静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

気まぐれな巡礼案内㉒

投稿日:2018/08/16 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

23番 龍谷山 常現寺内観音寺と粟ケ嶽の続編

㉑で案内しました粟ケ嶽の観音様は日坂の常現寺に下ろされ、25年を経て少しずつ巡礼者の知るところとなってまいりました。この度 廃 寺の観音堂(前号の写真参)が登山道一帯の景観と登山者の危険回避の観点から解体される運びとなりました。

前回案内できなかった幾つかの事柄を今回、新地常現寺をお借りして案内します。

常現寺

  日坂宿内最東に位置し、現在は国1日坂バイパス道から見下ろすように眺められ 県道415号線(旧国1)に挟まれたように見える寺院です。 「寺籍財産明細帳」(明治19年2月提出)によれば 境内は2077坪に及び、50坪の本堂、30坪の庫裏、18坪の衆寮、開山堂、山門等を有し地蔵菩薩を本尊に白山社を鎮守として伽藍を形成し、江戸時代は10石の朱印を持し檀家180戸を有し、本寺長松院二祖一訓禅師の弟子宗鑑和尚を開山(文亀元年)に、日坂宿本陣片岡清兵衛(慶長年間)を開基とする。

上記以外に地蔵堂(宝暦3年)が無縁佛供養のために祀られ、豊川稲荷堂も宿駅全体の鎮守としてここに移転し祀られています。また稲荷の東側には少し変わった五輪供養塔が目を引きます。(写真)  
常現寺山門に掲げられています山号額は「月舟書」と書され江戸初期の僧月舟宗胡(げっしゅうそうこ)と思われます。

月舟:月舟宗胡(1618~1696)曹洞宗僧侶 号を可憩齋 肥前の國出身 16歳で修行の旅に出て諸寺を遊学し、金沢大乗寺の白峰玄滴に参禅し継法。曹洞宗復古運動の先駆者(wIkipedia)

東海道筋の寺院としてのニーズに合わせ多様な顔を持つ寺院と言えます。ただ安永9年(1780)火災で古記を失ったことは残念です。

 本堂正面上の蟇股(かえるまた)に少し崩したバン字(写真)が曹洞宗寺院には珍しく掲げられています。バン字には多くの意味があり、平安後期の真言僧覚鑁(かくばん)(興教大師)の鑁字義によれば「離言・水輪・塔婆・大悲・金剛・智身・灌頂・殊勝・周遍・証果・心・界・蜜・曼・佛・大の十六門に分かち訳しています。単に水・金剛界大日如来だけの意味と種子では無く、深い意味がありそうです。

山から下りられた観音様は、本堂手前の北側、鐘楼堂の東の観音堂に祀られています。 
入口左手には山のお堂内に祀られていた馬頭観音石像(明治44年)がユニークなお姿で出迎えてくれますが、よく見ると出来栄えもよく、印相・持物・三面相の表情などそうそう見ることができないお姿です。(写真)百年以上経ていますが、堂内に置かれていたため傷みが無くお参りできます。  
馬頭観音:頭上に馬首を描いているので馬頭観音と言います。八大明王にも数えられ、馬頭明王・馬頭金剛明王・大力持明王などとも呼ばれる忿怒尊です。菩薩の救済の力を馬に託し、また牧草をきれいに食べ尽くすようにすべての障害を素早く除く役割を担っています。お姿は種々ありますが、この石像のお姿のように三面三眼八臂が多く、二手は正面で印を結び、金剛棒・宝輪・念珠・剣・鉞斧を持ち、残りの一臂に施無畏印を結び観音の慈悲を示し、怒りの姿で邪心を懲らしめるのも衆生を救済する観音の慈悲であると教えます。また密教の修法では結界にこの菩薩を唱えることから、村境や峠などに祀り、疫病や悪しきことが入らないように、また良いことが逃げ出してしまわないようにと祀られています。六観音の中では、六道の畜生道を担い、その姿から牛馬の守護神とされています。ちなみに観音霊場も三十三の中間点十六番真昌寺の本尊様は馬頭観音です。

お堂の正面上には22番観泉寺に掲げられていた山号額と同じく大雄山最乗寺の余語翠巌(1912~1996)禅師揮毫による「大悲閣」が掲げられています。
本尊千手観世音菩薩

 
「掛川誌稿」には「観音堂あり、権現(一寸坊)祠より低い処にして、観音寺の上にあり、此の観音は昔阿波神社の本地佛とするものならん、木像長二尺許ありて、彩色もなく、古作とみへたり」と記され、高さ二尺とされています。また「東海道名所図会巻四」では「本尊千手観音長三尺許作しれず」とされています。「掛川市誌」では、後村上天皇の正平年間(1346~1370)日野中納言資基卿の弟良政が勤王家藤原俊基卿(?~1332)並びに娘月小夜姫の菩提のために観音大士一体を当山へ寄贈した。これが本尊御腹籠の観音大士である。良政が開基となった。」としています。

前回にも本尊様のお姿は掲載しましたが、お厨子の中で開帳時以外は拝顔できませんが、室町期の特徴を色濃く残す寄せ木作りで、本来は玉眼が入っていたと思われますが今はありません。25年前も含めて修復は何度かされたようです。21番相伝寺の案内の中で東山椎林の観音様を掲載しましたが、お顔の表情がよく似ているなと感じました。腹籠の胎内佛は3~4寸ほどの小仏のようです。(常現寺住職談) 脇立佛は不動明王と毘沙門天だったと思われますが(百万遍の唱えごとの中から)今は伝わっていません。 厨子の前の御前立の千手観音像は昭和9年大慈会によって作成寄贈され祀られたものです。(写真)
月小夜姫:「刃の雉」「蛇身鳥」伝説は小夜の中山を中心に菊川北部から掛川東部に伝わる伝説です。「昔小夜の中山あたりにヤイバノキジという賊が出没し、近在はもとより旅の者にも危害を加えるというこ    とで、往来も絶えるという有様であった。このヤイバノキジというのは、中央に地位を認められなかった豪族の連れ添いが、せめて娘だけでも都びとに認めてもらいたいものだと日夜奔走したが、この願いも叶わ ず、遂には手段を選ばなくなって悪事を働くようになったものという。そして娘を認めれば悪事もやめよう、退治もされようということであった。

このことが都にも知られ、討伐の者を遣わすこととなり、落合権の守と従臣進士清蔵、植山、本目などが征伐のため遠江に下向することとなった。しかしヤイバの鬼人の力が強く征伐することができず、権の守は福田港へ、進士は横須賀方面に退いたといわれる。進士はこの戦いで鬼人を討ちもらしはしたが、無二の弓の達人であったので、射った矢はヤイバの鬼人の太ももに七針も縫うが如くに突き刺さった。そこで鬼人は「これほどの矢を射るものは進士以外にはない、七生たたってやる」と言ったという。朝廷では再び、一条三位上杉憲藤を差し向け、ようやく退治することができた。一条三位はこの功により相良の庄を拝領したが、この征伐の際、土地の愛宕の庄司の家に滞在して、白菊という姫と懇ろになり一男子をもうけた。名を月の輪童子といい、のちに空叟(くうそう)といって、足利尊氏の伯父にあたる竜峰和尚が開いた平田寺の二代目となった。寺の記録によると、中山の逆徒を討ったのは弘安元年(1278)の春のこととある。一方都に残っていた落合権の守の娘妙照姫は父を尋ねて遠江に下り、友田(菊川市)に小庵を結び、住みついたといい、妙照寺の前身になったいう。公文名の(西方)瀧の谷の奥には 権の守の墓といわれる塚と五輪が残っていて落合姓の先祖ということで祀られている。また日坂八幡宮に近く、秋葉灯のあるあたりが、ヤイバノキジの娘、小夜姫の屋敷跡と伝えられている。「菊川むかし話」(昭和62年鈴木則夫編著)より )(そのほかにも幾つかの伝説が存在します。)

大慈会:大正の末から昭和の初期にかけて現在の霊場保存会の前身ともいうべき霊場相互扶助会が「大慈会」の名称であったと先代から聞いたことがあります。賛同者を募り記念バッチを与え、毎年どこかの札                   所がお開帳することを目指し、他の32札所が後援をすることを趣旨としていたように記憶していますが、資料等が無く詳細は不明です。ご存知の方が有りましたらお教えください。

 

御詠歌

ちさとまで ひとめにみゆる おとこやま ほとけのちかい たのもしきかな (千里まで 一目に見ゆる 男山 佛の誓い 頼母しき哉)

山本石峰氏は「順礼物語」の中で「観世様の慈悲は広大無辺で 丁度無間山の頂上で下界を見下ろす如くだ。迷いの雲が晴れて、千里も一目の中だ、其の力は頼母しい限りだ」と記しています。

この山に何故千手観音をお祀りしたのかについて山岳宗教研究者の山本義孝氏は、初めて粟ケ嶽に登った印象として「南平から南方を眺め、熊野の補陀落浄土の青岸渡寺を思い浮かべた」と語っています。近在には三熊野・高松・小笠山を熊野三山の写しとした熊野信仰も存在し、歴史と信仰の奥深さが広がります。
男山:この山に中・近世 女人禁制とか一般人の踏み入れ制限の禁足地の言い伝えは無く、初午祭の参詣人に象徴されるように、庶民の身近な山であり続けて来ました。地元民はどこから眺めても自分のほうを向いていてくれる「向山(むくやま)」と呼び、親しみを以て接してきました。「男山」の言い方は、独立した山を一般的にこう呼ぶのであり、禁忌とは考えにくいです。男山のイメージから頼もしさは伝わります

 

一寸坊権現

鎮守の神が長い年月の中で変わることはあまり考えられません。ただ寺院の支配構造の中で習合し増えていくことはあり得ると思います。またその時々の力の入れ方による盛衰もあり得ます。粟ケ嶽の場合は呼び方として「鎮守」「奥の院」「山神」と多様です。平安時代の延喜式にある「阿波神」を是としてきたことは知られていますが実際に祀られていたかと言いますと、一寸坊の祠をもって昔跡としているだけで、よくわかっていません。ただ掛川誌稿のように観音が阿波神の本地佛と表現はされています。また西山村の旧家松浦氏の地の神「八王子社」を粟ケ嶽の山神として迎え祀り始めたこと、「一寸坊権現」を観音寺の鎮守として勧請したこと、明治になって「阿波波神」を祀り始めたことなどの変遷は山の歴史そのものと言えます。明治18年12代霊峰和尚が書した棟札には上記以外に宇賀神・豊川稲荷・奥山半僧坊・金毘羅大権現・春野山太白坊なども勧請されています。

これらの中「一寸坊権現」出現についての言い伝えは掛川誌稿などにかなり具体的に記されています。この説を基調に考えてみますと、掛川市大野の本寺長松院第二世一訓禅師が弟子某(後の一寸坊)と「無」について禅問答をしたことが長松院記にあるとされています。時は一訓禅師が永正十年(1504)に遷化(他界)していますので文亀から永正初期と考えられます。某弟子がその後長松院から離れ粟ケ嶽に入り修行を重ね一寸坊となったとされています。

前号で「遠江古蹟図絵」に書かれている一寸坊を紹介しましたが、再度要点を記しますと「守護神を一寸坊権現と云ひ、近来正一位と成らせたまふ宮あり。略 木像、社の内に有り。天狗の形、翼有り。長一寸あるゆえゑに名とす。白虎に乗り不動のごとく剣を持ち云々」と説明されています。また同書に「この宮も(一寸坊権現宮)当年開帳に付き修復出来、正一位と成らせられし由云々」とも記されています。当年とは寛政10年(1798)と思われ、お宮が修復されたのは寛政4年(1792)と思われます。(社に残されている棟札と遠江古蹟図絵の編纂の時期から) この頃が最も祭礼盛んな時期だったのかもしれません。

権現堂内の棟札には「我れ神躰無く 正直をもって神躰とす 我れ奇特無く 無受をもって奇特とす 我れ知恵無く 忠孝をもって知恵とす 我れ仏法無く 慈悲をもって仏法とす」と書かれています。これは一訓禅師との禅問答の答えと 大悟した証明として一寸坊が残し伝えたものと考えられます。勿論「正直(せいちょく)」や「忠孝」の言葉使いから後世に考えられたものとは思いますが・・・。    
地元西山村の人たちは武田勢の駿河侵攻(1567~68頃)による兵火から逃れるため全戸離散しています。やがて時代が代り世情が安定してきた寛永年間(1624~1645)になり地元に戻ってきたようです。当然観音堂や権現堂なども被害を受け、荒れ果てた状態であろうことは想像されます。地元に戻った村民たちは心のよりどころである寺や観音堂の再建、昔通りのまつりごとを中心に生活の安定と村の復興に努めたことでしょう。

一寸坊:現在まで修験道の特色を失わず伝承している信仰に、木曽の御嶽修験があります。「御座立て」に代表される託宣(たくせん)と言われる巫術(ふじゅつ)が行われます。これは神が行者などに憑依し てお告げをすることですが、この神を護法神とか満山護法善神といい、仏法を護る神と理解されるのですが、一般的には護法神を天狗と考え、また童子ともよばれ、山伏の従者あるいは使役霊として、悟りを得た山伏がこれら天狗や、護法を自在に駆使して奇跡を起こすと考えられていた。また原始的修験道には、どこの山でも護法を山伏に憑けて山の神と同体にし、その加持力によって祈祷と託宣を行う信仰儀礼があったものと思われる。このように護法神がカラス天狗のようなものとの概念が一般化し、山伏と天狗の関係ができてくると、修験の山には様々な天狗が生み出され、山に住むと信じられるようになった。(五来重・山の宗教)

粟が嶽の一寸坊権現も「無」題から仏法を「慈悲」であるとの答えを導き出し(託宣)護法の神・天狗になったといえます。 御託宣とか夢のお告げは古代においては重要な意味を持っていました。現代では非科学的などと言われ重要視されなくなりました。ただ「神の声」などと理不尽に使われたりしますといささか・・・・と御託を述べてみました。

百万遍

山上の観音堂では毎年八月九日「百万遍念仏」が地元西山の人たちによって行われてきました。常現寺に移ってからも続けられ今年(平成30年)も35度を超す暑さの中、お堂で「百万遍」がおこなわれました。

この日は午前中に山上境内の草刈りをし、午後から供養が始まる。今年は13名の男女が常現寺観音堂に集まり、住職の御法楽の後堂内に輪になり「なんまんだんぼ」のお唱えと左から右に大念珠が回され、大きな房(母珠)が来ると、少しささげるようにして回す。100回を30分程かけて唱え回し終わる。一人中央に数を繰る役の人がいる。10人で1080の数珠を100遍回し唱えることで100万遍となる計算です。

   
(数珠‥今は不使用)                  (計算機)       (百万遍を終えて)

「百万遍」:百万遍念仏の略称。念仏(南無阿弥陀仏)を百万遍唱えること。元弘元年(1331)後醍醐天皇の勅命により悪疫退散のため、京都知恩寺八世空円が七日間百万遍念仏を修し疫病が収まったことに由来する。後年一般におこなわれるようになった。この地域ではほとんど途絶えてしまったが、わずかに数か所で行われている。(掛川市中西之谷下組・・掛川市史)地域により日時唱え方は様々ですが、お盆の行事として現世利益より精霊供養として行われることが多い。

今回粟が嶽の続編として案内いたしましたが、調査の中で一寸坊権現と常現寺の開山宗鑑和尚が兄弟弟子であることもわかりました。また敢えて無間の鐘などの伝説には触れませんでした。この山にはまだまだ興味が尽きません。多くの人たちに粟が嶽を訪れていただきたいのですが、山上に立派な休憩施設が来春竣工しても車道の整備は遅れています。くれぐれも運転は慎重に、気を付けてお登りください。できうれば歩いて登られることをお奨めします。麓の「いっぷく処」に駐車して約1時間で到着します。常現寺にお参りをして山に登るか、山から下りて常現寺をお参りするか、、、3~4時間は必要です。