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寺院からのお知らせ

気まぐれな巡礼案内⑲

投稿日:2018/04/10 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

今年 平成30年は「西国三十三所」開創1300年の記念の年です。各札所では記念事業が行われ、例年以上に賑わうことでしょう。「西国」と云われることでもわかるように東の江戸から見た呼び方です。江戸時代中期に庶民の楽しみの一つとして 巡礼は盛んになり、一生に一度の大旅行として現在の形に定着します。

江戸中期の巡礼案内書「西国順礼細見紀」に巡礼の十徳が書かれています。

1つには ※三悪道に迷わず。

2つには 臨終※正念なるべし。

3つには 巡礼する人の家には佛※影向あるべし。

4つには 六観音の※梵字 額に座るべし。

5つには 福地円満なるべし。

6つには 子孫繁盛すべし・

7つには 一生の間 総供養にあたるべし。

8つには ※補陀落世界に生ず。

9つには 必ず浄土に往生す。

10には 所願成就するなり。

巡礼者は上記の徳を信じ、ご利益を確信し・・・巡ったのでしょう。そこには修行の苦しさより慈悲のありがたさと楽しさが伝わってきます。

※三悪道:地獄・餓鬼・畜生の下層界のことで、悪行を重ねた人間が死後に赴くといわれる。

※正念:八正道の一つですが、ここでは雑念を去った安らかな心。

※影向:仏さまが迎えに来ること。

※梵字:古代インドで発祥した文字、サンスクリット語表記の文字ですが、種子(一字で佛を表す)を意味し、ここでは全ての観音様が現れ見守ってくださることを意味する。

※補陀落:南方の彼方にある観音菩薩が住まう浄土のこと。

 

「ご詠歌」に関連してもこんな話が伝わっています。

若狭では女性の旅行は禁止されていたが、西国順礼の女性は、ご詠歌を唄わせて巡礼の旅であることを証明させて許可されたと。(※稚狭考)

※稚狭考:板屋一助著 明和四年(1767) 10巻

西国の順礼歌の(ご詠歌)の成立は、一般民衆が巡礼に参加し始めた室町時代以降とされ、天文年間(1532~1554)の「西國順礼縁起」が巡礼歌の初見とされています。

「ご詠歌」は仏の教えを説く和歌で、声を出し唄うように唱えることによって ご利益を得ることができ、極楽往生や成仏ができるとする考えから生まれた奉納歌です。作者は詠み人知らずで、複数の人によって作られたと考えられています。遠江の「ご詠歌」も作者不詳の 詠み人知らずです。

遠江三十三所の「ご詠歌」について「掛川市史」では、西国札所のご詠歌を参考には したであろうが模倣はされてなく、遠江札所ご詠歌の宗教性、哲学性の優位を認め、江戸時代この地の人々によって語り伝えられ発展した非凡な口誦文化であり、注目さるべき民衆の文芸であり、民衆の文化であったのである。と称賛しています。

 

今回は霊場唯一の浄土宗寺院 21番 宝聚山(ほうしゅさん)相伝寺内光善寺にスポットを当ててみたいと思います。 
掛川市日坂宿内旅籠「川坂屋」の向かい側にあります。掛川市日坂928

県道415号線(日坂澤田線)を東進 「掛川道の駅」の信号を過ぎ 右手にパワースポットとして近年参拝者で賑わう「掛川八坂事任八幡宮前」の信号を左折すれば日坂宿です。奥野川(逆川)にかかる橋(ふるみやばし)を渡れば下木戸高札場(写真)が復元されており、ここは相伝寺境内の東南端です。
日坂宿は※品川宿から東海道25番目の宿場で 東に小夜の中山・牧之原をひかえ、問屋場(慶長6年1601設ける)、伝馬の継ぎ立てなど 休憩・宿泊・運輸・通信を担う宿場としての役割を担い、西口から東口までの約700メートルの町並みの形態は今もさほど変わらず保存され、ウォーキングや観光で訪れる人たちも多く、現代アートのイベントや「東海道日坂駕籠(かご)駅伝大会」なども近年は行われています。

※東海道五十三次:「華厳経」による善財童子が求法のため、53人の善知識を尋ね教えを請い、阿弥陀浄土を願う。という仏道修行の段階を示したことに喩えて五十三次としたともいわれる。

 

本尊様は聖観音様で毎年8月10日に開扉されて拝むことができます。
札所「光善寺」についての文書はほとんどなく、由緒は口碑だけです。昭和63年桐田榮氏著の「遠江三十三所案内」を引用しますと「光善寺 往古は※東山椎林という所にあって、天台宗に属し光善院と称したが、松葉城が落城(明応五年九月十日・1496)の後、松永氏が光善院にあった正観音を背負って宗那川(さんながわ)を下り、日坂宿の庄司に安置した。慶長二年(1597)十一月 日坂本陣の扇屋片岡清兵衛吉政(光善院心譽相伝一法居士)が開基となり、京より浄土僧を招く。この招きに応じて往譽という者、阿弥陀像を持ってきて本郷の傍らに相伝寺を創立した。ところが安政年間に日坂で大火があり、町並み及び寺院のほとんどが焼失したので、日坂宿の浄土宗の三か寺は合併し、現在位置に本堂を建立し、宝珠山相伝寺と称することとなった。この時光善院は相伝寺の境内堂となり、宿駅の遠江三十三所として街道を往来する旅人や順礼の尊崇の的となった。」と記しています。

浄土宗寺院は三か寺ではなく二ケ寺と思われますが、その一つ沓掛(くつかけ)の浄土院は嘉永五年(1852)の大火で類焼したといわれ、その二年後には安政の大地震が発生しています。ただ この時代には三十三所は確定しており、それ以前から巡礼も盛んにおこなわれていたことを考えると、札所「光善寺」は相伝寺境内に既に祀られていたと思われます。

※東山椎林:日坂から3キロ程奥の東山椎林と思われる。「椎林」バス停から300メートルほど上にバス停「落合」があり、このバス停の前に「老人憩の家」がある、この一帯が「光善寺」跡といわれています。(写真)ただこの辺りは「久保貝戸」であり「椎林」からは離れています。
「椎林」バス停のところには十一面観音を祀るお堂があります。堂内の棟札に明暦戊戌(1658)・延宝九年(1681)の年号札があり、享保三年(1728)堂宇再建の棟札には 村中の助力によって完成したことも記されています。「光善寺」と関連はあるのだろうか、推測ではありますが、観音が日坂に移された後 跡地付近に地元民が「観音様」を祀った。とは考えられないだろうか・・・。お堂の向きも何故か日坂の方を向いているように思えるのですが・・・?
 

相伝寺の境内に入ってまず目に入るのが、西国三十三観音石像です。御影石に彫られた三十三体が、三段に十一体づつ並び迎えてくれます。
境内を見渡しますと墓標も含め石像などの多さに興味がそそられます。その中 少し変わったお地蔵様が置かれていました。(写真)
六角柱に六体の地蔵が彫られた「千浦地蔵(ちうら)」と呼ばれ親しまれている石像です。下方に施主千浦と彫られています。天保十一年(1840)宿場図には 古宮橋の下7区画目に「千浦」の屋号が見られます。この家が奉納したお地蔵様のようです。元は現国1バイパスの下に如意輪観音像とともに祀られ、姿から歯痛止めの観音様として、セットでお参りも多く 縁日には甘酒の接待も行われたようです。

近在でも寺の入り口や墓地で六体の地蔵尊(六地蔵)を見かけます。どれも同じように見えますが、少しずつ異なります。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)のそれぞれの苦界から救う役割を担っています。名前も檀陀(だんだ)・宝珠(ほうじゅ)・宝印(ほういん)・持地(じじ)・除蓋障(じょがいしょう)・日光(にっこう)と名付けられた六体地蔵です。

観音も地蔵も同じ菩薩として親しまれ、どちらも苦悩から救ってくださることに変わりはありません。深い慈悲の心をもって さまざまな苦しみから救ってくださろうとしている菩薩様です。

「千浦地蔵」 ユニークな彫り方のお地蔵様ですが、高い技術を持った石工職人がいた証でもあります。

古宮には代々石工を営む「石工内田」と刻銘の「石由」があり、現在まで18代続いていますし近郷にも多く職人がいたことでしょう。

「日坂石」は石像・石碑・石塔・石段・墓石など多様に利用され、この地域の中近世石塔の90%以上を占めています。この「日坂石」は灰緑色の大小チャート礫を多く含み空隙の多い粗性の礫砂岩から、微砂主体のキメ細かい凝灰岩質砂岩まで様々な変異があり、風化や経年変化で含有鉄分が褐色に変化することもあるが、本来は淡灰褐色を呈する石材と考えられる。(桃崎祐輔:中世石造物の展開とその意義)また、「日坂石」は周智郡森町から掛川市日坂にかけて分布している第三紀中新世(2303万年前~258万年前)の倉真層群の天方砂岩層から産出している公算が高い(野澤1998)といわれています。

写真の日坂宿西側の本宮山北側石丁場に行ってみました。昭和40年代までは切り出され加工されていました。 
採石場(高さ30~40メートル・幅70メートルに及ぶ)は見上げると覆いかぶさるような断崖に圧倒され、恐怖すら覚えます。夥しい数の廃石材で小山ができ、切り出したのか崩落したのか巨大な岩が横たわっています。この岩山の石を材料として多年にわたり様々な石像などが加工制作されたわけです。

 

「相伝寺」を語るには「本陣」「扇屋」「片岡清兵衛」について若干触れておかなければなりません。

寺では開基(寺を作った人)を扇屋清兵衛としています。代々片岡清兵衛を名乗り本陣を勤めていますが、三代目片岡清兵衛は俗に「560俵さま」と呼ばれ、日坂宿を困窮から救った義民として徳を讃えられています。戒名も先記「光善院心譽相伝一法居士」とされ、ここから「相伝寺」名が付けられ、「光善寺」から光善院とつけられたのでしょう。

本陣片岡家は初め安間姓を称して今川氏に仕えていたが、今川氏滅亡の後は日坂に居を構えて片岡姓に改めた。天正十一年(1583)十二月 徳川家康に仕えて三州長久手の戦の功により、家康から扇を与えられ、のち日坂宿に本陣を営むに当たって屋号を扇屋と称した。(掛川市史) 先述の「千浦地蔵」の千浦家も片岡家の分家で現在は片岡姓を称している。

 

御詠歌  春は花 秋はもみじの つゆまでも 宿れる月も ひかりよき寺

石峰氏は「現世の人の命は 草葉に置ける露の如く 朝に夕にを知らぬ 無常だぞ 月の光をまんべんなく宿って ただ一つ見捨てない この月の光とて 大慈大悲の観音力を具体的に詠じたまでぞ」と解釈しています。(詠歌中和歌の本体)

車での「掛川道の駅」、歩いての「日坂宿」、パワースポット?「事任八幡」、山歩きの「粟が岳と倉真温泉」、世界農業遺産の「茶草場農法地」・・・と掛川市東部に多くの人の目が向けられています。点から線になりつつあるこの中でも マイナーな観音様もお忘れなく…。  
 

投稿日:2018/02/17 カテゴリー:事務局からのお知らせ

事務局からのお知らせです。

昨秋作成しました「パンフレット」は 即無くなりました。30年度に再版する予定ですので、しばらくお待ちください。

また「ご詠歌集 次第」は再版しましたので、事務局でお求めください。1部150円です。御朱印長とセットでお求めいただけると便利です。

気まぐれな巡礼案内⑱

投稿日:2018/01/16 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第28番 拈華山(ねんげさん) 正法寺 菊川市西方1329

鎮守は白山妙理権現です。
菊川市立堀之内小学校の第二応援歌に「緑も深き ねんげ山 若き血潮は高鳴りて 示すは今日のたたかいぞ ふるえ 堀小健男児」と拈華山(ねんげやま)が歌われています。

菊川市役所の西に常葉学園菊川校があります。この山を「高田ヶ原」といい、その西側の谷が西方堀田です。

掛川方面から来ますと、JRに沿って東進し「菊川市堀田地内」と書かれた歩道橋の信号を右折 JRガードをくぐり 道なりに200m真っ直ぐに進めば、28番札所の正法寺に突き当たります。 裏山が城跡の興味いっぱいの札所です。

① 正法寺について「掛川誌稿」には「除地三石、本堂七間、本尊正観音、開山※龍雲寺三世實傳和尚 元亀元年(1570)九月二十三日寂、此の寺

堀田正法と云う人の開基なり」と記されています。

「菊川町史」には「天正二年(1574)宗貞開創(實傳宗貞) (以前は真言宗に属していたといわれる)山号を拈    華山と称し、聖観音を本尊とする。この本尊は鎌倉仏師の祖※運慶の作と伝えられている。又遠江三十三所の霊      場として代々信者の帰敬があつかった。安政三年(1856)冬 失火により諸堂悉く焼失するも、本尊の霊像はそ    の厄を免れ、諸堂建立の企てをするも、明治の廃仏毀釈により、小堂宇を建立するにとどまった。五十年後、大      正十四年(1925)現在のお堂の竣工を見るに至った。」と記されています。

※潮海寺75坊の一つと云われる この寺院が、戦乱の騒擾期に曹洞宗に改宗・創建され今日に至っています。

寺院の東側の広い場所を小字名「寺田」と云い、ここを流れる川を「寺田川」、菊川駅方面への道を「宇東坂(う  とうざか)」と云いますから古くは現在地より東北位に寺院はあったのかもしれません、

御詠歌は現在地で詠まれていますので、近世には既にこの場所に寺院はあったようです。また正法寺を堀田城の      館 跡とする説もありますが、現在は否定されています。

堀田城跡発掘調査報告書によれば 「中世堀田城の東側、正法寺周辺に屋敷が広がり、集落を形成することが堀   田遺跡、堀田東遺跡の調査で明らかになっている。この調査結果では、12世紀後半から13世紀・14世紀から15世     紀の二時期に画期がみられ、16世紀になると集落は水田地帯へと変貌するようである。」と記されています。

境内に入りますと、本堂の前に梅の古木、その隣に釣り鐘堂があり、その下には、遠江巡礼記念の石碑が建てられ ています。  
本堂は間口7間、火災から50年後 阿弥陀浄土に手を合わすかのように東向きに建てられています。正面玄関の両脇には大きな火灯窓(かとうま

ど)があり、禅宗寺院の風格が醸し出されています。

本堂の中は広く、須弥壇の手前には狛犬が祀られ、正面の大きな厨子に本尊様は祀られています。

この寺院には「丸に渡辺星」と云われる寺紋が多く見られますが理由は不明のようです。

 
※洞谷山龍雲寺:菊川市西方3780-1にある。曹洞宗の古刹寺院で、室町中期 永正11年(1514)に開創。開山は法山宗益で、長松院二世教之一訓

和尚(掛川市大野)の法脈を継ぐ名僧。

※運慶:(1150頃~1223) 平安末期から鎌倉初期に活躍した仏師。力強い作風が特徴とされている。県内では「かんなみ佛の里」に願成就院の仏像が祀られている。平成29年9月より11月まで、東京上野の東京国立博物館で雲慶展が開催され、期間内に60万人を超える入場者数があり、好評を博した。

 

 

②裏山(城山)に登ってみましょう。

掛川誌稿には「正法寺の後山を城山と呼ぶ、太鼓の丸など言う所 存せり、堀田正法と云う人、此の所に居りしという」とあります。

寺を起点に墓地の西側から登っていきます。  五分ほどで東の※郭(くるわ)

に出、ここには秋葉社があり、「学習の鐘」が吊り下げられています。
この鐘は学校の始業時・終業時に用務員さんが鳴らし、知らせてくれた、懐かしい鐘です。

秋葉社の横には大きな火箸・十能(じゅうのう)・すりこ木が奉納されています。
火に携わる職業人にとって 火を自由に操り、技術を磨くことは火防と共に大切なことです。この願いを込めて神社に奉納されたものです。また すりこ木は「身を削り 人につくさん すりこぎの その味知れる 人ぞ尊し」などと詠われ、努力の大切さを諭しています。

秋葉社のところが、先記の「※太鼓の丸」の郭でしょうか。報告書によれば 長さ14m、幅12mの不整形な出曲輪(でくるわ)的存在で、南方部から谷間に入る敵の動きを監視したり、東方一帯の物見が可能である。とされ、少し立木が邪魔をしますが、西北から東南に眺望が開け、全体が俯瞰できます。

北側には東西に主要道路(川崎往還)が通り、西方川(松下川)が北から東に巡っていて、交通の要衝です。
秋葉社を西に進むと堀切があり、この尾根筋に沿って郭が連続しています。
最西の郭が本丸(本郭)と考えられています。先の報告書によれば、全長26m 幅9~13mの不整形な曲輪で、西側に向けて突出部があり、堀切

に面している。(幅4m 長さ9m余 深さ0.8m余)
静岡県の重要遺跡となっている堀田城跡の本格的な調査は過去4回(平成5年墓地整理に伴う第一次調査・平成7年西方川河川改修に伴う第二次調査・平成13年斎藤慎一氏指導による測量、踏査の第三次調査・平成16年西方川災害復旧工事に伴う第四次調査)行われ、かなり詳しくわかってきています。

「標高72m前後、西方川筋から比高差50m 東西200m 南北180mの山城で,第2次調査での出土品から15世紀後半には堀田城が機能していたこと、第2次3次調査により主郭の最重要部分に明確な※虎口(こぐち)が確認され、この主郭内虎口から北尾根に沿って下る道が正面の登城路であり、城と関連深い集落や館は この方面に在った(現田ヶ谷龍雲寺方面に「中」「御所ノ谷」などの小字あり)と推測される。いずれにせよ、堀田城は15世紀後半頃、西方を所領とする領主層によって築かれた、※西方の要害という機能が浮かび上がってくる。」と 当時江戸東京博物館学芸員の齋藤慎一氏は書しています。(堀田城跡発掘調査報告書 第4次調査)

また「地元に戦国期の土豪である※松下之綱(嘉兵衛)(1537~1598)の城とする伝承がある(今川氏滅亡後徳川家康に仕え天正2年(1574)第一次高天神城の攻防で戦う)が、根拠を示す資料はなく、松下氏は今川氏の被官人として頭陀寺城主であるため、可能性はない。」と否定していますが、私情ですがロマンとして短期間であっても小字松下や松下川の名から可能性は残しておきたいように思います。伏木が谷の伏木久内や宇都宮泰宗の子貞泰(遠江の守 堀田正法)についても今後の研究に委ねたいと思います。

また堀田城について第2次調査のまとめとして、「創建は室町中期頃の横地城の支城として機能したものであろうが、戦国期には、陣城として改修されたと考えられる。永禄十一年(1568)の掛川城攻めの陣城、または天正三年(1575)徳川軍による諏訪原城攻めの陣城等、この地域の軍事的緊張時に活用したことが考えられる。」としています。

最近、地域の有志によって「郷援隊」が創られ、城址に目を向けようとしています。現状の案内板を訂正し、新たな城跡地図や案内板が作成され、学術的にも貴重な史蹟が後世に保存されることを期待します。

  
※郭(くるわ):曲輪とも書く。城の内外を土塁・石垣・堀などで区画した区域。堀田城の場合 尾根筋を削り平坦部をつくる※連郭式山城。

※太鼓の丸:太鼓櫓を設け、物見台の役割と家臣の集合などの合図をした場所。

※連郭式山城:多数の郭で構成された中世の山城。堀田城は現在16の郭が確認されている。

※大手口(追手):表口のこと。搦手(からめて)は裏口のこと。

※虎口(こぐち):城郭における最も要所にある出入り口のこと。

※松下嘉兵衛:松下之綱(ゆきつな)のこと(1537~1598)木下藤吉郎(後の秀吉)の武芸・学問・兵法の師とされる。今川家家臣(頭陀寺城主)~徳川に仕仕える(武田と戦う)~豊臣秀吉家臣(久野城主16000石)

※西方:河村庄に由来する。正応二年(1289)には「遠江国河村庄東方」の文言が見えることから、「西方」もこの時期には呼称として存在していたと考えられる。

河村庄は寛治4年(1090)白河上皇が賀茂御祖社に寄進した荘園で、其の後 松尾社・新日吉社が荘園領主となる。その後建久2年(1191)開発領主とされる「三郎高秀」が北条時政に寄進している。河村庄の領有は複雑化し、「※下地中分」が行われ、地頭方の「東方」と領家方の「西方」が成立したと思われる。また西方には公文が置かれたため、「公文名」の地名が残る。(堀田城と河村庄西方)

※下地中分:鎌倉時代に入ると荘園領主と現地管理人との関係が複雑化してくる。荘園領主側は折半する形で領主と現地管理者(地頭)に分け荘園を維持しようとした、徐々に地頭方(武士団)が勢力を強めていく。本所・伊達方・鴨方などの地名が近在に残る。

 

③ 御詠歌 「やつだにや 梅の名木 のりのてら 潮にひびく 鐘のおとずれ」

山本石峰氏は「上の句は正法寺境内を極楽浄土と見て、観音様に※発菩提心を申し上げた。なんの答えも無く 消え失せて潮海寺がボーン、ボーン」と記しています。

氏は「潮に」を※潮海寺としています。「うしお」を「波のように押しては引く鐘の音」と解釈していましたので 再考です。氏は「河城郷土誌」で潮海寺について綿密に調査しています、その関連を考えたのだと思われます。

※潮海寺:広巌城山潮海寺 菊川氏潮海寺にある真言宗の古刹。

天平年間(729~749)の草創といわれ、河村庄内に3000石を領したといわれる。

平安末期成立の「後拾遺往生伝」の中に潮海寺の住僧(大聖・小聖)の話がある(1087~1093)。また  元亀天正(1570年代)の頃兵火で焼失した本堂の再建用材調達の許可が、徳川家康の家臣 大須賀五郎左衛門康高から出されている。

昭和51年の予備調査で 本堂(薬師堂)創建時 間口23m奥行き18mの威容で、遠州では磐田の国分寺に次ぐ大寺院。礎石、布目瓦が出土する。

現在のJR踏切の南から一直線に北に向かって道路が1㎞薬師堂に伸びています。この道に沿って古代から中世にかけて門前町が形成されていたことは発掘調査(潮海寺門前町遺跡 平成7年)によって証明されています。

この地に大寺院が建立された理由は謎に包まれています。「征夷大将軍坂上田村麻呂」伝説(金剛城山薬師如来略縁起)が有力なのでしょうか。勅願時でない大寺院の謎は未だ解き明かされていません。現在の薬師堂は明治11年再建されました。

※発菩提心:悟りを求めようと決心すること。

 

28番「正法寺」を訪れ、城跡にのぼり 戦国時代に思いを馳せ、学習の鐘に平和と平穏を誓う。

人間の愚かさと儚さを見続けてきた観音様は、憐れむように微笑みを浮かべ すべてを受け入れ「今を大切にして生きるんだよ」と説いてくださる。そんな思いにしてくれる札所です。

 

 

 

謹賀新年

投稿日:2018/01/13 カテゴリー:事務局からのお知らせ

謹んで新年のご祝辞を 申し上げます。

お健やかに初春をお迎えのことと存じます。

昨年は 何かとお世話になり 有難うございました。

本年もなにとぞ宜しくお願いいたします。

元旦