静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

気まぐれな巡礼案内㉖

投稿日:2019/09/18 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

11番 安養山 西楽寺内観音寺 袋井市春岡384 ☎0538-48-6754

今年(平成31年)春から森町飯田 高平山遍照寺から移転しました11番札所です。

 本堂と本坊が離れています、札所のお参りと御朱印は本坊で行っています。(写真は本坊入り口)

 西楽寺へは国道1号線から上山梨(森町方面)に北上し、上山梨の信号を東進(271号線)、山名小学校の南側です。随所に案内標識があり、わかりやすいです。

前回の14番大雲院内知蓮寺同様 森町飯田 観音寺➡森町下飯田 高平山遍照寺内観音寺➡袋井市春岡 安養山西楽寺本坊内観音寺へと二回目の移動です。

昨年までお参りしていた高平山に観音霊場として参拝出来ないことは寂しいことですが、西楽寺奥の院として これからも霊場であり続けることに変わりはありません。高平山大仏もあり、今後の復興を期待したいと思います。

今回の案内は高平山に祀られる前の観音寺はどのような寺院だったのかを推定し、最初の移転地高平山を案内し、新地西楽寺を紹介します。


〇東補陀落山 観音寺について

森町は昔から遠州の小京都と言われてきました。そのルーツは平安時代にさかのぼります。観音寺があった飯田荘は白河・鳥羽・後白河上皇によって公認された強固な※荘園(※御起請地(ごきしょうち))で※蓮華王院(三十三間堂)の所領でした。白河天皇は承保二年(1075)に※法勝寺(ほっしょうじ)を造営、永保三年(1083)完成させています。 飯田荘観音寺はこの法勝寺の※直末寺院で、寺の境内からは※加法経を埋納した経塚がいくつか確認されています。飯田荘は皇室領の荘園として維持されてきました。 それ以前 森町飯田の坂田北遺跡からは養老年間(720年頃)には観音寺門前付近に集落が営まれていたことが判明しています。また「遠江国風土記傳」には「昔行基菩薩の開基なり。・・・淳和天皇・仁明天皇(823~850)両朝の勅願所なり、官符を以て寺田を賜る。今千石に凖す」とあり、いかに古くからの寺院かがうかがわれます。

飯田荘はこの観音寺を拠点に、京の都から僧侶や※神人(じにん)・※寄人(よりゅうど)などの交流が盛んとなり、太田川を京都の加茂川に見立て戸綿(とわた)の賀茂山に※賀茂三社を勧請し、荘園の南境に※祇園祭(山名神社)を始めました。同時進行で小国社を中心にした遠江の国神祀りも確立され「※都うつし」が推進されました。

太田川をはさんで、西は遠江の学問所である蓮華寺(天台宗)、東は※国王の氏寺法勝寺直末観音寺が大きな勢力を保持していたと考えられます。

飯田荘は、吉川流域を上郷(かみのごう)、戸綿を戸和田郷(とわたのごう)、現在の飯田を下郷(しものごう)と言い、現在の下飯田は山梨郷や宇刈郷と同じ文化圏にあった。と※図説森町史では解説しています。

※荘園:貴族、大寺院、法皇、上皇等が持っている私有地。

※御起請地:三代御起請地:白河・鳥羽・後白河の三代の上皇が承認したもの。

※蓮華王院:一般には「三十三間堂」として親しまれている。京都市東山区にある天台宗寺院。後白河上皇が平清盛に資材協力を命じて、自身の離宮内に創建(1165)した仏堂。

※法勝寺: (写真は法勝寺模型。京都市所蔵・森町史から転載)

現在の岡崎公園や京都市動物園周辺にあった。白河天皇が1076年(承保三年)に建立した。皇室から篤く保護されたが、応仁の乱(1467~)以降は衰退廃絶した。法勝寺は藤原氏の別荘地だったが、藤原師実が白河天皇に献上した。天皇はこの地に寺院を造ることを決め、1075年(承保二年)造営をはじめ、以後長期にわたって多数の建物を造った。1077年(承暦元年)に毘盧遮那仏を本尊とする金堂の落慶供養が執り行われた。1083年(永保三年)に高さ80mとされる八角九重塔と愛染堂が完成した。この法勝寺の造営は単に天皇の寺院建立にとどまらず、藤原政権と延暦寺との関係から、真言・南都仏教も含むあらゆる宗派の僧を起用し、皇室がすべての宗派の上に立つ宣言であり、実行の象徴でもありました。このことが天台宗一辺倒から新たな密教勢力(真言宗)が台頭する原動力となっていきます。後に案内します西楽寺にも関連してきます。

※直末寺(じきまつじ):総本山(ここでは法勝寺)直属の末寺。

※加法経:清浄に書写した法華経を意味する。比叡山の慈覚大師円仁が初めとされる。

※地頭:荘園を管理支配するために設置した職(地頭職)。荘園に駐在して軍事警察の役割も担った。荘園領主に対しては服従を命じられていましたが、時代が進むに、幅を利かせるようになった。

※神人(じにん):神職。

※寄人(よりゅうど):いくつかの意味がありますが、ここでは一般的に、平安時代以後庶務・執筆などを司った役職員。

※賀茂三社:都の地主神で上賀茂神社・中賀茂神社・下賀茂神社。

祇園祭:ここでは荘園の境界で疫病を祓う目的で行われる祭礼で、京都の祇園祭に倣う天王祭。(牛頭天王を祭る)

※都うつし:京都を模倣した都市設計や文化の流入。

※国王:法勝寺は別名を「国王の氏寺」と慈円は称し、白河院の権威の象徴とされた。院政の時代に天皇家によって建てられた六の「勝」のつく寺の最初の寺院。「国王の氏寺」とは単に天皇家の氏寺という意味だけでなく、太政官機構の頂点に位置する日本国の王の寺院という意味がある。

※図説森町史:平成11年森町発行

平安時代に皇室の堅固な荘園制度の下で「都うつし」が進展し、花開いた京文化は、やがて鎌倉時代に入り、地頭職の台頭による武家中心の時代となり、大きく変遷していきます。 鎌倉期⇒南北朝期⇒室町期の観音寺やその周辺(飯田荘)の動向を森町史を参考に見てみます。

建武三年(1336)遠江守護職は今川範国となり、応永十年(1403)斯波氏が遠江守護職に代わる69年間今川の支配が続き、斯波氏支配もその後百年続きます。永正五年(1508)今川氏親に守護職が代わり、永禄十二年(1569)今川氏真まで今川の支配が続きます。

応永三十年(1423)観音寺の塔頭寺院とおもわれる曼珠院で「円満抄聞書」を書写してることから、中世後期も多くの堂舎を持つ寺院であったようです。ただこの期間の動向は不明なことが多く、観音寺に関係する事柄を先既「森町史」年表から抜粋すると、1377年(永和三年)八月遠江国観音寺が本寺法勝寺再興のため、毎年※二貫文を支出することが定められる。とあります。 本寺法勝寺は1208年(承元二年)塔が落雷で焼失、1342年(南北朝期)火災により寺の南半分が失われる。1349年(貞和五年)再度火災にあい北半分も失われる。その後再建に尽力するが昔の姿は失われ、天台宗の一分派の拠点である小寺院に転落する。その後も追い打ちをかけるように相次ぐ戦乱・焼失により衰退した。本山のこのような衰退経緯をみると、直末観音寺も徐々に衰微したものと思われます。 ただ1390年(明徳元年)10月9日、東寺最勝光院方、観音寺少納言坊を遠江国原田荘細谷郷所務代官に補任する。とあり、これは戦乱の過程で、東寺は荘務権を実効的に行使できなくなり、荘園支配は現地で荘務を※請け負う代官へと移行したことをあらわす。(村井章介・静岡県史研究)と述べ、観音寺が金融業を営んでいたと推測しています。

その後、観音寺のことは「※円通松堂禅師語録」に散見します。文明~文亀のころ、松堂と親交を持った僧侶に光徳院・寺主翁顓(おうせん)・藤本坊等がみえる。今川時代では1557年(弘治三年)今川家の「祈願寺」となっています。1561年(永禄四年)今川氏真は観音寺の順虎に住持職は駿河増尾(慈悲尾)※増善寺長老の指南としており、増善寺の支配を受けるようになった。今川氏は寺領5町歩程を安堵したが今川氏滅亡の中、衰微してしていったであろう。(森町通史編より)

※ニ貫文:室町時代のニ貫文は今の金額に換算すると20万円くらいに相当します。毎年この金額を納入する寺院が大と見るか小みるかは異なりますが、小規模・弱体化していると推測できると思います。

※請負金額:20貫

※円通松堂禅師語録:松堂高盛(しょうどうこうせい)(1431~1505)。以前にも説明したかもしれませんが。遠江国佐野郡寺田村の生まれ、7歳のとき円通院の大輝霊曜の元で薙髪し高盛と称し、1452年(京徳元年)足利学校に学び儒・佛・詩等の学問を修め1458年(長禄二年)寺田に戻る。天台宗安里山長福寺住職が再興を曹洞宗僧高盛に託して去った話は有名です。また明応三年(1494)から同六年の原氏が滅亡するまでを記録した。

※増善寺:大雲院でも触れていますが、静岡市葵区慈悲尾にある曹洞宗の古刹。今川氏親の菩提寺。

 

1979年に日本楽器製造(株)が出した「観音堂横穴古墳群発掘調査報告書」・「研究報告第二集」があります。ゴルフ場造成工事に伴う発掘調査でしたが、100基を超える大規模な横穴古墳群では貴重な線刻壁画の発見など、当時話題となりました。その報告書の中に14~15世紀に成立した中世墳墓の副葬などから、寺院と密接な関係を持った寺院墓地の報告があり、また同報告書の中で5体の人骨の埋葬者の土壙墓について、観音堂横の5基の無縫塔・銘文との関連から、17~18世紀中葉の真言系僧侶の墓であるとしています。観音寺について報告書は「観音寺は『遠江風土記傳』巻九(寛政五年1793)には観音寺跡と記載されていて、近世末には草庵が僅かに存するだけで、在住する平僧のいない、名ばかりの寺院となっていたようです。そして最終的には明治四年廃寺となって、本尊は翌年飯田地区内る同じ真言宗寺院の遍照寺境内へ移転されている。略 この観音寺は中世末のいくつかの資料にも散見される寺であり、それらによれば今川義元以来の祈願所として寺領五町を寄進された有力寺院であり、開山を同じ頃の□虎としている。その後同寺の住職は鷲参-宋咄-順虎と相伝されたようであるが、これらの僧は真言宗派ではなく、同じく今川氏の帰依によって興隆した隣国駿河の曹洞宗寺院である増善寺の門派に属していて、この時期の観音寺は増善寺の末寺であったと思われる。こうした中世末と近世とにおける宗派の相違は、今川の没落を契機とした廃寺→真言宗派による再興という変遷を窺わしめるものである。近世観音寺は除地1石2斗8升1合という弱小寺院であり、中世観音寺と関連する周辺地名などから推測される往時のおもかげは既に失なっていたものであろう。」と報告しています。(写真2枚は発掘時の観音堂付近)

  写真は観音寺絵図・・江戸後期には観音堂だけになっているが、寺中からは平安末期の遺物が多く出土し、坊の跡ものこっていた。(図説森町史)

観音寺が森町の歴史に残した意味の大きさの概要は推測出来ました。栄枯盛衰を重ねたこの寺院がいつ頃観音霊場としてかかわりだしたのでしょうか。今川氏の祈願寺として、密教寺院から曹洞禅の支配に代わった頃と考えるのが妥当と思われます。本尊様は十一面観音様で行基作と言われてきました。此の観音様についての記録はなく、明治に入り高平山に移転すると新たに観音像が作成(明治37年8月再製・仏師大橋釼之介作)されており、その時点でどのように扱われたのか今となってはわかりません。

 

〇高平山 遍照寺

周智郡森町飯田2130

明治五年(1872)から平成30年(2018)までの146年間(観音堂は平成14年解体、16年間は本堂で祀る。)祀られた遍照寺について案内します。

親近感を以て「たかひらさん」と呼ばれています。「森町ふるさとの民話」に「高平山の鈴の音」という昔話があります。

 東海地方で最も大きいといわれている青銅の大仏様で知られている下飯田の遍照寺(へんしょうじ)には小さなお堂があります。このお堂は開山(かいざん)の木喰秀海(もくじきしゅうかい)というお坊さんをまつってある開山堂です。伝説によりますと秀海上人(しゅうかいしょうにん)は、鈴を鳴らし念仏をとなえながらここにうめられたということです。

関東大震災(大正12年)の2,3年前のある冬の夜のことです。山梨に住むあるおじいさんが、便所に起きたとき、どこからか、鈴の音がかすかに聞こえてきます。不思議に思いましたが、その夜は、そのまま寝てしまいました。 ところが、次の夜も、その次の夜も鈴の音は聞こえてくるではありませんか。そこで、近所の人たちに話し、ある夜、その鈴の音をたよりに、鈴の音の主(ぬし)をさがすことになりました。 鈴の音に耳を澄ましながら進んでいくと、だんだんと高平山(たかひらさん)に近づき、さらに山に登っていきます。そして、その音は、開山堂に消えていきました。 この話が広まっていったとき、村の人たちはいろいろなことをいいました。秀海上人がうめられるとき、「わたしが振った鈴の音が聞こえたら、もう一度ほりかえして新しいお堂を建ててほしい。」と言った。また、日本の国に大きな出来事が起こる前にわたしが鈴を振るから、鈴の音が聞こえたらきをつけなさい。と言った。とか言いあいました。

関東大震災の2,3年前から聞こえた鈴の音も、大震災のあと、ぴたりとやんで、それ以後聞こえませんでした。(森町ふるさと民話より)

〇高平山 遍照寺について:森町史通史編上巻 平成8年発行

遍照寺は本末関係では後に紹介する、袋井市山梨に所在する真言宗の古刹安養山西楽寺の末寺である。この寺は近世前半には木食聖を名乗る勧進聖たちが住職を勤めて栄えていたが、焼失し、天保年間頃には弘法大師堂と青銅製の大日如来像が残るだけとなった。この頃にはその名称も高平山弘法大師堂と称するようになり、堂守だけが置かれる程に衰退していた。(遠淡海地志)

木食とは本来は五穀を断つことを誓願し、これを修行の第一義とする修行者のことを指すが、この頃の遍照寺の木食聖はむしろ勧進聖としての性格が強く、こうした勧進聖の中遠での活動拠点となったのが遍照寺でした。

 (写真は上から旧観音堂・遍照寺の表札・遠景・近景・本堂前のオオヤマレンゲ)

遍照寺の由緒として、森町史資料に(明治45年発行・森町史資料刊行会)に「元和元年(1615)紀伊国高野山の住僧、木食秀海上人諸国遍歴の後、遠江国に来たり、遠近郷里の帰依を受く、殊に飯田村の寿徳と申す者、深く秀海上人を尊崇し、時に村内を探るに、峰平にして清浄無塵、極めて密場の地を得たり、依って彼の寿徳は大願主と成り、村内より其山芝一町四面余り秀海上人寄進致し、堂舎を建立し、弘法大師を安置せり、然して山により高平山と号し、大師の名号を以て遍照寺と名ずく。 除地高は一石五斗五升一合、当世迄九世に及ぶという。 境内に仏堂あり、本尊は観世音菩薩にして、飯田村観音寺にありしも、明治五年四月、浜松県庁の御達により、当寺境内へ奉祀せり、又大日如来一丈六尺の銅像(座像)あり、享保三年、遠近の善男善女の信施を受け、本寺西楽寺中興八世法印尊照の建立(開眼)なりと伝う。」

  高平山大仏について、説明版には昭和53年4月1日長指定文化財として「法界定印(ほうかいじょういん)を結んで座る胎蔵界大日如来像で、露座の金仏では東海地方最大のものである。六角形の冠をつけ、粂帛(じょうはく)を懸け、腕釧臂釧(わんせんひせん)をつけ、裳(も)をつけ右足を外にして結跏趺坐(けっかふざ)する。青銅製の縁結びの大仏である。八葉の蓮華座には、ぐるりと願主・鋳物師・寄付の施主名と金額がびっしり刻まれている。九年の歳月を経て1718年(享保三年)に造立され、勧進願主は遍照寺住職である木喰直心が務めている。その勧進に応じた遠州一円の村は、東は掛川から西は天竜川筋までの130ケ村にも及んでおり、355両3分200文が集まっている。江戸鋳物師太田近江が配下の鋳物師とともに鋳造したもので、森町住で徳川家康から御朱印を与えられ、遠江・駿河両国の鋳物師を支配した山田七郎左衛門が、駿遠両国鋳物師総大工職として名を刻んでいる。総高5m」と平成15年1月に森町教育委員会によって案内板が掲げられています。

少し脱線して、駿遠両国御鋳物師総大工職・山田七郎左衛門の下に制作された、高平山の胎蔵界大日如来像と菊川市の※大頭竜神社にある青銅製鳥居を比較してみます。

(写真は如来像と鳥居と寄付者名)

大日如来像は享保3年(1718)完成開眼。9年の歳月と浄財355両余・青銅鳥居は文政7年(1826)造立。3年半の歳月と寄進467両余(鳥居に刻まれている額の単純合計値)で※現在の金額に換算しますと、如来像が約2200万円・鳥居が約5600万円相当となります。 高平山の場合は木喰聖の勧進活動に呼応した篤信者による信仰色が濃く、大頭竜神社の場合は有力者を世話人として、宿・村々に奉加帳を廻す組織的な勧募方法による信仰色が強いように思われます。どちらも太平洋戦争への供出をかろうじて免れた貴重な文化財です。単純な比較は不遜ですが、敢えて紹介がてら掲載してみました。

※大頭竜神社:菊川市加茂にあり「大頭竜神社覚え書き」によれば、比叡山の日吉神社から大山昨命、大和の大三輪神社から大物主命を分霊して延暦11年(792)に天台宗大龍院の奥の院として祀り始める。天正8年(1580)避難先(富士)から帰村し本殿が再建される。その後本社・社殿・拝殿など増改築され徐々に整備されていく。現在の銅屋根本殿は大正14年から昭和3年にかけて建立されました。(1925~1928)

大頭竜神社の唐銅鳥居造立については「唐銅大鳥居造立之次第」が残され、文政4年(1821)奉加帳前文には「大頭竜大権現御本社造営其外社頭普請追々出来仕候へ共鳥居の儀不相当に有之候につき今般発願仕り唐銅御鳥居奉納仕度くと存じ候処難叶自力無拠各々様へ御助力相願候此旨宜敷く御承知御寄附下され候様奉願上候 尤も御奉納金の儀は神主方へ申し入置候間御参詣の砌り札場まで御届けくださる可く候 其節請書差上 猶又神前へ御姓名懸札可仕候 御寄附の程奉願上候以上」とかかれ、奉加帳は廻され、ここで集められた資金で高さ一丈八尺(約5.5m)間口一丈二尺五寸(約3.8m)の鳥居が三年半の歳月を要して、文政7年(1814)九月八日造立されました。(掛川市 舟木茂夫氏「いわちどり」四・大頭竜神社をめぐってより)

※金額換算:享保時代は米一升80文・一両62500円 文化文政時代は米一升120文・一両120000円として計算した。大日如来像には、ほぼ一両以上の浄財施主名が刻され、唐銅鳥居には一分(金100匹)以上の寄進者の名が刻されています。(その数は村・個人合わせて1100件を越し、その内訳が村、地域、講中等個人以外が376件に及び、勧募区域も信濃・相模・伊勢などの広範囲に及んでいます。)

〇西楽寺

以前、第八番月見山観正寺の案内で山梨と月見里の事柄を記しましたが、その中心はここ西楽寺にあると思われます。古刹であり、壮大な規模であったことが窺われる寺院です。袋井市では遠州三山と銘打ち、法多山・可睡斎・油山寺としていますが、真言三山として、油山寺の本寺西楽寺を入れる呼び方もされています。

 (写真は西楽寺本堂・静岡県文化財・昭和55年)

 本堂扁額:揮毫者は動潮(1709~1796)智山派第一の事相家といわれ、安永2年(1774)智積院22世住職。本堂屋根葺き替え(1787)頃の揮毫か。

「西楽寺」の寺名は古来より変わっていません。西方浄土を楽(ねが)う寺は阿弥陀如来を本尊様としています。またそれは阿弥陀信仰が盛んとなる平安後期の隆盛を指し、寺院としての最盛期はこの頃からと想像されます。

1997年(平成9年)御住職 丸山照範氏が記された文章から西楽寺を紹介します。「袋井市最北端に有り、市内最古の寺です。奈良時代・神亀元年(724)開創のお寺で、平安時代の寛治年間(1087~1093)には六条右大臣源顕房公(みなもとのあきふさこう)、堀河天皇の援助を受け、真言霊場として大いに栄えました。また、永正三(1506)年には足利十一代将軍義澄公より寺領六町が安堵(ど)され、その後も今川義元・氏真公、足利十三代将軍義輝公、豊臣秀吉公、徳川家康公をはじめとする代々の将軍から寺領を安堵され、学山といわれるほど多くの学徒が集まっていました。そして、慶応四(1868)年の明治維新の年には、有栖川宮(ありすがわのみや)が官軍五千の総大将に、参謀として西郷隆盛ほか三名を置き、東海道を江戸へ向かいます。途中、西楽寺不動明王の宝前において先勝祈願の御祈祷を行い、無事に江戸城無血開城ができたことを感謝し、この年から西楽寺が有栖川宮家のご祈祷所となりました。西楽寺本堂は、江戸時代・享保十三(1728)年に再建された本堂で、昭和十五年に内陣の厨子とともに県指定文化財となりました。しかし、長年風雨にさらされて老朽化が激しく、倒壊の危険もあり、平成三年から工期三年半、総工費二億八千万円をかけて修理されました。以下略」

 

※「西楽寺記」(延宝八年・1681)によれば、開山を1300年前聖武天皇が行基に命じたとされています。また規模も最盛期には12坊の塔頭寺院を持ち、堂塔伽藍を構えた大寺院だったようです。寺歴としてはっきりしてくるのは今川時代ですが、西楽寺に祀られています多くの仏像や平安時代の仏像からも規模の大きさを窺うことができます。(阿弥陀如来像・薬師如来像共に平安後期の作とされる。静岡県指定文化財)

(写真は江戸時代の西楽寺境内絵図)

※西楽寺記:(殿堂社伽藍縁記書上控) 遠州西楽寺堂社之覚として一、本堂 本間八間四方 一、鎮守 九尺之宮 一、末社荒神 三尺五寸之宮 一、末社天神 三尺之宮 一、拝殿 本間二間半七間 一、御供所 本間二間五間 一、稲荷宮 三尺五寸之宮 一、護摩堂 本間五間六間 一、釈迦堂 本間三間三間半 一、弘法大師御影堂 本間三間三間半 一、鐘楼堂 二間四方 一、仁王門 本間三間五間。これは延宝七年(1680)に西楽寺が寺社奉行に提出したもので、縁起についても記しています。「遠江国周知郡山名庄宇刈之郷西楽寺者、聖武天皇御暦神亀元年(724)甲子行基菩薩為草創梵閣中古堂社退転之時節、寛治元年(1087)丁卯 堀河院御宇六条右大臣顯房公企再興、備 叡慮改成真言之霊場醍醐報恩院為末寺、然所仁武田信玄公遠州江発向之刻、西楽寺堂社仏閣被及放火候、此旨 権現様江於濱松奉達 上聞候、或時仁西楽寺江被為立 御馬、駿州達穂寺院主坊幸遍被 召出、西楽寺被成下御祈祷所与被成 仰付候、以来御祈祷之護摩無懈怠致勤行、護摩之御板札従其砌 御城江差上申候、幸遍西楽寺致拝領右之通堂社仏閣建立仕候、雖然至近此仁堂社零落仕候ニ付葺替支度奉存候得共、近年買人手前榑木不自由ニ而自分ニ修復不罷成候故達高聞候、遠州船明二而御榑木弐萬丁御拝借被為 仰付被下置候者難有可奉存候、以御憐愍を堂社葺替罷成申候者、上納金之儀者西楽寺領百七十石之内本尊鎮守之修理領五十石 御寄附御座候を以、差上申様ニ被為 仰付被下置候者難有可奉存候、仍御訴訟之趣粗言上、如件」と記されています。

〇御詠歌

たからをば ぐぜいのふねに つみおさめ ごしきのしまえ つくぞうれしき

山本石峰氏は「宝をば 弘誓の船に 積みをさめ 五色の島へ 着くぞうれしき」として、その意味を「弘誓丸に衆生済度の宝を積み込んで、観世音船長は 大慈大悲の帆を挙げて、五蘊皆空の島へ入港した 万歳万歳万々歳」と訳しています。

この歌を詠んだ作者は、観音寺の山号「東補陀落山」を当然意識していたのではないかと思われます。

〇付記

観音寺について先記の山本石峰氏は「巡礼物語」内「遠江巡礼札所夢物語」の冒頭に、この調査の発端は森町の大洞院の歴史を研究していく中で、周智郡内の二ケ寺(観音寺と蓮華寺)が何らかの理由(縁)によって札所に選ばれたとの仮説から始まった。と記し「観音寺と崇信寺」「崇信寺と今川家」と項目を付けて書しています。「飯田村 観世(音)寺」:観世(音)寺は飯田村にあり、今は草庵となる。昔行基菩薩の開基なり。寺記に曰く西楽寺ありて淳和・仁明両朝の勅願所なり。官符を以て寺田を賜る。今千石地に準ず。後武家のために滅せられ、今川氏真より寺田十六町を寄せらる。住僧順虎は祈祷に誠情なり、氏真眼病を愁いて此の観音に詣ず。夢想ありて、閼伽の水をもって洗眼せしに、忽然として病癒えたり。今に井水湧出せり。「崇信寺と今川家」:駿東郡浮島村井出の大泉寺は石叟派崇信寺の末寺にして、同寺□世の開山とす。今川氏八代氏輝卒後に継嗣問題起こるや、寿桂尼は東駿の動揺を虜りて、其の咽喉に当れる浮島原を確保して、之を監視せんとす。而して浮島原の向背は大泉寺の帰趨如何にあり、依って大永五年六月大泉寺に交渉し、寺領を増加し、忠勤の力を求めて、東顧の憂いを除けり。義元戦死の後十代氏真は大泉寺和尚の配意にて飯田観世音に祈願を込め、眼病平癒し寺田を符進し報恩を致せり。」

このことから、今川との縁により大切な処との認識から札所に選定した旨が推測されます。

〇蛇足

今回の「観音寺」は調べるほどに、規模、歴史のボリュームの重さに圧倒されます。勿論観音霊場に参画したころには縮小していましたが、いにしえへの思いは膨らみます。「高平山」は親しみやすい山でした。今回受けてくださった「西楽寺」については多く勉強する事柄や、寺院が蔵している千を超す古文書類に興味がわきますが、菲才な私が下手に手出しできるような次元ではありません。西楽寺からはホームページやパンフレットも出されていますから、それらも見ていただくことをお奨めします。

パソコンのキーボードをたたく合間に外に出てみると、モクセイの香りが・・・、昨年の今頃はヒガンバナを追いかけていたななどと思いつつ、今回の長すぎた気まぐれを反省しつつ・・・。 (令和元年9月18日)

 

 

 

気まぐれな巡礼案内㉕

投稿日:2019/05/18 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

平成から令和と元号が代わり、新年を迎えた時のような印象を持つのは、大方の人の思いではないでしょうか。ただ狂騒ともいえる思惑と過剰な報道にはいささか閉口します。歴史が教える通り「天皇」を時の権力が利用する構造は変わらないということが後々証明されるのでしょうか。「君が代」を唄いながら「俺が代」だと。

大型連休と重なった五月一日、札所に御朱印を求め参拝される人も多く見かけました。皆それぞれが節目にあたり、新たな希望を抱きつつ・・・。

「万葉集」巻五、梅花の歌三十二首序文 〃時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑く(きよく)風和(かぜやわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かを)らす。加以(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて 蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに 封(こ)めらえて林に迷(まと)う。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。〃からの出典とのことですが、「令」が「冷」にならないよう平穏であってもらいたいです。

今回は14番札所 大雲院内知蓮寺を案内します。

瑞霧山 大雲院 掛川市上垂木87 電話0537-26-0553

1号線バイパス大池インターチェンジを降りて北進、大池インターチェンジ北の信号を直進しますと1キロ程で左手に桜木小学校があります。その500m程先、宮下橋の東側が県道原里大池線の馬場。この辺りが「年々(ねんねん)」です。東手入口に石塔(写真)が建ち、道なりに300m程で山門に到着します。

  
14番札所は「※知蓮寺」⇒「地蔵院内知蓮寺」⇒「大雲院内知蓮寺」と移り変わっていきます。 「知連山中(やまなか) お医者がいない お医者どころか 道もない」(異説有り)と地口で囃された辺境の地も 今では「ねむの木学園」のある「ねむの木村」として全国的に知られるところとなっています。

知連にあった知蓮寺の観音様は後に坂下(さかした)の「地蔵院」に移され、「地蔵院」廃寺により 現在「大雲院」に祀られています。(昭和50年1975)

「知連寺」について掛川誌稿上垂木村の項には「この村の上の山間に属村あり、東を知連、西を山中といい、その山高からずして渓間各深く入れり」と説明されています。また同書に「知連寺」について「知連寺に観音堂あり、地名を知連と呼ぶを以て思えば、古き寺と見えたり」とのみ記されています。

知蓮寺の正確な場所について※鈴木氏は古街道研究調査報告「遠江三十三所観音霊場巡礼道」(2015~)の中で「※桜木池付近の山頂(観音山)であることがわかった。」と記し、また地蔵院跡の項の中で「地蔵院跡地の尾根を北上すると知蓮寺跡地の観音山山頂(159m)に出る。」と報告しています。このことから現桜木池の南側の山頂の平坦部が該当します、最近まで白山社が祀られ、例年「初日の出会」も行われ眺望のよい場所です。茲に観音堂はあったようです。一説では桜木池の東山頂部に知蓮寺が在ったともいわれ、知蓮寺の境外地境内の可能性や知蓮寺の伽藍が広範囲に点在していたとも考えられます。

桐田幸昭著「史跡遠江三十三所観音霊場」に「掛川市倉真に知連段という所あり、この辺りの女、上垂木に嫁してこの地名を移すか」との伝承があることを記していますが、何かと倉真とのかかわりの伝承が残されています。その一つは、原川の人が倉真に嫁ぐとき持仏として持ってきたが、祀る人が無くなり、お堂を造り祀った(遠藤貞夫氏談)その後知蓮寺に移した。もう一つは倉真の奥に松葉のお城があり、駿府から嫁いだ姫が海の見える観音山から遠く故郷をしのんだ。ともいわれ、ご詠歌の「三筋川」は松葉の滝のこと、という説もあります。

(知蓮に入ると桜並木が出迎えてくれます。)

※知蓮寺:知蓮寺の「ち」は「知」「智」「池」・「れん」は「蓮」「連」「漣」等統一されていません。

※鈴木氏:鈴木茂伸 静岡市在住 著書に「古街道を行く」「静岡ふしぎ里かくれ里」他多数。各所の古街道を精力的に踏査されている。「遠江三十三所観音霊場巡礼道」調査だけでも原稿用紙520枚に及ぶ。

※桜木池:安政時代(1854~)に造池・昭和29年「桜木池竣功記念碑」には水量24万立方メートル・受益面積200町歩とされています。 
 

 

「地蔵院」については、明治19年(1886)の「寺院財産明細帳」に上垂木村字神田3573番地 大雲院末 平僧地として 開創「当院開創は寛文八年(1668)三月八日 本寺大雲院五世秀鷟(しゅうさく)を勧請す 村内古き寺と申伝ると雖も寛政二年(1790)三月総伽藍古文書記等悉皆焼失いたし 開創以来の実事詳らかず 本尊の傍らへ聖観世音菩薩は行基菩薩の刻像 則ち本國三十三所巡拝場第十四番 往古より三十三年目開帳仕り来たり候也」と記されています。また、延享四年(1747)の「上垂木村差出帳」には「観音堂壱ケ所 弐間半弐間 茅葺 但 堂守無御座候二付 先年御断申上 地蔵院寺中へ引越申候」とあり、1740年代前半に地蔵院へ移され、昭和50年(1975)に大雲院へ移転修繕されるまでの230数年間は地蔵院寺中で祀られ、寛政二年(1790)の火災も乗り越えて現在にいたっていることになります。「地蔵院」は写真のようにすでに跡地は植林されて歴代の住職墓石・井戸・池・本堂に登る石段と地蔵石像が語るだけとなっています。観音堂は歴代住職墓の下段にあったようです。昭和40年にお開帳を執行してこの地での閉めとしたようです。  (左から石段跡・地蔵石像・住職墓)

地蔵院の山号を田車山(でんしゃざん)といいます。寺の下に「車田」(くるまだ)という処があることから採った山号でしょうか。車田とは田植えを中央から外に回りながら植える方法で、またそのように植えた田を言い、「和」を意識した山号のように思われ興味深いです。

現在祀られています大雲院について掛川誌稿では「瑞霧山 大雲院」として「駿州阿部郡慈悲尾(しいのう)村※増善寺末 年々ガ谷という所にあり、開山は増善七世蘭室宋佐和尚、天正十九年(1591)十月二十三日を以て死す。寺田十七石(十二石5斗六合3勺上垂木村 5石二斗六升下垂木村にあり)慶長八年(1603)九月二十五日、御朱印を賜いぬ。」とあり。先既「寺籍財産明細帳」には山号の由来などが詳しく記されています。開創として「当院開創は古代より当地字御嶽山という処に、御嶽山等持院という真言の一小院あり、開山宋佐 茲に寓居して法運を謀り天正三年に外宗して曹洞宗に帰す。右宋佐は駿河の国富嶽の霊峰を越え雲霧城畔の懸川に投入す。初龍門五葉の増善寺に住して後、御嶽山等持院に錫を移し、此の地に安心立命の大事を究め、茲に於て大雲を起こし遍法界無辺の雨澤を塵世に播し、曾て瑞雲を発し今古不変の酪味を人天に与う。而して山を瑞霧山と号し、寺を大雲院と名づく。開山は※勅特賜大鑑自照禅師 当山開祖蘭室宋佐にして、諸伽藍を建立し尚隣地芝間を田畑に開墾すること不少。当山六世裏外積州代に易地して諸伽藍を移築したり跡地不残開墾田畑となり、慶長八年(1603)九月二十五日徳川朱印。高十七石と改まり賜る。安永年中(1772~)に十世慧海忍教代、諸伽藍不残焼失す。同暦八年(1779)二月同住職 檀徒に化縁し本堂再建す。文政五年(1822)以来十三世契天代諸堂再建する処今現在す。嘉永六年(1853)十四世秀芳代惣門一宇新築す。両側に西國三十三所の観音石像を安置す。志願成就也。明治四年(1871)維新の際朱印高十七石不残上地す。」と書かれています。

※増善寺:静岡市葵区慈悲尾302にあり、地蔵菩薩を本尊とする。開基を今川氏親 明応9年(1500)曹洞宗に改宗(以前は真言宗 慈悲寺)今川家官家となる。徳川家康の幼少時(竹千代)よく訪れたことでも知られる。増善寺の本寺は高尾の石雲院。

※勅特賜:天皇から直接賜ることを勅賜。京から離れているため推薦を受け間接的に賜ることを勅特賜というか。(談)

 

   
 (写真は上から北側墓地から・西北側から本堂を・歴代住職の墓・光明寺主揮毫の額・垂木の由来となった大松の板に揮毫した額、揮毫者は西有穆山、総持寺独住3世貫主1821~1910・本堂内)

大雲院本堂の本尊様は聖観音菩薩で脇佛に例の如く、不動明王・毘沙門天が祀られ、当初密教寺院であったであろうことが窺われます(真言宗 御嶽山等持院)。以前にも触れましたが、この三尊形式の儀軌的根拠はありませんが、この形式の多さは気にかかります。

天台僧の円仁(慈恵大師・元三大師)が唐からの帰朝時 嵐に逢い、観世音菩薩を念じたとき毘沙門天が現れ、嵐はおさまった。比叡山に戻った円仁は一宇を建立し観音と毘沙門天を祀った(848)。その後良源が不動明王を加えて三尊とした(974)。この祀り方が横川(よかわ)三尊形式といわれ、全国に広まったとされます。

遠江霊場の多くの札所がこの形式の祀り方をしています。これはこの地域で70%以上を占める曹洞宗寺院が旧寺院の本尊様をそのまま受け入れて継続してくれたことを意味します。400年以前の様子が推測できる根拠となることはありがたいことです。また曹洞宗がどのような方法で教線を広げていったかも推測できるのです。

ここで少し脱線します。

日ごろ曹洞宗の読経を聞いていますと、「修証義」や「観音経」に続いてご真言を唱えています。「なむからたんのーとらやーやー なむをりやー ぼろきーちー しふらーやー・・・」禅宗の唱える真言は相当崩したために意味不明になっていると、昔言われたことを鵜呑みにしたために関心を持ちませんでした。最近になって、ふと疑問に思い、この「大悲心陀羅尼」を調べていくと、私ども真言僧が普段唱えている「千手観音陀羅尼」のことであるとわかりました。崩したわけではなく、呉音(正音)・唐音と訓み方が異なるだけの違いのようでした。真言宗の唱え方ですと「のーぼーあらたんのーたらやーやー のーまくありやばろきてー じんばらやー・・・」となります。慚愧を込めてこの真言の意味を、長いですが訳しておきます。この真言の正式名称は「千手千眼観自在菩薩広大円満無礙(ぶかい)大悲心陀羅尼」云い、略して「千手大悲心陀羅尼」とも言います。直訳しますと「三宝に帰依し奉る。聖なる観世音菩薩、摩訶薩、大悲尊に帰依し奉る。※オーム、一切の畏怖中に救度をなし給う。それ故彼の尊に帰依せば聖なる観自在尊の威力は生ず。ニーラカンタ(青頸尊)よ、帰依し奉る。我れ心髄に回帰すべし、一切利益の成就、浄行、無勝、一切生類の生き方の浄化を願うべし。則ちオーム、世界を見抜くものよ、世界を見抜く智慧を持ったものよ、世界を超越的に見抜くものよ、オーオー、導くものよ、大菩薩よ、深く内省し給え、心髄を、為せ為せ働きを、完成させよ完成させよ、運べよ運べよ、勝利者よ、大勝利者よ、受持せよ受持せよ、受持自在王よ、進め進め、塵垢の離脱よ、無垢解脱よ、来たれ来たれ、世自在尊よ、貪欲の毒を消除し給え、瞋恚の毒を消除し給え、愚痴動揺の毒を消除し給え、フル、フル、マラ、フル、、フル、マラ、フル、フル、ハレー(文意不明)、生蓮華臍尊よ、サラサラ、シリシリ、スルスル(サラサラと流れ出よ)、悟れ悟れ、悟らしめ給え、悟らしめ給え、悲しみあるニーラカンタよ、愛欲の砕波に満足し歓喜せり、スバーハー。成就のために※スバーハー、大成就のためにスバーハー、成就瑜伽自在のためにスバーハー、ニーラカンタのためにスバーハー、猪面獅子面容損のためにスバーハー、蓮華手尊のためにスバーハー、宝輪相応尊のためにスバーハー、螺貝音声尊よ、菩提のためにスバーハー、大宝瓶執持尊のためにスバーハー、左肩方位に位置する黒色身勝者のためにスバーハー、虎皮衣服被着尊のためにスバーハー、三宝に帰依し奉る。聖なる観自在尊に帰依し奉る、スバーハー。オーム、彼らは成就せよ、真言句のためにスバーハー。」という意味になります。

なおこの陀羅尼文では、千手観音はシバ・ビシュヌ等のヒンズー教の神々のあらゆる特性を兼ね備えた神として称えられている。(意訳等 八田幸雄著真言事典より)

この陀羅尼の功徳は、臨終のとき 十方から多くの仏さまが来て、自分が願う浄土に導いてくださる。また心に無量の三昧を得て、あらゆる願いをかなえ、あらゆる罪障を無くし、※十五種の善生を得て、※十五種の悪死を免れる功徳があるとされています。(密教大辞典)

お経はお唱えするだけでも安心と、先祖供養になるのですが、ある程度内容が解って唱えるにこしたことはないでしょう。 お説教じみた寄り道でした。

※オーム:一般的には南無と音訳し、帰依・帰命

※スバーハー:訳としては成就を意味しますが、言霊として扱っているようです。

※十五種の善生:①所生の処に常に善王に逢う。 ②常に善國に生ず。 ③常に好事に値う。 ④常に善友に逢う。 ➄身根常に具足することを得る。 ⑥道心純熟する。 ➆禁戒を犯さず。 ⑧所有の眷属恩義  和順する。 ⑨資具財食常に豊足することを得る。 ⑩常に他人の恭敬扶接を得る。 ⑪所有の財宝他に劫奪せらるることなし。 ⑫意欲の求むるところ皆悉く称逐する。 ⑬龍天善神常に擁衝する。 ⑭所生の処に佛を見る。 ⑮所聞の正法の甚深の義を悟る。

※十五種の悪死:①その人をして飢餓困苦して死せず。 ②伽禁杖楚(かきんじょうそ)のために死せず。 ③怨家讐対(えんかしゅうたい)のために死せず。 ④軍陣に相殺するために死せず。 ➄犲(虎)狼悪獣の残害のために死せず。 ⑥毒蛇蚖蠍(どくじゃがんかつ)にあてらるるために死せず。 ➆水火の焚漂(ふんひょう)するがために死せず。 ⑧毒薬にあてらるるがために死せず。 ⑨虫毒に害せらるるがために死せず。 ⑩狂乱に失念するがために死せず。 ⑪山樹崖岸より墜落するがために死せず。 ⑫悪人に厭魅(えんみ)するがために死せず。 ⑬邪神悪鬼の便りを得るがために死せず。 ⑭悪病の身に纏うがために死せず。 ⑮非分の自害のために死せず。  (「禅宗の陀羅尼」木村俊彦・竹中智泰著より)

〇大雲院の鎮守について

この寺院の鎮守は現在白山社など多くを合祀して祀られていますが、「寺籍財産明細帳」に依れば、「鎮守堂」として縦四尺横三尺の建物に「雨宝童子」が祀られています。
神仏習合理論から生まれた両部神道(真言宗)があり、その特徴的な神が雨宝童子です。ここからもこの寺院が御嶽山等持院(真言宗)を引き継いでいることがわかるのですが、江戸期には除病・招福のご利益あらたかとして、篤い信仰を集めた神です。天では、月日星となり、日本では大日霊(おおひるめ)月夜見(つくよみ)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の三神となり、インドでは毘盧遮那(びるしゃな)阿弥陀、釈迦の三身となり、中国では伏義、神農、皇帝の三聖となり、全てに遍満する強大な神とされ、又その姿は天照大神が日向に降りた時の姿とされています。この地域で「雨宝童子」が鎮守として祀られているのは珍しいです。

〇観音堂

   (観音堂・堂内・御詠歌・お厨子)

昭和40年地蔵院でのお開帳を済ませ、昭和50年に大雲院内に移築(回廊の撤去・屋根替え修繕等)、その後お開帳を執行し現在に至っています。本尊聖観音様は行基菩薩作と云われ、遠州霊場第5番も兼ねた観音様として信仰を集めています。

〇ご詠歌

とうとやと きていまたきの みすじがわ よろずよかけて すすぐぼんのう

山本石峰氏は御詠歌を 十四番地蔵院として「尊とやと 来て今滝の三すじ川 萬代かけて そそぐ煩悩」と書し、「和歌の本体」で、慈悲無量の観音力を杖と頼んで来て見れば、三途の川に出逢えた。さて、善悪中有との川の水で煩悩の垢を洗落すか 思案中だ。と解説しています。

あえてみすじがわ(三筋川)を「三途川」と書くことにより、地獄・餓鬼・畜生のどこに堕とされるのか、はたまた川の水が煩悩を洗い落とし極楽浄土に向かえるか・・・よくよく考えなくてはと問うています。〃萬代かけて〃とは 急ぐことはないよ、業は必ず転生して極楽に生じるから。との答えが隠されています。

御詠歌の三筋川は知蓮桜木池辺りの川筋でしょうか、広く垂木川・原野谷川・逆川を俯瞰して詠んでいるのでしょうか。また倉真の松葉の滝が筋状に流れるさまを詠んでいるのでしょうか。 歌に詠む みすじがわ が合流して観音様が三度目のこの寺院にいつまでも留まることを願わずにはいられません。

今回大雲院と境内に祀られている知蓮寺を案内させていただきましたが、大雲院の開祖蘭室宋佐和尚の師僧仙翁崇滴和尚は今川氏親の妻、寿桂尼を弔う寺院を開山した人でもあり、本寺増善寺は今川の菩提寺です。ここにも今川氏との関係が色濃く出ています。

広大で緑豊かな境内をのんびりと散策してみてください。珍しい樹木や花、多くの石碑等まだまだ案内しきれない所が多くあります。また、時間が有りましたら知連山中の「ねむの木村」を訪れるのも良いですね。  (今年も咲いたシライトソウとホウの花))2019年5月

 

気まぐれな巡礼案内㉔

投稿日:2018/11/08 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第26番 杖操山(じょうそうざん)妙国寺 本尊十一面観世音菩薩

島田市神谷城(かみやしろ)1609

御詠歌  はるばると 参りて拝む観世音 罪深くとも 救いたまえや

旧国1(県道415号線)を東進し前々回案内しました「常現寺」の横を静岡方面に進み、小夜の中山トンネルを越え島田市(旧金谷町)に入ります。トンネルから500m程先を右折南進します。国1バイパス下を通り抜けますと、現在473号線国1バイパス取り付け道路の工事中(2021年完成予定)の先が菊川の宿ですが、なお南進し約1Kmで第25番松島岩松寺入口となります。そのまま進みJRを超え、右手保育園の先を右折し水神橋を渡りますと100mほど先を写真のようにJRのガードをくぐり(マイクロバス不可)、左手に向かい26番妙国寺です。以前は「砂の灸」の大きな看板が南北に走るJRの車窓から見られました。

  
「掛川誌稿」では「西深谷村」の項に「菊川の南にありて、川流に傍へる村なり。其の西岸にあるを西深谷と呼び、東岸にあるを東深谷と呼ぶ。両山に挟まれて、深谷にある故に村名とす。東深谷は榛原郡に属せり。」と記され、また「妙國寺」として「曹洞、金谷駅、※洞善院末、公文名と云う所に有り。本尊十一面観音、二十六番札所」と記されています。

 

〇 妙国寺は昭和48年(1973)に開帳をしています。その開帳記念として「遠江三十三ケ所 観音札所 御詠歌」の冊子(写真)を出しています。その中で26番妙国寺の歴史について「二十六番妙国寺付近は応仁の乱より戦国時代に入る頃には人々の移動激しく、街道筋から少しはずれた場所で隠棲する人が住みついたものと考えられる。(500年前・1470年ごろ) 妙国寺も凡そ460年くらい前(1510年、室町時代後期)に、現在地より300m程登った「寺の跡(てらがいと)」と言われる場所に普門殿という観音堂が創られ、後に寺となる。(356年前、1616年元和二丙辰年。妙国寺過去帳による。)その後の256年前、1716年享保元丙申年5月14日示寂の金谷洞善院9世実参黙真大和尚が開山となり、現在地に移して普門山明国寺とす、文化のころに妙光山妙国寺とし、明治末期頃に現在の杖操山妙国寺となる。」と序文に記しています。
昭和63年(1988)浜名湖出版発行(発行人 瀧 茂)の「心の旅路を歩く」と題する遠江三十三観音霊場巡拝の案内誌が発行されています。 表紙の写真は妙国寺の人たちの巡礼風景を撮影したものです。当時 寺の管理者は相良(現牧之原市)心月寺の小柳良孝住職(1994・平成6年寂)で「砂の灸」も小柳住職が施療していました。一方熱心な観音信者で巡礼の先達をされた方が、妙国寺の隣家の落合義男氏(2011・平成23年没)です。彼の功績は普段札所を守り、多くの人たちを巡礼に導いたことだけでなく、巡礼道の旧道調査を行い、昭和63年には「古人の歩いた遠江三十三観音巡礼」地図発行(写真)や道標の掘り起こし等多岐にわたり、巡礼者の顔として晩年まで一筋に尽くされました。 現在は空き家となってしまっていますが、いつの時代も熱心な信者がいたからこそ札所も守り続けられてきたのでしょう。篤信者の力に負うところ大とともに「つないで行く」ことの大切さも教えられました。

 
※洞善院:島田市金谷100番地にある曹洞宗の古刹。金龍山洞善院。天正15年(1587)哉翁宋咄(さいおうそうとつ)(天龍円鑑禅師)を開山とする。なお開山哉翁宋咄和尚は今川の家臣朝比奈氏の出。

石高10石 現在の本堂は文化2年(1805)再建。「金龍山」の扁額は日坂常現寺同様 月舟宗胡筆。当寺はかつては11の末寺を持っていた。24番観音寺も同院の末寺でした。

〇「※菊石」について

境内にはいると、いくつかの丸い石が置かれ、目に付きます。

  
厳密には「菊石」ではありませんが、一般的に「菊石」と呼び慣わしています。菊石については「掛川誌稿」でも若干触れています。「菊川に出つ、其の石平圓にして厚からす、又其質脆くして摧け易し、大鹿村田間の路蒡に二枚あり、太鼓岩と呼ぶ、又川の中に三枚あり、径ニ尺余、三尺には足らす、同村宝盛寺にあるは車輪の如し是又菊川より出つ、渓流奔激の間にして破裂して、菊及亀甲の文をなすもの也、或は菊川の名此石あるより起るとも云へり」と記され、昔からこの地域の珍石・名石として認められていたようです。

「菊川」の名前の由来ともなりましたこの石について少し詳しく見てみましょう。

   写真は左から「夜泣き石」「亀甲石」「亀石?」「子生まれ石」

妙国寺に置かれている「菊石」は「馬蹄石」といわれるもので、大きくはこの「馬蹄石」の中に「菊石」「亀甲石」「亀石」「子生まれ石」「玉ねぎ石」などが含まれると思われます。また「亀甲石」」と「亀石」は同じで違いはありません。「菊石」「亀甲石」「馬蹄石」は菊川市富田上・掛川市東山小鮒川・島田市佐夜鹿などの菊川最上流部などで多く産出していますが、最近の(平成30年)庭石採取場所聞き取り調査では倉沢区域まで、今少し広範囲で産出されています。「子生まれ石」は牧之原市西萩間の萩間川支流の崖が主産地で繭型のものも見られ、近くの※大興寺歴代住職の墓石にもなっています。

① 菊石や亀甲石はどのようにしてできたのでしょうか。

泥質の地層内に石灰分(炭酸カルシウム)が集まった部分ができると、その部分が硬い泥灰岩となって、ノジュール(塊)になります。➡その塊に割れ目ができる。➡割れ目に方解石(純粋な炭酸カルシュー

ム)が沈積され、方解石脈ができる。➡浸食作用が働き、地表へ現れて雨水があたると、方解石脈との部分が早く溶解されて、菊花(亀甲)状の模様ができる。 このようにして亀甲石はできるのですが、「菊

石」のように円盤状の形と放射同心円状の模様が、どうしてできたのかは不思議というほかありません。地層の圧縮が関係しているのでしょうか。

②地層は

これらの石が産出する地層は、古第三紀層(白亜紀の次で約6600万年~2303万年前)の三笠層群です。ただ「子生まれ石」は第三紀鮮新世(約500万年~258万年前)の掛川層群堀之内層という比較的新しい

地層で、割れ目や方解石脈もありません。(①②共に※氏家宏氏報告書の大庭正八氏書簡と菊川駅設置の菊石調査から)

 

※菊石:  写真は既記「掛川誌稿」の宝盛寺にあり、車輪の如しと記された菊石です。島田市佐夜鹿の公会堂敷地内に置かれ、鎌倉後期鬼神伝説にまつわる、上杉景定卿  と※白菊姫伝説発祥の「菊石」で直径約110㎝厚さ25㎝。この石は桜が渕(白菊姫が投身した渕)から引き揚げられ、姫の菩提のために宝盛寺に納め供養され、明治中期まで祀られてきました。昭和20年代に「夜泣き石」の場所に移されましたが〃伝説発祥の地に置くべし〃と平成15年から現在地佐夜鹿公民館敷地内に置かれています。(伝説の白菊姫は観音菩薩の化身により救われる)

※菊石伝説:今からおよそ七百年前の鎌倉後期、深山渓谷の菊川の里に鬼神が棲み、住民を苦しめた。そこで追手として遣わされたのが上杉景定卿。愛宕の庄司という長者の家に滞在するのだが、長者には一人娘の白菊姫がいた。景定卿はその美しさにひかれ、いつしか懇ろな仲になる。さて鬼神を退治した景定卿、いよいよ都へ帰る日となり、別れが忍びがたい白菊姫に観音菩薩像を形見として渡す。季節が移り、姫が身重になっていることを長者夫婦が知ることになる。問い詰められ、思い余った姫は、菊川の桜が渕に身を投げた。が不思議なことに沈んだはずの姫の身が再び浮き上がってくる。やがて気が付くとわが身が助かり、目の前には一人の老僧。この老僧こそ観音菩薩の化身、姫に都に行くよう勧めて立ち去る。一方姫の姿が見えぬ夫婦は、もしかして身投げかと嘆き、せめて身柄なりともと網を入れて引き揚げると菊花模様の石がかかった。夫婦は姫の菩提のため宝盛寺に納め、供養した。(2002年6月30日静岡新聞 石は語るより)

※氏家宏:(1931~2006)琉球大学名誉教授・日本古生物学会・日本地質学会  「中部日本の相良ー掛川堆積盆地の地質」(1962)・「静岡県西部、三笠層群の質構造」(1980)など、この地域で早くから調査研究され、産出される化石研究の先駆者。郷土の地質学者大庭正八氏は氏家氏に師事し、その影響を多く受けた。なお大庭正八氏は地質学より東海道の鉄道建設に関する研究やオット機関車の考証などその分野での造詣の深さで知られるが、「菊石」についての書簡の中で、御前崎の「風食礫」(静岡県文化財)にも匹敵する文化財であると述べ、菊石の散逸に警鐘を鳴らし、貴重な文化財を守るべき為政者の認識の低さを嘆いています。

※大興寺:牧之原市西萩間にある曹洞宗の古刹で龍門山大興寺。室町期総持寺八世大徹宗令禅師の開山。「子生まれ石」を歴代住職の墓石として、大きなものは1mを超す。ほとんどが繭形をしている。近くには「子生まれ温泉」があります。

  
 

〇御詠歌

はるばると 参りておがむ観世音 罪深くとも 救いたまえや

山本石峰氏は「※五濁の身と生まれ、煩悩に苦しむこの覇絆(きはん)は自力では解けぬ、是非お助けください。罪は深からんも※弘誓(ぐぜい)の願力で他力本願」と記しています。

※五濁(ごじょく):劫・見・煩悩・衆生・命の五つの濁りをいう。劫濁は時代(末世)に生じる天災や社会悪等悪世のこと。見濁は思想の濁りで。煩悩濁は衆生が煩悩に悩まされ、悪徳が世にはびこること。衆生濁は人の資質が心身ともに堕落し、低下すること。命濁は人間の知能生命が発達しなくなること。

※弘誓(ぐぜい):観音様があらゆる衆生を救って、彼岸に渡そうとする広大な誓願。

 

今回の案内では、観音様を縁として境内に置かれています馬蹄石に着目してみました。。なぜこの地域から産出されるのかは謎というほかありません。巡礼の途中にちょっと寄り道をして石巡りをするのも楽しいと思います

昭和40~50年代に山を崩し茶畑への開墾事業が進められ、土中から多くの馬蹄石が産出しましたが、そのほとんどが散逸してしまいました。小さなものは個人所有として家に飾られ、大きなものは庭石に置かれ歳月の中で分解し無くなっています。文化財として、又貴重な遺産としての見地からの保存がおろそかにされたからです。境内の石も、近在の庭に置かれた石も、何処で産出したのかが確定できなくなってしまい推測にならざるを得ません。

 

菊川の流れに沿ったこの地域に以前から気になっていることがあります。それは、西深谷、東深谷,石神、上倉沢、下倉沢、友田、吉沢から潮海寺に至るまで、薬師如来と牛頭天王の祇園信仰が広い範囲に残され、薬師信仰に基づいて村づくりを進めたのかと思えるほどです。潮海寺の信仰圏と云えばそれまでなのですが、薬師如来には脇侍佛として、日光菩薩・月光菩薩が控え、四天王が守り、十二神将が護法善神として守っています。これらを村民氏族に当てはめ、薬師曼荼羅を作り上げるという構図があったのではないか、という夢のような推測です。そう思わされるほどこの地域には氏神に「天王社」「津島社」が祀られています。村づくりが仏の世界観に基づいて行われたとすれば大変興味深いことです。

奇しくも本日11月8日は下倉沢の石沢家一統が祀る摩利支天の祭日です。(8日は薬師如来の縁日です)この氏族はかつては石神地区に住して四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)を氏神として祀っていました。其の後上倉沢に移動し、棚田百選にも選ばれている「千框(せんがまち)」を開発します(1000枚を超える棚田)。この頃何らかの事情によって氏神を摩利支天に変えています。その後下倉沢に移動し現在に至っています。今ではこの一統が千框を作りあげたことすら忘れられています。何故猪に跨り、光と速さを象徴する摩利支天に変わったのか問うてみたいのですが・・・。まもなく2019年平成最後の年 亥歳を迎えます。

気まぐれな巡礼案内㉓

投稿日:2018/09/18 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第17番 日林山 天養院

掛川市宮脇4-3

※絵  
掛川市内から旧国1(県道415号線)を東進し、掛川警察署から東に1キロほど進みますと、本村橋(honmurabasi)交差点(信号機)があり、その北側の山 西斜面に17番札所はあります。(入口は信号機の西30mを北折して100m程です。)登り口は南側と北側の二か所あり、どちらからも2~30m程です。  写真は南側と北側の案内板です。北側の案内板は立ち木に彫り込んだものです。

この時期(秋彼岸)境内は一面に赤と白と黄色の※ヒガンバナで飾られます。地元の人たちの手入れのたまものです。春三月の彼岸頃から二か月かかって桜前線が北上します。ヒガンバナは逆に八月中旬過ぎから一か月かけて南下します。この辺りは丁度お彼岸に満開となります。ヒガンバナに埋め尽くされた17番札所を是非堪能してみてください。秋彼岸は地元の人たちが当番で詰めていてくださり、お接待をしてくださいます。

「掛川誌稿」宮脇村の項には、日輪山 天養院として「曹洞 城東郡西方村※龍雲寺末 開山は龍雲四世祥山麟和尚と云う。此の寺昔西田の寺家という処にあり、後郷倉の辺りに引き、また寛文中(1661~1672)蘭山和尚の時今の地へ移す。又慶長九年(1604)検地帳に、上蓮寺という地名ありて、そのところは今寺家という辺りなれば、上蓮寺は天養院の昔号なるべし。」とだけ記されています。山号日林山と現在は書していますが、「※日輪」のほうがふさわしく感じます。(近くの掛川市仁藤の日輪山真如寺と山号が重なり字を変えたのかもしれません)

※上絵:溝口博之画 天養院観音堂を描き、お堂で得た感覚を画像に載せ メルヘンを生み出す独特の画風。キツネと彼岸花(キツネノカミソリ)。

※ヒガンバナ:秋の彼岸も近くなりますと日を覚えているかのように、あっという間にヒガンバナが一斉に咲きだします。この花の名前は、全国共通の名前を除いても600以上の名前が全国で付けられて呼ばれています。なぜこれほどの呼ばれ方をしているのか気になりますが、その中で静岡県内に限定しても、アカハナ・オーバコ・カブルバナ・カブレバナ・ジイジャアボウジャアー・シーレ・シロリ・ソーシキバナ・ソーレンバナ・ヒガンゾ・ヒガンソー・ヒガンバラ・ヒナンバラ・ヒナンバナ・ヒランバナ・ヘソべ・ヘビバナ・ポンポンササギ・ポンポンササキ・マンジュシャグ・マンジュシャゲ・ワスレバナ・チョーチンバナ・ドクバナ・二ガンバナ・ノアサガオ・ハコボレ・ハコボレクサ・ハッカケ・ハッかけクサ・ハッカケバーサン・ハッカケバナ・ヒーナンバナ・ヒーナンバラ・ヒーヒリコッコ・ヒーリコッコと36もの呼び方がされています。これらは「秋の彼岸の頃に咲くことから」「花が一斉に咲くことから」「花の色から」「花の形から」「花が咲いているとき、葉が無いことから」「お供え花として使うことから」「遊び方から」「墓の周りなどに咲くことから」「しびれや、かぶれることから」「毒があることから」「薬として使われたことから」「粉から、モチやダンゴをつくることから」など、じつに多彩な理由からの呼ばれ方です。(かこさとし作 ヒガンバナのひみつ)

上記の※かこさとし(加古里子)さんは、この本の中で、ヒガンバナのひみつは「楽しい名前と、こわい名前が、いりまじっていることが、ヒガンバナのだいじなひみつなのです。そのおかしななぞは、ヒガンバナを非常食として、のこしておくための、とてもよいやりかたとなっていたということです。まるで、くいちがって、楽しいかと思うと、こわかったり、毒かと思うと、ぎゃくに薬だという 名前のなかに、非常食として、ヒガンバナのひみつが、かくされていたのです。とてもいりくんだ、むずかしいひみつのしくみです。」と書いています。(著者かこさとし 株式会社小峰書店発行所 1999年)

飽食の現代では、花の美しさにとらわれ、著者の言うヒガンバナの秘密に気づくこともありません。気づかないことが秘密ですから、目的は継続されているのでしょうか。

※かこさとし:加古里子(かこさとし)1926~2018 児童文化研究者など。「だるまちゃん」シリーズなど600点余にのぼる。菊池寛賞受賞他多数

☆ヒガンバナの成長の速さ(写真)

平成30年9月10日に出た花芽は9月17日満開になりました。一日10㎝以上伸びる日も、一週間で開花です。  
※日輪:太陽のこと。

※龍雲寺:28番正法寺案内(気まぐれな巡礼案内⑱)で記しましたが、掛川市大野の長松院【石宙永珊和尚開山 文明3年(1471)】二世一訓和尚(~1504)の弟子 法山宗益和尚が永正11年(1514)に開山した。天文2年(1533)寂 (写真は龍雲寺)
近在の龍雲寺関連の寺院を見ると、二世光山康玖和尚が西方村西福寺(龍雲寺に合併)天文19年(1550)寂、満水村満水寺(昭和48年龍雲寺に合併)永禄1年(1558)死去?、正福寺(満水村内、旧公会堂地)の三か寺を開山・三世實傳和尚が西方村正法寺 元亀1年(1570)寂 を開山・四世祥山宗麟和尚が宮脇村天養院(明治6年廃寺)を開山・五世明国存光和尚が堀之内村報恩寺 慶長9年(1604)、本所村陽法寺(龍雲寺に合併)元和9年(1623)か寛永8年(1631)、打上大徳寺 元和9年(1623)の三か寺を開山・六世が安養寺(廃寺)寛文年間(1660頃)を開山 と古刹龍雲寺は地元(西方村)を中心に約100年間に8か寺を開き教線を確実に拡大したことがわかります。

      )(写真は上から西福寺・満水寺跡・正法寺・報恩寺・陽法寺跡・大徳寺)

 

〇桐田幸昭氏は「遠江三十三所案内」(昭和63年刊)の中、17番天養院の項でお堂前の鬼瓦の※寺紋と二体の地蔵石像について、精査の必要を問うています。

 建て替え前の物ですが、鬼瓦或いは大棟鬼と呼ばれ、上に突き出た部分が鳥衾(とりぶすま)とよばれます。鳥衾の紋は「左三つ巴」鬼瓦の紋は「丸に三つ引き紋」「丸の内三つ引き紋」といわれ、「左三つ巴」は掛川城を築いた※朝比奈氏の定紋。「丸に三つ引き紋」は朝比奈氏と同じ今川氏の家臣※三浦氏の定紋と考えられます。憶測ではありますが、今川氏がらみの朝比奈氏、三浦氏に関連する寺院と考えても良いと思われます。ただ三浦氏については今川氏の譜代家臣朝比奈氏三浦氏と並べて云われる割には三浦氏の掛川での動向はよくわかっていません。本寺龍雲寺、その本寺長松院は共に今川氏と関連性の強い寺院とされています。既出山本石峰氏は、札所15番から28番の中の9か寺について「長松院と今川家との深き因縁を背景とし長松院領の域内にあり」と記しています。

鬼瓦の寺紋からの推察でこれ以上のことは今後の宿題ですが、旧寺名「上蓮寺」の頃の観音霊場草創期と朝比奈氏と三浦氏の拘わりにも興味が膨らみます。

※寺紋:寺紋や神紋といわれ、寺院や神社に使用されている紋章。宗派の紋と異なり寺院開創に深く拘わる武将や貴族(スポンサー的役割)の家紋を寺紋とすることが多い。

※朝比奈氏:朝比奈氏については「結縁寺」(気まぐれな巡礼案内⑩)を参照ください。

※三浦氏:今川家の重臣駿河三浦氏の詳細は必ずしもわかっているとは言えません。小和田哲夫氏の「今川氏重臣三浦氏の系譜的考察」をきっかけに少しづつ解明されてはいますが、掛川(遠江)での三浦氏の動 向は朝比奈氏に比して今後の調査が必要です。

 

〇二体の地蔵石像について


「史跡遠江三十三観音霊場」桐田幸昭(昭和62年刊)に左側の地蔵尊には「二建時延宝二甲寅年(1674)八月十五日示寂」「當庵二世中興蘭山寒秀和尚増崇霊位」と刻され、また右側の地蔵尊には「延宝五丁巳年(1677)八月十三日」「示寂請叟宗益和尚」と刻されていますと紹介されています。

掛川誌稿に「寛文中蘭山和尚の時今の地へ移す」と書かれ、また中興とも刻されていますので二世蘭山和尚の時に現在地に移転し寺門興隆の尽力が大であったことがうかがわれます。また右側の石像「請叟宗益和尚」は天養院三世です。(※龍雲寺住職密山叟了玄記)

※密山叟了玄記:宝暦十年(1760)に時の龍雲寺住職が歴代住職を記したもので、「天養院」に関しては「第一 開山當寺四代 第二 中興蘭山寒秀和尚 延宝二寅八月十五日(1674) 第三 請叟秀益和尚 延宝五巳八月十三日(1677) 第四(再中興)通方傳遼和尚 元禄十二己卯二十六日(1699) 第五(重中興)圓了禅遼和尚 元文五庚辰六月二十九日(1740)まで記されています。

 

境内の観音堂の前には桜の木の下に延命地蔵尊と青面金剛童子(庚申)が並んで祀られています。

  共に長寿の役割を担当する仏様です。現世利益と観音様の浄土への願い、「※現当二世安楽」をかなえてくださるお寺です。

※現当二世:あの世とこの世のことで、現世と来世。

〇堂内

この観音堂は平成9年(1997)に建て替えられ、落成時にお開帳も行われました。本尊聖観音様は正面のお厨子の中で次回のお開帳を待っています。建て替え時を※中開帳としましたので、次回の開帳は2030年の予定です。

  (昭和61年お開帳・久保田康徳氏提供)

※中開帳:秘仏の場合三十三年とか六十年に一度本尊様の扉を開け、衆生と仏縁を結ぶ機会を作っています。(一般的には、33年に一度が多い)。三十三年では長すぎるため、その中間に中開帳と称して、扉を開けることがあります。これを中開帳と言います。

〇御詠歌

補陀落や ここに在りける成滝の 柳の上に吹くや 松風

山本石峰氏は「補陀落は梵語、観音の枕詞だ。観音は今成滝の岸で衆生済度で御多忙。丁度柳が風に任せて揺れる様だ。松風とは巡礼たちの成仏を待つという掛け詞だ。」と記しています。

曼珠沙華はmanjyusakaの梵語から採られ、「極楽に咲く花」とか「天界に咲く花」と意味づけされた植物です。満開の花に囲まれ 祈りを捧げ 唱えるお経は一輪一輪の花に吸いこまれていく。地蔵となった歴代住職が花に囲まれて見守る 花々は祖先から受け継がれた魂か・・・。花いっぱいのときにおとずれて ぼんやりしてみました。ごくらくごくらく(平成30年9月17日)

    
ヒガンバナの花が終わると葉が出だす。(平成30年9月24日)

気まぐれな巡礼案内㉒

投稿日:2018/08/16 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

23番 龍谷山 常現寺内観音寺と粟ケ嶽の続編

㉑で案内しました粟ケ嶽の観音様は日坂の常現寺に下ろされ、25年を経て少しずつ巡礼者の知るところとなってまいりました。この度 廃 寺の観音堂(前号の写真参)が登山道一帯の景観と登山者の危険回避の観点から解体される運びとなりました。

前回案内できなかった幾つかの事柄を今回、新地常現寺をお借りして案内します。

常現寺

  日坂宿内最東に位置し、現在は国1日坂バイパス道から見下ろすように眺められ 県道415号線(旧国1)に挟まれたように見える寺院です。 「寺籍財産明細帳」(明治19年2月提出)によれば 境内は2077坪に及び、50坪の本堂、30坪の庫裏、18坪の衆寮、開山堂、山門等を有し地蔵菩薩を本尊に白山社を鎮守として伽藍を形成し、江戸時代は10石の朱印を持し檀家180戸を有し、本寺長松院二祖一訓禅師の弟子宗鑑和尚を開山(文亀元年)に、日坂宿本陣片岡清兵衛(慶長年間)を開基とする。

上記以外に地蔵堂(宝暦3年)が無縁佛供養のために祀られ、豊川稲荷堂も宿駅全体の鎮守としてここに移転し祀られています。また稲荷の東側には少し変わった五輪供養塔が目を引きます。(写真)  
常現寺山門に掲げられています山号額は「月舟書」と書され江戸初期の僧月舟宗胡(げっしゅうそうこ)と思われます。

月舟:月舟宗胡(1618~1696)曹洞宗僧侶 号を可憩齋 肥前の國出身 16歳で修行の旅に出て諸寺を遊学し、金沢大乗寺の白峰玄滴に参禅し継法。曹洞宗復古運動の先駆者(wIkipedia)

東海道筋の寺院としてのニーズに合わせ多様な顔を持つ寺院と言えます。ただ安永9年(1780)火災で古記を失ったことは残念です。

 本堂正面上の蟇股(かえるまた)に少し崩したバン字(写真)が曹洞宗寺院には珍しく掲げられています。バン字には多くの意味があり、平安後期の真言僧覚鑁(かくばん)(興教大師)の鑁字義によれば「離言・水輪・塔婆・大悲・金剛・智身・灌頂・殊勝・周遍・証果・心・界・蜜・曼・佛・大の十六門に分かち訳しています。単に水・金剛界大日如来だけの意味と種子では無く、深い意味がありそうです。

山から下りられた観音様は、本堂手前の北側、鐘楼堂の東の観音堂に祀られています。 
入口左手には山のお堂内に祀られていた馬頭観音石像(明治44年)がユニークなお姿で出迎えてくれますが、よく見ると出来栄えもよく、印相・持物・三面相の表情などそうそう見ることができないお姿です。(写真)百年以上経ていますが、堂内に置かれていたため傷みが無くお参りできます。  
馬頭観音:頭上に馬首を描いているので馬頭観音と言います。八大明王にも数えられ、馬頭明王・馬頭金剛明王・大力持明王などとも呼ばれる忿怒尊です。菩薩の救済の力を馬に託し、また牧草をきれいに食べ尽くすようにすべての障害を素早く除く役割を担っています。お姿は種々ありますが、この石像のお姿のように三面三眼八臂が多く、二手は正面で印を結び、金剛棒・宝輪・念珠・剣・鉞斧を持ち、残りの一臂に施無畏印を結び観音の慈悲を示し、怒りの姿で邪心を懲らしめるのも衆生を救済する観音の慈悲であると教えます。また密教の修法では結界にこの菩薩を唱えることから、村境や峠などに祀り、疫病や悪しきことが入らないように、また良いことが逃げ出してしまわないようにと祀られています。六観音の中では、六道の畜生道を担い、その姿から牛馬の守護神とされています。ちなみに観音霊場も三十三の中間点十六番真昌寺の本尊様は馬頭観音です。

お堂の正面上には22番観泉寺に掲げられていた山号額と同じく大雄山最乗寺の余語翠巌(1912~1996)禅師揮毫による「大悲閣」が掲げられています。
本尊千手観世音菩薩

 
「掛川誌稿」には「観音堂あり、権現(一寸坊)祠より低い処にして、観音寺の上にあり、此の観音は昔阿波神社の本地佛とするものならん、木像長二尺許ありて、彩色もなく、古作とみへたり」と記され、高さ二尺とされています。また「東海道名所図会巻四」では「本尊千手観音長三尺許作しれず」とされています。「掛川市誌」では、後村上天皇の正平年間(1346~1370)日野中納言資基卿の弟良政が勤王家藤原俊基卿(?~1332)並びに娘月小夜姫の菩提のために観音大士一体を当山へ寄贈した。これが本尊御腹籠の観音大士である。良政が開基となった。」としています。

前回にも本尊様のお姿は掲載しましたが、お厨子の中で開帳時以外は拝顔できませんが、室町期の特徴を色濃く残す寄せ木作りで、本来は玉眼が入っていたと思われますが今はありません。25年前も含めて修復は何度かされたようです。21番相伝寺の案内の中で東山椎林の観音様を掲載しましたが、お顔の表情がよく似ているなと感じました。腹籠の胎内佛は3~4寸ほどの小仏のようです。(常現寺住職談) 脇立佛は不動明王と毘沙門天だったと思われますが(百万遍の唱えごとの中から)今は伝わっていません。 厨子の前の御前立の千手観音像は昭和9年大慈会によって作成寄贈され祀られたものです。(写真)
月小夜姫:「刃の雉」「蛇身鳥」伝説は小夜の中山を中心に菊川北部から掛川東部に伝わる伝説です。「昔小夜の中山あたりにヤイバノキジという賊が出没し、近在はもとより旅の者にも危害を加えるというこ    とで、往来も絶えるという有様であった。このヤイバノキジというのは、中央に地位を認められなかった豪族の連れ添いが、せめて娘だけでも都びとに認めてもらいたいものだと日夜奔走したが、この願いも叶わ ず、遂には手段を選ばなくなって悪事を働くようになったものという。そして娘を認めれば悪事もやめよう、退治もされようということであった。

このことが都にも知られ、討伐の者を遣わすこととなり、落合権の守と従臣進士清蔵、植山、本目などが征伐のため遠江に下向することとなった。しかしヤイバの鬼人の力が強く征伐することができず、権の守は福田港へ、進士は横須賀方面に退いたといわれる。進士はこの戦いで鬼人を討ちもらしはしたが、無二の弓の達人であったので、射った矢はヤイバの鬼人の太ももに七針も縫うが如くに突き刺さった。そこで鬼人は「これほどの矢を射るものは進士以外にはない、七生たたってやる」と言ったという。朝廷では再び、一条三位上杉憲藤を差し向け、ようやく退治することができた。一条三位はこの功により相良の庄を拝領したが、この征伐の際、土地の愛宕の庄司の家に滞在して、白菊という姫と懇ろになり一男子をもうけた。名を月の輪童子といい、のちに空叟(くうそう)といって、足利尊氏の伯父にあたる竜峰和尚が開いた平田寺の二代目となった。寺の記録によると、中山の逆徒を討ったのは弘安元年(1278)の春のこととある。一方都に残っていた落合権の守の娘妙照姫は父を尋ねて遠江に下り、友田(菊川市)に小庵を結び、住みついたといい、妙照寺の前身になったいう。公文名の(西方)瀧の谷の奥には 権の守の墓といわれる塚と五輪が残っていて落合姓の先祖ということで祀られている。また日坂八幡宮に近く、秋葉灯のあるあたりが、ヤイバノキジの娘、小夜姫の屋敷跡と伝えられている。「菊川むかし話」(昭和62年鈴木則夫編著)より )(そのほかにも幾つかの伝説が存在します。)

大慈会:大正の末から昭和の初期にかけて現在の霊場保存会の前身ともいうべき霊場相互扶助会が「大慈会」の名称であったと先代から聞いたことがあります。賛同者を募り記念バッチを与え、毎年どこかの札                   所がお開帳することを目指し、他の32札所が後援をすることを趣旨としていたように記憶していますが、資料等が無く詳細は不明です。ご存知の方が有りましたらお教えください。

 

御詠歌

ちさとまで ひとめにみゆる おとこやま ほとけのちかい たのもしきかな (千里まで 一目に見ゆる 男山 佛の誓い 頼母しき哉)

山本石峰氏は「順礼物語」の中で「観世様の慈悲は広大無辺で 丁度無間山の頂上で下界を見下ろす如くだ。迷いの雲が晴れて、千里も一目の中だ、其の力は頼母しい限りだ」と記しています。

この山に何故千手観音をお祀りしたのかについて山岳宗教研究者の山本義孝氏は、初めて粟ケ嶽に登った印象として「南平から南方を眺め、熊野の補陀落浄土の青岸渡寺を思い浮かべた」と語っています。近在には三熊野・高松・小笠山を熊野三山の写しとした熊野信仰も存在し、歴史と信仰の奥深さが広がります。
男山:この山に中・近世 女人禁制とか一般人の踏み入れ制限の禁足地の言い伝えは無く、初午祭の参詣人に象徴されるように、庶民の身近な山であり続けて来ました。地元民はどこから眺めても自分のほうを向いていてくれる「向山(むくやま)」と呼び、親しみを以て接してきました。「男山」の言い方は、独立した山を一般的にこう呼ぶのであり、禁忌とは考えにくいです。男山のイメージから頼もしさは伝わります

 

一寸坊権現

鎮守の神が長い年月の中で変わることはあまり考えられません。ただ寺院の支配構造の中で習合し増えていくことはあり得ると思います。またその時々の力の入れ方による盛衰もあり得ます。粟ケ嶽の場合は呼び方として「鎮守」「奥の院」「山神」と多様です。平安時代の延喜式にある「阿波神」を是としてきたことは知られていますが実際に祀られていたかと言いますと、一寸坊の祠をもって昔跡としているだけで、よくわかっていません。ただ掛川誌稿のように観音が阿波神の本地佛と表現はされています。また西山村の旧家松浦氏の地の神「八王子社」を粟ケ嶽の山神として迎え祀り始めたこと、「一寸坊権現」を観音寺の鎮守として勧請したこと、明治になって「阿波波神」を祀り始めたことなどの変遷は山の歴史そのものと言えます。明治18年12代霊峰和尚が書した棟札には上記以外に宇賀神・豊川稲荷・奥山半僧坊・金毘羅大権現・春野山太白坊なども勧請されています。

これらの中「一寸坊権現」出現についての言い伝えは掛川誌稿などにかなり具体的に記されています。この説を基調に考えてみますと、掛川市大野の本寺長松院第二世一訓禅師が弟子某(後の一寸坊)と「無」について禅問答をしたことが長松院記にあるとされています。時は一訓禅師が永正十年(1504)に遷化(他界)していますので文亀から永正初期と考えられます。某弟子がその後長松院から離れ粟ケ嶽に入り修行を重ね一寸坊となったとされています。

前号で「遠江古蹟図絵」に書かれている一寸坊を紹介しましたが、再度要点を記しますと「守護神を一寸坊権現と云ひ、近来正一位と成らせたまふ宮あり。略 木像、社の内に有り。天狗の形、翼有り。長一寸あるゆえゑに名とす。白虎に乗り不動のごとく剣を持ち云々」と説明されています。また同書に「この宮も(一寸坊権現宮)当年開帳に付き修復出来、正一位と成らせられし由云々」とも記されています。当年とは寛政10年(1798)と思われ、お宮が修復されたのは寛政4年(1792)と思われます。(社に残されている棟札と遠江古蹟図絵の編纂の時期から) この頃が最も祭礼盛んな時期だったのかもしれません。

権現堂内の棟札には「我れ神躰無く 正直をもって神躰とす 我れ奇特無く 無受をもって奇特とす 我れ知恵無く 忠孝をもって知恵とす 我れ仏法無く 慈悲をもって仏法とす」と書かれています。これは一訓禅師との禅問答の答えと 大悟した証明として一寸坊が残し伝えたものと考えられます。勿論「正直(せいちょく)」や「忠孝」の言葉使いから後世に考えられたものとは思いますが・・・。    
地元西山村の人たちは武田勢の駿河侵攻(1567~68頃)による兵火から逃れるため全戸離散しています。やがて時代が代り世情が安定してきた寛永年間(1624~1645)になり地元に戻ってきたようです。当然観音堂や権現堂なども被害を受け、荒れ果てた状態であろうことは想像されます。地元に戻った村民たちは心のよりどころである寺や観音堂の再建、昔通りのまつりごとを中心に生活の安定と村の復興に努めたことでしょう。

一寸坊:現在まで修験道の特色を失わず伝承している信仰に、木曽の御嶽修験があります。「御座立て」に代表される託宣(たくせん)と言われる巫術(ふじゅつ)が行われます。これは神が行者などに憑依し てお告げをすることですが、この神を護法神とか満山護法善神といい、仏法を護る神と理解されるのですが、一般的には護法神を天狗と考え、また童子ともよばれ、山伏の従者あるいは使役霊として、悟りを得た山伏がこれら天狗や、護法を自在に駆使して奇跡を起こすと考えられていた。また原始的修験道には、どこの山でも護法を山伏に憑けて山の神と同体にし、その加持力によって祈祷と託宣を行う信仰儀礼があったものと思われる。このように護法神がカラス天狗のようなものとの概念が一般化し、山伏と天狗の関係ができてくると、修験の山には様々な天狗が生み出され、山に住むと信じられるようになった。(五来重・山の宗教)

粟が嶽の一寸坊権現も「無」題から仏法を「慈悲」であるとの答えを導き出し(託宣)護法の神・天狗になったといえます。 御託宣とか夢のお告げは古代においては重要な意味を持っていました。現代では非科学的などと言われ重要視されなくなりました。ただ「神の声」などと理不尽に使われたりしますといささか・・・・と御託を述べてみました。

百万遍

山上の観音堂では毎年八月九日「百万遍念仏」が地元西山の人たちによって行われてきました。常現寺に移ってからも続けられ今年(平成30年)も35度を超す暑さの中、お堂で「百万遍」がおこなわれました。

この日は午前中に山上境内の草刈りをし、午後から供養が始まる。今年は13名の男女が常現寺観音堂に集まり、住職の御法楽の後堂内に輪になり「なんまんだんぼ」のお唱えと左から右に大念珠が回され、大きな房(母珠)が来ると、少しささげるようにして回す。100回を30分程かけて唱え回し終わる。一人中央に数を繰る役の人がいる。10人で1080の数珠を100遍回し唱えることで100万遍となる計算です。

   
(数珠‥今は不使用)                  (計算機)       (百万遍を終えて)

「百万遍」:百万遍念仏の略称。念仏(南無阿弥陀仏)を百万遍唱えること。元弘元年(1331)後醍醐天皇の勅命により悪疫退散のため、京都知恩寺八世空円が七日間百万遍念仏を修し疫病が収まったことに由来する。後年一般におこなわれるようになった。この地域ではほとんど途絶えてしまったが、わずかに数か所で行われている。(掛川市中西之谷下組・・掛川市史)地域により日時唱え方は様々ですが、お盆の行事として現世利益より精霊供養として行われることが多い。

今回粟が嶽の続編として案内いたしましたが、調査の中で一寸坊権現と常現寺の開山宗鑑和尚が兄弟弟子であることもわかりました。また敢えて無間の鐘などの伝説には触れませんでした。この山にはまだまだ興味が尽きません。多くの人たちに粟が嶽を訪れていただきたいのですが、山上に立派な休憩施設が来春竣工しても車道の整備は遅れています。くれぐれも運転は慎重に、気を付けてお登りください。できうれば歩いて登られることをお奨めします。麓の「いっぷく処」に駐車して約1時間で到着します。常現寺にお参りをして山に登るか、山から下りて常現寺をお参りするか、、、3~4時間は必要です。