投稿日:2018/01/16 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺
第28番 拈華山(ねんげさん) 正法寺 菊川市西方1329
鎮守は白山妙理権現です。
菊川市立堀之内小学校の第二応援歌に「緑も深き ねんげ山 若き血潮は高鳴りて 示すは今日のたたかいぞ ふるえ 堀小健男児」と拈華山(ねんげやま)が歌われています。
菊川市役所の西に常葉学園菊川校があります。この山を「高田ヶ原」といい、その西側の谷が西方堀田です。
掛川方面から来ますと、JRに沿って東進し「菊川市堀田地内」と書かれた歩道橋の信号を右折 JRガードをくぐり 道なりに200m真っ直ぐに進めば、28番札所の正法寺に突き当たります。 裏山が城跡の興味いっぱいの札所です。
① 正法寺について「掛川誌稿」には「除地三石、本堂七間、本尊正観音、開山※龍雲寺三世實傳和尚 元亀元年(1570)九月二十三日寂、此の寺
堀田正法と云う人の開基なり」と記されています。
「菊川町史」には「天正二年(1574)宗貞開創(實傳宗貞) (以前は真言宗に属していたといわれる)山号を拈 華山と称し、聖観音を本尊とする。この本尊は鎌倉仏師の祖※運慶の作と伝えられている。又遠江三十三所の霊 場として代々信者の帰敬があつかった。安政三年(1856)冬 失火により諸堂悉く焼失するも、本尊の霊像はそ の厄を免れ、諸堂建立の企てをするも、明治の廃仏毀釈により、小堂宇を建立するにとどまった。五十年後、大 正十四年(1925)現在のお堂の竣工を見るに至った。」と記されています。
※潮海寺75坊の一つと云われる この寺院が、戦乱の騒擾期に曹洞宗に改宗・創建され今日に至っています。
寺院の東側の広い場所を小字名「寺田」と云い、ここを流れる川を「寺田川」、菊川駅方面への道を「宇東坂(う とうざか)」と云いますから古くは現在地より東北位に寺院はあったのかもしれません、
御詠歌は現在地で詠まれていますので、近世には既にこの場所に寺院はあったようです。また正法寺を堀田城の 館 跡とする説もありますが、現在は否定されています。
堀田城跡発掘調査報告書によれば 「中世堀田城の東側、正法寺周辺に屋敷が広がり、集落を形成することが堀 田遺跡、堀田東遺跡の調査で明らかになっている。この調査結果では、12世紀後半から13世紀・14世紀から15世 紀の二時期に画期がみられ、16世紀になると集落は水田地帯へと変貌するようである。」と記されています。
境内に入りますと、本堂の前に梅の古木、その隣に釣り鐘堂があり、その下には、遠江巡礼記念の石碑が建てられ ています。
本堂は間口7間、火災から50年後 阿弥陀浄土に手を合わすかのように東向きに建てられています。正面玄関の両脇には大きな火灯窓(かとうま
ど)があり、禅宗寺院の風格が醸し出されています。
本堂の中は広く、須弥壇の手前には狛犬が祀られ、正面の大きな厨子に本尊様は祀られています。
この寺院には「丸に渡辺星」と云われる寺紋が多く見られますが理由は不明のようです。
※洞谷山龍雲寺:菊川市西方3780-1にある。曹洞宗の古刹寺院で、室町中期 永正11年(1514)に開創。開山は法山宗益で、長松院二世教之一訓
和尚(掛川市大野)の法脈を継ぐ名僧。
※運慶:(1150頃~1223) 平安末期から鎌倉初期に活躍した仏師。力強い作風が特徴とされている。県内では「かんなみ佛の里」に願成就院の仏像が祀られている。平成29年9月より11月まで、東京上野の東京国立博物館で雲慶展が開催され、期間内に60万人を超える入場者数があり、好評を博した。
②裏山(城山)に登ってみましょう。
掛川誌稿には「正法寺の後山を城山と呼ぶ、太鼓の丸など言う所 存せり、堀田正法と云う人、此の所に居りしという」とあります。
寺を起点に墓地の西側から登っていきます。 五分ほどで東の※郭(くるわ)
に出、ここには秋葉社があり、「学習の鐘」が吊り下げられています。
この鐘は学校の始業時・終業時に用務員さんが鳴らし、知らせてくれた、懐かしい鐘です。
秋葉社の横には大きな火箸・十能(じゅうのう)・すりこ木が奉納されています。
火に携わる職業人にとって 火を自由に操り、技術を磨くことは火防と共に大切なことです。この願いを込めて神社に奉納されたものです。また すりこ木は「身を削り 人につくさん すりこぎの その味知れる 人ぞ尊し」などと詠われ、努力の大切さを諭しています。
秋葉社のところが、先記の「※太鼓の丸」の郭でしょうか。報告書によれば 長さ14m、幅12mの不整形な出曲輪(でくるわ)的存在で、南方部から谷間に入る敵の動きを監視したり、東方一帯の物見が可能である。とされ、少し立木が邪魔をしますが、西北から東南に眺望が開け、全体が俯瞰できます。
北側には東西に主要道路(川崎往還)が通り、西方川(松下川)が北から東に巡っていて、交通の要衝です。
秋葉社を西に進むと堀切があり、この尾根筋に沿って郭が連続しています。
最西の郭が本丸(本郭)と考えられています。先の報告書によれば、全長26m 幅9~13mの不整形な曲輪で、西側に向けて突出部があり、堀切
に面している。(幅4m 長さ9m余 深さ0.8m余)
静岡県の重要遺跡となっている堀田城跡の本格的な調査は過去4回(平成5年墓地整理に伴う第一次調査・平成7年西方川河川改修に伴う第二次調査・平成13年斎藤慎一氏指導による測量、踏査の第三次調査・平成16年西方川災害復旧工事に伴う第四次調査)行われ、かなり詳しくわかってきています。
「標高72m前後、西方川筋から比高差50m 東西200m 南北180mの山城で,第2次調査での出土品から15世紀後半には堀田城が機能していたこと、第2次3次調査により主郭の最重要部分に明確な※虎口(こぐち)が確認され、この主郭内虎口から北尾根に沿って下る道が正面の登城路であり、城と関連深い集落や館は この方面に在った(現田ヶ谷龍雲寺方面に「中」「御所ノ谷」などの小字あり)と推測される。いずれにせよ、堀田城は15世紀後半頃、西方を所領とする領主層によって築かれた、※西方の要害という機能が浮かび上がってくる。」と 当時江戸東京博物館学芸員の齋藤慎一氏は書しています。(堀田城跡発掘調査報告書 第4次調査)
また「地元に戦国期の土豪である※松下之綱(嘉兵衛)(1537~1598)の城とする伝承がある(今川氏滅亡後徳川家康に仕え天正2年(1574)第一次高天神城の攻防で戦う)が、根拠を示す資料はなく、松下氏は今川氏の被官人として頭陀寺城主であるため、可能性はない。」と否定していますが、私情ですがロマンとして短期間であっても小字松下や松下川の名から可能性は残しておきたいように思います。伏木が谷の伏木久内や宇都宮泰宗の子貞泰(遠江の守 堀田正法)についても今後の研究に委ねたいと思います。
また堀田城について第2次調査のまとめとして、「創建は室町中期頃の横地城の支城として機能したものであろうが、戦国期には、陣城として改修されたと考えられる。永禄十一年(1568)の掛川城攻めの陣城、または天正三年(1575)徳川軍による諏訪原城攻めの陣城等、この地域の軍事的緊張時に活用したことが考えられる。」としています。
最近、地域の有志によって「郷援隊」が創られ、城址に目を向けようとしています。現状の案内板を訂正し、新たな城跡地図や案内板が作成され、学術的にも貴重な史蹟が後世に保存されることを期待します。
※郭(くるわ):曲輪とも書く。城の内外を土塁・石垣・堀などで区画した区域。堀田城の場合 尾根筋を削り平坦部をつくる※連郭式山城。
※太鼓の丸:太鼓櫓を設け、物見台の役割と家臣の集合などの合図をした場所。
※連郭式山城:多数の郭で構成された中世の山城。堀田城は現在16の郭が確認されている。
※大手口(追手):表口のこと。搦手(からめて)は裏口のこと。
※虎口(こぐち):城郭における最も要所にある出入り口のこと。
※松下嘉兵衛:松下之綱(ゆきつな)のこと(1537~1598)木下藤吉郎(後の秀吉)の武芸・学問・兵法の師とされる。今川家家臣(頭陀寺城主)~徳川に仕仕える(武田と戦う)~豊臣秀吉家臣(久野城主16000石)
※西方:河村庄に由来する。正応二年(1289)には「遠江国河村庄東方」の文言が見えることから、「西方」もこの時期には呼称として存在していたと考えられる。
河村庄は寛治4年(1090)白河上皇が賀茂御祖社に寄進した荘園で、其の後 松尾社・新日吉社が荘園領主となる。その後建久2年(1191)開発領主とされる「三郎高秀」が北条時政に寄進している。河村庄の領有は複雑化し、「※下地中分」が行われ、地頭方の「東方」と領家方の「西方」が成立したと思われる。また西方には公文が置かれたため、「公文名」の地名が残る。(堀田城と河村庄西方)
※下地中分:鎌倉時代に入ると荘園領主と現地管理人との関係が複雑化してくる。荘園領主側は折半する形で領主と現地管理者(地頭)に分け荘園を維持しようとした、徐々に地頭方(武士団)が勢力を強めていく。本所・伊達方・鴨方などの地名が近在に残る。
③ 御詠歌 「やつだにや 梅の名木 のりのてら 潮にひびく 鐘のおとずれ」
山本石峰氏は「上の句は正法寺境内を極楽浄土と見て、観音様に※発菩提心を申し上げた。なんの答えも無く 消え失せて潮海寺がボーン、ボーン」と記しています。
氏は「潮に」を※潮海寺としています。「うしお」を「波のように押しては引く鐘の音」と解釈していましたので 再考です。氏は「河城郷土誌」で潮海寺について綿密に調査しています、その関連を考えたのだと思われます。
※潮海寺:広巌城山潮海寺 菊川氏潮海寺にある真言宗の古刹。
天平年間(729~749)の草創といわれ、河村庄内に3000石を領したといわれる。
平安末期成立の「後拾遺往生伝」の中に潮海寺の住僧(大聖・小聖)の話がある(1087~1093)。また 元亀天正(1570年代)の頃兵火で焼失した本堂の再建用材調達の許可が、徳川家康の家臣 大須賀五郎左衛門康高から出されている。
昭和51年の予備調査で 本堂(薬師堂)創建時 間口23m奥行き18mの威容で、遠州では磐田の国分寺に次ぐ大寺院。礎石、布目瓦が出土する。
現在のJR踏切の南から一直線に北に向かって道路が1㎞薬師堂に伸びています。この道に沿って古代から中世にかけて門前町が形成されていたことは発掘調査(潮海寺門前町遺跡 平成7年)によって証明されています。
この地に大寺院が建立された理由は謎に包まれています。「征夷大将軍坂上田村麻呂」伝説(金剛城山薬師如来略縁起)が有力なのでしょうか。勅願時でない大寺院の謎は未だ解き明かされていません。現在の薬師堂は明治11年再建されました。
※発菩提心:悟りを求めようと決心すること。
28番「正法寺」を訪れ、城跡にのぼり 戦国時代に思いを馳せ、学習の鐘に平和と平穏を誓う。
人間の愚かさと儚さを見続けてきた観音様は、憐れむように微笑みを浮かべ すべてを受け入れ「今を大切にして生きるんだよ」と説いてくださる。そんな思いにしてくれる札所です。