投稿日:2017/07/31 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺
番外 岡津の善光寺です。
西国巡礼を終え、長野の善光寺にお参りをしたり、四国八十八カ所を廻り終えたお遍路さんが高野山にお参りをします。四国の場合は「同行二人」といい、弘法大師さまと一緒にという「お大師さん信仰」で、最後に感謝を込めて、弘法大師が入定(にゅうじょう)している高野山の奥之院を参拝します。一方観音霊場の場合は、西国・板東・秩父の百観音の番外として長野の善光寺へ詣るといわれ、「遠くとも一度は詣れ善光寺」とか「牛にひかれて善光寺参り」などの言葉もあり、゛一生に一度お参りするだけで極楽往生が叶う゛といわれています。三十三カ所を廻り終え、その上に西方浄土の阿弥陀仏に参ることで、極楽往生が確約されたとする信仰です。遠江三十三霊場にも同様の「善光寺」が用意されています。
住所 掛川市岡津331番地(仲道寺)仲道寺本堂善光寺参道
善光寺如来堂(阿弥陀堂)阿弥陀堂内陣
国道一号線の同心橋東の信号を北折れすぐの交差点を東進、原川間の宿(あいのしゅく)から松並木が続きます。その東が岡津の善光寺で、仲道寺境内に祀られています。西国・板東・秩父の百観音同様遠江三十三カ所も岡津の善光寺にお参りをして成満となります。原川の松並木
仲道寺本堂に善光寺の由来が書かれています。「延暦の昔、伝教大師 叡山建立の願を発せられしとき、自ら弥陀の尊像を彫刻し奉り給いるが そののち奥州に於いて大いに賊徒興りたれば、追伐の勅使として田村麻呂と百済王とを遣わさる。折節諸国に疫病流行、庶民死する者数多し、ここに於いて百済王 彼の大師所作の尊像を奉持して一心に弥陀佛を唱名し、願わくば這回東賊の徒を伐ちて速やかに帰西せしめたまえと即時に東海道を指して出向す。漸くにして遠江国佐野郡岡津村に至る。然るところ兵卒十五人疫に罹りて徒行すること能わず。即ちこの里に止宿療養せしむ。この時に当たりて彼の弥陀佛の尊像をこの地に安置し奉り、主従もろとも懇祷至切なりければ大悲薩多の加被力により遂に東夷悉く平定す。而して岡津村に所止の病者等夜夢に主人将軍の大病も明日は快気し 諸国の病者も皆快気すべし。此の処は天下の中道にして衆生を度する有縁の地なり、我は此処に止まらん、汝等主人にその旨趣を告げよと、鶏鳴に夢覚めければ不思議なるかな、兵卒の病悉く平癒しいなり。仍って直ちに弥陀佛を拝し一心に称名して即日東行飛ぶが如し。奥州にて太平の帰陣に逢ふて主人にこの夢を告ぐ。将軍即ち希有の思をなし、西方に向かって礼拝す。後岡津に至るの時、これによって岡津一村を悉く善光寺領とし、諸願成就の為に寄進すと云々。今に及んで岡津村には流行り病稀なること世人の知るところなり。 後世天正年中 当国城東郡高天神城落城の砌、勝頼の乱賊この寺に籠りて狼藉たり。時の住僧之を憂いて出奔し、昔年の御朱印を失却す。因って前々の住僧の名不詳なり。又其の後奥州に於いて疫病流行したるとき此の弥陀尊像を盗み去るとし、即ち如来を岡津村の人民に託して、我を岡津に還せと 仍って再びこの地に迎請し奉り、国土安穏 諸災消除 家道興隆ならびに後生善生より祷る御霊跡となるなり。以上」と記され岡津の善光寺如来の功徳とここに祀られた由来が記されています。
「掛川誌稿」には「寺中に阿弥陀堂あり、此の阿弥陀は坂上田村丸の守本尊なりと云い伝う、阿弥陀仏ある故に、寺を今は善光寺とも呼ぶなり」と記されています。その為、当時ここにお参りすることが一般化されたものと思われます。
全国には443体の善光寺佛があり、119か寺が善光寺を名乗っています。(平成5年)また「全国善光寺会」も創られ「善光寺サミット」も開催されています。現代風に言えば「フランチャイズ」ですが、「写し霊場」同様庶民の要望があったということだと思われます。ただ岡津の善光寺はこの中には含まれていません。この地域では掛川市横須賀の普門寺(天台宗)が入っていますが、明治17年に勧請されたものです。
岡津の善光寺は現在お堂の老朽化により維持困難な状況です。また以前は本尊様の横から壇の下の真っ暗な中を手探りで巡る「お戒壇めぐり」もできたのですが(平成10年頃まで)、こちらも現在は不可能な状況になっています。
※善光寺と善光寺如来・・・゛みはここに こころはしなのの ぜんこうじ みちびきたまえ みだのじょうどへ゛のご詠歌で有名な長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院です。本尊善光寺如来は正式には一光三尊阿弥陀如来といわれ、中国・朝鮮半島を経て日本に伝えられた(552年)日本最古の仏像と伝えられています。一つの光背の中央に阿弥陀、右に観音、左に勢至の三尊が並ぶ善光寺式三尊像といわれています。絶対秘仏とされ、開扉されることはありません。鎌倉時代に作られた前立本尊様が7年に一度開扉され大勢の人で賑わいます。