静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

寺院からのお知らせ

気まぐれな巡礼案内⑭

投稿日:2017/10/01 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

9月に入ると、「月々に 月見る月はおおけれど 月見る月は この月の月」仲秋の名月の句をおもいだします。

彼岸月が重なり、日本人の良さを実感する季節でもあります。

暦の上でも春夏秋冬の四季の移り変わりが突然来るわけではありません。

17日間の移行期を土用と呼び、この土用が明けて立秋・立冬・立春・立夏となります。

中秋は旧暦の8月15日で、この日を方位でとると「真西」、太陽の「陽」に対して月は「陰」、陰の象徴としての月の正位は「西」、旧暦8月15日の月を拝む行事は「五穀結実」を祈り、四季の順調な推移を祈願し感謝する行事であり、お供え物も白色団子・芋・栗等全て丸く、金気西を象徴する物ばかりです。

お隣の韓国でも「仲秋佳節」として、重要な日として祝ってきました。

日本では、風雅なお月見行事として、古来から定着してきた慣わしですが、その意味は中国哲学に裏打ちされたものです。

難しい理論を隠し、秋の満月に手を合わせる姿に、日本人の情緒を感じます。

月の呼称も、新月、二日月、三日月、上弦月、十三夜月、待宵の月、十五夜、満月、十六夜(いざよい)、立待月、居待月、寝待月、更待月、下弦月(二十三夜)~有明月、晦日月まで、様々な呼び方にスーパームーンが追加しました。

 

御詠歌にも 月を詠みこんだ札所が5ヶ寺あります。今回はその一つ、29番正林寺内磯部山です。
正林寺は旧小笠町。県道大東菊川線を南進、磯部の信号を左折(相良大須賀69号線)すれば左側にあり、南側は「塩の道」の塩買い坂があります。

境内を入って行くと、今年(平成29年)落成した荘厳な山門が建ち(写真)
大伽藍の閑静な佇まいの中、観音堂は本堂西側にあります。(写真)
明治29年、磯部山上からこの地に移されました。(磯部山は正林寺の西に数百メートル、信号機の東南)正林寺蔵 正徳3年(1713)の古絵図によれば、磯部山上には観音堂を始め、客殿、別当家(庫裡)、池、弁天堂があり 江戸中期の当地の様子が伺われます。

昭和60年観音霊場保存会発足後、各札所に観音霊場に関する資料要請をされたことがありました。29番札所の資料紹介に、昭和26年(1951)※山本茂三郎(石峰)氏が「遠江三十三所巡礼物語」と題する、故事伝説解説本を正林寺に奉納と記されていました。

ご住職の温かいご理解で、早速コピーをとっていただきました。(写真)
時の住職※田中霊鑑氏(1877~1965)が序文に「予 先に現皇帝即位式の大正三年に 記念に国家安康、五穀豊饒を祈願して、遠江三十三所観音霊場奉納経及御詠歌集を出版して旅行し、大悲の慈眼を讃仰せり。

当時以前、遠江三十三所霊場創設者、真史蹟等甚に不詳にして、史料風土記にも顕著ならず。甚に遺憾なりき、偶に石峰居士 正林寺史を研究せらるる傍ら之れが旧蹟探究を依属せしかば終に稿成りて、此の巡礼夢物語一巻となりて、其の創始起源等を得たるは誠に歓喜に堪へず、依って一言を附して序と為す。

昭和二十六年中秋九月 正林二十六世 霊感叟」と寄せています。

序文に記されています奉納経と御詠歌集は、氏三十代に出されたと思われますが、残存不明です。

本文は①遠江三十三札所縁記 ②遠江巡礼札所夢物語が著され、付録として今川氏、朝比奈氏、掛川城、御詠歌、観音和讃が記され、詳細に調査研究されたことがわかります。札所の草創についての記載では、1番結縁寺で紹介した内容と符合することも多くありました。

昭和62年に出版されました 鈴木偉三郎著「遠江三十三所観音霊場縁起」は正林寺蔵本を書写・加筆して出されたものです。

今後各札所の記載も 折に触れ紹介したいと考えています。

 

ご詠歌「はるばると 登りて見れば 磯部山 小松かきわけ 出る月影」 を石峰氏は「上の句は求道巡礼のありさまを述べ、小松とは垢穢の煩悩を指し、それを押しのけ払いさる観音力を月影に譬えている。」と解釈しています。

昔から西国霊場の御詠歌に比べ、遠江霊場の方が優れている と聞かされていましたが、なかなか奥の深いものだと感心させられます。

今川義忠を供養する寺として建立された正林寺。「寿桂尼」が今川の安寧を願い「霊場」を発願したとするならば、最も縁の深い この寺に何故重きを置かなかったのか、素朴な疑問は残ります。 正林寺開創は永正14年(1517)。

 

※田中霊鑑:正林寺26世住職で28番正法寺住職から請われて、正林寺に晋山、同寺を再興。昭和40年(1965)遷化88歳

※山本茂三郎:旧小笠町河東、晩年石峰を称す。菊川市河城村々史はほぼ氏の調査編集により刊行された。

※正林寺山門:旧山門は菊川市西方の澤崎邸から中内田の小原邸を経て正林寺に建てられていた。

 

気まぐれな巡礼案内⑫´

投稿日:2017/08/22 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

4番 鶏足山 正法寺の巡礼案内の中の、明治以前の「新福寺」の場所について、正法寺ご住職から連絡をいただき、現地を訪ねてみました。

掛川市大池の旧東海道を西進、和光橋を渡り切った東側の山が「かんのん山」と呼ばれています。写真のように今では雑木林ですが、西には田園風景がどこまでも広がり、北から西に逆川の流れを眺め、旧東海道を行き来する様子も眺められる風光明媚な場所です。ただ名残を残すものは何も見当たりません。そこは西側のお宅の所有地で最近まで、其の家の墓地になっていて、山頂の平地は茶畑に開墾されていました。また墓地も「新福寺」が廃寺になって後に新屋した家のため、言い伝えなどもありませんでした。高御所村としては北の端になります。3番長谷寺からは西に1キロ程の近距離です。 明治以前の位置確認ができたことを感謝いたします。


さて「新福寺」が廃寺となり「正法寺」に祀られた経緯については、⑫で案内いたしましたが、長い歴史を持つ遠江三十三観音霊場なので廃寺、統合、移転など様々な変遷をたどった札所が多いことは以前にも記しました。

「正法寺」は遠州観音霊場の第7番札所を兼ねています。「遠江三十三観音霊場」の中で両霊場に属する寺院は5ヶ寺あり、「遠州三十三観音霊場」は昭和59年(1984)に新たに創られた霊場です。以前間違った歴史紹介もありましたが、札所の変遷再興が幾度となく繰り返されてきたことを思うと、仕方のないことかと思われます。

遠州札所を廻っていたら、寺院の方から「遠江札所も廻られたらどうですか」と紹介された、との声も聴かれます。

大切なことは、史実より巡礼者が安心してお参りできるところが多くあるということかもしれません。

気まぐれな巡礼案内⑬

投稿日:2017/07/31 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

番外 岡津の善光寺です。

西国巡礼を終え、長野の善光寺にお参りをしたり、四国八十八カ所を廻り終えたお遍路さんが高野山にお参りをします。四国の場合は「同行二人」といい、弘法大師さまと一緒にという「お大師さん信仰」で、最後に感謝を込めて、弘法大師が入定(にゅうじょう)している高野山の奥之院を参拝します。一方観音霊場の場合は、西国・板東・秩父の百観音の番外として長野の善光寺へ詣るといわれ、「遠くとも一度は詣れ善光寺」とか「牛にひかれて善光寺参り」などの言葉もあり、゛一生に一度お参りするだけで極楽往生が叶う゛といわれています。三十三カ所を廻り終え、その上に西方浄土の阿弥陀仏に参ることで、極楽往生が確約されたとする信仰です。遠江三十三霊場にも同様の「善光寺」が用意されています。

住所 掛川市岡津331番地(仲道寺)仲道寺本堂善光寺参道

 

 

善光寺如来堂(阿弥陀堂)阿弥陀堂内陣

 

国道一号線の同心橋東の信号を北折れすぐの交差点を東進、原川間の宿(あいのしゅく)から松並木が続きます。その東が岡津の善光寺で、仲道寺境内に祀られています。西国・板東・秩父の百観音同様遠江三十三カ所も岡津の善光寺にお参りをして成満となります。原川の松並木

仲道寺本堂に善光寺の由来が書かれています。「延暦の昔、伝教大師 叡山建立の願を発せられしとき、自ら弥陀の尊像を彫刻し奉り給いるが そののち奥州に於いて大いに賊徒興りたれば、追伐の勅使として田村麻呂と百済王とを遣わさる。折節諸国に疫病流行、庶民死する者数多し、ここに於いて百済王 彼の大師所作の尊像を奉持して一心に弥陀佛を唱名し、願わくば這回東賊の徒を伐ちて速やかに帰西せしめたまえと即時に東海道を指して出向す。漸くにして遠江国佐野郡岡津村に至る。然るところ兵卒十五人疫に罹りて徒行すること能わず。即ちこの里に止宿療養せしむ。この時に当たりて彼の弥陀佛の尊像をこの地に安置し奉り、主従もろとも懇祷至切なりければ大悲薩多の加被力により遂に東夷悉く平定す。而して岡津村に所止の病者等夜夢に主人将軍の大病も明日は快気し 諸国の病者も皆快気すべし。此の処は天下の中道にして衆生を度する有縁の地なり、我は此処に止まらん、汝等主人にその旨趣を告げよと、鶏鳴に夢覚めければ不思議なるかな、兵卒の病悉く平癒しいなり。仍って直ちに弥陀佛を拝し一心に称名して即日東行飛ぶが如し。奥州にて太平の帰陣に逢ふて主人にこの夢を告ぐ。将軍即ち希有の思をなし、西方に向かって礼拝す。後岡津に至るの時、これによって岡津一村を悉く善光寺領とし、諸願成就の為に寄進すと云々。今に及んで岡津村には流行り病稀なること世人の知るところなり。 後世天正年中 当国城東郡高天神城落城の砌、勝頼の乱賊この寺に籠りて狼藉たり。時の住僧之を憂いて出奔し、昔年の御朱印を失却す。因って前々の住僧の名不詳なり。又其の後奥州に於いて疫病流行したるとき此の弥陀尊像を盗み去るとし、即ち如来を岡津村の人民に託して、我を岡津に還せと 仍って再びこの地に迎請し奉り、国土安穏 諸災消除 家道興隆ならびに後生善生より祷る御霊跡となるなり。以上」と記され岡津の善光寺如来の功徳とここに祀られた由来が記されています。
「掛川誌稿」には「寺中に阿弥陀堂あり、此の阿弥陀は坂上田村丸の守本尊なりと云い伝う、阿弥陀仏ある故に、寺を今は善光寺とも呼ぶなり」と記されています。その為、当時ここにお参りすることが一般化されたものと思われます。

全国には443体の善光寺佛があり、119か寺が善光寺を名乗っています。(平成5年)また「全国善光寺会」も創られ「善光寺サミット」も開催されています。現代風に言えば「フランチャイズ」ですが、「写し霊場」同様庶民の要望があったということだと思われます。ただ岡津の善光寺はこの中には含まれていません。この地域では掛川市横須賀の普門寺(天台宗)が入っていますが、明治17年に勧請されたものです。

岡津の善光寺は現在お堂の老朽化により維持困難な状況です。また以前は本尊様の横から壇の下の真っ暗な中を手探りで巡る「お戒壇めぐり」もできたのですが(平成10年頃まで)、こちらも現在は不可能な状況になっています。

※善光寺と善光寺如来・・・゛みはここに こころはしなのの ぜんこうじ みちびきたまえ みだのじょうどへ゛のご詠歌で有名な長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院です。本尊善光寺如来は正式には一光三尊阿弥陀如来といわれ、中国・朝鮮半島を経て日本に伝えられた(552年)日本最古の仏像と伝えられています。一つの光背の中央に阿弥陀、右に観音、左に勢至の三尊が並ぶ善光寺式三尊像といわれています。絶対秘仏とされ、開扉されることはありません。鎌倉時代に作られた前立本尊様が7年に一度開扉され大勢の人で賑わいます。

 

気まぐれな巡礼案内⑫

投稿日:2017/07/18 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第4番 鶏足山(けいそくさん)正法寺内新福寺です。

まいるより つみはあらじの しんぷくじ おんてのはなを みるにつけても

 

文政年代の石標

山号の鶏足は地形から採ったとされる。曽我山・拈華山・鶏足山と変遷しています。

掛川インターから袋井のエコパに向かう県道403号磐田掛川線の高御所(こうごうしょ)インターで降り左折すれば境内です。ここは小笠山の北裾に当たります。小笠山を御神体と見たのでしょうか本堂は北向きです。平成10年代の終わりころまでは門前に樹齢300年以上の樅の大木が二本立ち、雷災した木にオオルリがさえずるのを毎年楽しみにしていました。境内に入り東側の禅堂に4番新福寺札所があります。旧来から正法寺に祀られていた西国三十三観音石像(昔は羅漢堂の回廊に並べ祀られていた)がお堂の入口の左右に置かれています。(写真)
「掛川誌稿」には観音堂として、「遠江札所四番の観音なり、堂守りを新福寺といい、曹洞宗豊田郡野辺村一雲斎末寺なり。」と記されています。正法寺々伝「曽我山略縁起」によれば「遠江三十三所第4番は十一面観音にして、元は村内新福寺の本尊なりしが、明治六年八月新福寺廃寺となりしに因り本来なれば本寺一雲斎へ合すべきものならんも同村の故を以てか、上司の仰せを蒙り、当山に遷し禅堂に安置す。」と記され、寺院の本末関係より地域制と巡礼番の方が優先されました。明治29年(1896)発行の案内では3番から4番へは13丁(約1.5キロ)とされています。この地域制を優先する正法寺預かりは、この寺院の開山の縁とも通じ合います。正法寺は開山を応永17年(1410)3月16日、見珠和尚(明円)としていますが、森町の大洞院同様開基を持ちません。地元の5~6名の粘り強い要請によって創建された歴史を持つからです。(権力者のスポンサーを持たなかったところにも道元禅師の意思は息づいていたわけです。)その後領家村の松浦惣太夫や徳川家康の寄進などにより境内地が整備された経緯はありますが。

掛川市史によれば旧掛川市内寺院の80%を占める曹洞宗寺院96ヶ寺の創建年次についての調査で1400~1499年8ヶ寺 1500~1549年22ヶ寺 1550~1599年26ヶ寺 1600~1649年23ヶ寺 1650~1699年11ヶ寺 1700以後5ヶ寺 不明1ヶ寺となっています。これは、1400年以前には曹洞宗寺院は皆無であり、戦国の混乱期に寺院が多く創られていること、国情同様江戸期には安定したことなどが特徴といえます。全国の曹洞宗の中で此の地域の寺院密度が最も高いことの理由が気になる所です。

さて、正法寺は旧掛川市内では最も早く、霊場圏内では森町飯田の崇信寺(1401)に次いで創建された寺院で(応永17年1410)、次に最福寺、長福寺(1455)、法泉寺と続きます。 正法寺の創建について「掛川市史」真言宗寺院の項中で、「この地にも相当数の真言宗や天台宗の寺院があったように思われるが、略 十四世紀末から十五世紀にかけて、次々に曹洞宗寺院に換骨脱胎されていく。」と説明され、曹洞宗は教線を拡張していく過程で、旧寺院、地元民の信仰と習俗をそのまま包摂、受容していった。正法寺も当時廃寺同然の真言系正眼院を曹洞宗として創建されました。

今回は正法寺の東側にある旧道と伝説的な樅の木について案内させていただきます。

◎「腹摺り(はらすり)」:正法寺より少し東方から沢に沿って入り、小笠山の中を通り南に向かう山道を「はらすり」と呼び、その昔この道を歩いたことを懐かしく感じられる方も多いと思います。

「掛川誌稿」に「腹摺切通」として、「高御所村を経て横須賀領の山に至る道なり。萬治元年(1658)北条出羽守氏重、没して嗣子無く、其の家断絶す、依って横須賀の城主本田越前の守利長、正月より二月まで掛川城を預かる、其の時横須賀の諸士更番往来のために開く、切通の間三十歩許、甚だ狭隘(きょうあい)なる故に腹摩と呼ぶ。」と記されています。馬がお腹を摺るほどの狭い道だということのようです。現在では利用する人もなく荒れていますが通行は可能です。(写真) 切り通しの狭いところで3尺(1m)位、25分で峠に出ます。ウォーキング道として整備、活用を期待したい。(ヤマヒルには注意)


写真は県道403号下のガードをくぐり、沢に沿って登り切り通しから峠を越え南に下ります。

◎通幻木の伝説:廃寺同様の処、禅僧通幻和尚この山に来て、大なる樅の木樹下にて座禅す 修禅中信徒の者数人挙て草創開山に請して此の山を永続せんと欲す 又修禅中僧壱人来て随身して禅道に入りしか これと同行して通幻和尚何れか雲遊し去れり 然りと雖も草創開山と請し 今に於いて通幻和尚袈裟掛けの樅弐本あり 根となりうらとなり弐本につき合て横枝あり 是を通幻木と相唱来れり。(以下略)と「寺籍財産明細帳」は伝えています。

今も上記の木(通幻木といわれる袈裟掛けの樅2本)は奇跡的に現存します。(写真)平成29年7月16日35度の暑さの中対面してきました。


写真のように、根元から二本に聳えています。右側の木は目通り3.8m 左側の木は目通り4.3m。地表から2メートルのところで枝のようにつながっています。これが通幻木袈裟掛けの枝です。樹高30m位でしょうか、樹勢は良好です。今から約640年前は既に大なる樅であったわけですから、随分古く貴重な樅です。

※通幻(1322~1391)・・・総持寺五世通幻寂霊禅師(つうげんじゃくれいぜんじ)のことで、道元(承陽大師)を高祖とする曹洞宗は4代目太祖瑩山(けいざん)(常済大師)で教団としての組織が確立します。瑩山の弟子峨山韶碩(がざんしょうせき)の下に集まる25哲といわれる僧があり、その中にまた、5哲あり、通幻寂霊はその一人で、彼の流れを通幻派と呼び曹洞宗14000ヶ寺700万檀信徒の半数以上8900ヶ寺(永澤寺談)を占めるといわれる最大勢力の派祖。

※樅(モミ)・・・日本特産の常緑針葉樹で本州、四国、九州に自生する。高知県四万十市の新玉様のモミ(目通り7.88m)を最大に5m以上を30傑としている(1985年「日本の巨樹」)が通幻木のような珍しい樹形は稀とおもわれます。

掛川市3霊山を小笠山・大尾山・粟ヶ嶽としますと、観音霊場は32番・33番・1番・4番・5番・6番が小笠山の東から西側の裾に設けられています。小笠山は約100万年前大井川の流れで形成された若い山です。静岡県100山でも最も低い山(最高峰264m)ですが、その分大雨の度に姿を変える険しい山でもあります。今回は正法寺とその周辺を取り上げてみました。「通幻袈裟掛けのモミ」は巡礼者のみならず、曹洞宗寺院の方々にも是非訪れていただきたい霊域です。「腹摺り」も小笠山散策道として整備し大勢のウォーカーが利用できるようになればと思います。明治以前の札所新福寺の所在位置確認は時間の都合でできませんでした。

〇御詠歌

参るより 罪はあらじの新福寺 御手の花を 見るにつけても

山本石峰氏は「順礼して、罪業消え 新たに敬恩悲の※三田を得ることは、御手に持てる妙法の蓮華の中に輝いているから、見落とし玉ふな。」とご詠歌の本体を註解しています。

※三田(さんでん):「敬」「恩」「悲」の徳が生じることを、田に喩えて言う。僧侶が着する袈裟は本来、余り布を継ぎ合わせて法衣としたことからきていますが、「福田衣(ふくでんね)」といいます。

2017・7/18公開

 

気まぐれな巡礼案内⑪

投稿日:2017/06/14 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

3番 長谷 東陽山 長谷寺(ちょうこくじ)です。

掛川市役所の真西200mの位置。 バスなら南まわり長谷寺停留所に札所はあります。北隣に貴船神社、東北隣が長谷区公会堂です。  平成8年都市計画で本堂が南側に移転しました。寺の象徴木※スイリュウヒバも移動し、根がつくか火がつくかと話題になりました。目通り3.7m、地表から3mで枝分かれし、中は空洞、樹齢300年位でしょうか、現在は写真のように手当ても空しく瀕死の状態です。
かつて訪れた時、スイリュウヒバの大きさに圧倒されたこと、西側の岩山に穴が丸く空いていて向こう側の景色が見え、要塞のように感じたことなどが記憶に残っています。

また最初に目についたのは地蔵堂横の※鯖大師のレリーフ石像でした。 鯖を貰ったお大師さまが途方にくれているようなお姿に、歩き疲れた自分が重なったのでしょうか。
※「鯖大師」:徳島線海部郡海南町の四国遍路別格4番札所八坂寺に伝わる塩サバ伝説「この付近の海岸は複雑に入り組み、八坂八浜と呼ばれる風景美を誇るが、路行く者には大変な難所だった。むかし四国を巡っていた弘法大師がここを歩いていると、鯖を積んだ馬を引く馬子が通りかかった。お大師さまがその鯖の一匹を乞うたところ、馬子は乞食坊主にやる鯖はないと、そっけなく通り過ぎようとした。そこでお大師さまが一首を詠んだ。

◎ 大坂や八坂坂中 鯖ひとつ 大師にくれで 馬の腹病む

すると坂道を登ろうとした馬は、たちまち腹痛をおこして立往生をしてしまった。馬子は驚いて、あの有名な弘法大師さまに違いないと詫びて鯖を献上すると、お大師さまがまた詠んだ。

◎ 大坂や八坂坂中 鯖ひとつ 大師にくれて 馬の腹止む

これで馬の腹痛が止んで、元通りに歩き出したという。お大師さまが鯖を海に投げ入れると、鯖は生き返って泳ぎ去ったという。」歌語り風土記より

 

観音堂と思い、お参りしようとしたお堂が地蔵堂で、鎌や包丁などが奉納されていて、それが安産のお礼参りと知ったのは後になってからでした。等身大のお地蔵さまが錫杖でなく、金色の鎌を持って座っていらしゃいます。この地蔵菩薩について※「寺籍財産明細帳」には、「安産地蔵菩薩と云い、木像で高さ3尺9寸3分(約119㎝)の半坐像です。右手に鎌、左手に宝珠を持ち、古来から安産地蔵と呼ばれ遠近から安産祈願に訪れる。」と記され、また寺院のパンフレット「泰産地蔵菩薩御由来記」には、「安産祈願をして、成就した人は、鎌か包丁を作るか絵に描くかして奉納をする習わしである。」と記されています。今も堂中には最近奉納された成満御札が掲げられ、いつの時代も変わることなく、子どもの成長を願うこころが脈々と受け継がれていることがわかります。
また、地蔵尊の右側に高さ2尺5寸(75.6㎝)石像の楊柳観世音菩薩が祀られています。33観音の一つで、手に柳の枝を持つお姿です。(石の磨耗で判別不可)薬王観自在と同じで、病気を治してくださる観音様とされます。


「掛川誌稿」には巡礼札所の所在する村はほとんど記載されていますが、3番札所については記されていません。むしろ長谷寺の項に「長谷寺」なのに観音が祀られていないのは「長谷寺(ちょうこくじ)」が奈良の長谷寺(はせでら)からではなく、地形から付けられた「長谷寺(ちょうこくじ)」だからです。とわざわざ記しています。しかし案内石に「三番はせ寺」とあることを見ますと、メジャーな呼び方に迎合しようとした意図は窺われますが定着はしなかったようです。

さて、新境内になり20年が過ぎ、この長谷付近も掛川市役所を中心に見違えるように変わりました。文化の頃(1804~)58軒の村は今1000世帯を超えています。寺院も美しく整備され、檀信徒に解放されています。

肝心の本尊様は本堂に祀られています十一面観音様です。「寺籍財産明細帳」によれば行基菩薩の作、高さ1尺3寸5分(約41㎝)、その前に高さ9寸4分(28.5㎝)の十一面観音様が前立佛(写真)として祀られていると報告されています。十一面観音像の基本形は、頭上に10面と本面の11面、右手に念珠か瓔珞を掛け施無畏の印、左手に瓶に蓮華を挿して持つ(異形多くあり)のですが、奈良長谷寺(西国8番)の観音は、右手に錫杖を持つ独特のお姿で、観音と地蔵を合わせた像とされています。この札所の観音様は※御前立佛と同じと記されていますので、奈良とは違い基本的な十一面観音様と思われます。
東陽院と長谷寺が合併(大正2年)して今の東陽山長谷寺があるため、観音様の横には東陽院の本尊様、阿弥陀三尊像が祀られています。また東側には曹洞宗独特の大権修利菩薩、西側に達磨大師が祀られています。

ここのように市街地の中にあり、寺院と公会堂と神社が一カ所に集まった新たな伽藍形式と捉えれば、信仰のみならず地域のコミニテイーの場としても大いに活用でき得る可能性があると思われます。


※「スイリュウヒバ」:糸ヒバ・水流ヒバ・水龍ヒバ・比翼ヒバ・黄金糸ヒバ・枝垂れヒバなどとも言われるヒノキ科の常緑樹

※「寺院財産明細帳」:明治18年~19年に曹洞宗務局の調査報告書

※「御前立佛」:本尊様は秘仏で開帳の時以外は拝見できない為、その代わりに同じお姿の仏像を厨子の前に祀る。

〇御詠歌

西国も 阿づまも同じ長谷寺 参る心は 後の世のため

山本石峰氏は「西國坂東秩父と霊場で別れても、観世音菩薩はお一人だぞと後生大事と誤解して、現在世を忘れては草臥(くた)びれの巡礼ぞ。」と記しています。

2017/6/14公開