投稿日:2018/06/06 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺
第23番 無間山 観音寺(粟ケ嶽) 現在は龍谷山 常現寺内観音堂 本尊 千手観音菩薩(写真)
平成6年に現在の掛川市日坂506-1(常現寺)に観音堂建設・本尊修復の後移転した。
「番外霊場にしたい」と25年前まで鎮座していた粟ケ嶽にスポットを当ててみます。
近隣でもあまりに名高いこの山は、遠江霊場に欠くことのできない霊山です。仏教色が薄れたとはいえ巡礼者は登っていただきたい山です。
山ひとつとりましても、自然・環境・歴史・文化等多岐にわたり、すべてが関連性を持ちながら存在しています。興味は尽きませんが全てを網羅する能力はありませんので、わずかな部分のみの案内となることを了承ください。〃百聞は一見に如かず〃読者の足で登山確認されることをお奨めします。
近年粟ケ嶽はハイキング・サイクリング・カーツーリング等 気軽に登れる低山として家族連れやツーリング仲間を中心に賑わいを見せています。※山頂の休憩所建て替えも計画され、将来は粟ケ嶽と北側に下った倉真 松葉の滝・倉真温泉との観光ルートも計画されているようです。
レジャーなどで脚光をあびているこの山に次々と登ってくる人たちを観察していますと、社殿前では神妙に手を合わせる姿を多く見かけます。日本人の心の底流に流れているものは何だろうという疑問も沸いてきます。
少し前(随分前?)まで日本人は多くの神々に守られて生活をしていました。家を例にとっても、玄関には門神様、トイレには烏枢沙摩明王(トイレの神様)、風呂場には水神様、台所には三宝荒神様(火の神様)、居間には恵比寿様、大黒柱には大黒様、寝室には歳神様、床の間には尊(たか)神様、仏間にはご先祖様、外に出ると井戸には龍神様、西北には地の神様といった具合で神様に囲まれた中で、守られていることすら忘れるほどに日常生活を営んできました。唯一「おかげさまで」の言葉に神様たちも報われながら・・・。
人・神一体の心は今も日本人の中にあり続け、当たり前のこととして手を合わすことにつながっているのかもしれません。
では日本の古代人は山についてはどのように見てきたのでしょうか。※町田宗鳳という人は、古代人にとって山は息巻く巨大な動物ではなかっただろうか。として『山は、肉体を持つ動物である証拠に、あらゆる動物たちを産み落とす。熊や鹿、猪に猿、それにウサギやリスなど、さまざまな動物がところ狭しと駆け巡っていただろう。人間がこれら動物の肉を口にするとき、それは山という巨大な動物の分身の肉にほかならなかった。古代人の眼には、山は決して無機質な物体ではなく、切れば真っ赤な血が噴き出るほど、肉感を備えていたのではないか。それは、人間と山が同じ「いのち」で繋がる生き物だという感覚でもある。ケダモノである山は、その全身を覆っている毛皮の色を季節によって変えた。春から夏にかけて緑は日増しに濃くなり、まるで赤子の細くて柔らかい髪が、大人の太くて硬い髪に変わって行くようだ。秋には燃え立つように赤や黄色に変わってしまう。やがて木の葉は落ち尽くし、山全体が灰色のベールをかぶったようになってしまう。ある朝突然山の巨体が真っ白な毛皮で覆い尽くされてしまう。古代人は、山は生きていると感じていたに違いない。また色彩だけでなく、春風のそよぐ声、走り抜ける木枯らし、怒り狂う吹雪。雨の中の遠くかすんだ山も雨上がりには手が届くほど近づく山。ときには、火を噴いたり、真っ赤な血を流したり、大きな体を震わせ、土砂崩れや雪崩を起こす。山だけではなく大地そのものが生き物のような存在と感じ、人間は巨大な生き物の背中にしがみつき生きている小さな動物にすぎない。』 と書しています。ここに古代人は神の観念を持つに至り、現代人もDNAを引き継いでいるようにおもわれます。
話が脱線気味ですが、小笠山・大尾山・粟ケ嶽を掛川三山にしようとする意図が見え隠れします。
小笠山と粟ケ嶽は※「静岡百山」に入っています。ただし、小笠山は袋井市分のようです。 三山に共通していることは、ともに山岳信仰の霊山であることです。
小笠山三仭坊(みひろぼう)、大尾山王子坊(おうじぼう)、粟ケ嶽※一寸坊(いっすんぼう)と呼ばれる天狗の山です。天狗は権現と称され、※本地は観音です。粟ケ嶽と大尾山は千手観音、小笠山は聖観音です。
粟ケ嶽は独立した山(男山)で標高527.3m(532mの説も)「静岡百山」「静岡の自然100選」(昭和61年)「自然観察コース100選」(昭和60年)などに選ばれています。
むかし山伏山と呼ばれた時代もありました。「山」は「産」と同じであり、あらゆるものを生み出すエネルギッシュな場所ととらえ、山そのものを神仏とみる※山伏の修行する聖地でもあります。「粟ケ嶽は観音様が住んでいらっしゃる山」(杉本良談)といえます。また一説には「あわ」はAbalokitecvarah(アボロキティーシュバーラ)=「観世音」から名付けられたともいわれています。まさしく観音様のいらっしゃる山です。大尾山も大悲山(おびさん)で観音の山です。
今から40年ほど前、この札所を歩いて廻った時の拙文を掲載してみます。
「この道をどれだけ多くの人が、どんな思いを込めて歩いてきただろうか。手に持つ錫杖で身体を支えノロノロと足取りは重く、肩で息をして、相変わらず雨脚の衰えない空を 疎ましく見上げる。今日で五日目 ここ三日間ずっと雨具を羽織ったままである。地下足袋、脚絆は足を締め付け、背負った荷物は肩に食い込む、今日泊まる当てもない。一日歩いてもだれ一人会う人もいない。独り言を口先で押し殺し、そのうちそれも途絶えた。網代傘にしみ込んだ雫が頬を伝い胸もとに流れ込む。錫杖を伝う雨は手甲を濡らし脇から入ってくる。今何時ころだろうか 夕闇はもう迫っているはずである。二十三番粟ケ嶽はまだ眼上に聳えている。山上の茶屋に泊まれないことは先刻二十二番で聞いている。が、ひょっとすればというかすかな望みが、夕闇迫る心細さと疲労を打ち消してくれる。
茶畑をぬって通る車道を横目に、畑中をまっすぐ登る。やがて背丈以上もあるススキが覆いかぶさる山道をやっとの思いで通り抜けた。あと一息と思いながら前を見ると、豪雨で大木が倒れ 山道が遮断されている。立ち木を命綱に登る。狭い木の間に網代傘は大きすぎる。足が白衣を踏みつけ、雨具が木に絡みながらも、ようやくお堂に辿り着いた。お堂の前で掌を震わせながら、とぎれとぎれに観音経を唱える。お堂を打つ雨音はますます強くなっていった。」と当時の粟ケ嶽参りを記していました。
最近では登山道も整備されてきましたので、雨の日とはいえ こんな苦労はなくなりました。
現在は山頂に休憩所や※テレビ中継アンテナが林立し、また阿波々神社社殿が建ち(昭和62年)車も山頂まで登れ、上から参拝するような形です。 麓から歩いて登ってみるとわかる事ですが、山頂に神社が作られる前は※南平(みなみだいら)の上段に観音寺と観音堂、その上段に一寸坊権現と八王子権現。そこから上は※磐座の神聖な領域で、人が踏み入ることのできない禁足地(聖域)であったはずです。岩場を聖地、あるいは山伏の修行の道場として護るために、さまざまな伝説を作り上げたのかもしれません。ただ残念なことに早い時期に密教から顕教(一般寺院)の支配するところとなったため、山岳修行色が薄れてしまったといえます。岩場に残る 胎内くぐりの行場や平等岩・覗き場などの痕跡から、山伏の修行場であったことが一目してわかります。
◎粟ケ嶽の記述(江戸時代~明治・昭和)
『東海道名所図会』
1797年(寛政9年)の「東海道名所図会」には淡嶽(あわがたけ)として「遠江佐野郡西山村
の山上也 日坂の駅中より東北へ入る事凡二里許也 又此山より金谷坂へ出る道一里半也 此辺の高嶺にして海道より北に中(あたっ)て絶頂に杉の村立蒼々と見えたり
東路は ころもて寒し 白雲の あわゝがたけの 秋の初風 賀茂真淵 」
また阿波波神社として「淡ケ嶽の高峯にあり 延喜式内祭神未考當國佐野郡四座の一社なり」
また無間山観音寺として『阿波波社の下段にあり禅宗曹洞當國久野村可睡斎の末寺也「本尊千手観音」長(みたけ)三尺許作しれず 阿波波の神の本地堂とす 脇段に西國三十三所の観音の像を安ず 當寺は寺産なくして堂舎庫裏等大に零落し境内荒廃の体也 今時住僧もなくして漸く麓の西山村より村老代わるがわる来って留守居の堂守とす 毎年二月初午の日は法会とて近郷より参詣すとなん
諺に云 むかし此山に無間の鐘といふあり 此鐘を撞ば現世にては無量の財宝を得ると云へども未来は無間地獄に堕落すとなり 故に此山を無間山といふ 今此鐘を尋るに曾てなし
土人云むかし此堂下へ埋ともいふ 又鶴見因幡が無間の鐘の由来とて 佐夜の中山の茶店にて板行し売るなり 又近年佐夜の中山霊場記といふ談義本を出す 倶に妄説にしてとるに足らず傀儡楽戸舞妓扮戯(あやつりしばいかぶききょうげん)に取組むより世に名高し 按るに無間山とは此峯へ登る坂路ほそく嶮くして一たび踏損ずれば無間地獄へ落ちるに似たり 若踏はづして谷へ落る時は此寺の鐘を撞て人を呼集めて助る也 故に無間の鐘といふか
「半鐘」観音堂の縁側に釣 銘を鐫(せん)す 遠州濱松庄宇布見長寶寺 勧進檀那阿闍梨法攸太祖舜忌 永和二年丙辰二月十五日
堂守云 此鐘はあるとし修験の山伏荷(かつぎ)来りて云やう 当国長寶寺に於て此鐘を賭け(かけもの)として囲碁す 其時我等勝負に勝しよりここに持来り 幸(さいわい)此寺に釣鐘あらざるゆえ寄付すとぞ これらも詳(つまびらか)ならず 又一説に無間の鐘は明応の頃 住僧諸人に罪を与ふるに似たりとて古井の底へ投落す 今も其古井へ榊を逆(さかしま)に投入るれば撞たるも同じ事にて 財宝を得るといひつたへり これらも妄談筆するに及ばねども延喜式神名帳に出たる神社をあらぬ號をつけて神號の廃する事を歎きてここに雑説を記し是非を糺すのみ』 と記されています。
その6年後に刊行された※「遠江古蹟図絵」には
『遠江古蹟図絵』
1803年(享和三年)の「遠江古蹟図絵」には、粟ケ嶽一寸坊の表題で「粟嶽は日坂宿の北に見ゆる山なり。俗呼びて山伏山と云ひ、入字の形に樹木生い茂る。『
延喜式』に淡之神社と云ふこれなり。淡山と云うおひ、歌にもよめり。淡嶽とも云ふなり。無間の鐘と云ふ事甚だしき妄説なり。その後井に埋めしと云ふ井有り。彼是取るに足らず。山の中腹に大岩二つ有り。俗呼びて地獄穴と云ふ。守護神を一寸坊大権現と云ひ、近来正一位と成らせたまふ宮有り。一町山へ登る右手に有り。木像、社の内にあり。天狗の形、翼有り。長一寸有るゆゑに名とす。白狐に乗り不動のごとく剣を持ち、毎年初午に群集す。本堂の左の上に、人参自然と生ず。※竹節人参なり。湿草なり。この山を無間山と云ふ事、間なき山と云ふ意。外に高山続きてなければ、この山ばかり高く遠くまでよく見ゆる山なれば無間山となづく由、観音寺和尚の物語なり。 この寺に往古より小さき釣鐘有り。今残りて存在す。その銘に云く、「※宇佐美村長寶寺阿闍梨雲候代永和二年二月日」(1376)と有り。由来、和尚もしらず。往古乱世の時分、彼の寺より盗み来り、陣鐘に用ひたる様にも覚ゆ。今年(1803)亥九月、一月中開帳有りて群集す。度々焼災有りしゆゑ、縁起もなし。和尚に尋ねたれば、この山云ひ伝えし開闢は天平元年の由申されし、いかさま古き事と見ゆ。往古は俗呼んで「あおうが嶽」と云ひし由縁起に見ゆる。また淡之神社と古書にあれば、祭神何神を祟るや。今は絶えて宮なし。ただ一寸坊大権現の小宮有るのみ。この宮も当年開帳に付き修復出来、正一位と成らせられし由、淡之神社にては決して無き事分明なり。往古は粟生嶽と書く。近来粟嶽と書き、今以て草の中に粟交り生ずと云ふ。毎年初午参詣多し。」と書かれています。
ほぼ同じ時期(文化年1804~1818)に編纂された「掛川誌稿」には
『掛川誌稿』
「掛川誌稿」の「西山村」には表題 粟嶽として「粟嶽一名無間山、本郡の東にありてあ、山勢聳秀にして、白光山、大悲山に対峙せり。東は東山村より大代村の山に跨り、北は倉真村より丹間山に続き、西は倉真村に渉りて綿亘数里なるべし、西山村は南麓にありて小村なれど此山を以て西山村に隷せるは(文禄三年、金鼓左夜郡西山村粟嶽山観音寺と刻せり)昔阿波神社領なりしゆえなるべし、此山樹石少なく、唯茅茨のみ多し、山の南面の処に平坡あり、平坡以上絶頂に至までは、老杉樹憂茂、雑樹交加、嵐気畫蔽て、暑月も炎熱を知らず、山の高さ是を以て知るべし、一寸坊の祠、観音堂、観音寺、皆其中にあり、絶頂に至り始めて巨石あり、其形立つが如く、伏が如く、崩るる如く、恰も人造に出るものに似たり、遠くより此山を望めば、山頂の林木鬢髪を梳れる如く、数十里の外といへども、山形の見ゆるほどは一瞥して知るべし、故に遠州洋海を舟行するもの、此山を以て標識とす、粟嶽と云も粟神社ありて後の名ならん、又無間山とも云は、浮屠氏の名つくるものなり、此山蛇骨を出す」
式内阿波神社、一寸坊権現 として「式内阿波神社は、今其所を詳にせすといへども粟岳の一寸坊の祠を以て舊跡なりといふを姑く是なりとす、一寸坊権現は、初め奥野村長松院の僧にて、永正の頃天狗と化し、一訓和尚(長松院二世 永正十年六月十一日死す)と無の字を論せしこと、長松院記に見えたれば、一寸坊のあるは三百年外のことと見ゆ、式内社の衰替せしこと諸国も皆古きことと見ゆれば、此山阿波神社も、永正より迥(はる)かに古く廃せしものにや、此祠は事任社の如く、古人の紀行の類にもみえず、且観音寺も武田氏の兵火にかかりしとて、一の古物をも伝へねば、考べき便なし、又五明村に粟宮あり、俚俗の口碑には古祠なるよし伝れど、舊地は川となりて今の小祠は其名のみ遺れり、又倉真村の宮の嶋八幡も、天正十年の棟札に、佐夜郡倉真郷粟大菩薩とあり、是皆郡中の事なれば、粟嶽にありし粟の神のを延し祀りしものなるべし、さて、印本延喜式には、阿波々山などいふ名もみゆれど恐くは訛なるべし、神名帳に城東郡比奈多神社、榛原郡飯津佐和乃神社の類、マレ(稀)に神字の上に乃の寺あり、阿波々も粟の神社と書きたるにて、今本重点点に造るは、即乃字の誤写なるか、神名帳を見るに、諸国に同じ神名多し、伊豆國加茂郡阿波神社、伊賀國山田郡阿波神社、大和國添上郡率川阿波神社、常陸國那賀郡阿波山上神社、伊勢國度会郡粟皇子神社、和泉國和泉郡粟神社~略(多くの例を記す)~
是等のことによれば、諸国の式社に阿波社、安房社、粟社など云しは、皆齋氏の徒の立てたりし祖神の祠にして 太玉命、成天富命、日鷲命などを祀りしものとみゆれば、いよいよ阿波々は乃字の誤写たること知るべし、必しも淡々しきなど云語にはあらじ」
粟嶽山観音寺として「曹洞日坂駅常現寺末 又観音堂あり、権現祠より低処にして、観音寺の上にあり、此観世音に昔阿波神社の本地佛ととするものならん、木像長二尺許ありて、彩色もなく、古作とみえたり、文禄三年の金鼓に、遠州佐野郡西山村粟嶽山観音寺と刻せり、此寺舊小庵なりしが、寛政十年より和尚地となれり、昔武田氏の兵火に罹りて、古物悉く失せしと云ふ、其時甲兵の棄去しとて、高三尺四寸許の古鐘あり、銘曰、遠州濱松庄宇布見長寶寺、永仁二年丙辰三月十五日とあり、是鐘小さくして手頃なりしかば、甲兵とも提け廻りしものなるべし」と かなり詳しく書かれています。
その80年後に出された※「寺籍財産明細帳」には
『寺籍財産明細帳』
「寺籍財産明細帳」(明治19年3月)によれば、「法地 観音寺 開創 当寺は千有余年の古跡にして、由緒甚だ詳ならず。僅かに伝来の一古書あり、古く之に因って考ふるに、抑々吾粟ケ嶽(一名無間山と云う)は弘仁(810~824)の頃、弘法大師(774~835)の開闢なり。伝云う大師入唐の時(804)適々彼地の一霊嶽に登り、厳然たる十一面千手尊を拝す。薩埵微妙の相にして、放光人を射る。大師其異相を観て感嘆のあまり、親ら十一面千手尊一躰の像を彫刻して帰朝し后ち此山に来て一宇を構え尊像を安置す。称して一刀三礼の霊像と伝承して其名世間に高く、往古参詣信仰するもの多し。然れども爾来其盛衰幾変なりしか知るに由なし。大永(1521~1527)の末 本寺第二世盛庵和尚の嗣子宗順なる者、此古跡霊域にして、崇岳絶景遠近に比なきの法域をして、空〼するに〼〼〼〼て禅地となす。然れども原来無禄無檀にして、啻々(ただただ)十方信徒に依って小伽藍を永続し小経営をなすのみ云々。」また同明細帳に、鎮守一寸坊堂として 本尊一寸坊大士 建物、竪三間 横二間 ただし茅屋「右鎮守一寸坊大士は由緒甚だ詳ならず。伝え云うこと、本郡大野村長松院二代一訓和尚の弟子某なりと、曾て無の字によって道話す、某苦心参玄するに師の曲調高く、一も不可得。某茲に於て吾意の及ばざるを憾とし、当嶽に深入し苦辛修宝すること、茲に長年竟に人 其死を知るなし。是れ之を称して、当寺鎮守即一寸坊大士(此号何頃より称せしか未考)と称す。当時より維新前まで此山中所祀の郷社阿波々神社と号する神あり、世人誤て之と同一物躰と想い、猶秋葉神社と三尺坊大士との如し。維新の際神佛分明なり、之を当山の鎮守と請す。例年舊暦二月初午の日を以て大祭とす。参人今群をなす。古来より雑説多く、而も信とし探る可きなし。古く伝聞中稍々(しょうしょう)考証すべきものを登記す。」とあり、一寸坊の出自を説明し、現今の阿波々神社と紛らわしい様子も述べていますが、寺院としての鎮守は一寸坊であるとしています。奥の院と言われる「八王子権現」については触れられていません。
『掛川市誌』
昭和43年発行の※「掛川市誌」には、無間山観音寺跡として『観音寺は粟ケ岳山上にあったが今は廃寺である。 人皇五十二代嵯峨天皇弘仁二年(811)に僧空海諸国巡錫の途次、粟ケ岳に登り小堂を営築し仏像を安置した。之が観音寺の創始である。其の後承和年間(834~848)僧長然が上山して草創開闢座主となった。 宗派は開創以来凡そ四百年真言宗であったと思われるが、宝治年間(1247~1249)岐阜今須妙応寺大徹禅師の法子、聖山恵徹和尚上山して曹洞宗に改宗し、無間山観音寺と改称した。 後村上天皇の正平年間(1346~1370南朝)、日野中納言梳資基卿の弟良政が勤王家藤原俊基卿並に其の娘月小夜姫の菩提のために観音大士一体を当山へ寄納した。これが本尊御腹籠の観音大士である。良政が開基となった。尚当山には奥の院八王子権現がある。これは旧西山村の松浦治郎兵衛の宅地内に安置してある地神を畏み、粟ケ嶽の観音寺へ祟納したもので、無間山の山上に祭って観音寺の鎮守とすることになった。その後永正初年(1504)の頃長松院二祖一訓和尚の弟子が粟ケ嶽に入山し大悟して後粟ケ嶽の守護に当たった。依って之を一寸坊導士として奥の院八王子権現へ合祀し共に当山の鎮守とした。其の後盛衰があったが昭和三十六年六月其の筋の許可を得て日坂常現寺へ合祀した。」と記され、一方同「掛川市誌」の「粟ケ嶽」の項では「天平(729~749)の昔 菊川の里菊水の滝に庵した修験者弘道仙人が不動明王の請願に依り釣鐘を鋳造して粟ケ嶽頂上の松樹に揚げ これを無間の鐘という。又弘仁二年(811)三月十七日 空海上人は唐土遊学より帰朝して粟ケ嶽に登り小堂を営築し本尊の十一面観音菩薩を一刀三礼にして作り安置した。又山内 八王子権現の由緒について記せば 延喜七年(908)粟ケ嶽のふもとにある松浦治郎兵衛宅内に安置してあった地神をここに遷座した。今の奥の院八王子権現である。又此処に一寸坊権現がある。初め奥野長松院の僧で同院二世一訓和尚と無の字につき論じたと長松院記に見えるから、一寸坊の祠は三百年遡るであろう。』と記しています。
上記に江戸期からの5つの資料を敢えて読者の煩雑さを顧みず書してみました。読みづらいことと思いますが、資料扱いとご容赦ください。
長い歴史の中で時代に翻弄されたことは 粟ケ嶽の歴史を複雑にしたと同時に、山への憧憬と距離感も添えられているように感じます。特に中世の戦国動乱期・江戸時代の終焉と神仏分離は大きく信仰形態を変えることになり、伝説(雑説)という形で後世に伝えているのかもしれません。
観音寺境内は明治初期の廃仏毀釈によって神社側の所有となり、明治40年に訴訟によって境内のごく一部を取り戻し、地元西山地区18戸の協力により大正5年に観音堂は再建されいた、この観音堂では以前同様、新暦3月の初午、八月の百万編、秋彼岸の巡礼者の接待と地元西山の人たちによって続けられました。その中秋彼岸の様子を西山で生まれ育った女性は「子どものころから 巡礼さんが来る頃は朝早く起きて、畑に行き まだ小さいけれど※里芋をこいで、煮っころがしにして 観音様の横で巡礼さんたちに食べてもらった うまいうまいって うれしかった。巡礼さんたちもお菓子をくれて 楽しみだったよ。」と当時を懐かしく話してくださいました。
今朽ちたお堂を見る時、何ともさみしく 悲しい気持ちになります、、、。
上記資料の中「掛川誌稿」は多くの紙面を割いて阿波々について論考しています。特に非常に古い※齋氏の※祖神としての「阿波社」の記述は興味深いものです。中近世には阿波神の形態は姿を隠し、本地垂迹に基づく信仰になり、中世の終わりごろに一寸坊権現への信仰が観音信仰とセットで発展します。(現在一寸坊八王子権現堂は崩壊した観音堂の西北隅に小堂があり、中に棟札だけが祀られています。写真参) どこからでも眺められ、めだつ山容のこの山はいつの時代も大切なところとされ、日本の富士山同様 遠江の粟ケ嶽は郷土の誇り得る山であり続けているといえます。
◎茶文字のこと
茶文字は今や粟ケ嶽の代名詞となっています。実現はしませんでしたが、静岡空港建設が始まったころ(平成21年開港)「茶」文字をライトアップしようという話も出たことがありました。 10年ほど前、森林組合の施工で「茶」字の剪定が行われた時、東山の人たちの中では 何本あるのだろうか、どのように剪定するのだろうかと話題になったことがありました。現在はヒノキですが、当初はマツだったことを知る人は意外に少ないようです。※「東山郷土誌」には 昭和7年当時の村長萩原周平氏の発案で茶の大文字をあらわす松樹を植え付けた。植え付けには役員が縄に紙を付け「茶」の字とし、遠くから望見し形を整え植え付けたとの様子が記され、現在は(昭和40年頃)電柱ほどの太さとなり、くっきりと文字が現れるようになったと、作業の苦労などもしるされています。植え付け当時の「茶」字の寸法は 草冠の横が60間(110m)竪左側が20間(37m)右が21間(39m)八の左側68間(124m)右側72間(132m) 木の横40間(73m)竪50間(91m)左25間(46m)右25間(46m)周囲3町(324m)とされ、松くい虫でマツが枯れ、ヒノキに植え替えられた(昭和60年)。約1000本が30年を経7~8mに育ち「茶」の一大産地を象徴しています。尤も現在は車道にポイント案内掲示パネルが設置され、茶文字のどの部分にいるかがわかるようにされています。(写真)
◎粟ケ嶽の樹木
「入」文字の形に樹木生い茂ると遠江古蹟図絵(1803)に書かれ、また東海道名所図会に「絶頂に杉の村(群れ)立 蒼々とみえたり」と書かれている粟ケ嶽山頂付近の樹木にいては、平成29年10月に掛川名木巨樹に親しむ会から※「粟ケ嶽頂上付近にある森の巨樹について」という調査報告書が出されています。
報告書によると、巨樹(幹回り3m以上)8種類63本は掛川市内の巨樹の44%を占め、市内髄一の林叢であることが確認されました。内訳はスギ21本・シイ21本・カシ14本・ケヤキ4本・タブ2本・モチ1本で※スギの大木の多さが際立っています。なおこの森は(阿波々神社社叢)県天然記念物に指定されています。
掛川市史に※「東海道五十三次勝景」の日坂の風景の中に「沓カケヨリ達眼鏡ニテ無間山ノ地ゴク谷 地ゴク石ヲ見ル」とあるように、小夜の中山から達眼鏡で無間山をのぞくのが東海道を行き来する旅人の楽しみであった。とされ、当時の望遠鏡で粟ケ嶽の地獄岩が確認できたことがわかります。調査報告書の巨樹の配置図を見ましても、南参道、南鳥居から南側に高木が多くありますが、※磐座(地獄岩)付近と頂上付近に巨樹が少ないことを考えますと、遠くから地獄岩を見ることは可能であったといえます。もっとも現在は山頂部は植栽が進み望遠鏡でも見ることは叶いません。
駐車場の横、売店の東側には茶祖供養として 栄西禅師像が朝日を迎えるように鎮座しています。この像は昭和36年(1961)日展作家 友澤正彦氏(1940~2016)の制作、又一代終身曹洞宗管長 高階瓏仙(たかしなろうせん)禅師(1876~1968)揮毫による像です。本年正月には地元有志によって干支の犬を茶草場用の笹竹で造り、リードの綱を栄西禅師に持たせた光景がありました。愉快な発想は茶文字同様、東山住民のおおらかな人柄が推察されます。
さて、今回は番外「粟ケ嶽」を観音様にこだわりすぎないよう山を中心に案内させていただきました。今の時期(5月末~六月中旬)にはササユリが可憐な花を咲かせ、目を和ませてくれます。あまりに日常的に目にする山ですが登って観て感じてみてください。
粟ケ嶽に住むカラスは〃アワワ アワワ〃と鳴くとか・・・。
※「山頂の休憩所」:昭和36年茶祖栄西禅師像が完成したころ建設され、当初は市営の休憩所「富士見荘」として始まった。現在は「粟ケ岳山頂休憩所」とし、麓登山口の「東山
いっぷく処」とともに登山者の憩いの場として営業している。
※「町田宗鳳(まちだそうほう):(1950~)著書「山の霊力」2003年発行
※「静岡百山」:「静岡の百山」1991年 静岡百山研究会編
※「一寸坊」:一寸坊については、現在祀られています日坂常現寺の案内時に記したいと考えています。
※「本地」:神は仏教の佛菩薩が仮に現れたもの(権現)とみなす思想。奈良時代には既にはじまり、平安から鎌倉初期には主要な神祇には本地佛が定まるようになった。なお中世
においてこの説を民間に普及させ、庶民信仰を活性化したのは修験者や回国遊行の宗教者である。
※「山伏」:山伏のメッカは奈良県の大峰山です。江戸時代までは、この山中で受ける補任状(ぶにんじょう)によって山伏(修験者)と正式に認められました。大多数は生涯に一
度修行に行き、その証として補任状を受けました。写真はオオヤマレンゲで大峰山を代表する花です。葉の下に目立たないように咲く花を霧の中に見つけた時の感激は生涯忘れえぬほどです。
※「テレビ中継アンテナ・テレビ塔」:無線中継所は昭和29年当時の電電公社(現NTT)が設置し、同時に自動車道も完成した。其の後幾つかの中継塔が設置されています。
※「南平(みなみだいら)」:観音寺の下の段で公園となっている広場。アスレチックなどの遊具もあり、ピクニックに適した場所。現在は車両進入禁止の看板がある。
※「磐座(くらざ):神が天上界から降臨される神聖なところ。樹木の桜は「さ」は神を「くら」は降り立つところで「さくら」は神が降臨する木を意味します。
※「東海道名所図会」:寛政9年(1797)刊行 秋里籬島(あきさとりとう)著・竹原春朝齋他画 全六巻 全六巻の内静岡県下は巻3~巻5にわたって記され、絵は30人が担
当し、その中には日坂で暮らし、長松院に墓がある大須賀鬼卵も参画しています。
※「遠江古蹟図絵」:享和3年(1803)成立(寛政11年から5ケ年の歳月でまとめる)著者兵頭庄右衛門(再影館 藤長庚)(~1820)上中下の3巻からなり、113項目の名
所・史跡・寺社を扱い3項目の付録を付ける。掛川連尺の人。
※竹節人参(ちくせつにんじん):トチバニンジンのことで根は薬草になる。今も観音堂跡地に多く自生する。(写真)
※「寺籍財産明細帳」:明治19年(1886)2月に曹洞宗宗務所に提出した文書。観音寺住職 芝山萬安・檀家総代3名の連署で提出されている。
※「掛川市誌」:昭和43年発行 掛川市誌編纂委員会
※「里芋」:昭和の初期西山地区は33軒(檀家寺院は円満寺・文珠寺・常現寺)。秋彼岸9月20・21日に当番の家では里芋の煮っころがしを作り、重箱に入れ観音堂横の小屋に持ち寄った。西山地区では、そのために里芋を作った。(平成29年現在11軒) 遠江順礼札所では、巡礼を迎えるため各札所が趣向を凝らして施行(お接待)をおこなったと伝えられている。
※「齋氏(いんべうじ)」:最初 忌部氏(いんべうじ)から後に齋部氏(いんべうじ)となる。「忌部」または「齋部」を氏の名とする氏族。古代の有力氏族の一つ。大和朝廷の
祭祀にあたり、中臣氏とともに役割(中臣氏の祝詞読みに対し、齋氏は奉幣を司った)を担ったが、大化の改新(645)以降中臣氏の台頭により徐々に衰退した。
※「祖神(そじん・そしん・おやがみ)」:一族の先祖を神としてまつる。「齋氏」の祖神は天孫降臨の時に随従した「天太王命(あめのふとだまのみこと)」。一族は伊勢
安房(あわ)・出雲・紀伊・阿波(あわ)・讃岐・筑紫などに発展した。千葉県館山市の「安房神社」に祖神を祀る。
※「東山郷土誌」:昭和44年発行 掛川市東山老人クラブ白寿会発行 東山郷土誌編集委員会編
※「粟ケ岳頂上付近にある森の巨樹について」:平成29年10月掛川名木巨樹に親しむ会の調査報告書。調査は平成25年から平成28年にかけて7回実施され、詳細な調査が行われた。
※「宇布見」:現在の浜松市西区雄踏町宇布見。
※「スギ」:「スギがご神木に多い訳」稲垣栄洋著「植物はなぜ動かないか」に「スギは50メートルを超えるようなものが多くある。ちなみに、世界一高いとされる木は、アメリカ
のカリフォルニア州にあるセコイアメスギで、約112メートルもあるとされている。スギもセコイアメスギも、裸子植物である。じつは高木には裸子植物が多い。
そもそも、見上げるような高い木は、どのようにして高い位置まで水を引き上げているのだろう。植物が水を引き上げる力の源が、蒸散である。植物の葉の裏には空
気を出し入れするための気孔がいくつもある。この気孔から、植物体内の水分が水蒸気となって外へ蒸発していく。これが蒸散である。植物の体内では気孔から、根
までの水の流れはずっとつながっていて、一本の水柱のようになっている。そのため、蒸散によって水が失われると、それだけ水が引き上げられるのである。ちょう
どストローを吸うと水が吸い上げられるような感じである。ただし、これは導管の発達した被子植物の話である。被子植物の導管は、水を通す上で効率が良いと、木の高 さが高くなるほど水柱が切れてしまう危険性が増す。導管は水柱がつながっていて水の凝集力によって水を吸い上げることができる。そのため、水がつながった水 柱が切てしまうと水を吸い上げることができなくなってしまうのである。ところが、裸子植物は違う。進化の上でより古いタイプの植物である裸子植物は導管が発達しておらず、細胞から細胞,から 細胞へ水を受け渡す仮導管という古いシステムで水を吸い上げている。この仮導管は水を運ぶ効率はすこぶる悪いが、確実に水を伝えることができる。そのため、高い位置まで水を運ぶことができるのである。高木に裸子植物が多いのは、そのためなのだ。」と、まさに専門家の見地から説明しています。 神籬(ひもろぎ=神を迎える憑代)と考 えられることが多い御神木ですが、社叢全体を云うこともあります。(菊川には二か所、木惜しみ神社がある)また巨樹が先にあるところに社を建て社地とすることもあります。
※「東海道五十三次勝景」:歌川貞秀画(1807~1873) 江戸後期から明治期に活躍した浮世絵師。精密な鳥俯瞰図の描き方(空飛ぶ絵師)をしたことで知られる。
追記・・・頂上の休憩施設は平成30年7月初旬から解体工事に入り、しばらくのあいだ休みとなります。竣工開所は次年度になる予定です。(掛川市役所観光交流課)