静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

寺院からのお知らせ

気まぐれな巡礼案内➂

投稿日:2016/10/28 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

今回は来年(平成29年4月)にお開帳を控えた20番大原子観音寺です。 寺伝等は「霊場のご案内」をご覧ください。

〇御詠歌

父母を 扶け給への観世音 心をつくす 法のしるへに

山本石峰氏は「観音力に遵(したが)って一心に祈るのは、亡き父母が彼の世で因果の業ゆえ水火の苦を受け居るを救い玉へ、軈(やが)ては我も亡き父母ぞ」と記しています。

 

〇観音寺境内の西南側に変わった字体の「南無阿弥陀仏」石碑が据えられています。揮毫者「徳本上人(行者)」について案内します。

九州宮崎県の山伏、野田成亮(のだせいりょう)が1812年から1818年の6年2ヶ月にわたる日記「日本9峰修行日記」が残されています。この中で1818年4月から和歌山県を回り「徳本」について記しています。現代風に言えば、東京で活躍している徳本さんのことを実家に行って、兄弟親戚縁者にリポートしているわけです。 日記に沿って、現代語で読んでみます。

4月4日 日高川を渡って 道成寺にお参りする。その後、念仏行者徳本さんの出身地 志賀村(しがむら)を訪ねた。 4月6日 大江村(だいえむら)を出発し、徳本さんの妹の家に立ち寄ったところ、法事中で食事をよばれ、一晩宿泊した。 4月7日 上志賀村(かみしがむら)徳本さんの生家、兵助と云う家に行く。 徳本さんの親は三太夫と云い、兄弟は7人、男2人女5人で、1人欠けて今6人がいる。 徳本さんは俗名重助と云い、弟はお坊さんになったが体調を悪くして実家に戻っている。

徳本さんについて聞いてみると、4歳の頃から子供同士では遊ばず、6歳の頃から東の山の上の1坪位の岩穴で念仏を唱えていた。16歳頃には皆に知られるようになり、どこにいても念仏を唱えるようになっていた。お唱えする時 鉦鼓を鳴らしていたが、隣のお坊さんに咎められ、それからは木っ端を打つようにした。その使い古しを皆がほしがり持って行ったので今は何も残っていない。徳本さんは横になって眠ることをしなかった、眠くなると机に寄掛り、目が覚めればすぐ念仏を唱えた。23歳で親と死別し、一層念仏を唱えるようになった。26歳の時 妹に養子を迎え、徳本さんは出家して僧侶になった。

千津川の川辺に小さなお堂を建て 昼夜念仏三昧し5年間薄物1枚で通し、食するものは五穀以外の物だけでした。 出家する前は皆が草刈りに出る頃には終えて戻り、田畑が害虫で被害を受けても「虫も天地の間の物なれば、食せずにはおられまじ、腹一杯食したならば、止むべし。これを殺す事は罪なり。」とそのままにした。しかし収穫時には皆と同じ収穫が得られた。 また近くの地蔵堂に朝晩毎日お参りを14・5年欠かさず続けた。 子どもの頃から念仏ばかり唱え、読み書きはできなかった。「南無阿弥陀仏」も絵を見るように唱えていた。これは法然上人の一枚起請に叶った念仏行である。 徳本の噂が広がり遠近から参る人が多く、修行が出来ないと20キロ程山奥に入り修行するようになったある日、8代紀州元藩主徳川重倫(しげのり)公から呼び出しがあったが行かなかったので、重倫公は狩りを口実に徳本を訪ねた。重倫公が「お前は何者か」と徳本に尋ねた、徳本は「私はご領内日高郡上志賀村の百姓三太夫の倅で重助と云い、今は徳本と名乗り浄土宗の僧侶です」と答える。何故ここにいるのかと問えば「私は身分も低く、その上愚痴闇昧(ぐちあんまい)で何もわからず残念なので一度人間らしくなりたいと、子供のころから念仏申し、今に至っています。」と答える。 本当の人間らしいとはどのような人を云うのかと、重ねて問うと「あなたのような人々を云います。高い身分に生まれることは天爵、高い位につくことは人爵、よって欲もなく思いどおり、心のままに暮らす事。このように一度なりたい為に苦しい行をしています。」と答える。 重倫は何も語らずその場を立ち去った。その後重倫の暴君ぶりも納まり、思いやる心を持つようになった。

徳本さんはその後、50歳で和歌山に出、それから摂津の勝尾寺へ移り、いま江戸にいて61歳になる。このように兄弟や近所の人から聞きました。

これらの話を聞いてから徳本さんが幼いころ毎日念仏申していた岩穴を見に行ったが何も印が無いので、草を刈り石で拝むところを作り、大ヘチの玉島というところから1尺位の黒色の丸い石を持ってきて置いておきました。

いささか長くなりましたが、上記のように徳本さんをリポートしています。1818年に徳本上人は亡くなっています。ここの碑はその2年後に建てられています。彼の死後も生前に書かれた「南無阿弥陀仏」は信者に配られました。この碑は彼がここに立ち寄った時に書かれたものか、或いは徳本上人を慕って参拝した郷土の人によって地域に建てられたものと思われます。

歳月によって剥がれた部分もありますが、彼の威徳を想い、地域の人々の西方浄土信仰を想いながらお参りしましょう。

img_2530    img_2527 徳本上人の石碑img_2534 観音寺と集会場

2016・10/28公開

 

 

気まぐれな巡礼案内②

投稿日:2016/10/16 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

今回は9番岩室と周辺です。 初めて訪れた時、8番観正寺から 歩けどあるけど着かず、遠かったことを思い出します。二里半(10キロ)の道のりです。

岩室に来たら公園に足を運ぶことをお勧めします。獅子が鼻から眺める絶景は、鳥になった気分 疲れを忘れさせてくれます。

古代から続く歴史の中で此の場所はどんな変遷をたどったのだろうか。観音堂裏山の夥しい薄石の古墳、山肌の岩室群、摩崖仏、国分尼寺跡、七堂伽藍を想わせる礎石類、平安期の仏頭・仏像、鎌倉期の大般若経書写、観音堂正面蟇股16枚菊紋、地名と伝説の数々、戦国武将の勢力争い等 限りなく謎とロマンは広がります。

「獅子が鼻」名前の謂れとなった先端は地震で鼻の部分が崩落する前は、「牛の鼻」と呼ばれていたようです。オーバーハングの岩が少しだけ低くなったようです。上からの景色を堪能したら、鼻の下に降りてみましょう。登山道を少し下りますと「衣かけの松」の標識があり、そちらに向かいます。歩いてすぐ右上に摩崖仏が現れます、その先が鼻の真下になります。歌が刻まれています「世をうしの はな見車に 法のみち ひかれて ここに 巡り きにけり」(永安寺開山寂室禅師 登山して看花の作あり(延文1356~1360)と言い伝えあり)。 またその右手には「弘法大師 投筆 天授 再寫刻 花押」(弘法大師の書かれたものを、天授の時に、再び刻する。あるいは 天から授かって再び刻する)とも記されています。字体から近世に刻されたもののようです。「天授」については、そのままの意味と、元号(南朝1375~1381)とも捉えることもできます。鼻の付け根の処には「役の行者」が真っ直ぐ西向きに座しています。衣かけの松から北側に回り込みますと、岩室がしっかりと残され 修行場として最適ですが、「この先立ち入り禁止」の標識に阻まれます。その先の大きな岩室には33観音がひっそりと祀られていますが、行くのは危険です。

時間に余裕があれば、公園の下から登山道を上がることをお勧めします。ひと汗かいて岩先に立った時の爽快感は何とも言えません。

今回は「獅子が鼻」のみになりましたが、その周辺にも多くの興味深い場所があります。40年前に行われた開拓パイロット事業は立派な柿園になり、今回訪れた時は 葉と果実の色づきも美しく、何度訪れても飽きることのない札所とその周辺です。

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気まぐれな巡礼案内①

投稿日:2016/10/14 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

25番松島の札所と境内を紹介します。 寺伝や「歩き観音」については、既に記載されていますので略します。

菊川の流れは、粟が岳を水源に小鮒川を過ぎ、小夜の中山東の谷 諏訪原西の谷の水を集めながら菊川の宿をぬけ、深谷へと下ります。小夜の中山の南に火剣山(菊川市最高峰282.6m)があり、松島は東側登山口になり、観音堂の五十メートル南は菊川市境です。

観音堂の下に立ちますと石段の右側に「慈眼視衆生」と標された石が立っています。正面の石段を登ります、この石段は三十三あり、一段ごとに観音様がお迎えくださるよう思いを込め造られています。慈眼視衆生の意味が理解できます。 寺名となった「岩松寺」の「※とかえりの松」は石段を上がりきった東側の手水鉢の辺りにあったようです。西側には保存会が配した沙羅樹が剪定され、三十年の年輪を刻んでいます。本堂西南側に「歩き観音」の石像がお祀りされた小堂 本堂には正観音様が祀られています。本尊様については、いくつかの説もあるようですが、長い歴史の中で その時々の人々に護られてきた重さを考えた時、さして問題にはなりません。特筆すべきは、この地区の人たちが秋の彼岸には当番を決め三十三か所を必ず巡礼し続けていることです。歩きから自転車に車にと変遷はありますが、学ばなければならないと常々感じています。

さて、どこの寺の境内にも墓地があることは当たり前の風景ですが、ここも共同墓地として祀られています。この墓の中に「山有りて 我心有り 依って我 山に登る」と刻まれた墓碑があります。二十五才で逝った若きクライマーの碑です。彼はカナダのパフィン島にあるトール山(1675m)西壁(1250mの世界最長の断崖絶壁)の日本初登頂を目指し、その隊員として、練習場北アルプス前穂高岳(3090m)北尾根屏風岩(日本三大岩稜と呼ばれる)を登攀中亡くなった。 日本登攀クラブがトール西壁に初登頂したのが1984年ですから、彼の死後5年後となる。この碑文は彼の遺品を整理していた父親が日記帳に記されているのを見つけ刻したもので 父母のつらく切ない思いがこめられています。

〇御詠歌

※十かえりの 松に涼しき 風立ちて 谷に妙なる 音は菊水

※山本石峰氏は「十返も百返も巡礼すると、涼しい風で煩悩の熱は取れて谷間から美妙な梵音が聞こえる、はて不思議と視れば、菊川の水音だ。」ときしています。

山里の静かな佇まいの25番札所にゆっくりとお参りしたいものです。まもなく国道473号線が国一バイパスに連結され、菊川宿の四十数メートル上を通る橋脚工事も始まりました。

※山本石峰:気まぐれな巡礼案内⑭(2017・10/1公開)で案内しましたが、それ以前の公開案内時は未発見でしたので、追加筆します。

山本茂三郎:明治二年十月十六日小笠郡新野村出生(1869)~昭和三十五年一月十日没(1960)・昭和26年「遠江三十三所巡礼物語」を著す。他菊川町「河城村郷土史」編集

※とかえり・・・十返り(百年に一度咲く松の花が十回咲くことから、長い年月を意味する)※太文字は下の写真参照

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