静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

気まぐれな巡礼案内⑨

投稿日:2017/04/28 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

八番札所 月見山 観正寺です。

何度訪れても場所を覚えられなく、今でも不安は拭い去られていませんが不思議と辿り着きます。北進して周南中学の手前を58号線から左の信州街道(塩の道)に入るのですが、つい直進してしまいウロウロすることとなります。観音堂の入口もわかりにくいため、赤い布に「観音」と標した旗を軒に下げてくださったこともありました。

初めて訪れた時、観音様は公会堂に祀られていましたが、次回は西側に新しくお堂が建てられていました。(昭和59年建設)公的な下山梨上公会堂と宗教施設は場所を分けなければならないと話されていました。観正寺は現公会堂の所にありました。文明2年(1470)開山とされていますので、約550年の長い歳月守られてきている寺院です。HPには2017年開扉予定となっていますが、平成24年(2012)に開扉が行われていますので(保存会にご指摘いただきました)次回は2045年の予定です。写真のようにお堂はこじんまりとした建物です。公会堂の所にあった時は大きなお堂だったと思われます。

 太田川は改修される前はどのあたりを流れていたのでしょうか、ご詠歌の「たまり水」は「たまり渕」との説もあり堂前石碑は「渕」と刻されています。古老からは「札所のすぐ西側に太田川の川渕があり、裏側に一丈以上(目通り10尺3.03m)の大松が7~8年前まで(昭和40年代)現存していた。」と伺いました。

        
「太田川の流れ」・・・昔の太田川の流れは、中流部の山梨付近より下流は現在の流れより遥か東の山裾を流れていたようである。その後鎌倉時代の正治・建仁の頃(1199~1203)本流が西に大きく変わった。また上山梨には明治22年頃(1889)まで船頭を生業とする者もいた。現在の太田川と異なり、河床は低く、水量は豊富で船の往来に適していた。(山名の郷より)と記されています。ただ文化14年(1817)仲井用水絵図・嘉永6年(1853)の仲井用水関係絵図を見ますと、上山梨の東側を通る用水(大井用水)と仲井用水路は十五社近くで合流し南下して鶴松村へ向かっています。十五社の東南に当たる下山梨村から平宇村辺りには大きな水路は見当たらない。また山梨の東山裾を流れる川が下山梨道の西南で二股に分かれていますが、それほど大きな用水路とも思われません。札所が川の近くにあったのか、川が札所の近くを流れていたのか 謎の「渕」と「舟寄せの松」です。現在お堂から太田川までは1キロ程離れています。

本尊様は「六観音」とされています。観音様33身は「法華経」普門品に説かれ、それに合わせて楊柳(ようりゅう)・竜頭(りゅうず)・持経(じきょう)・円光(えんこう)・遊戯(ゆげ)・白衣(びゃくえ)・蓮臥(れんが)・滝見(たきみ)・施薬(せやく)・魚籃(ぎょらん)・徳王(とくおう)・水月(すいげつ)・一葉(いちよう)・青頸(しょうきょう)・威徳(いとく)・延命(えんみょう)・衆宝(しゅほう)・岩戸(いわど)・能静(のうじょう)・阿耨(あのく)・阿麼提(あまだい)・葉衣(ようえ)・瑠璃(るり)・多羅尊(たらそん)・蛤蜊(こうり)・六時(りくじ)・普悲(ふひ)・馬郎婦(めろうふ)・合掌(がっしょう)・一如(いちにょ)・不二(ふに)・持蓮(じれん)・灑水(しゃすい)の33観音を云いますが、必ずしも根拠が明らかではありません。滝見観音や岩戸観音は日本で始まったようです。

33観音霊場はこの数をご縁にしているわけですが、あらゆる災厄に応じて、あらゆる人を救う現世利益佛としての信仰が広がってきますと、新たな観音が創り出され、最終的に「六観音」あるいは「七観音」になり、それぞれが独立した観音様として信仰対象となります。最も基本的な観音様を聖(正)観音とし、以外を変化観音と呼び、聖(しょう)・千手(千手千眼)・十一面・馬頭・如意輪・准胝(じゅんてい)・或いは不空羂索(ふくうけんじゃく)が「六観音」。また六道能化とし、地獄⇒聖 餓鬼⇒千手 畜生⇒馬頭 修羅⇒十一面 人⇒准胝 天⇒如意輪 の各界に配置し、33所巡礼すれば全ての人が救済されるとします。

さて、ここの札所の観音様を考えてみます。「六観音」を本尊様とされているということは、まずこの札所だけで全ての人を救うという大誓願を持っていることとなります。通常すべてを本尊様とすることは考えられません。中心になっている観音様があるはずです。この札所の本尊様は「守り本尊」とされています「十一面観音様」で、他に6体の観音様と庚申佛(青面金剛童子)が祀られています。すでに「山名史研」114号「観正寺の仏像」で述べられています。

 6観音の写真

西国33ヶ所の写し霊場として遠江33所ができ、またその写しとして一山に西国33ヶ所が設けられたり、ここのように一寺院に7体が祀られ、地元の人々の為に便宜が図られます。足腰が不自由になってくる高齢者にはありがたい配慮ですし、サロンや憩いの場としての役割も担ってきます。


写真は入口に置かれている石です。誰もが、何だろうと気になり眺めるようです。岩の中から生み出された子生まれ石?水の回転で作られた珍石? 丸い石(石神)の信仰は全国的に見られますが、特に甲斐・信濃から遠州にかけて顕著です。大井川から天竜川の間には丸い石を「地の神様」ご神体として屋敷神等に祀る風習があり、礎石の象徴として乾(西北の角)に祀られています。 石神はシャクジンと読みますが、言葉の変化により、社宮地(シャグチ)・しゃもじ等ともいわれます。・・・全てが丸く収まりますようにと・・・

月見里と書いて「やまなし」と読む美的感性は日本人ならではと感心させられます。この月見里を「やまなし」と読む初見は天正17年(1590)とされています(袋井市国本浅間神社鰐口の銘文の最後に:月見里大工助九郎をもって月見里と書いてヤマナシと読ませた最初の表記…原秀三郎)。また各地にある山梨もここが最初とされています。(同)  平成11年頃町村合併促進により全国3232市町村が1514減で1718市町村になりました(平成29年)。新たな市町村名を考える機会に日本人の持つ情緒と繊細さ感性は活かされたのでしょうか、総背番号制の今の時代に遊び心は〃だめ〃か・・・。

「木も見て森も見る」という諺があるかどうかは知りませんが、小さなお堂の良さは凝縮された一つ一つのものに目が向けられる利点があります。一面に植えられ咲き誇る花もみごとですが、可憐に咲く一輪の野草に心ひかれる・・・そんな札所です。

◎参考文献:「山名の郷」「袋井市史」「山名史研」「秘仏」ほか

〇御詠歌

幾たびも 参る心の溜り水 浮かぶ弘誓の 船よせの松

山本石峰氏は「※捲(まく)まず倦(あぐ・う)まず巡礼すれば、功徳心は溜り溜まって池となり、観音様は弘誓の船を漕ぎだして此処(ここ)よ此処よと松の根元の待ってござる。」と記しています。

※捲まず倦まず:「どんな困難があっても、一枚一枚剥ぐように努力して」というような意味でしょうか。

2017・4/28公開

気まぐれな巡礼案内⑧´

投稿日:2017/04/26 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

2番 常楽寺の続きです。

堂内に祀られています薬師如来立像(写真)の右手の印相のことが気になっています。如来形で左手に薬壺を持っていますので薬師如来に違いはないと思いますが、一般に知られています印相は施妙印(掌を外側に向け、五指を伸ばし薬指を少し前に出し、その指の先で薬を塗る形)ですが、ここの仏像は右手の無明指(薬指)を大指(親指)で捻じています。通常これは「説法印」と云われる印です。「薬師琉璃光七佛本願功徳経」に①善名称吉祥王如来 ②寳月智厳光音自在王如来 ➂金色寳光妙行成就如来 ④無憂最勝吉祥如来 ⑤法海雷音如来 ⑥法海勝慧遊戯神通如来 ⑦薬師琉璃光如来 の七佛の本願を説いています。⑦の薬師琉璃光如来の6分身と見るか、別尊と見るかは両説ある所ですが、この七佛薬師の中に三体「説法印」の如来がいらしゃいます。同じ印として釈迦如来は法身説法を示す「智吉祥印」ですし、阿弥陀如来は下品下生をあらわす印になります。 なぜこのお姿でこのお堂に祀られているのか、何か理由があると思うのですが。七佛薬師は主に天台系で修されることが伝えられています、としますと両部の大日如来・薬師等から古くは密教系寺院だったかもしれません。解かる方がいらっしゃいましたらお教えいただきたいです。
また、初めて見たのですが 石仏の庚申佛です(写真) 普段見かける庚申佛(青面金剛童子)とは異なり、僧形の庚申佛です。手には三股叉・法輪・弓・矢・剣・ショケラ?を持ち、三猿が彫られていますし、持ち物は青面金剛同様で姿のみ僧形です。庚申信仰の初期には阿弥陀如来や地蔵菩薩を庚申佛として祀られた例は聞いたことがありますが、この像も何か特別の意味を持っているのでしょうか。どこの札所を訪れても謎と宿題を頂いたようです・・・。お参りの節には是非参拝してください。

 
〇御詠歌

是や此の 常に楽しむ 寺なれば 稔りの船に 棹やさすらん

山本石峰氏は「般若の船に棹さして、涅槃の岸に到らば、転迷開悟の道開けて、常楽我浄は受け合いだ。この船に乗り遅れると地獄の谷だぞ。」と解説しています。

2017・4/26公開

気まぐれな巡礼案内⑧

投稿日:2017/04/15 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

2番札所 保福山 常楽寺です。

1番結縁寺を出て西北に進み、左手に花鳥園を見て東名高速の下をくぐり、その先の久保一丁目を西に向かい久保二丁目、その先が下俣南です。右折しますと入口の銀杏が目印です。周りの市街化が進み枝葉ものびのびとはいかなくなって来たようです。観音様はその先に祀られています。

HP最初のスライドショーに映し出されている仏像はこの札所の仏様です。開放的な寺院ですからお参りする側のマナーが試されます。この札所を訪ねますと、長く尊前に座り込んでしまいます。誰にも邪魔されず、気が済むまで座りり続けられる寺院は在りそうでなかなかありません。「ゆっくり佛の前に座ったら 生きる力が湧いてくる ありがとうの気持ちが 沁みてくる・・・。」一人静かに心の疲れを癒したい人には最高の道場です。


42文字の短い経に「十句観音経」があります。「観世音 南無佛 與佛有因 與佛有縁 仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音 暮念観世音 念念従心起 念念不離心」この経の中の「常楽我浄」を観音の四徳と云います。常徳⇒無常を悟り平常心。楽徳⇒苦を知り尽くすことにより、苦から脱する。我徳⇒縁により生かされ、他をも生かしていく。浄徳⇒浄不浄のない平等な智慧と慈悲。常楽寺の寺名はここからきていると思われます。寺院名の謂れを想像するのも楽しいものです。33番の札所で観音様からとったと思われる山号・寺号は、そのものずばりの「観音寺」を筆頭に「慈眼寺(観音経から)」「大尾山(大悲山・旧千手院)」「粟が嶽(観音を意味するアボロキテイーシュバーラ)「如意輪山」「福聚山」また「福」「観」「蓮」「華」「浄」「慈」「妙」などの字も観音様を連想し〃ここにいますよ〃と伝えています。

さて、この札所は平成6年に建て替えられました。玄関に掲げられています山号額は、当会前会長の小野田実英師揮毫によります。寺の歴史は、合併前の「法(保)福寺」寛永11年(1634)証文類焼失・同寺元禄3年(1690)観音堂建設し巡礼者盛況するも、いつしか小庵となり、文化年間(1805~)には常楽寺に全て移され廃寺となっています。天明7年(1787)再建するも、安政の地震(1854)で堂宇倒壊、明治初年再建、大正9年修繕、昭和46年台風により倒壊と変遷をたどりながらも地元の檀信徒の尽力に支えられ今日に至っています。

写真のように幾つかの寺院の仏像が此の寺に集められていますので、仏様を拝見するだけでも興味深く、直接見ることができます。この札所の観音様は「聖観音」となっていますが、「御朱印」も「本尊様」も観音様ではありません。聖観音はどこに行かれてしまったのでしょうか。しかし先記の寺院名〃ここにいますよ〃またこれだけ仏様が並んでいますと特に決めなくてもいいよね、と人目線で言われているようです。


ここ下俣は下股とも書き、十王町と下股町の間に落ちる川を、小掛川と呼ぶ。と下股村に記され、十王は隣町で、十王思想は古くからあったものと思われます。上の写真は最近ではあまり見かけなく成りましたが、閻魔大王(左)と奪衣婆(だつえば)と書記官の司命(右)です。亡者が三途の川を渡ると奪衣婆に死装束を脱がされ、衣領樹(いりょうじゅ)に掛け、しなり具合で生前の悪業の軽重が判断され、次に閻魔大王の前で浄玻離(じょうはり)鏡に悪業が全て映し出され、書記官司命により記され、亡者の行き先が告げられる。地獄図で語られる話は子ども心に恐ろしく、いつまでも忘れることが出来ず、親からも悪いことをするとこうなるぞと云われたものでした。

この札所に祀られています仏像群を見ていますと、4つ位のグループに分けられるかなとおもわれます。1つには金剛界大日如来を本尊様とするもの、2つには地蔵菩薩を中心とし閻魔・奪衣婆・司命など十王思想のもの、3つには薬師如来を本尊とするもの、今一つは釈迦如来(胎蔵界大日如来)と観音様(今は無いが)。それぞれが一寺院や一お堂と成り得るからです。

金剛界大日如来胎蔵界大日如来か宝冠釈迦如来

気まぐれな巡礼案内②´

投稿日:2017/03/23 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

気まぐれな巡礼案内②で紹介しました「獅子が鼻」の岩に刻された和歌の続編です。

袋井市春岡の古刹西楽寺には「遠江古蹟図絵」を著した 再影館藤長庚(兵藤庄右衛門)が寛政3年(1791)に和歌の拓本を取り作成された版木が残されています。その由来を当時の寺の住職は「岩室山和歌記」として残しています。漢字ばかりで読みにくいですが記してみます。

遠江國周智郡巌室山者弘法大師開基而其岩之形如臥牛也 然大師真跡之和歌在于牛鼻焉 仰是聳崖萬丈非雲梯何書彫此耶思則佛陀権化之所作而異神巧妙於茲知之也 実依此奇郷里之人民云其地名於牛鼻焉 時寛保元辛酉年之春岩之牛鼻落萬尋之深谷也 雖然幸哉和歌向空而文字粲不損矣従寛保元酉年當寛政八甲辰迠経年五十有六也 見和歌在牛鼻里人至今存焉 亦遠境之緇素為令崇尊大之真跡釋榮信藤長庚等 謹繕寫而贈予依之為傳後世影銶于石而摺紙信施而巳 維持寛政八甲辰年  遠江國 西樂寺 釋法印元宣

享和3年(1803)に「遠江古蹟図絵」は著され、93項に「牛の鼻詠歌」と題して「山梨より一里北、豊田郡巌室村に観音堂有り。当国巡礼札所なり。堂の後山の頂に牛岩有り。黒岩にして牛の伏したる形に似たり。およそ十間程長さ有り。その牛の鼻の所に一首の歌を彫刻す。千里鏡にて見たる所幽かに見え、往古より云い伝ふ空海の筆ならびに歌と云い伝ふ。先年宝暦年中、大地震してその牛の鼻の所巌闕けて落ち、山の半腹に立ち懸かり今に存在す。その場所に至る山険阻にして、木の根に取り付き下る。甚だ危うく難所なり。余、先年、栄信和尚同伴にてこの処に至る。長さ五尺ばかり、横三尺ばかりの岩に一首の歌有り。大師流とは見ゆれども、さのみ能書とも見えず。  世をうしの はな見車に法のみち ひかれてここに 廻りきにけり  右の歌短長に書きてあり。雪花墨を以て正面摺に模して帰りたり。空海の筆ともおもはるる事は、岩の歌有る場所、山の端下よりは数十間も有るべき処、書くには足代など掛くべき所に非ず。弘法大師、法力を以て空中に坐して居り書きたるかと思はる。大師ならでは外に有るまじ。尤も無名なれば、外人の書きしや不審。所の者云い伝えしまま、弘法の筆跡と云い来たれり。余、これをまた板行とし余国へも披露せしなり。今はその板木、周智郡下村西楽寺にあり。」と書かれ、先の寛政8年(1796)西楽寺版と同じ内容で紹介されています。

また豊岡物語には「今も語りつがれている 中遠昔ばなし」第12話「衣かけの松」に「昔むかしのある日、夕もやのかかる頃、今の獅子が鼻公園の頂きの岩に、衣も色褪せて見るからに哀れな様相の僧が一人腰をおろしておりました。しばらくすると、僧はやおらたち上がり、急な岩山を降りはじめました。身の毛もよだつような絶壁を、あやうい足取りで降りて行き、突き出た大岩石までくると、今度はノミを取り出して岩に一心不乱に文字を刻み始めました。 世をうし乃 はな見車に法のみち ひかれてここに 廻りきにけり  刻み終わると、僧は頭上を覆う松の枝に身の衣をかけ、にっこりとほほえむと、いずこともなく消えていきました。やがて衣は朽ち果て、今はこの衣かけの松だけが、獅子が鼻公園にそびえています。かの僧は、弘法大師。八百八谷ある霊山をもとめて寺院建立をおこしましたが、獅子が鼻は一谷足らず心ひかれながらも下山し、その後高野山に登ったとつたえられています。」と紹介されています。

要約してみますと、オーバーハングの岩肌に1200年前弘法大師が刻んだとされる和歌が残されていました。歳月が流れ 宝暦の地震(1751・4/25)で岩が崩落しましたが、岩は中腹で止まり和歌も確認できる状態なので長庚は拓本に取り版木にして袋井市春岡の西楽寺に納めた、その後安政の地震(1854・12/23)で再度崩落し所在はわからなくなりました。大正2年(1913)修行者によって拓本を手本に岩に刻まれたものが現在目にすることのできる岩肌の和歌です。

この歌について一説には、修行者がそれぞれの行場で唱える歌(※秘歌)であり、「世を失の鼻見来る間に法に道、惹かれてここに廻り来にけり」との意味が込められている。との見解も示されています。(袋井市浅羽郷土資料館「遠州の霊山と山岳信仰」より)

岩に刻まれた歌だけでも多くの言い伝えが残され、歴史をこの目で感じることができます。是非お参りを・・・。

※秘歌・・・本来門外不出の秘伝で、気安く人前で唱えてはならないとされる。山岳修行では、修行場の行が成満した時に先達から授けられる歌でご真言

と同じ価値を持つ。 写真は拓本・昔話の絵・版木何れも西楽寺にて

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〇御詠歌

岩室の こけの細道 ふみ分けて 参る心は 浄土なるらん

山本石峰氏は「人の一生は棘(とげ)の多い茨(いばら)の苔の細道を登るようだ。煩悩の棘を払いよける観音力に縋(すが)って行けば極楽浄土は眼前ぞ」と記しています。

2017・3/23公開

 

 

 

 

気まぐれな巡礼案内⑦

投稿日:2017/02/21 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

30番盛岩院内青木寺です。ホームページの案内と若干異なる所もあります。

※「岩滑らかに 水清き郷」として修行僧が名付けたとされる岩滑、この地域には※「名僧横穴群」や「松ヶ谷横穴・清水ヶ谷横穴群」があり、遥か1500年昔から人々が暮らしてきたことを物語っています。 菊川、稲荷部川の合流部と佐束川に挟まれた丘 その中、東南の先端部「観音平」に青木寺はありました。宝暦14年(1764)大破に付き再建されましたが、明治6年(1873)盛岩院境内に移されました。

本尊様については、実に立派な御厨子に祀られています。昭和55年(1980)専門家によって鑑定され、「中国宋代美術の影響を受け、鎌倉後期の様式の流れを汲んで作られたもの。その製作は南北朝(1336~1392)の頃と推定される。また内蔵されている観音像は明和元年(1764)作成されたと記されている。」との結果が出ています。(岩滑の昔を偲ぶより) 胎内佛は観音堂が再建された時に祀られたことになります。

初めて30番札所をお訪ねした時、「ここの本尊様は変わっていて、お腹ごもりの観音様と云い、千手観音様の腹中に聖観音様を安置するお姿」だと老婆が話してくださいました。また、この観音様のあらたかなことは、昔話に「青木前の道を馬に乗って通る時、お堂の前まで来ると必ず馬が暴れ出し、乗っている人は馬から落とされてしまう。あまり何度も何度も続くので村人は、観音様を背中向きにしてしまわれた。その後、誰も落馬する者はいなくなった。という語り伝えがあるほどです。」とも話してくださり、観音様と田舎の人々との素朴なかかわりをほほえましく感じたものでした。

〇御詠歌

行き見よと 誰いそぐらん磯山の 松の葉超ゆる 沖つ白浪

山本石峰氏は「遠江三十三ケ所御詠歌 詠歌中和歌ノ本体」で「この歌の註解は面倒だ、地理的に当時上平川一体(帯)は池沼地で池村の字名はその名残なり。稲荷部青木山より眺めたる景色を詠みたるなり。

而して白浪の枕詞を結句に置きたる作者の技巧深く味わう可し。生住死滅の原理を白浪の二字にて説破せり。扨 誰人も死後を考えず齷齪(あくせく)するが、左様に急ぐもので無いよ。先現在世の務めを篤く

考へて未来世の因を作って果を願い玉へ。磯山とは人間最後の死に際なり。因果の道理で死変わり生変わりするのは、沖つ白浪の寄せては返し、返しては寄せる如くして先々※阿耨多羅三藐三菩提を成就してから

ソロソロお出掛けだ、急ぎ玉ふな。」ときしています。

寺院の境内には地元人々の信仰の様子が凝縮されています。ここ盛岩院にも多くの石仏、記念碑、供養塔が立ち並び、観音信仰のみならず、多様な信仰がうかがえます。その中で一際大きな西国巡礼供養塔には大正10年(1921)9月5日に出立して10月9日に帰村したと刻されています。軌道が有ったとはいえ、生涯に一度の長旅であったでしょう。またその横には他ではあまり見かけない「大峯山上役行者」と刻された石塔が立ち、同行11人と記されています。観音供養塔と同年のところから、掛川市本郷「長福寺の鐘」伝説を知っていて西国巡礼のついでに大峯山に登拝したのかもしれません。等と広々とした「盛岩院」の境内をゆっくり散策していますと、様々な想像が湧いてきます。

※「修行僧から命名された地名」S59・8/19安藤保兵記

※名僧横穴群・松ヶ谷横穴・清水ヶ谷横穴群;横穴は古墳時代(6世紀後半~7世紀初)に南斜面に掘られ、内部に死者を安置し、副葬品を納め、入口を川原石で塞ぐ形式の墓で平成2年・平成6年本格調査が行われ、馬具・玉類・須恵器等多くの貴重な副葬品が出土しました。

※阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい):阿耨多羅は無上、三藐三菩提は正等正覚と訳す。佛果円満の一切智智を指す。正しい悟り。

IMG_3015観音仏を左にとっていくと青木寺の有った「観音平」に出ます。

IMG_3004広い境内、正面が観音堂、岡の向こう側が「観音平」

IMG_3007立派な御厨子

IMG_3010鰐口には「遠江州笠原庄岩滑郷真福寺 時長禄戊寅二年三月吉日 願主聰學大工十郎」と刻されています。

2017・2/21公開