静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

気まぐれな巡礼案内⑫

投稿日:2017/07/18 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第4番 鶏足山(けいそくさん)正法寺内新福寺です。

まいるより つみはあらじの しんぷくじ おんてのはなを みるにつけても

 

文政年代の石標

山号の鶏足は地形から採ったとされる。曽我山・拈華山・鶏足山と変遷しています。

掛川インターから袋井のエコパに向かう県道403号磐田掛川線の高御所(こうごうしょ)インターで降り左折すれば境内です。ここは小笠山の北裾に当たります。小笠山を御神体と見たのでしょうか本堂は北向きです。平成10年代の終わりころまでは門前に樹齢300年以上の樅の大木が二本立ち、雷災した木にオオルリがさえずるのを毎年楽しみにしていました。境内に入り東側の禅堂に4番新福寺札所があります。旧来から正法寺に祀られていた西国三十三観音石像(昔は羅漢堂の回廊に並べ祀られていた)がお堂の入口の左右に置かれています。(写真)
「掛川誌稿」には観音堂として、「遠江札所四番の観音なり、堂守りを新福寺といい、曹洞宗豊田郡野辺村一雲斎末寺なり。」と記されています。正法寺々伝「曽我山略縁起」によれば「遠江三十三所第4番は十一面観音にして、元は村内新福寺の本尊なりしが、明治六年八月新福寺廃寺となりしに因り本来なれば本寺一雲斎へ合すべきものならんも同村の故を以てか、上司の仰せを蒙り、当山に遷し禅堂に安置す。」と記され、寺院の本末関係より地域制と巡礼番の方が優先されました。明治29年(1896)発行の案内では3番から4番へは13丁(約1.5キロ)とされています。この地域制を優先する正法寺預かりは、この寺院の開山の縁とも通じ合います。正法寺は開山を応永17年(1410)3月16日、見珠和尚(明円)としていますが、森町の大洞院同様開基を持ちません。地元の5~6名の粘り強い要請によって創建された歴史を持つからです。(権力者のスポンサーを持たなかったところにも道元禅師の意思は息づいていたわけです。)その後領家村の松浦惣太夫や徳川家康の寄進などにより境内地が整備された経緯はありますが。

掛川市史によれば旧掛川市内寺院の80%を占める曹洞宗寺院96ヶ寺の創建年次についての調査で1400~1499年8ヶ寺 1500~1549年22ヶ寺 1550~1599年26ヶ寺 1600~1649年23ヶ寺 1650~1699年11ヶ寺 1700以後5ヶ寺 不明1ヶ寺となっています。これは、1400年以前には曹洞宗寺院は皆無であり、戦国の混乱期に寺院が多く創られていること、国情同様江戸期には安定したことなどが特徴といえます。全国の曹洞宗の中で此の地域の寺院密度が最も高いことの理由が気になる所です。

さて、正法寺は旧掛川市内では最も早く、霊場圏内では森町飯田の崇信寺(1401)に次いで創建された寺院で(応永17年1410)、次に最福寺、長福寺(1455)、法泉寺と続きます。 正法寺の創建について「掛川市史」真言宗寺院の項中で、「この地にも相当数の真言宗や天台宗の寺院があったように思われるが、略 十四世紀末から十五世紀にかけて、次々に曹洞宗寺院に換骨脱胎されていく。」と説明され、曹洞宗は教線を拡張していく過程で、旧寺院、地元民の信仰と習俗をそのまま包摂、受容していった。正法寺も当時廃寺同然の真言系正眼院を曹洞宗として創建されました。

今回は正法寺の東側にある旧道と伝説的な樅の木について案内させていただきます。

◎「腹摺り(はらすり)」:正法寺より少し東方から沢に沿って入り、小笠山の中を通り南に向かう山道を「はらすり」と呼び、その昔この道を歩いたことを懐かしく感じられる方も多いと思います。

「掛川誌稿」に「腹摺切通」として、「高御所村を経て横須賀領の山に至る道なり。萬治元年(1658)北条出羽守氏重、没して嗣子無く、其の家断絶す、依って横須賀の城主本田越前の守利長、正月より二月まで掛川城を預かる、其の時横須賀の諸士更番往来のために開く、切通の間三十歩許、甚だ狭隘(きょうあい)なる故に腹摩と呼ぶ。」と記されています。馬がお腹を摺るほどの狭い道だということのようです。現在では利用する人もなく荒れていますが通行は可能です。(写真) 切り通しの狭いところで3尺(1m)位、25分で峠に出ます。ウォーキング道として整備、活用を期待したい。(ヤマヒルには注意)


写真は県道403号下のガードをくぐり、沢に沿って登り切り通しから峠を越え南に下ります。

◎通幻木の伝説:廃寺同様の処、禅僧通幻和尚この山に来て、大なる樅の木樹下にて座禅す 修禅中信徒の者数人挙て草創開山に請して此の山を永続せんと欲す 又修禅中僧壱人来て随身して禅道に入りしか これと同行して通幻和尚何れか雲遊し去れり 然りと雖も草創開山と請し 今に於いて通幻和尚袈裟掛けの樅弐本あり 根となりうらとなり弐本につき合て横枝あり 是を通幻木と相唱来れり。(以下略)と「寺籍財産明細帳」は伝えています。

今も上記の木(通幻木といわれる袈裟掛けの樅2本)は奇跡的に現存します。(写真)平成29年7月16日35度の暑さの中対面してきました。


写真のように、根元から二本に聳えています。右側の木は目通り3.8m 左側の木は目通り4.3m。地表から2メートルのところで枝のようにつながっています。これが通幻木袈裟掛けの枝です。樹高30m位でしょうか、樹勢は良好です。今から約640年前は既に大なる樅であったわけですから、随分古く貴重な樅です。

※通幻(1322~1391)・・・総持寺五世通幻寂霊禅師(つうげんじゃくれいぜんじ)のことで、道元(承陽大師)を高祖とする曹洞宗は4代目太祖瑩山(けいざん)(常済大師)で教団としての組織が確立します。瑩山の弟子峨山韶碩(がざんしょうせき)の下に集まる25哲といわれる僧があり、その中にまた、5哲あり、通幻寂霊はその一人で、彼の流れを通幻派と呼び曹洞宗14000ヶ寺700万檀信徒の半数以上8900ヶ寺(永澤寺談)を占めるといわれる最大勢力の派祖。

※樅(モミ)・・・日本特産の常緑針葉樹で本州、四国、九州に自生する。高知県四万十市の新玉様のモミ(目通り7.88m)を最大に5m以上を30傑としている(1985年「日本の巨樹」)が通幻木のような珍しい樹形は稀とおもわれます。

掛川市3霊山を小笠山・大尾山・粟ヶ嶽としますと、観音霊場は32番・33番・1番・4番・5番・6番が小笠山の東から西側の裾に設けられています。小笠山は約100万年前大井川の流れで形成された若い山です。静岡県100山でも最も低い山(最高峰264m)ですが、その分大雨の度に姿を変える険しい山でもあります。今回は正法寺とその周辺を取り上げてみました。「通幻袈裟掛けのモミ」は巡礼者のみならず、曹洞宗寺院の方々にも是非訪れていただきたい霊域です。「腹摺り」も小笠山散策道として整備し大勢のウォーカーが利用できるようになればと思います。明治以前の札所新福寺の所在位置確認は時間の都合でできませんでした。

〇御詠歌

参るより 罪はあらじの新福寺 御手の花を 見るにつけても

山本石峰氏は「順礼して、罪業消え 新たに敬恩悲の※三田を得ることは、御手に持てる妙法の蓮華の中に輝いているから、見落とし玉ふな。」とご詠歌の本体を註解しています。

※三田(さんでん):「敬」「恩」「悲」の徳が生じることを、田に喩えて言う。僧侶が着する袈裟は本来、余り布を継ぎ合わせて法衣としたことからきていますが、「福田衣(ふくでんね)」といいます。

2017・7/18公開

 

気まぐれな巡礼案内⑪

投稿日:2017/06/14 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

3番 長谷 東陽山 長谷寺(ちょうこくじ)です。

掛川市役所の真西200mの位置。 バスなら南まわり長谷寺停留所に札所はあります。北隣に貴船神社、東北隣が長谷区公会堂です。  平成8年都市計画で本堂が南側に移転しました。寺の象徴木※スイリュウヒバも移動し、根がつくか火がつくかと話題になりました。目通り3.7m、地表から3mで枝分かれし、中は空洞、樹齢300年位でしょうか、現在は写真のように手当ても空しく瀕死の状態です。
かつて訪れた時、スイリュウヒバの大きさに圧倒されたこと、西側の岩山に穴が丸く空いていて向こう側の景色が見え、要塞のように感じたことなどが記憶に残っています。

また最初に目についたのは地蔵堂横の※鯖大師のレリーフ石像でした。 鯖を貰ったお大師さまが途方にくれているようなお姿に、歩き疲れた自分が重なったのでしょうか。
※「鯖大師」:徳島線海部郡海南町の四国遍路別格4番札所八坂寺に伝わる塩サバ伝説「この付近の海岸は複雑に入り組み、八坂八浜と呼ばれる風景美を誇るが、路行く者には大変な難所だった。むかし四国を巡っていた弘法大師がここを歩いていると、鯖を積んだ馬を引く馬子が通りかかった。お大師さまがその鯖の一匹を乞うたところ、馬子は乞食坊主にやる鯖はないと、そっけなく通り過ぎようとした。そこでお大師さまが一首を詠んだ。

◎ 大坂や八坂坂中 鯖ひとつ 大師にくれで 馬の腹病む

すると坂道を登ろうとした馬は、たちまち腹痛をおこして立往生をしてしまった。馬子は驚いて、あの有名な弘法大師さまに違いないと詫びて鯖を献上すると、お大師さまがまた詠んだ。

◎ 大坂や八坂坂中 鯖ひとつ 大師にくれて 馬の腹止む

これで馬の腹痛が止んで、元通りに歩き出したという。お大師さまが鯖を海に投げ入れると、鯖は生き返って泳ぎ去ったという。」歌語り風土記より

 

観音堂と思い、お参りしようとしたお堂が地蔵堂で、鎌や包丁などが奉納されていて、それが安産のお礼参りと知ったのは後になってからでした。等身大のお地蔵さまが錫杖でなく、金色の鎌を持って座っていらしゃいます。この地蔵菩薩について※「寺籍財産明細帳」には、「安産地蔵菩薩と云い、木像で高さ3尺9寸3分(約119㎝)の半坐像です。右手に鎌、左手に宝珠を持ち、古来から安産地蔵と呼ばれ遠近から安産祈願に訪れる。」と記され、また寺院のパンフレット「泰産地蔵菩薩御由来記」には、「安産祈願をして、成就した人は、鎌か包丁を作るか絵に描くかして奉納をする習わしである。」と記されています。今も堂中には最近奉納された成満御札が掲げられ、いつの時代も変わることなく、子どもの成長を願うこころが脈々と受け継がれていることがわかります。
また、地蔵尊の右側に高さ2尺5寸(75.6㎝)石像の楊柳観世音菩薩が祀られています。33観音の一つで、手に柳の枝を持つお姿です。(石の磨耗で判別不可)薬王観自在と同じで、病気を治してくださる観音様とされます。


「掛川誌稿」には巡礼札所の所在する村はほとんど記載されていますが、3番札所については記されていません。むしろ長谷寺の項に「長谷寺」なのに観音が祀られていないのは「長谷寺(ちょうこくじ)」が奈良の長谷寺(はせでら)からではなく、地形から付けられた「長谷寺(ちょうこくじ)」だからです。とわざわざ記しています。しかし案内石に「三番はせ寺」とあることを見ますと、メジャーな呼び方に迎合しようとした意図は窺われますが定着はしなかったようです。

さて、新境内になり20年が過ぎ、この長谷付近も掛川市役所を中心に見違えるように変わりました。文化の頃(1804~)58軒の村は今1000世帯を超えています。寺院も美しく整備され、檀信徒に解放されています。

肝心の本尊様は本堂に祀られています十一面観音様です。「寺籍財産明細帳」によれば行基菩薩の作、高さ1尺3寸5分(約41㎝)、その前に高さ9寸4分(28.5㎝)の十一面観音様が前立佛(写真)として祀られていると報告されています。十一面観音像の基本形は、頭上に10面と本面の11面、右手に念珠か瓔珞を掛け施無畏の印、左手に瓶に蓮華を挿して持つ(異形多くあり)のですが、奈良長谷寺(西国8番)の観音は、右手に錫杖を持つ独特のお姿で、観音と地蔵を合わせた像とされています。この札所の観音様は※御前立佛と同じと記されていますので、奈良とは違い基本的な十一面観音様と思われます。
東陽院と長谷寺が合併(大正2年)して今の東陽山長谷寺があるため、観音様の横には東陽院の本尊様、阿弥陀三尊像が祀られています。また東側には曹洞宗独特の大権修利菩薩、西側に達磨大師が祀られています。

ここのように市街地の中にあり、寺院と公会堂と神社が一カ所に集まった新たな伽藍形式と捉えれば、信仰のみならず地域のコミニテイーの場としても大いに活用でき得る可能性があると思われます。


※「スイリュウヒバ」:糸ヒバ・水流ヒバ・水龍ヒバ・比翼ヒバ・黄金糸ヒバ・枝垂れヒバなどとも言われるヒノキ科の常緑樹

※「寺院財産明細帳」:明治18年~19年に曹洞宗務局の調査報告書

※「御前立佛」:本尊様は秘仏で開帳の時以外は拝見できない為、その代わりに同じお姿の仏像を厨子の前に祀る。

〇御詠歌

西国も 阿づまも同じ長谷寺 参る心は 後の世のため

山本石峰氏は「西國坂東秩父と霊場で別れても、観世音菩薩はお一人だぞと後生大事と誤解して、現在世を忘れては草臥(くた)びれの巡礼ぞ。」と記しています。

2017/6/14公開

 

 

気まぐれな巡礼案内⑩

投稿日:2017/05/30 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

1番 一澤山 結縁寺(けちえんじ)です

掛川誌稿(1805~数年間かけて藩が編纂した史記)に結縁寺村について書かれています。「結縁寺村は上張村(あげはりむら)の西南にあり、昔は一の沢村ともよばれていました。近くには久保沢、本沢、板沢等の沢の付くところが幾つかあります。寺は慶長9年(1604)の検地帳にも結縁寺領としてありますので、今は小さくなりましたが、昔は大きな寺だったようです。甲斐武田の兵火で(1570~1593)焼かれ何も残っていません。今の寺は承応2年(1653)に亡くなった心庵芳傳首座が中興として開山しました。村内に観音堂があり、1.5石の寺領を寺の僧の嘆願によって受けることが出来ました。」と記されています。また「観音堂はこの村の渓流の北に舊堂(もとど)と呼ばれているところにありました。村自体は慶長の時(1604)は3軒のみ(長谷川弥六・長谷川孫左衛門・村松五郎助)でしたが200年の間に子孫のみで7倍(23戸)に戸数が増えています。(現代語訳)」とも記されています。(現在もほぼ変わりない戸数です)

1番札所は東名掛川インターを出て西進、二つ目の交差点「上張矢崎」のすぐ先右手に白山神社があり、その下が札所です。行くには「上張矢崎」の信号を北進50メートルを西に折れ(案内標識あり)小川に沿って行けば着きます。
結縁寺を1番として始まる札所霊場は4番までは近距離で小笠山の北裾を回り、袋井に進みます。原川の善光寺を取り囲むように進み、時計方向に廻り、上内田を打ち止めとしているのをみますと、掛川市史で記されているように、この近在者によって33所は始められたか、何らかの関りが深いと推測して良いと思われます。
1番札所観音の案内はHP霊場案内を閲覧していただき、ここでは2点に絞って案内させていただきます。

其の1:ご詠歌「あかいの水に浮かぶ月かげ」の「あかい」です。観音堂の南側にコンクリートで四角の井戸桁上に竹編みの蓋がされ、北側に「閼伽井」と書かれた(写真)井戸があります。深さは堆積物で浅くなり1メートル位で水はありません。直径は50㎝位の小さな石積み井戸です。(写真)
 
「あか」は閼伽に書きArgh(価値ある)から作られた語で、捧げる水を意味し仏教では仏様に献じる水を閼伽とか閼伽水と呼びます。「あかい」はそのための専用井戸を指します。修法や仏前に供えるための専用井戸で、特に寅の刻(午前4時頃)には水に花が咲くといわれ、この刻の閼伽汲み作法もあります。ご詠歌に「あかいの水に浮かぶ月かげ」と詠まれています、この地に観音堂が移転建立されましたのが元禄9年(1696)です、ご詠歌はこの地で詠まれていますので、ご詠歌が作られましたのはそれ以降となります。

「閼伽井」で有名なものは、西国札所三井寺の「閼伽井屋」で天智・天武・持統の三帝の産湯に使われた霊泉と云われていますし、奈良の秋篠寺、京の東寺、奈良東大寺の二月堂は有名な「閼伽井」とされています。近在で「閼伽井」と呼ばれる井戸はあまり見聞きしませんので、言葉の意味も参考にして見学してくださるとありがたいです。一人がやっと入れるくらいの井戸です。どうやって掘ったのか?元の深さは?

其の2:各札所には長い歳月の中で当初は当たり前だったことが、今ではわからなくなってしまっていることがあります。観音堂に掲げられている扁額(写真)は60年前の昭和34年お開帳記念に奉納されました。
奉納揮毫者の姓と名の一字ずつをとって「山彦書」としたそうです。この年代の「山彦」と云えばホトトギス派俳人「三星山彦(1901~1988)」(高野山大火を詠んだ句「畏れつつ 火迫る佛 抱きにけり」「火の中に 秘佛現れしも しばし程」「晩学の 汚れて寒き 法衣かな」)とのつながりを連想し、時間の流れの中で間違いを生みやすいもののひとつです。さて「一字一石塔」(写真)もミステリーの一つです。

今までの案内本にも記載されて来ませんでした。この「供養塔」について推理も含め考えてみます。西南を向いた観音堂の南側に自然石で「阿(梵字)一字一石妙典 超宗 花押」と刻された供養塔が置かれています。年号は刻されていません。 一字一石とは、大乗妙典の経文を一字ずつ小石に書き写したものを地中に穴を掘って埋め、その上に建てた供養塔のことを言います。妙典は「法華経」のことを指し、その字数は約七万字になり、扁平な小石に一字ずつ書いていきますので、石集めから大変な作業となります。中世から江戸期にかけて経筒に変わるものとして行われたようですが、全国的にも多く残されているわけではありません。江戸時代の享保の大飢饉(1729)で亡くなられた多くの人々の供養に建てた「一字一石供養塔」は有名です(福岡県鋤先遺跡)。労作を考えますと供養主の並々ならぬ思いを感ぜずにはいられません。供養主「超宗」が誰なのか、何のために建てたのか。

先ず「超宗」とは誰なのか、地元をよく知る古老にお聞きしましても、昔から置かれているのは知っている程度で、ヒントとなる伝承は今のところ残っていません。調べていく中で行き当たったのが、小田原の長興山紹太寺第二世住職「超宗如格禅師」(1638~1717)です。紹太寺は小田原藩主稲葉家の菩提寺で、稲葉正則を開基、鉄牛和尚を開山とする関東屈指の黄檗宗寺院で、三代将軍徳川家光の乳母春日局に関わる寺院です。「超宗」がこの供養塔の施主としますと元禄9年(1696)観音堂完成の時期と彼の宗教活動の時期とは符合はします。ただこの地域との関わり等を示す文書は今のところ発見されていません。

他方、供養塔の字や石、置かれている場所などからあまり溯らないのではないかとも考えられますし、本来の供養塔と異なり、この石に法華経を「阿」(梵字)一字に集約して供養した可能性も否定できませんので、別の角度から検討します。 不遜ですが「超宗」ではなく「宗超」ではないかというヒントをいただき、後世に「宗超」を忘れない為のメッセージに誰かが建てたとしますと符合することが多く見えてきます。昭和62年出版の鈴木偉三郎著「遠江三十三所観世音霊場縁起」に、開創の根源として「今川氏の末期氏親の未亡人寿桂尼が今川を救い復興せしめんと発願し、掛川城主朝比奈備中の守に諮り、朝比奈氏は高天神城主小笠原氏、堤の城主松井氏とも諮り朝比奈氏の菩提寺 西南郷久保の萬年山乗安寺開山 宗超越翁禅師指導の下に、小笠原氏の信仰する天然寺開山 秀誉上人の協力を受け・・・略・・今川家復興祈願の為発願設定せしものである・・。」と記しています。乗安寺開山宗超とはどのような人物なのでしょうか。また天然寺開山秀誉上人とはどのような人物で、観音霊場とどのように関わってくるのでしょうか。

◎「宗超」:曹洞宗下総国葛飾郡国府台總寧寺(そうねいじ)(千葉県市川市国府台安国山總寧寺)通幻派第8世で、帰依する朝比奈氏に招聘され遠江国掛川の乗安寺開山となる。開基は掛川城主朝比奈氏。「總寧寺」は永徳3年(1383)近江守護の佐々木氏頼が通幻寂霊を招聘し現在の滋賀県米原市寺倉に建立した。享禄3年(1530)戦乱により總寧寺焼失。八世越翁宗超は遠江国掛川に退避して常安寺(乗安寺)として再建。なおこの常安寺は永禄年間(1558~1570)に戦乱により焼失。住持らは常陸に落延び、その後天正3年(1575)常(乗)安寺は現在の埼玉県幸手に移転、寺名を旧称の總寧寺に戻す。天和3年(1617)徳川秀忠により千葉県野田市に移転。寛文3年(1663)徳川家綱により現在地千葉県市川市国府台に移転し、曹洞宗関東僧録司となる。

一方掛川の「乗安寺」は西南郷村小史によりますと、「千葉県葛飾郡国府台村の總寧寺第八世越翁和尚(宗超)は掛川城主の朝比奈備中の守の帰依を受けて、永正10年(1513)3月寺を建築し乗安寺としました。場所は南西郷です。ここに越翁和尚(宗超)に来ていただき開祖とし、寺がいつまでも栄えますようにと山号を萬年山として70石朝比奈氏の寄付を受け開基となりました。その後天正年間(1573~1592)武田信玄兵火により全て焼失、文禄2年(1593)・・・略(以下意訳)・・寺院を後世に残すため5名の寄付(4.81293石)を受け、その後慶安元年(1648)掛川城主北条出羽守から6石となる。以下略

◎「秀誉」:掛川誌稿、結縁寺村、白山権現の項に「白山の社は寺の後山にあります。仁藤村天然寺の開山専蓮社秀誉上人は明応3年(1494)天然寺を創建しました。上人はこの村の長谷川氏の出です。以下略

◎「寿桂尼」:~永禄11年(1568)死去。戦国大名今川氏親の正室で公家中御門宣胤(のぶたね)の娘。今川氏輝・義元の母。「駿府の尼御台」と呼ばれ今川三代を政治力でも支えた戦国女性。義元の死後衰退していく今川氏を危惧し、孫氏真(1538~1615)の守護と今川氏の再興を願った。

◎「朝比奈氏」:駿河の守護今川義忠は遠江への勢力拡大の足掛かりとして、文明年間(1469~1487)重臣朝比奈泰凞(やすひろ)を任じて掛川城(懸川城)を天王山に築く。さらに氏親の代に泰凞・泰能(やすよし)親子により明応から文亀(1492~1504)にかけて龍頭山(現在地)に築城。その子泰朝(やすとも)と三代世襲による城主となり、今川家臣の重鎮として仕える。

今川氏親と氏輝と義元・朝比奈泰煕と泰能と泰朝・名僧宗超・地元(結縁寺村)出身の秀誉たちが時代的に重なった頃に遠江三十三所霊場は創られた可能性があるのではないでしょうか。

寿桂尼が今川の安泰と復興の願いによって創られた「遠江三十三観音霊場」だとしますと、230年間駿河を統治してきた今川時代の終焉、その後徳川の時代になり、霊場も大きく姿を変えていかざるを得なかったでしょう。敢えて名前を逆さまに刻することによって徳川の時代にこのような形で願い、思いを残そうと考えたのかもしれません・・・。隣の上張村にはキリシタン信者が礼拝する秘像をカモフラージュする耶蘇灯篭も残されています。

結縁寺は1番札所のため、何故ここが1番なのか、何故札所が創られたのかを「一字一石妙典」の供養塔から推論してみました。またこの推論から設定年代もある程度絞ってみました。・・・確定されるものでは勿論ありませんし、「超宗」の可能性を第一に引き続き模索すべきと考えています。

近世に入り回国遊行の修験者等が里修験として村々の空き寺院やお堂に土着します(諸宗寺院法度)、経済的な基盤を持たない宗教者がその糧としての必要性も含めた中で再編され、現在の順番に整ってきたのでしょう。西国巡礼が第1回目のピークを迎える元禄期、この地域も連動して巡礼者を迎える体制が整えられたと思われます。

矛盾点も多いですし、そもそも二字しかない「超宗」を「宗超」と名前を逆に書くだろうかとの疑問はぬぐえません・・・。しかめっ面の「超宗」さんに、気まぐれ案内に無責任が加わったと云われそうです。☆こんなことが有ったら愉快じゃん☆くらいに軽く考えていただけると助かります。新たな事柄が見つかりましたら報告します。

〇御詠歌

父母の 恵みも深き 結縁寺 あか井の水に 浮かぶ月影

山本石峰氏は「遠江三十三ケ所御詠歌 詠歌中和歌ノ本体」で「大慈大悲の因縁に結ばれて、巡礼に出かけた。閼伽水の水に月影が浮かんだ、有難いが水中の月は捉えがたい、然らば月の本体は何処に有るか、

とくと胸に手を当てて見玉へ。」と記しています。

※参考文献「遠江三十三観世音霊場縁起」昭和62年鈴木偉三郎著・「西南郷村小史」大正12年・「掛川誌稿」・「掛川城の挑戦」平成6年・「掛川私考」昭和58年市村昭子著・掛川市の神社・寺院めぐり」平成18年関七郎著・「超宗禅師興山外集」黄檗文庫その他

2017・6/3公開

 

 

 

気まぐれな巡礼案内⑨

投稿日:2017/04/28 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

八番札所 月見山 観正寺です。

何度訪れても場所を覚えられなく、今でも不安は拭い去られていませんが不思議と辿り着きます。北進して周南中学の手前を58号線から左の信州街道(塩の道)に入るのですが、つい直進してしまいウロウロすることとなります。観音堂の入口もわかりにくいため、赤い布に「観音」と標した旗を軒に下げてくださったこともありました。

初めて訪れた時、観音様は公会堂に祀られていましたが、次回は西側に新しくお堂が建てられていました。(昭和59年建設)公的な下山梨上公会堂と宗教施設は場所を分けなければならないと話されていました。観正寺は現公会堂の所にありました。文明2年(1470)開山とされていますので、約550年の長い歳月守られてきている寺院です。HPには2017年開扉予定となっていますが、平成24年(2012)に開扉が行われていますので(保存会にご指摘いただきました)次回は2045年の予定です。写真のようにお堂はこじんまりとした建物です。公会堂の所にあった時は大きなお堂だったと思われます。

 太田川は改修される前はどのあたりを流れていたのでしょうか、ご詠歌の「たまり水」は「たまり渕」との説もあり堂前石碑は「渕」と刻されています。古老からは「札所のすぐ西側に太田川の川渕があり、裏側に一丈以上(目通り10尺3.03m)の大松が7~8年前まで(昭和40年代)現存していた。」と伺いました。

        
「太田川の流れ」・・・昔の太田川の流れは、中流部の山梨付近より下流は現在の流れより遥か東の山裾を流れていたようである。その後鎌倉時代の正治・建仁の頃(1199~1203)本流が西に大きく変わった。また上山梨には明治22年頃(1889)まで船頭を生業とする者もいた。現在の太田川と異なり、河床は低く、水量は豊富で船の往来に適していた。(山名の郷より)と記されています。ただ文化14年(1817)仲井用水絵図・嘉永6年(1853)の仲井用水関係絵図を見ますと、上山梨の東側を通る用水(大井用水)と仲井用水路は十五社近くで合流し南下して鶴松村へ向かっています。十五社の東南に当たる下山梨村から平宇村辺りには大きな水路は見当たらない。また山梨の東山裾を流れる川が下山梨道の西南で二股に分かれていますが、それほど大きな用水路とも思われません。札所が川の近くにあったのか、川が札所の近くを流れていたのか 謎の「渕」と「舟寄せの松」です。現在お堂から太田川までは1キロ程離れています。

本尊様は「六観音」とされています。観音様33身は「法華経」普門品に説かれ、それに合わせて楊柳(ようりゅう)・竜頭(りゅうず)・持経(じきょう)・円光(えんこう)・遊戯(ゆげ)・白衣(びゃくえ)・蓮臥(れんが)・滝見(たきみ)・施薬(せやく)・魚籃(ぎょらん)・徳王(とくおう)・水月(すいげつ)・一葉(いちよう)・青頸(しょうきょう)・威徳(いとく)・延命(えんみょう)・衆宝(しゅほう)・岩戸(いわど)・能静(のうじょう)・阿耨(あのく)・阿麼提(あまだい)・葉衣(ようえ)・瑠璃(るり)・多羅尊(たらそん)・蛤蜊(こうり)・六時(りくじ)・普悲(ふひ)・馬郎婦(めろうふ)・合掌(がっしょう)・一如(いちにょ)・不二(ふに)・持蓮(じれん)・灑水(しゃすい)の33観音を云いますが、必ずしも根拠が明らかではありません。滝見観音や岩戸観音は日本で始まったようです。

33観音霊場はこの数をご縁にしているわけですが、あらゆる災厄に応じて、あらゆる人を救う現世利益佛としての信仰が広がってきますと、新たな観音が創り出され、最終的に「六観音」あるいは「七観音」になり、それぞれが独立した観音様として信仰対象となります。最も基本的な観音様を聖(正)観音とし、以外を変化観音と呼び、聖(しょう)・千手(千手千眼)・十一面・馬頭・如意輪・准胝(じゅんてい)・或いは不空羂索(ふくうけんじゃく)が「六観音」。また六道能化とし、地獄⇒聖 餓鬼⇒千手 畜生⇒馬頭 修羅⇒十一面 人⇒准胝 天⇒如意輪 の各界に配置し、33所巡礼すれば全ての人が救済されるとします。

さて、ここの札所の観音様を考えてみます。「六観音」を本尊様とされているということは、まずこの札所だけで全ての人を救うという大誓願を持っていることとなります。通常すべてを本尊様とすることは考えられません。中心になっている観音様があるはずです。この札所の本尊様は「守り本尊」とされています「十一面観音様」で、他に6体の観音様と庚申佛(青面金剛童子)が祀られています。すでに「山名史研」114号「観正寺の仏像」で述べられています。

 6観音の写真

西国33ヶ所の写し霊場として遠江33所ができ、またその写しとして一山に西国33ヶ所が設けられたり、ここのように一寺院に7体が祀られ、地元の人々の為に便宜が図られます。足腰が不自由になってくる高齢者にはありがたい配慮ですし、サロンや憩いの場としての役割も担ってきます。


写真は入口に置かれている石です。誰もが、何だろうと気になり眺めるようです。岩の中から生み出された子生まれ石?水の回転で作られた珍石? 丸い石(石神)の信仰は全国的に見られますが、特に甲斐・信濃から遠州にかけて顕著です。大井川から天竜川の間には丸い石を「地の神様」ご神体として屋敷神等に祀る風習があり、礎石の象徴として乾(西北の角)に祀られています。 石神はシャクジンと読みますが、言葉の変化により、社宮地(シャグチ)・しゃもじ等ともいわれます。・・・全てが丸く収まりますようにと・・・

月見里と書いて「やまなし」と読む美的感性は日本人ならではと感心させられます。この月見里を「やまなし」と読む初見は天正17年(1590)とされています(袋井市国本浅間神社鰐口の銘文の最後に:月見里大工助九郎をもって月見里と書いてヤマナシと読ませた最初の表記…原秀三郎)。また各地にある山梨もここが最初とされています。(同)  平成11年頃町村合併促進により全国3232市町村が1514減で1718市町村になりました(平成29年)。新たな市町村名を考える機会に日本人の持つ情緒と繊細さ感性は活かされたのでしょうか、総背番号制の今の時代に遊び心は〃だめ〃か・・・。

「木も見て森も見る」という諺があるかどうかは知りませんが、小さなお堂の良さは凝縮された一つ一つのものに目が向けられる利点があります。一面に植えられ咲き誇る花もみごとですが、可憐に咲く一輪の野草に心ひかれる・・・そんな札所です。

◎参考文献:「山名の郷」「袋井市史」「山名史研」「秘仏」ほか

〇御詠歌

幾たびも 参る心の溜り水 浮かぶ弘誓の 船よせの松

山本石峰氏は「※捲(まく)まず倦(あぐ・う)まず巡礼すれば、功徳心は溜り溜まって池となり、観音様は弘誓の船を漕ぎだして此処(ここ)よ此処よと松の根元の待ってござる。」と記しています。

※捲まず倦まず:「どんな困難があっても、一枚一枚剥ぐように努力して」というような意味でしょうか。

2017・4/28公開

気まぐれな巡礼案内⑧´

投稿日:2017/04/26 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

2番 常楽寺の続きです。

堂内に祀られています薬師如来立像(写真)の右手の印相のことが気になっています。如来形で左手に薬壺を持っていますので薬師如来に違いはないと思いますが、一般に知られています印相は施妙印(掌を外側に向け、五指を伸ばし薬指を少し前に出し、その指の先で薬を塗る形)ですが、ここの仏像は右手の無明指(薬指)を大指(親指)で捻じています。通常これは「説法印」と云われる印です。「薬師琉璃光七佛本願功徳経」に①善名称吉祥王如来 ②寳月智厳光音自在王如来 ➂金色寳光妙行成就如来 ④無憂最勝吉祥如来 ⑤法海雷音如来 ⑥法海勝慧遊戯神通如来 ⑦薬師琉璃光如来 の七佛の本願を説いています。⑦の薬師琉璃光如来の6分身と見るか、別尊と見るかは両説ある所ですが、この七佛薬師の中に三体「説法印」の如来がいらしゃいます。同じ印として釈迦如来は法身説法を示す「智吉祥印」ですし、阿弥陀如来は下品下生をあらわす印になります。 なぜこのお姿でこのお堂に祀られているのか、何か理由があると思うのですが。七佛薬師は主に天台系で修されることが伝えられています、としますと両部の大日如来・薬師等から古くは密教系寺院だったかもしれません。解かる方がいらっしゃいましたらお教えいただきたいです。
また、初めて見たのですが 石仏の庚申佛です(写真) 普段見かける庚申佛(青面金剛童子)とは異なり、僧形の庚申佛です。手には三股叉・法輪・弓・矢・剣・ショケラ?を持ち、三猿が彫られていますし、持ち物は青面金剛同様で姿のみ僧形です。庚申信仰の初期には阿弥陀如来や地蔵菩薩を庚申佛として祀られた例は聞いたことがありますが、この像も何か特別の意味を持っているのでしょうか。どこの札所を訪れても謎と宿題を頂いたようです・・・。お参りの節には是非参拝してください。

 
〇御詠歌

是や此の 常に楽しむ 寺なれば 稔りの船に 棹やさすらん

山本石峰氏は「般若の船に棹さして、涅槃の岸に到らば、転迷開悟の道開けて、常楽我浄は受け合いだ。この船に乗り遅れると地獄の谷だぞ。」と解説しています。

2017・4/26公開