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気まぐれな巡礼案内⑯

投稿日:2017/10/24 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第18番 逆川 新福寺

国1千羽インターを降り南進し山鼻の信号を南へ 池下の信号を右折、西に向かい約四百メートルで左側にヤマハモーターパワープロダクツ株式会社。その手前東側の道を南進していくと山裾に方形造りの観音堂に庫裡が続く新福寺が見えてきます。目印(会社)を見過ごすと 迷いやすい札所です。
観音堂に鈴と鰐口が掛けられています。

鰐口には、表面に「貞享元甲子年(1684)八月吉祥日」裏面に「奉禮三十三所 老若男女以助力掛之 遠州佐野郡新福寺村 順礼観世音菩薩 十八番」と刻されています。 当時は新福寺村と云う呼び方をしていたようです。

また、大勢の人々の協力によって作成されたと記されています。

120年後の「掛川誌稿」では「池下村にあるけれども、牛頭に属せり」としています。通常寺院は寺号山号がセットなのですが、ここだけ山号が伝わっていません。 
境内西南側に大正二年山崎茂七夫妻が奉納した、赤い帽子をかぶった弘法大師石像が二体、また南側には六体の地蔵尊が迎えてくれます。

一段高い墓地の一角には一石五輪塔も並べられ、古い歴史を語りかけています。
お堂は年2回の彼岸だけ開けるため、松島十湖撰の奉納額・富田秀甫の俳諧献詠額が鮮明に残されています。(遠江三十三観音霊場巡りと奉額俳句・奉納連歌解説)

此の寺の歴史伝説は、「遠江霊場第十八番新福寺由来」に、「当堂に安置奉る十一面観世音菩薩の由来を按ずるに 往昔屡々祝融に罹り 書類悉く灰燼に属し 由緒詳かならずと雖も 古老の口碑に就き諮すに謂く 人皇第百壱代後花園帝 享徳二癸酉七月の頃 異僧来たり 仏教三世の因果因縁を説示するに及び 人民大に信仰し 該僧をして 此地に留まり 長く村民を教養せんことを冀ふに 僧の云く、我は諸国巡廻の祈願あれば 此所に留り衆人の願を満足せしむる能はす 依って我が日常信仰し負い来る菩薩を諸人の為め 此の地に留む 就て汝等永く信心を忘却せず 現当二世の安楽を祈れと 即ち行基菩薩の御作なる十一面観世音菩薩を賜ふ 依て村民大に歓喜し 信者と疋日謀り 一小堂を建立し菩薩を安置し奉るに及び 近隣衆庶追々傳聞し 信者大に繁殖するに従ひ 後天文五年堂宇を再建する所にして 実に遠江三十三カ所の其の一たり 爾来四百有余年 霊徳昭々として 遠近に洽く群生を利済し給ふ 此を以て毎彼岸に際し 十方信心の男女参拝 陸続群れをなす 曩きに明治三十二年堂宇の修繕を加え稍旧観を改めたるも 今や庫裡の荒廃視るに忍びず 信徒と謀り□々修繕を相加へ漸く竣功したるに付 開帳供養を修行せんとす 然れども当区は少数にして 且つ微力なり 普く十方有縁の信者の喜捨を請ひ 素願を成就せんとす 冀くは信心の施主 各々応分の浄財を喜捨し菩薩の宝前に拝け給はんことを」と、大正十一年九月に開扉特別寄附緒言として書かれています。
札所の御詠歌が謎を生みます。

「はるばると のぼりてみれば さよのやま ふじのたかねに ゆきぞみえける」

昔から様々に言われてきましたが、確定的なことはわかっていません。

小夜の中山と関連する言い伝えは、①久延寺の奥之院説 ②小夜の中山からの寺院移動説 ③新福寺村へ住民転入説等です。

小夜の中山から富士を詠んだ歌はそれほど多くはありません。

富士歴覧記 明応八年五月八日(1499)飛鳥井雅康の 「大かたに ききしはものか みてそしる 名よりも高き ふじのたかねは」。

富士紀行 永享四年九月十日(1432) 大納言飛鳥井雅世の 「君よりも 君をやしたう 今日さらに 又あらわるる 富士のたかねは」。

 

覧富士記 永享四年九月(1432) 足利将軍義教の富士遊覧に従って。尭孝法師の 「名にしをえば ひる越てだに 富士もみず 秋雨くらき さよの中山」 「秋の雨も はるるばかりの ことのはを ふじのねよりも 高くこそみれ」 「あま雲の よそにへだてて ふじのねは さやにもみえず さやの中山」 「富士のねも 面かげばかり ほのぼのと 雪よりしらむ さよの中山」 「それをみる おもかげうすし 富士のねの 雪かあらぬか さよの中山」。 くらいでしょうか。

「小夜の山」と詠まれている歌は見かけません。全て「小夜の中山」です。

「さや」か「さよ」かは、古今集から賀茂真淵に至るまで論は交わされてきました。「佐夜」「小夜」は近世に入ると「小夜」が主流になってきます。

御詠歌が、敢えて「小夜の山」としていることに注目してみますと、幻の寺院「佐夜山寺」が浮かびます。

この寺院の場所については、海老名(あびな)の奥に滝があり、その上に「会下の平(えげのだいら)」があり、その付近とされていますが、地元の人はより高所を云い、確定されていません

また「久延寺」について※「中世佐夜中山考」で著者は「久延寺が何時、誰によって開創されたか、今は諸伝説や口碑が乱れ伝えられて実相は全く不明である。その初めは、海老名の瀑布の下、会下の平に佐夜山寺という精舎があったが、これと何か関係があるであろう。」と記しています。

小夜の中山から富士の見える場所はごく限られ、久延寺付近だけです。

当霊場でも、最近では粟が嶽の観音が日坂常現寺におろし祀られましたし、日坂相伝寺内光善寺は東山から一族が新地に転出した時に持ってきたとも言われます。ただどちらも「元々はここですよ」と解かるようにしてあります。

伝承がないことは、不思議というほかありません。いつの日か明らかになる日が来ることことを期待したいと思います。

山本石峰氏は「遠江三十三カ所ご詠歌 詠歌中和歌の本体」で、この札所の御詠歌について「巡礼の日数重ねて 小夜の長山に来たら、富士の白雪が見えた、見ただけでは雪の味は分からぬ、ここからが一修行 白雪は観音と思え」と訳しています。

 

本尊様の脇佛に地蔵菩薩が祀られています。(写真)尺三寸(40センチ)程の立像です。彩色が繊細にほどこされ、玉眼が入れられた立派な寄木造りです。かなりの時代を経た仏像のように見受けられます。このお地蔵さまにも数多の願いが込められているのでしょう。

本尊様は二重のお厨子に入れられています。ここにも本尊様の移動説が隠されているのかもしれません。また、前回のお開帳に使われた五色の糸が、観音様の手にしっかりと結ばれ、次回への結縁を待っています。

新福寺は2021年 お開帳を迎えます。役員の方は既に計画段階入っているようです。 どのようにすれば地元の方々が観音様に目を向け、将来に観音信仰を続けていけるだろうかと、真剣に考えてくださっています。

花火を大きく上げることより、継続することに焦点を当てるという困難な道を歩もうとしていることに敬意を表したいと思います。

 

※「中世佐夜中山考」 桐田幸昭 昭和46年(1971)刊