静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

気まぐれな巡礼案内⑥

投稿日:2017/01/17 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

31番 紅梅山菊水寺です。場所は掛川市岩滑(いわなめ)、30番の青木寺も同じ旧岩滑村で直線距離にして西に500m位でしょうか。山裾に沿って十軒足らずの民家があり、最も奥まった一段高いところにのどかに広がる田を眺めるように観音堂は建っています。この辺りを小字名「印南前(いんなまえ)」と云い、後に触れますが様々な謎を提供しています。

寺の入口西側に「中島家」があり観音堂を守り続けています。この「中島家」の系譜に5代目安重(1633~1710)(俗名右兵衛または宇兵衛或いは賢道)「寛文12年(1672)10月菊水寺を建てて木像を安置する」。続いて6代目致齋(1661~1729)(幼名宇兵衛・和泉)「元禄4年(1691)この年より菊水寺のお堂をつくる」とあります。その後享保7年(1722)菊水寺観音開帳との記述があります。伝承の「寛文12年の大洪水で本尊が流されたこと、元禄4年お堂建立のこと」共に正確に伝承されていると思われます。

遠江観音霊場の草創期、寛文12年「菊水寺を建てて木像を安置する」との記述はかなり重要と思われます。中島家の5代目・6代目は幕藩体制が浸透し、近世の村が形成されてきたこの時代に、各村の精神的拠り所となる氏神様を多く祀り始めます。

例えば 寛文10年(1670) 八幡宮再建

寛文12年(1672) 若宮山王権現建立

延宝 7年(1679) 天神社再建

元禄 5年(1692) 若宮山王権現再建   以上は5代目安重

貞享 4年(1687) 八幡宮再建

貞享 4年(1687) 新野村岩箇谷弁財天宮建立

元禄 8年(1695) 八神神殿再造(西尾の帰依を受ける)

元禄12年(1699) 中方村金山権現再造

元禄13年(1700) 赤土村氏神三社造営

宝永 4年(1707) 新野村阿須加大明神、王子権現、八幡宮遷宮

宝永 6年(1709) 岩滑村金山社勧請

宝永 7年(1710) 天神社再造  以上は6代目致齋

等、多くの神社造営に関わっています。勿論、村の有力者の意向を受け、その祀り込みや再建に斎主として関わっていたと捉えるべきでしょう。ただ、※安家として横須賀西尾隠岐守入城時(天和2年4月)から篤い信仰を受け、村々への影響力は絶大であったと推測されます。先記の「木像を安置する」は、この時新たに祀り始めると解すべきと思います。

※安家(あんけ):土御門家(安倍晴明の流れ)を中心とした陰陽師(おんみょうじ)を安家と呼ぶ。「中島家」初代中嶋民部(1511~1591)は陰陽職で以降12代隆直(和泉)まで続く。(明治3年、陰陽道廃止令発布)ただ、前期は修験道を兼職・11・12代は白川神道(伯王家)を兼職、その後神官となる。

さて、「印南前」ですが、地元では観音堂の前(院の前)或いは法印の前と考えているようですが、「院内(印内)前」が変化したと考えられます。印内とは※山本義孝氏によれば、本来は職業名で、大地に宿る精霊を鎮めながら自然を開拓・開発していくことを専門にした人たちのこと。半宗半俗で、後に住む土地をも印内(院内)と呼ぶようになる。印内は中世から戦国期に最も活躍をする。一方印内と似た活動を行っていた陰陽師と呼ばれれる人々もいます。戦国期末になりますと両者の区分はわからなくなっています。その後、江戸期になりますと陰陽師は京の土御門家(天社神道)が支配することとなり(1683)、その配下として続けていくこととなります。

文化2年(1805)掛川藩によって編纂された「掛川誌稿」の廣安寺の項に「天正11年(1583)の裁許状に、遠江国中の印内11カ所の地名を載せたるは、11所 気加・笠井・天竜・河合・飯田・大渕・笠原・河村・勝間田・榛原・懸川なり、今もみな在り」とし、その地区の特定もされています。ただこれらは、宗教者(民間陰陽師)集団の村と捉えると、岩滑のこの地が含まれないことは、個としての捉えか、別格扱いだったのでしょうか。

「中嶋家の初代(1511)壮年より神祇陰陽の職をもって生業とす」とありますので、陰陽師が住む場所を「印内」としたのでしょう。

なお、5代安重は修験道も兼ねていて「繫昌院」と名乗っています。土御門家が支配するまではあまり制約は厳しくはなく、支配が確定することにより、修験道(山伏)と陰陽道はそれぞれ立場を異にしていきます。

いささか堅苦しくなりましたので筆を置きます。まだまだ調査したいこともありますが、次回ということにします。徐々に巡礼案内から外れつつありますが、気まぐれということでご容赦を。

 

〇御詠歌

岩なめや 春のあしたに来てみれば 梅の梢に 鶯の声

山本石峰氏は「巡礼の終点も近寄って朧気(おぼろげ)ながら感応した。丁度一年間苦労して歳の瀬を超して、春を迎えた様だ。鶯が法華経と御年始だ。」と記しています。

春 鶯が啼く頃 訪れて 縁側でまどろみながら昔に思いを馳せてみたい札所です。

※山本義孝:日本山岳修験学会員・日本宗教学会会員

※写真は中島家の墓・菊水寺から南の景色

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2017・1/17公開

気まぐれな巡礼案内➄

投稿日:2017/01/02 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

24番志戸呂の岩崎観音寺です。 歩き遍路で、22番観泉寺から大雨の粟が嶽にお参りし、暮れかかる中 稲荷堂を東に入り、稲荷段の奥貝戸(おくがいと)から首切沢(くびきりざ)を通り安田(あんだ)を抜け、森の谷(もりのや)から大代(おおじろ)に向かって急いだことがありました。暗闇の中、たまたま通りかかった車に乗せていただき、岡穂平(おかぼだいら)の遠戚の家に一夜をお借りしたことを懐かしく思い出します。

 昭和60年頃、よみがえれ”信仰の道”と銘打って、茶園造成時に移動されたり埋もれたりした道標(石標)を掘り起こし、道路脇に据えようという活動が行われたことがあり、5基が見つかりました。安田から上志都呂への古道は牧之原台地の付け根を横断するため、幾筋にも道が交錯する迷いやすいところであり、たくさんの道標が残っています。 さて24番の観音寺は平成10年代の新東名高速道路工事に伴い、本堂が建て替えられ、本尊様も新しく迎えられお祀りされています。旧本尊様は向かって右側、ガラスケースに入れられ脇佛として祀られています。左手に賢瓶を持ち右手に結界印を結ぶ准提観音(じゅんでいかんのん)様と思われます。 なじみの薄い観音様ですが、西国11番醍醐寺が准提観音です。 金谷の日限地蔵尊は「学業成就」のご利益で有名ですが、童子沢(わっぱざわ)から運んだ石に地蔵尊を筋掘りした47歳の※日正上人が30歳の時に刻した下の写真、31歳で刻した写真、両方とも准提観音様です。願いによって姿が随分違ってきます。別名を七俱提佛母(しちぐていぶつも)と云い無量の諸仏の母を意味します。岩崎観音が准提観音様だとすると、どのような願いがこの札所に込められていたのでしょうか。

※日正上人(にっしょうしょうにん);明治期ハンセン病患者や悪疫に苦しんでいる人を救済し生祀にまつられた修験道行者(山伏 宮家準)。天保5年(1834)駿府で生まれ高井姓で、日正・光明院・田吾・善證を名乗る。

〇御詠歌

田子の浦 伊豆山かけて大井川 岩崎てらす 秋の世の月

山本石峰氏は「遠江三十三ケ所御詠歌 詠歌中和歌ノ本体」のなかで「岩崎山で見渡せば、足許の大井川は勿論 駿河伊豆が一目だ。観音で観れば、人生五十年もこの通りだ。秋の夜の月とは何の譬え  だよ。」と記しています。

 

少し寄り道を・・・大代を下り、北に進むと新東名に沿って牛尾山があります。山頂に熊野神社が祀られ、社が隠れてしまうほどのクスの巨木が聳えています。表示板によりますと樹高35m、目通り11m、枝張り37mで樹勢は活発と書かれています。天正18年(1590)牛尾山の尾の先を切り、大井川の流れを替える「天正の瀬替え」の大工事が駿府の中村氏、遠江の山内氏のもと成し遂げられました。熊野社はこの頃に祀られたようです。

この地に残る民話に「大井川をはさんで駿府側の大クスと遠江側の安田の大シイは喧嘩ばかりしていたので、瀬替えをしてクスとシイを地続きにした。やがて地元が開墾され発展していくうちに仲直りした。」という話も伝わっています。樹齢400年以上とされています。熊野社は「梛木(なぎ)」を御神木としますので、クスと同じ場所に立っている梛木も同じ年数を経ているものと思われます。

瀬替えが竣工して4~50年後に詠まれたであろう岩崎から眺めた大井川はどんな様子だったのでしょうか・・・。

※写真は日正上人が刻んだ准提観音・24番旧本尊様・熊野社の大クス・岩崎山観音寺

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2017・1/2公開

 

 

気まぐれな巡礼案内④

投稿日:2016/11/06 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

今回は、先日(平成28年9月23日)33年に一度のお開帳を成満されました15番文殊寺内浄円寺です。文珠寺本堂の西南側に東向きに浄円寺は建っています。「円通}の扁額が印象的です。観音様の浄土は、渡海浄土で南の方角を云いますが、鎌倉期以降阿弥陀信仰が広がり西に向かい手を合わせることも一般化しました。お開帳の時拝した観音様は寺伝によりますと、※源信作(天慶5年942~寛仁元年1017)と伝えられています。1000年昔です。作者不詳の時、弘法大師作、行基菩薩作と云い伝えることが多くあります、そうあってもらいたいとの信仰上の希望的観測です。ただ源信作と云われますと、ひょっとしたらと思う。それは近在では聞きなれないことと、源信すなわち恵心僧都作の仏像は増上寺の黒本尊、備中千体阿弥陀如来像等多数に上るといわれ、水垂(みつたり)との境界六万法(ろくまんぽ)に規模の大きな寺院が存在した(天文年中迄1532~1555)との言い伝えもあり、高さ8寸とか1尺2寸とか寸法まで具体的に書かれていますと信憑性は増します。

この札所には西国33観音仏像が全て祀られています。観音堂を建て替える前は、本堂とお堂とが連結された処に並べられていました。随分傷んでいましたが、全て修復され現在観音堂に祀られており、地元の方々の篤い信仰を窺うことができ、「遠江西国33観音」と呼んでいることもうなずけます。

15番へのルートについて鈴木茂伸氏は「遠江33観音霊場巡礼道」の中で「14番大雲院または地蔵院・知漣寺から15番文殊寺へのルートは、倉真(くらみ)の報徳神社付近から倉真と初馬(はつま)の境界尾根に沿ってつたい、越えて長老塚やその上の茶畑の供養塔を経て、※初馬の文珠寺に至ったと推定されるが、そのルートが正しいのだろうか。」に留め、宇寺山にあった朝日山には言及されていません。

本尊様の作者、ルートは今後の調査に委ねるとして、平成に入って観音堂の建て替え、今回のお開帳と寺院・地元の力強い支えがあることは、ありがたいことです。 禅寺特有の背筋をピシッと伸ばしたくなる威厳と風格、漢詩が似合いそうな文珠寺です。

「遠江の札所」も歴史の中で危機が度々あったことは、三十三所の内 移動された札所が半数を超すことからもわかります。ここ150年の中でも大きな転機は明治初年の神仏判然令と廃仏毀釈、敗戦後の信仰離れ、そして現在の価値観の変容(現在進行形)です。

衣食住が足りて、次は心の時代だと叫んでみたら、不足気味の衣食住の中にしか心は宿っていなかったことに気づいた私たちの彷徨は未だ向かう先を見失っています。 変わらず微笑み続ける観音さまのお姿に、手を合わす側の器量を求めるのでしょうか。       しずかに 手を合わすだけでいいのに・・・

※源信=恵心僧都=横川僧都のことで、平安時代の天台僧、往生要集の著者(天台浄土教の理論と修行を体系化)

※初馬:この里の第一の谷間によりこの名在り、近くに倉真・長間・谷間・萩間等あり(掛川誌稿)

 

〇御詠歌

清くして 円かに照らす 朝日かけ 是も佛の 慈悲のまんぎょう

山本石峰氏は「※五台山を照らす朝日影は、言語に堪えた美観だ。※五蘊皆空のお山に巡拝が出来たのも、是は観音力の萬行の功徳だ。」と記しています。

※五台山:文珠寺の山号ですが、中国の山西省東北部五台県にある霊山。標高3058m。文殊菩薩の聖地として、古くから信仰を集めている。2009年世界文化遺産に登録された。(ウイキペディア)

※五蘊(ごうん):般若心経の経文で耳にしますが、色・受・想・行・識の五つを云う。人間の肉体と精神を5の集まりに分けて示したもの。「色」は物質的存在を示し、「受」「想」「行」「識」は精神作用をしめす。

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観音堂                西国33観音像         文珠寺

2016・11/6公開

 

 

気まぐれな巡礼案内➂

投稿日:2016/10/28 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

今回は来年(平成29年4月)にお開帳を控えた20番大原子観音寺です。 寺伝等は「霊場のご案内」をご覧ください。

〇御詠歌

父母を 扶け給への観世音 心をつくす 法のしるへに

山本石峰氏は「観音力に遵(したが)って一心に祈るのは、亡き父母が彼の世で因果の業ゆえ水火の苦を受け居るを救い玉へ、軈(やが)ては我も亡き父母ぞ」と記しています。

 

〇観音寺境内の西南側に変わった字体の「南無阿弥陀仏」石碑が据えられています。揮毫者「徳本上人(行者)」について案内します。

九州宮崎県の山伏、野田成亮(のだせいりょう)が1812年から1818年の6年2ヶ月にわたる日記「日本9峰修行日記」が残されています。この中で1818年4月から和歌山県を回り「徳本」について記しています。現代風に言えば、東京で活躍している徳本さんのことを実家に行って、兄弟親戚縁者にリポートしているわけです。 日記に沿って、現代語で読んでみます。

4月4日 日高川を渡って 道成寺にお参りする。その後、念仏行者徳本さんの出身地 志賀村(しがむら)を訪ねた。 4月6日 大江村(だいえむら)を出発し、徳本さんの妹の家に立ち寄ったところ、法事中で食事をよばれ、一晩宿泊した。 4月7日 上志賀村(かみしがむら)徳本さんの生家、兵助と云う家に行く。 徳本さんの親は三太夫と云い、兄弟は7人、男2人女5人で、1人欠けて今6人がいる。 徳本さんは俗名重助と云い、弟はお坊さんになったが体調を悪くして実家に戻っている。

徳本さんについて聞いてみると、4歳の頃から子供同士では遊ばず、6歳の頃から東の山の上の1坪位の岩穴で念仏を唱えていた。16歳頃には皆に知られるようになり、どこにいても念仏を唱えるようになっていた。お唱えする時 鉦鼓を鳴らしていたが、隣のお坊さんに咎められ、それからは木っ端を打つようにした。その使い古しを皆がほしがり持って行ったので今は何も残っていない。徳本さんは横になって眠ることをしなかった、眠くなると机に寄掛り、目が覚めればすぐ念仏を唱えた。23歳で親と死別し、一層念仏を唱えるようになった。26歳の時 妹に養子を迎え、徳本さんは出家して僧侶になった。

千津川の川辺に小さなお堂を建て 昼夜念仏三昧し5年間薄物1枚で通し、食するものは五穀以外の物だけでした。 出家する前は皆が草刈りに出る頃には終えて戻り、田畑が害虫で被害を受けても「虫も天地の間の物なれば、食せずにはおられまじ、腹一杯食したならば、止むべし。これを殺す事は罪なり。」とそのままにした。しかし収穫時には皆と同じ収穫が得られた。 また近くの地蔵堂に朝晩毎日お参りを14・5年欠かさず続けた。 子どもの頃から念仏ばかり唱え、読み書きはできなかった。「南無阿弥陀仏」も絵を見るように唱えていた。これは法然上人の一枚起請に叶った念仏行である。 徳本の噂が広がり遠近から参る人が多く、修行が出来ないと20キロ程山奥に入り修行するようになったある日、8代紀州元藩主徳川重倫(しげのり)公から呼び出しがあったが行かなかったので、重倫公は狩りを口実に徳本を訪ねた。重倫公が「お前は何者か」と徳本に尋ねた、徳本は「私はご領内日高郡上志賀村の百姓三太夫の倅で重助と云い、今は徳本と名乗り浄土宗の僧侶です」と答える。何故ここにいるのかと問えば「私は身分も低く、その上愚痴闇昧(ぐちあんまい)で何もわからず残念なので一度人間らしくなりたいと、子供のころから念仏申し、今に至っています。」と答える。 本当の人間らしいとはどのような人を云うのかと、重ねて問うと「あなたのような人々を云います。高い身分に生まれることは天爵、高い位につくことは人爵、よって欲もなく思いどおり、心のままに暮らす事。このように一度なりたい為に苦しい行をしています。」と答える。 重倫は何も語らずその場を立ち去った。その後重倫の暴君ぶりも納まり、思いやる心を持つようになった。

徳本さんはその後、50歳で和歌山に出、それから摂津の勝尾寺へ移り、いま江戸にいて61歳になる。このように兄弟や近所の人から聞きました。

これらの話を聞いてから徳本さんが幼いころ毎日念仏申していた岩穴を見に行ったが何も印が無いので、草を刈り石で拝むところを作り、大ヘチの玉島というところから1尺位の黒色の丸い石を持ってきて置いておきました。

いささか長くなりましたが、上記のように徳本さんをリポートしています。1818年に徳本上人は亡くなっています。ここの碑はその2年後に建てられています。彼の死後も生前に書かれた「南無阿弥陀仏」は信者に配られました。この碑は彼がここに立ち寄った時に書かれたものか、或いは徳本上人を慕って参拝した郷土の人によって地域に建てられたものと思われます。

歳月によって剥がれた部分もありますが、彼の威徳を想い、地域の人々の西方浄土信仰を想いながらお参りしましょう。

img_2530    img_2527 徳本上人の石碑img_2534 観音寺と集会場

2016・10/28公開

 

 

気まぐれな巡礼案内②

投稿日:2016/10/16 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

今回は9番岩室と周辺です。 初めて訪れた時、8番観正寺から 歩けどあるけど着かず、遠かったことを思い出します。二里半(10キロ)の道のりです。

岩室に来たら公園に足を運ぶことをお勧めします。獅子が鼻から眺める絶景は、鳥になった気分 疲れを忘れさせてくれます。

古代から続く歴史の中で此の場所はどんな変遷をたどったのだろうか。観音堂裏山の夥しい薄石の古墳、山肌の岩室群、摩崖仏、国分尼寺跡、七堂伽藍を想わせる礎石類、平安期の仏頭・仏像、鎌倉期の大般若経書写、観音堂正面蟇股16枚菊紋、地名と伝説の数々、戦国武将の勢力争い等 限りなく謎とロマンは広がります。

「獅子が鼻」名前の謂れとなった先端は地震で鼻の部分が崩落する前は、「牛の鼻」と呼ばれていたようです。オーバーハングの岩が少しだけ低くなったようです。上からの景色を堪能したら、鼻の下に降りてみましょう。登山道を少し下りますと「衣かけの松」の標識があり、そちらに向かいます。歩いてすぐ右上に摩崖仏が現れます、その先が鼻の真下になります。歌が刻まれています「世をうしの はな見車に 法のみち ひかれて ここに 巡り きにけり」(永安寺開山寂室禅師 登山して看花の作あり(延文1356~1360)と言い伝えあり)。 またその右手には「弘法大師 投筆 天授 再寫刻 花押」(弘法大師の書かれたものを、天授の時に、再び刻する。あるいは 天から授かって再び刻する)とも記されています。字体から近世に刻されたもののようです。「天授」については、そのままの意味と、元号(南朝1375~1381)とも捉えることもできます。鼻の付け根の処には「役の行者」が真っ直ぐ西向きに座しています。衣かけの松から北側に回り込みますと、岩室がしっかりと残され 修行場として最適ですが、「この先立ち入り禁止」の標識に阻まれます。その先の大きな岩室には33観音がひっそりと祀られていますが、行くのは危険です。

時間に余裕があれば、公園の下から登山道を上がることをお勧めします。ひと汗かいて岩先に立った時の爽快感は何とも言えません。

今回は「獅子が鼻」のみになりましたが、その周辺にも多くの興味深い場所があります。40年前に行われた開拓パイロット事業は立派な柿園になり、今回訪れた時は 葉と果実の色づきも美しく、何度訪れても飽きることのない札所とその周辺です。

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