦し 忽ちにして学誦し 其の妻たることを乞う 美人曰く 吾一人なれば 多くの人の妻たるを得ず 若し吾を思わば 経文を読誦せよ 吾必ず童男童女を守護せん と云い終わるや その姿なし 之れ佐夜の中山 子育観音の化身ならん 本尊は行基菩薩の作 遠江十九番の札所として 庶人の信仰厚く 子を持つ親 遠近より来集す」(東山口村郷土史)と伝えられ、小夜の中山の子育て観音との関連性を示唆しています。また18番新福寺の伝説とも、どこか共通点があります。

史実によれば、永享3年(1432)創建。元禄15年(1702)再興。60年ほど前までは、茅葺きのお堂だったようです。

お堂の西脇から裏山に登ってみましょう。スロープと70段ほどの階段で 氏神※白山社に着きます。参道脇には矢竹が生えています。社の前に昔は大きな鳥居杉が立っていたようで、名残の株があります。 
社の由緒書には「延文元年(1356)の頃 加賀の国より勧請 天正二年(1574)祠を建立す」とあります。(東山口村郷土史には永禄元年(1558)加賀の国より勧請ときされる) 寺社はほぼ同時期に勧請されますから、ゆうに400年以上は経ているようです。

氏神白山社の後ろの一段高い所に石碑が祀られています。剥離して「山」のみ判読可能です。 横には「嘉永六年(1853)」が読み取れます。

地元の方に尋ねると、これは「大峯山」と云い、東北の山から移したものだとの説明でした。大原子に小字名「大峯」とあり、その場所からと思われます。山岳霊山への信仰はここにも発見できます。

御詠歌「望月や 明らかなるをしるべにて 歩みをはこぶ 人ぞたのもし」 を山本石峰氏は「暗い座敷で浮世の夢を見ていたら、外に十五の月が出て、飛び出して見ると 胸の中が清く、これぞ発菩提心。月は観音のたとえなり。」と解説しています。

喧騒からはなれ ゆったりとした時を過ごす。 子どもの頃 学校から帰って、ランドセルを放り投げ 境内で鬼ごっこに興じた 眼を閉じれば そんな光景が映しだされてくる札所です。

次の20番には、山道を通ればすぐですが、今は通る人もいないため荒れています。

※東山口村郷土:昭和29年解村記念(掛川市への合併)として伊藤儀弥太氏が編者として出版された。

※乳根(ちちね):通常は 土壌が酸欠状態のため、根(気根)を出すことにより、枯れることを免れようとしている。と説明されますが、正確な原因は学会でも出ていないようで、「古い時代の植物の特性を残した特殊な形」かもしれないようです。「垂乳根(たらちね)は母親、親にかかる枕詞

※白山社:白山は越中・加賀・美濃・飛騨の五か国にまたがる 標高2702mの山で、立山・富士山とともに古来より日本三名山とも日本三霊山ともされる信仰の山です。仁寿三年(852)には「白山比咩(ひめ)大神」として史料に登場。養老年間(717~724)泰澄により「白山妙理大菩薩」として白山は開かれたとされています。 山岳信仰の伝播は後世、熊野と白山が二分するほどとなり、天台宗寺院はほとんどが白山社を鎮守として祀つるようになります。全国には三千以上祀られています。遠江札所でも何ヵ寺か鎮守としています。曹洞宗との関りも、道元禅師が著した「碧巌録」の写本時(宋からの帰国前)白山権現が手助けをした。 との伝承から、永平寺は鎮守神として祀り、僧侶(雲水)は白山に参詣登山する習わしが今も続いています。 また、白山権現の本地佛は十一面観音とされ、観音様とのご縁も深いです。(参照:山岳宗教史研究叢書10など)

 

気まぐれな巡礼案内⑯

投稿日:2017/10/24 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第18番 逆川 新福寺

国1千羽インターを降り南進し山鼻の信号を南へ 池下の信号を右折、西に向かい約四百メートルで左側に創輝(株)掛川工場。手前東側の道を南進していくと山裾に方形造りの観音堂に庫裡が続く新福寺が見えてきます。目印(会社)を見過ごすと 迷いやすい札所です。
観音堂に鈴と鰐口が掛けられています。

鰐口には、表面に「貞享元甲子年(1684)八月吉祥日」裏面に「奉禮三十三所 老若男女以助力掛之 遠州佐野郡新福寺村 順礼観世音菩薩 十八番」と刻されています。 当時は新福寺村と云う呼び方をしていたようです。

また、大勢の人々の協力によって作成されたと記されています。

120年後の「掛川誌稿」では「池下村にあるけれども、牛頭に属せり」としています。通常寺院は寺号山号がセットなのですが、ここだけ山号が伝わっていません。 
境内西南側に大正二年山崎茂七夫妻が奉納した、赤い帽子をかぶった弘法大師石像が二体、また南側には六体の地蔵尊が迎えてくれます。

一段高い墓地の一角には一石五輪塔も並べられ、古い歴史を語りかけています。
お堂は年2回の彼岸だけ開けるため、松島十湖撰の奉納額・富田秀甫の俳諧献詠額が鮮明に残されています。(遠江三十三観音霊場巡りと奉額俳句・奉納連歌解説)

此の寺の歴史伝説は、「遠江霊場第十八番新福寺由来」に、「当堂に安置奉る十一面観世音菩薩の由来を按ずるに 往昔屡々祝融に罹り 書類悉く灰燼に属し 由緒詳かならずと雖も 古老の口碑に就き諮すに謂く 人皇第百壱代後花園帝 享徳二癸酉七月の頃 異僧来たり 仏教三世の因果因縁を説示するに及び 人民大に信仰し 該僧をして 此地に留まり 長く村民を教養せんことを冀ふに 僧の云く、我は諸国巡廻の祈願あれば 此所に留り衆人の願を満足せしむる能はす 依って我が日常信仰し負い来る菩薩を諸人の為め 此の地に留む 就て汝等永く信心を忘却せず 現当二世の安楽を祈れと 即ち行基菩薩の御作なる十一面観世音菩薩を賜ふ 依て村民大に歓喜し 信者と疋日謀り 一小堂を建立し菩薩を安置し奉るに及び 近隣衆庶追々傳聞し 信者大に繁殖するに従ひ 後天文五年堂宇を再建する所にして 実に遠江三十三カ所の其の一たり 爾来四百有余年 霊徳昭々として 遠近に洽く群生を利済し給ふ 此を以て毎彼岸に際し 十方信心の男女参拝 陸続群れをなす 曩きに明治三十二年堂宇の修繕を加え稍旧観を改めたるも 今や庫裡の荒廃視るに忍びず 信徒と謀り□々修繕を相加へ漸く竣功したるに付 開帳供養を修行せんとす 然れども当区は少数にして 且つ微力なり 普く十方有縁の信者の喜捨を請ひ 素願を成就せんとす 冀くは信心の施主 各々応分の浄財を喜捨し菩薩の宝前に拝け給はんことを」と、大正十一年九月に開扉特別寄附緒言として書かれています。
札所の御詠歌が謎を生みます。

「はるばると のぼりてみれば さよのやま ふじのたかねに ゆきぞみえける」

昔から様々に言われてきましたが、確定的なことはわかっていません。

小夜の中山と関連する言い伝えは、①久延寺の奥之院説 ②小夜の中山からの寺院移動説 ③新福寺村へ住民転入説等です。

小夜の中山から富士を詠んだ歌はそれほど多くはありません。

富士歴覧記 明応八年五月八日(1499)飛鳥井雅康の 「大かたに ききしはものか みてそしる 名よりも高き ふじのたかねは」。

富士紀行 永享四年九月十日(1432) 大納言飛鳥井雅世の 「君よりも 君をやしたう 今日さらに 又あらわるる 富士のたかねは」。

 

覧富士記 永享四年九月(1432) 足利将軍義教の富士遊覧に従って。尭孝法師の 「名にしをえば ひる越てだに 富士もみず 秋雨くらき さよの中山」 「秋の雨も はるるばかりの ことのはを ふじのねよりも 高くこそみれ」 「あま雲の よそにへだてて ふじのねは さやにもみえず さやの中山」 「富士のねも 面かげばかり ほのぼのと 雪よりしらむ さよの中山」 「それをみる おもかげうすし 富士のねの 雪かあらぬか さよの中山」。 くらいでしょうか。

「小夜の山」と詠まれている歌は見かけません。全て「小夜の中山」です。

「さや」か「さよ」かは、古今集から賀茂真淵に至るまで論は交わされてきました。「佐夜」「小夜」は近世に入ると「小夜」が主流になってきます。

御詠歌が、敢えて「小夜の山」としていることに注目してみますと、幻の寺院「佐夜山寺」が浮かびます。

この寺院の場所については、海老名(あびな)の奥に滝があり、その上に「会下の平(えげのだいら)」があり、その付近とされていますが、地元の人はより高所を云い、確定されていません

また「久延寺」について※「中世佐夜中山考」で著者は「久延寺が何時、誰によって開創されたか、今は諸伝説や口碑が乱れ伝えられて実相は全く不明である。その初めは、海老名の瀑布の下、会下の平に佐夜山寺という精舎があったが、これと何か関係があるであろう。」と記しています。

小夜の中山から富士の見える場所はごく限られ、久延寺付近だけです。

当霊場でも、最近では粟が嶽の観音が日坂常現寺におろし祀られましたし、日坂相伝寺内光善寺は東山から一族が新地に転出した時に持ってきたとも言われます。ただどちらも「元々はここですよ」と解かるようにしてあります。

伝承がないことは、不思議というほかありません。いつの日か明らかになる日が来ることことを期待したいと思います。

山本石峰氏は「遠江三十三カ所ご詠歌 詠歌中和歌の本体」で、この札所の御詠歌について「巡礼の日数重ねて 小夜の長山に来たら、富士の白雪が見えた、見ただけでは雪の味は分からぬ、ここからが一修行 白雪は観音と思え」と訳しています。

 

本尊様の脇佛に地蔵菩薩が祀られています。(写真)尺三寸(40センチ)程の立像です。彩色が繊細にほどこされ、玉眼が入れられた立派な寄木造りです。かなりの時代を経た仏像のように見受けられます。このお地蔵さまにも数多の願いが込められているのでしょう。

本尊様は二重のお厨子に入れられています。ここにも本尊様の移動説が隠されているのかもしれません。また、前回のお開帳に使われた五色の糸が、観音様の手にしっかりと結ばれ、次回への結縁を待っています。

新福寺は2021年 お開帳を迎えます。役員の方は既に計画段階入っているようです。 どのようにすれば地元の方々が観音様に目を向け、将来に観音信仰を続けていけるだろうかと、真剣に考えてくださっています。

花火を大きく上げることより、継続することに焦点を当てるという困難な道を歩もうとしていることに敬意を表したいと思います。

 

※「中世佐夜中山考」 桐田幸昭 昭和46年(1971)刊

 

気まぐれな巡礼案内⑮ ~ちょっと寄り道・豆知識~

投稿日:2017/10/08 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

気まぐれな巡礼案内⑨ 観正寺で 気になる石(写真)について触れましたが、このような石を「ノジュール」と呼び、泥が固まった泥岩や砂が固まった砂岩の地層に見られる ボール状のかたい岩石の事を云い、この近くを通る※掛川層群でも稀に見られるようです。
※掛川層群:450万~180万年前の海底で堆積した砂層と泥層からなる地層で、掛川市を中心に牧之原市西部から菊川市、袋井市北部にかけて分布している。

掛川層群の地層は、西又は南西に20~40度傾いているため、分布の東側に古い地層があり、西側に行くほど新しい地層になります。

掛川層群の地層のほとんどは、深い海にたまった砂層と泥層が繰り返しに重なっている砂泥互層ですが、掛川市街地から袋井市北部にかけては、浅い海にたまった砂層や泥層が分布しています。

掛川層群の地層は、その特徴や火山灰層などにより区分されます。とくに、掛川市には掛川層群の上部層が分布し、それらは下から上に向かって内田層、大日層、土方層という順に重なっています。(ふじのくに地球環境史ミュージアム・掛川層群化石展より)

気まぐれな巡礼案内⑫正法寺で案内しました「通幻木の伝説」のモミですが、島田市博物館入口に川根の「ハリモミ」が展示されています。

樹齢510年 幹回り約4.5メートルです。種類も異なりますし、育つ環境にもより異なると思いますが、参考にはなると思います。(写真)


 

気まぐれな巡礼案内⑭

投稿日:2017/10/01 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

9月に入ると、「月々に 月見る月はおおけれど 月見る月は この月の月」仲秋の名月の句をおもいだします。

彼岸月が重なり、日本人の良さを実感する季節でもあります。

暦の上でも春夏秋冬の四季の移り変わりが突然来るわけではありません。

17日間の移行期を土用と呼び、この土用が明けて立秋・立冬・立春・立夏となります。

中秋は旧暦の8月15日で、この日を方位でとると「真西」、太陽の「陽」に対して月は「陰」、陰の象徴としての月の正位は「西」、旧暦8月15日の月を拝む行事は「五穀結実」を祈り、四季の順調な推移を祈願し感謝する行事であり、お供え物も白色団子・芋・栗等全て丸く、金気西を象徴する物ばかりです。

お隣の韓国でも「仲秋佳節」として、重要な日として祝ってきました。

日本では、風雅なお月見行事として、古来から定着してきた慣わしですが、その意味は中国哲学に裏打ちされたものです。

難しい理論を隠し、秋の満月に手を合わせる姿に、日本人の情緒を感じます。

月の呼称も、新月、二日月、三日月、上弦月、十三夜月、待宵の月、十五夜、満月、十六夜(いざよい)、立待月、居待月、寝待月、更待月、下弦月(二十三夜)~有明月、晦日月まで、様々な呼び方にスーパームーンが追加しました。

 

御詠歌にも 月を詠みこんだ札所が5ヶ寺あります。今回はその一つ、29番正林寺内磯部山です。
正林寺は旧小笠町。県道大東菊川線を南進、磯部の信号を左折(相良大須賀69号線)すれば左側にあり、南側は「塩の道」の塩買い坂があります。

境内を入って行くと、今年(平成29年)落成した荘厳な山門が建ち(写真)
大伽藍の閑静な佇まいの中、観音堂は本堂西側にあります。(写真)
明治29年、磯部山上からこの地に移されました。(磯部山は正林寺の西に数百メートル、信号機の東南)正林寺蔵 正徳3年(1713)の古絵図によれば、磯部山上には観音堂を始め、客殿、別当家(庫裡)、池、弁天堂があり 江戸中期の当地の様子が伺われます。

昭和60年観音霊場保存会発足後、各札所に観音霊場に関する資料要請をされたことがありました。29番札所の資料紹介に、昭和26年(1951)※山本茂三郎(石峰)氏が「遠江三十三所巡礼物語」と題する、故事伝説解説本を正林寺に奉納と記されていました。

ご住職の温かいご理解で、早速コピーをとっていただきました。(写真)
時の住職※田中霊鑑氏(1877~1965)が序文に「予 先に現皇帝即位式の大正三年に 記念に国家安康、五穀豊饒を祈願して、遠江三十三所観音霊場奉納経及御詠歌集を出版して旅行し、大悲の慈眼を讃仰せり。

当時以前、遠江三十三所霊場創設者、真史蹟等甚に不詳にして、史料風土記にも顕著ならず。甚に遺憾なりき、偶に石峰居士 正林寺史を研究せらるる傍ら之れが旧蹟探究を依属せしかば終に稿成りて、此の巡礼夢物語一巻となりて、其の創始起源等を得たるは誠に歓喜に堪へず、依って一言を附して序と為す。

昭和二十六年中秋九月 正林二十六世 霊感叟」と寄せています。

序文に記されています奉納経と御詠歌集は、氏三十代に出されたと思われますが、残存不明です。

本文は①遠江三十三札所縁記 ②遠江巡礼札所夢物語が著され、付録として今川氏、朝比奈氏、掛川城、御詠歌、観音和讃が記され、詳細に調査研究されたことがわかります。札所の草創についての記載では、1番結縁寺で紹介した内容と符合することも多くありました。

昭和62年に出版されました 鈴木偉三郎著「遠江三十三所観音霊場縁起」は正林寺蔵本を書写・加筆して出されたものです。

今後各札所の記載も 折に触れ紹介したいと考えています。

 

ご詠歌「はるばると 登りて見れば 磯部山 小松かきわけ 出る月影」 を石峰氏は「上の句は求道巡礼のありさまを述べ、小松とは垢穢の煩悩を指し、それを押しのけ払いさる観音力を月影に譬えている。」と解釈しています。

昔から西国霊場の御詠歌に比べ、遠江霊場の方が優れている と聞かされていましたが、なかなか奥の深いものだと感心させられます。

今川義忠を供養する寺として建立された正林寺。「寿桂尼」が今川の安寧を願い「霊場」を発願したとするならば、最も縁の深い この寺に何故重きを置かなかったのか、素朴な疑問は残ります。 正林寺開創は永正14年(1517)。

 

※田中霊鑑:正林寺26世住職で28番正法寺住職から請われて、正林寺に晋山、同寺を再興。昭和40年(1965)遷化88歳

※山本茂三郎:旧小笠町河東、晩年石峰を称す。菊川市河城村々史はほぼ氏の調査編集により刊行された。

※正林寺山門:旧山門は菊川市西方の澤崎邸から中内田の小原邸を経て正林寺に建てられていた。