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気まぐれな巡礼案内⑩

投稿日:2017/05/30 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

1番 一澤山 結縁寺(けちえんじ)です

掛川誌稿(1805~数年間かけて藩が編纂した史記)に結縁寺村について書かれています。「結縁寺村は上張村(あげはりむら)の西南にあり、昔は一の沢村ともよばれていました。近くには久保沢、本沢、板沢等の沢の付くところが幾つかあります。寺は慶長9年(1604)の検地帳にも結縁寺領としてありますので、今は小さくなりましたが、昔は大きな寺だったようです。甲斐武田の兵火で(1570~1593)焼かれ何も残っていません。今の寺は承応2年(1653)に亡くなった心庵芳傳首座が中興として開山しました。村内に観音堂があり、1.5石の寺領を寺の僧の嘆願によって受けることが出来ました。」と記されています。また「観音堂はこの村の渓流の北に舊堂(もとど)と呼ばれているところにありました。村自体は慶長の時(1604)は3軒のみ(長谷川弥六・長谷川孫左衛門・村松五郎助)でしたが200年の間に子孫のみで7倍(23戸)に戸数が増えています。(現代語訳)」とも記されています。(現在もほぼ変わりない戸数です)

1番札所は東名掛川インターを出て西進、二つ目の交差点「上張矢崎」のすぐ先右手に白山神社があり、その下が札所です。行くには「上張矢崎」の信号を北進50メートルを西に折れ(案内標識あり)小川に沿って行けば着きます。
結縁寺を1番として始まる札所霊場は4番までは近距離で小笠山の北裾を回り、袋井に進みます。原川の善光寺を取り囲むように進み、時計方向に廻り、上内田を打ち止めとしているのをみますと、掛川市史で記されているように、この近在者によって33所は始められたか、何らかの関りが深いと推測して良いと思われます。
1番札所観音の案内はHP霊場案内を閲覧していただき、ここでは2点に絞って案内させていただきます。

其の1:ご詠歌「あかいの水に浮かぶ月かげ」の「あかい」です。観音堂の南側にコンクリートで四角の井戸桁上に竹編みの蓋がされ、北側に「閼伽井」と書かれた(写真)井戸があります。深さは堆積物で浅くなり1メートル位で水はありません。直径は50㎝位の小さな石積み井戸です。(写真)
 
「あか」は閼伽に書きArgh(価値ある)から作られた語で、捧げる水を意味し仏教では仏様に献じる水を閼伽とか閼伽水と呼びます。「あかい」はそのための専用井戸を指します。修法や仏前に供えるための専用井戸で、特に寅の刻(午前4時頃)には水に花が咲くといわれ、この刻の閼伽汲み作法もあります。ご詠歌に「あかいの水に浮かぶ月かげ」と詠まれています、この地に観音堂が移転建立されましたのが元禄9年(1696)です、ご詠歌はこの地で詠まれていますので、ご詠歌が作られましたのはそれ以降となります。

「閼伽井」で有名なものは、西国札所三井寺の「閼伽井屋」で天智・天武・持統の三帝の産湯に使われた霊泉と云われていますし、奈良の秋篠寺、京の東寺、奈良東大寺の二月堂は有名な「閼伽井」とされています。近在で「閼伽井」と呼ばれる井戸はあまり見聞きしませんので、言葉の意味も参考にして見学してくださるとありがたいです。一人がやっと入れるくらいの井戸です。どうやって掘ったのか?元の深さは?

其の2:各札所には長い歳月の中で当初は当たり前だったことが、今ではわからなくなってしまっていることがあります。観音堂に掲げられている扁額(写真)は60年前の昭和34年お開帳記念に奉納されました。
奉納揮毫者の姓と名の一字ずつをとって「山彦書」としたそうです。この年代の「山彦」と云えばホトトギス派俳人「三星山彦(1901~1988)」(高野山大火を詠んだ句「畏れつつ 火迫る佛 抱きにけり」「火の中に 秘佛現れしも しばし程」「晩学の 汚れて寒き 法衣かな」)とのつながりを連想し、時間の流れの中で間違いを生みやすいもののひとつです。さて「一字一石塔」(写真)もミステリーの一つです。

今までの案内本にも記載されて来ませんでした。この「供養塔」について推理も含め考えてみます。西南を向いた観音堂の南側に自然石で「阿(梵字)一字一石妙典 超宗 花押」と刻された供養塔が置かれています。年号は刻されていません。 一字一石とは、大乗妙典の経文を一字ずつ小石に書き写したものを地中に穴を掘って埋め、その上に建てた供養塔のことを言います。妙典は「法華経」のことを指し、その字数は約七万字になり、扁平な小石に一字ずつ書いていきますので、石集めから大変な作業となります。中世から江戸期にかけて経筒に変わるものとして行われたようですが、全国的にも多く残されているわけではありません。江戸時代の享保の大飢饉(1729)で亡くなられた多くの人々の供養に建てた「一字一石供養塔」は有名です(福岡県鋤先遺跡)。労作を考えますと供養主の並々ならぬ思いを感ぜずにはいられません。供養主「超宗」が誰なのか、何のために建てたのか。

先ず「超宗」とは誰なのか、地元をよく知る古老にお聞きしましても、昔から置かれているのは知っている程度で、ヒントとなる伝承は今のところ残っていません。調べていく中で行き当たったのが、小田原の長興山紹太寺第二世住職「超宗如格禅師」(1638~1717)です。紹太寺は小田原藩主稲葉家の菩提寺で、稲葉正則を開基、鉄牛和尚を開山とする関東屈指の黄檗宗寺院で、三代将軍徳川家光の乳母春日局に関わる寺院です。「超宗」がこの供養塔の施主としますと元禄9年(1696)観音堂完成の時期と彼の宗教活動の時期とは符合はします。ただこの地域との関わり等を示す文書は今のところ発見されていません。

他方、供養塔の字や石、置かれている場所などからあまり溯らないのではないかとも考えられますし、本来の供養塔と異なり、この石に法華経を「阿」(梵字)一字に集約して供養した可能性も否定できませんので、別の角度から検討します。 不遜ですが「超宗」ではなく「宗超」ではないかというヒントをいただき、後世に「宗超」を忘れない為のメッセージに誰かが建てたとしますと符合することが多く見えてきます。昭和62年出版の鈴木偉三郎著「遠江三十三所観世音霊場縁起」に、開創の根源として「今川氏の末期氏親の未亡人寿桂尼が今川を救い復興せしめんと発願し、掛川城主朝比奈備中の守に諮り、朝比奈氏は高天神城主小笠原氏、堤の城主松井氏とも諮り朝比奈氏の菩提寺 西南郷久保の萬年山乗安寺開山 宗超越翁禅師指導の下に、小笠原氏の信仰する天然寺開山 秀誉上人の協力を受け・・・略・・今川家復興祈願の為発願設定せしものである・・。」と記しています。乗安寺開山宗超とはどのような人物なのでしょうか。また天然寺開山秀誉上人とはどのような人物で、観音霊場とどのように関わってくるのでしょうか。

◎「宗超」:曹洞宗下総国葛飾郡国府台總寧寺(そうねいじ)(千葉県市川市国府台安国山總寧寺)通幻派第8世で、帰依する朝比奈氏に招聘され遠江国掛川の乗安寺開山となる。開基は掛川城主朝比奈氏。「總寧寺」は永徳3年(1383)近江守護の佐々木氏頼が通幻寂霊を招聘し現在の滋賀県米原市寺倉に建立した。享禄3年(1530)戦乱により總寧寺焼失。八世越翁宗超は遠江国掛川に退避して常安寺(乗安寺)として再建。なおこの常安寺は永禄年間(1558~1570)に戦乱により焼失。住持らは常陸に落延び、その後天正3年(1575)常(乗)安寺は現在の埼玉県幸手に移転、寺名を旧称の總寧寺に戻す。天和3年(1617)徳川秀忠により千葉県野田市に移転。寛文3年(1663)徳川家綱により現在地千葉県市川市国府台に移転し、曹洞宗関東僧録司となる。

一方掛川の「乗安寺」は西南郷村小史によりますと、「千葉県葛飾郡国府台村の總寧寺第八世越翁和尚(宗超)は掛川城主の朝比奈備中の守の帰依を受けて、永正10年(1513)3月寺を建築し乗安寺としました。場所は南西郷です。ここに越翁和尚(宗超)に来ていただき開祖とし、寺がいつまでも栄えますようにと山号を萬年山として70石朝比奈氏の寄付を受け開基となりました。その後天正年間(1573~1592)武田信玄兵火により全て焼失、文禄2年(1593)・・・略(以下意訳)・・寺院を後世に残すため5名の寄付(4.81293石)を受け、その後慶安元年(1648)掛川城主北条出羽守から6石となる。以下略

◎「秀誉」:掛川誌稿、結縁寺村、白山権現の項に「白山の社は寺の後山にあります。仁藤村天然寺の開山専蓮社秀誉上人は明応3年(1494)天然寺を創建しました。上人はこの村の長谷川氏の出です。以下略

◎「寿桂尼」:~永禄11年(1568)死去。戦国大名今川氏親の正室で公家中御門宣胤(のぶたね)の娘。今川氏輝・義元の母。「駿府の尼御台」と呼ばれ今川三代を政治力でも支えた戦国女性。義元の死後衰退していく今川氏を危惧し、孫氏真(1538~1615)の守護と今川氏の再興を願った。

◎「朝比奈氏」:駿河の守護今川義忠は遠江への勢力拡大の足掛かりとして、文明年間(1469~1487)重臣朝比奈泰凞(やすひろ)を任じて掛川城(懸川城)を天王山に築く。さらに氏親の代に泰凞・泰能(やすよし)親子により明応から文亀(1492~1504)にかけて龍頭山(現在地)に築城。その子泰朝(やすとも)と三代世襲による城主となり、今川家臣の重鎮として仕える。

今川氏親と氏輝と義元・朝比奈泰煕と泰能と泰朝・名僧宗超・地元(結縁寺村)出身の秀誉たちが時代的に重なった頃に遠江三十三所霊場は創られた可能性があるのではないでしょうか。

寿桂尼が今川の安泰と復興の願いによって創られた「遠江三十三観音霊場」だとしますと、230年間駿河を統治してきた今川時代の終焉、その後徳川の時代になり、霊場も大きく姿を変えていかざるを得なかったでしょう。敢えて名前を逆さまに刻することによって徳川の時代にこのような形で願い、思いを残そうと考えたのかもしれません・・・。隣の上張村にはキリシタン信者が礼拝する秘像をカモフラージュする耶蘇灯篭も残されています。

結縁寺は1番札所のため、何故ここが1番なのか、何故札所が創られたのかを「一字一石妙典」の供養塔から推論してみました。またこの推論から設定年代もある程度絞ってみました。・・・確定されるものでは勿論ありませんし、「超宗」の可能性を第一に引き続き模索すべきと考えています。

近世に入り回国遊行の修験者等が里修験として村々の空き寺院やお堂に土着します(諸宗寺院法度)、経済的な基盤を持たない宗教者がその糧としての必要性も含めた中で再編され、現在の順番に整ってきたのでしょう。西国巡礼が第1回目のピークを迎える元禄期、この地域も連動して巡礼者を迎える体制が整えられたと思われます。

矛盾点も多いですし、そもそも二字しかない「超宗」を「宗超」と名前を逆に書くだろうかとの疑問はぬぐえません・・・。しかめっ面の「超宗」さんに、気まぐれ案内に無責任が加わったと云われそうです。☆こんなことが有ったら愉快じゃん☆くらいに軽く考えていただけると助かります。新たな事柄が見つかりましたら報告します。

※参考文献「遠江三十三観世音霊場縁起」昭和62年鈴木偉三郎著・「西南郷村小史」大正12年・「掛川誌稿」・「掛川城の挑戦」平成6年・「掛川私考」昭和58年市村昭子著・掛川市の神社・寺院めぐり」平成18年関七郎著・「超宗禅師興山外集」黄檗文庫その他