投稿日:2019/05/18 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺
平成から令和と元号が代わり、新年を迎えた時のような印象を持つのは、大方の人の思いではないでしょうか。ただ狂騒ともいえる思惑と過剰な報道にはいささか閉口します。歴史が教える通り「天皇」を時の権力が利用する構造は変わらないということが後々証明されるのでしょうか。「君が代」を唄いながら「俺が代」だと。
大型連休と重なった五月一日、札所に御朱印を求め参拝される人も多く見かけました。皆それぞれが節目にあたり、新たな希望を抱きつつ・・・。
「万葉集」巻五、梅花の歌三十二首序文 〃時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑く(きよく)風和(かぜやわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かを)らす。加以(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて 蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに 封(こ)めらえて林に迷(まと)う。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。〃からの出典とのことですが、「令」が「冷」にならないよう平穏であってもらいたいです。
今回は14番札所 大雲院内知蓮寺を案内します。
瑞霧山 大雲院 掛川市上垂木87 電話0537-26-0553
1号線バイパス大池インターチェンジを降りて北進、大池インターチェンジ北の信号を直進しますと1キロ程で左手に桜木小学校があります。その500m程先、宮下橋の東側が県道原里大池線の馬場。この辺りが「年々(ねんねん)」です。東手入口に石塔(写真)が建ち、道なりに300m程で山門に到着します。
14番札所は「※知蓮寺」⇒「地蔵院内知蓮寺」⇒「大雲院内知蓮寺」と移り変わっていきます。 「知連山中(やまなか) お医者がいない お医者どころか 道もない」(異説有り)と地口で囃された辺境の地も 今では「ねむの木学園」のある「ねむの木村」として全国的に知られるところとなっています。
知連にあった知蓮寺の観音様は後に坂下(さかした)の「地蔵院」に移され、「地蔵院」廃寺により 現在「大雲院」に祀られています。(昭和50年1975)
「知連寺」について掛川誌稿上垂木村の項には「この村の上の山間に属村あり、東を知連、西を山中といい、その山高からずして渓間各深く入れり」と説明されています。また同書に「知連寺」について「知連寺に観音堂あり、地名を知連と呼ぶを以て思えば、古き寺と見えたり」とのみ記されています。
知蓮寺の正確な場所について※鈴木氏は古街道研究調査報告「遠江三十三所観音霊場巡礼道」(2015~)の中で「※桜木池付近の山頂(観音山)であることがわかった。」と記し、また地蔵院跡の項の中で「地蔵院跡地の尾根を北上すると知蓮寺跡地の観音山山頂(159m)に出る。」と報告しています。このことから現桜木池の南側の山頂の平坦部が該当します、最近まで白山社が祀られ、例年「初日の出会」も行われ眺望のよい場所です。茲に観音堂はあったようです。一説では桜木池の東山頂部に知蓮寺が在ったともいわれ、知蓮寺の境外地境内の可能性や知蓮寺の伽藍が広範囲に点在していたとも考えられます。
桐田幸昭著「史跡遠江三十三所観音霊場」に「掛川市倉真に知連段という所あり、この辺りの女、上垂木に嫁してこの地名を移すか」との伝承があることを記していますが、何かと倉真とのかかわりの伝承が残されています。その一つは、原川の人が倉真に嫁ぐとき持仏として持ってきたが、祀る人が無くなり、お堂を造り祀った(遠藤貞夫氏談)その後知蓮寺に移した。もう一つは倉真の奥に松葉のお城があり、駿府から嫁いだ姫が海の見える観音山から遠く故郷をしのんだ。ともいわれ、ご詠歌の「三筋川」は松葉の滝のこと、という説もあります。
(知蓮に入ると桜並木が出迎えてくれます。)
※知蓮寺:知蓮寺の「ち」は「知」「智」「池」・「れん」は「蓮」「連」「漣」等統一されていません。
※鈴木氏:鈴木茂伸 静岡市在住 著書に「古街道を行く」「静岡ふしぎ里かくれ里」他多数。各所の古街道を精力的に踏査されている。「遠江三十三所観音霊場巡礼道」調査だけでも原稿用紙520枚に及ぶ。
※桜木池:安政時代(1854~)に造池・昭和29年「桜木池竣功記念碑」には水量24万立方メートル・受益面積200町歩とされています。
「地蔵院」については、明治19年(1886)の「寺院財産明細帳」に上垂木村字神田3573番地 大雲院末 平僧地として 開創「当院開創は寛文八年(1668)三月八日 本寺大雲院五世秀鷟(しゅうさく)を勧請す 村内古き寺と申伝ると雖も寛政二年(1790)三月総伽藍古文書記等悉皆焼失いたし 開創以来の実事詳らかず 本尊の傍らへ聖観世音菩薩は行基菩薩の刻像 則ち本國三十三所巡拝場第十四番 往古より三十三年目開帳仕り来たり候也」と記されています。また、延享四年(1747)の「上垂木村差出帳」には「観音堂壱ケ所 弐間半弐間 茅葺 但 堂守無御座候二付 先年御断申上 地蔵院寺中へ引越申候」とあり、1740年代前半に地蔵院へ移され、昭和50年(1975)に大雲院へ移転修繕されるまでの230数年間は地蔵院寺中で祀られ、寛政二年(1790)の火災も乗り越えて現在にいたっていることになります。「地蔵院」は写真のようにすでに跡地は植林されて歴代の住職墓石・井戸・池・本堂に登る石段と地蔵石像が語るだけとなっています。観音堂は歴代住職墓の下段にあったようです。昭和40年にお開帳を執行してこの地での閉めとしたようです。 (左から石段跡・地蔵石像・住職墓)
地蔵院の山号を田車山(でんしゃざん)といいます。寺の下に「車田」(くるまだ)という処があることから採った山号でしょうか。車田とは田植えを中央から外に回りながら植える方法で、またそのように植えた田を言い、「和」を意識した山号のように思われ興味深いです。
現在祀られています大雲院について掛川誌稿では「瑞霧山 大雲院」として「駿州阿部郡慈悲尾(しいのう)村※増善寺末 年々ガ谷という所にあり、開山は増善七世蘭室宋佐和尚、天正十九年(1591)十月二十三日を以て死す。寺田十七石(十二石5斗六合3勺上垂木村 5石二斗六升下垂木村にあり)慶長八年(1603)九月二十五日、御朱印を賜いぬ。」とあり。先既「寺籍財産明細帳」には山号の由来などが詳しく記されています。開創として「当院開創は古代より当地字御嶽山という処に、御嶽山等持院という真言の一小院あり、開山宋佐 茲に寓居して法運を謀り天正三年に外宗して曹洞宗に帰す。右宋佐は駿河の国富嶽の霊峰を越え雲霧城畔の懸川に投入す。初龍門五葉の増善寺に住して後、御嶽山等持院に錫を移し、此の地に安心立命の大事を究め、茲に於て大雲を起こし遍法界無辺の雨澤を塵世に播し、曾て瑞雲を発し今古不変の酪味を人天に与う。而して山を瑞霧山と号し、寺を大雲院と名づく。開山は※勅特賜大鑑自照禅師 当山開祖蘭室宋佐にして、諸伽藍を建立し尚隣地芝間を田畑に開墾すること不少。当山六世裏外積州代に易地して諸伽藍を移築したり跡地不残開墾田畑となり、慶長八年(1603)九月二十五日徳川朱印。高十七石と改まり賜る。安永年中(1772~)に十世慧海忍教代、諸伽藍不残焼失す。同暦八年(1779)二月同住職 檀徒に化縁し本堂再建す。文政五年(1822)以来十三世契天代諸堂再建する処今現在す。嘉永六年(1853)十四世秀芳代惣門一宇新築す。両側に西國三十三所の観音石像を安置す。志願成就也。明治四年(1871)維新の際朱印高十七石不残上地す。」と書かれています。
※増善寺:静岡市葵区慈悲尾302にあり、地蔵菩薩を本尊とする。開基を今川氏親 明応9年(1500)曹洞宗に改宗(以前は真言宗 慈悲寺)今川家官家となる。徳川家康の幼少時(竹千代)よく訪れたことでも知られる。増善寺の本寺は高尾の石雲院。
※勅特賜:天皇から直接賜ることを勅賜。京から離れているため推薦を受け間接的に賜ることを勅特賜というか。(談)
(写真は上から北側墓地から・西北側から本堂を・歴代住職の墓・光明寺主揮毫の額・垂木の由来となった大松の板に揮毫した額、揮毫者は西有穆山、総持寺独住3世貫主1821~1910・本堂内)
大雲院本堂の本尊様は聖観音菩薩で脇佛に例の如く、不動明王・毘沙門天が祀られ、当初密教寺院であったであろうことが窺われます(真言宗 御嶽山等持院)。以前にも触れましたが、この三尊形式の儀軌的根拠はありませんが、この形式の多さは気にかかります。
天台僧の円仁(慈恵大師・元三大師)が唐からの帰朝時 嵐に逢い、観世音菩薩を念じたとき毘沙門天が現れ、嵐はおさまった。比叡山に戻った円仁は一宇を建立し観音と毘沙門天を祀った(848)。その後良源が不動明王を加えて三尊とした(974)。この祀り方が横川(よかわ)三尊形式といわれ、全国に広まったとされます。
遠江霊場の多くの札所がこの形式の祀り方をしています。これはこの地域で70%以上を占める曹洞宗寺院が旧寺院の本尊様をそのまま受け入れて継続してくれたことを意味します。400年以前の様子が推測できる根拠となることはありがたいことです。また曹洞宗がどのような方法で教線を広げていったかも推測できるのです。
ここで少し脱線します。
日ごろ曹洞宗の読経を聞いていますと、「修証義」や「観音経」に続いてご真言を唱えています。「なむからたんのーとらやーやー なむをりやー ぼろきーちー しふらーやー・・・」禅宗の唱える真言は相当崩したために意味不明になっていると、昔言われたことを鵜呑みにしたために関心を持ちませんでした。最近になって、ふと疑問に思い、この「大悲心陀羅尼」を調べていくと、私ども真言僧が普段唱えている「千手観音陀羅尼」のことであるとわかりました。崩したわけではなく、呉音(正音)・唐音と訓み方が異なるだけの違いのようでした。真言宗の唱え方ですと「のーぼーあらたんのーたらやーやー のーまくありやばろきてー じんばらやー・・・」となります。慚愧を込めてこの真言の意味を、長いですが訳しておきます。この真言の正式名称は「千手千眼観自在菩薩広大円満無礙(ぶかい)大悲心陀羅尼」云い、略して「千手大悲心陀羅尼」とも言います。直訳しますと「三宝に帰依し奉る。聖なる観世音菩薩、摩訶薩、大悲尊に帰依し奉る。※オーム、一切の畏怖中に救度をなし給う。それ故彼の尊に帰依せば聖なる観自在尊の威力は生ず。ニーラカンタ(青頸尊)よ、帰依し奉る。我れ心髄に回帰すべし、一切利益の成就、浄行、無勝、一切生類の生き方の浄化を願うべし。則ちオーム、世界を見抜くものよ、世界を見抜く智慧を持ったものよ、世界を超越的に見抜くものよ、オーオー、導くものよ、大菩薩よ、深く内省し給え、心髄を、為せ為せ働きを、完成させよ完成させよ、運べよ運べよ、勝利者よ、大勝利者よ、受持せよ受持せよ、受持自在王よ、進め進め、塵垢の離脱よ、無垢解脱よ、来たれ来たれ、世自在尊よ、貪欲の毒を消除し給え、瞋恚の毒を消除し給え、愚痴動揺の毒を消除し給え、フル、フル、マラ、フル、、フル、マラ、フル、フル、ハレー(文意不明)、生蓮華臍尊よ、サラサラ、シリシリ、スルスル(サラサラと流れ出よ)、悟れ悟れ、悟らしめ給え、悟らしめ給え、悲しみあるニーラカンタよ、愛欲の砕波に満足し歓喜せり、スバーハー。成就のために※スバーハー、大成就のためにスバーハー、成就瑜伽自在のためにスバーハー、ニーラカンタのためにスバーハー、猪面獅子面容損のためにスバーハー、蓮華手尊のためにスバーハー、宝輪相応尊のためにスバーハー、螺貝音声尊よ、菩提のためにスバーハー、大宝瓶執持尊のためにスバーハー、左肩方位に位置する黒色身勝者のためにスバーハー、虎皮衣服被着尊のためにスバーハー、三宝に帰依し奉る。聖なる観自在尊に帰依し奉る、スバーハー。オーム、彼らは成就せよ、真言句のためにスバーハー。」という意味になります。
なおこの陀羅尼文では、千手観音はシバ・ビシュヌ等のヒンズー教の神々のあらゆる特性を兼ね備えた神として称えられている。(意訳等 八田幸雄著真言事典より)
この陀羅尼の功徳は、臨終のとき 十方から多くの仏さまが来て、自分が願う浄土に導いてくださる。また心に無量の三昧を得て、あらゆる願いをかなえ、あらゆる罪障を無くし、※十五種の善生を得て、※十五種の悪死を免れる功徳があるとされています。(密教大辞典)
お経はお唱えするだけでも安心と、先祖供養になるのですが、ある程度内容が解って唱えるにこしたことはないでしょう。 お説教じみた寄り道でした。
※オーム:一般的には南無と音訳し、帰依・帰命
※スバーハー:訳としては成就を意味しますが、言霊として扱っているようです。
※十五種の善生:①所生の処に常に善王に逢う。 ②常に善國に生ず。 ③常に好事に値う。 ④常に善友に逢う。 ➄身根常に具足することを得る。 ⑥道心純熟する。 ➆禁戒を犯さず。 ⑧所有の眷属恩義 和順する。 ⑨資具財食常に豊足することを得る。 ⑩常に他人の恭敬扶接を得る。 ⑪所有の財宝他に劫奪せらるることなし。 ⑫意欲の求むるところ皆悉く称逐する。 ⑬龍天善神常に擁衝する。 ⑭所生の処に佛を見る。 ⑮所聞の正法の甚深の義を悟る。
※十五種の悪死:①その人をして飢餓困苦して死せず。 ②伽禁杖楚(かきんじょうそ)のために死せず。 ③怨家讐対(えんかしゅうたい)のために死せず。 ④軍陣に相殺するために死せず。 ➄犲(虎)狼悪獣の残害のために死せず。 ⑥毒蛇蚖蠍(どくじゃがんかつ)にあてらるるために死せず。 ➆水火の焚漂(ふんひょう)するがために死せず。 ⑧毒薬にあてらるるがために死せず。 ⑨虫毒に害せらるるがために死せず。 ⑩狂乱に失念するがために死せず。 ⑪山樹崖岸より墜落するがために死せず。 ⑫悪人に厭魅(えんみ)するがために死せず。 ⑬邪神悪鬼の便りを得るがために死せず。 ⑭悪病の身に纏うがために死せず。 ⑮非分の自害のために死せず。 (「禅宗の陀羅尼」木村俊彦・竹中智泰著より)
〇大雲院の鎮守について
この寺院の鎮守は現在白山社など多くを合祀して祀られていますが、「寺籍財産明細帳」に依れば、「鎮守堂」として縦四尺横三尺の建物に「雨宝童子」が祀られています。
神仏習合理論から生まれた両部神道(真言宗)があり、その特徴的な神が雨宝童子です。ここからもこの寺院が御嶽山等持院(真言宗)を引き継いでいることがわかるのですが、江戸期には除病・招福のご利益あらたかとして、篤い信仰を集めた神です。天では、月日星となり、日本では大日霊(おおひるめ)月夜見(つくよみ)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の三神となり、インドでは毘盧遮那(びるしゃな)阿弥陀、釈迦の三身となり、中国では伏義、神農、皇帝の三聖となり、全てに遍満する強大な神とされ、又その姿は天照大神が日向に降りた時の姿とされています。この地域で「雨宝童子」が鎮守として祀られているのは珍しいです。
〇観音堂
(観音堂・堂内・御詠歌・お厨子)
昭和40年地蔵院でのお開帳を済ませ、昭和50年に大雲院内に移築(回廊の撤去・屋根替え修繕等)、その後お開帳を執行し現在に至っています。本尊聖観音様は行基菩薩作と云われ、遠州霊場第5番も兼ねた観音様として信仰を集めています。
〇ご詠歌
とうとやと きていまたきの みすじがわ よろずよかけて すすぐぼんのう
山本石峰氏は御詠歌を 十四番地蔵院として「尊とやと 来て今滝の三すじ川 萬代かけて そそぐ煩悩」と書し、「和歌の本体」で、慈悲無量の観音力を杖と頼んで来て見れば、三途の川に出逢えた。さて、善悪中有との川の水で煩悩の垢を洗落すか 思案中だ。と解説しています。
あえてみすじがわ(三筋川)を「三途川」と書くことにより、地獄・餓鬼・畜生のどこに堕とされるのか、はたまた川の水が煩悩を洗い落とし極楽浄土に向かえるか・・・よくよく考えなくてはと問うています。〃萬代かけて〃とは 急ぐことはないよ、業は必ず転生して極楽に生じるから。との答えが隠されています。
御詠歌の三筋川は知蓮桜木池辺りの川筋でしょうか、広く垂木川・原野谷川・逆川を俯瞰して詠んでいるのでしょうか。また倉真の松葉の滝が筋状に流れるさまを詠んでいるのでしょうか。 歌に詠む みすじがわ が合流して観音様が三度目のこの寺院にいつまでも留まることを願わずにはいられません。
今回大雲院と境内に祀られている知蓮寺を案内させていただきましたが、大雲院の開祖蘭室宋佐和尚の師僧仙翁崇滴和尚は今川氏親の妻、寿桂尼を弔う寺院を開山した人でもあり、本寺増善寺は今川の菩提寺です。ここにも今川氏との関係が色濃く出ています。
広大で緑豊かな境内をのんびりと散策してみてください。珍しい樹木や花、多くの石碑等まだまだ案内しきれない所が多くあります。また、時間が有りましたら知連山中の「ねむの木村」を訪れるのも良いですね。 (今年も咲いたシライトソウとホウの花))2019年5月