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気まぐれな巡礼案内⑰

投稿日:2017/11/11 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

第19番 明照山 慈明寺 (掛川市小原子134)
寺院名を問われても答えにくいケースがあります、ここもその一つです。

20番大原子の西側の谷にあり、大原子(おおばらこ)に対して、小原子(おばらこ)となります。ただ観音堂を聞くときは、おおばらこ の観音様に対して、こばらこ の観音様という言い方がわかりやすいです。

今は行政が一つになっていますが(大原子と小原子)大きな大原子は一村とはならず、伊達方・千羽番地。小原子は八軒で一村です(掛川史稿)。その成立も古く、天正17年(1589)には既に一村として成立していたようです(掛川史稿)。 現在も八軒です(2017)。

※東山口村郷土史には「この部落は小村なるも 昔より その名聞こえたり。旧石高四十六石なりと 氏神白山神社は六百年も前に加賀の白神社より勧請した。当時より河村新左エ門が鍵取り役だった。当時の戸数四戸なりしと また永享三年(1431)に慈明寺を建てた 遠江札所観音十九番 子育観音とし霊験あり 子を持つ親心、遠近の人々来参す。」と また「この仏体は佐夜の中山 久延寺 子育観音が仏教宣布の美女と化し この里人に読経を誦せしめ 童男童女愛撫のやさしき心を教えられた話あり」と記されています。

 

 

「掛川道の駅」から国1を北に突っ切り(広域農道)約1.7キロ 西寄りに進み、十字路を北に入ったほうが解りやすいです。

細い道ですが、三百メートルほど行きますと、道横に観音堂があります。

銀杏が入口に在り、子育て観音を象徴するように 銀杏の木から多くの※乳根(ちちね)が出て 迎えてくれます。

境内にはモッコクや泰山木(幹回り1.4m)の古木も植えられています。

銀杏の下に500キロ位はあろうかと思われる石が据えられ、注連縄が張られ、賽銭もあげられています。(写真)
この石は 20年程前、大原子と小原子の境の山を崩す開墾事業が行われた時 掘り出されたもので、この付近では見られない珍しい石ということで、観音堂の境内に置かれています。ただ先記の村史には「昔から伝えられし金鉱も、しばしば調査の人来る」と記され、ロマンも感じさせてくれます。

お堂の中には 子さずけ・安産・子育ての御利益を願う奉納品が供えられています。(写真) 
本尊様は聖観音さまです。両側に不動明王(東)と毘沙門天(西)が脇佛として祀られています。

御厨子の中に祀られていますが、彩色も緻密にほどこされ、かなり古い像と見受けられます。(写真)


この観音三尊形式は遠江三十三カ所札所でも、密教系の札所の多くが 同様の祀り方をしています。

はっきりとした理由は解りません。

通常 本尊様(観音)の左右に控える明王や天部の像を脇立(わきだち)と云い、本尊様(観音)の補佐・強化を役割とします。

毘沙門天は「法華経」によると、観音の化身とされていることが脇立の要素の一つかもしれません。(安藤希章著「神殿大観」)

不動明王が観音様の脇立の理由は、一般に観音は母親にたとえられ、不動明王は父親にたとえられることからでしょうか。仏様ランキングでは、如来→菩薩→明王→天部の順になり、観音菩薩は正法明佛という如来が衆生済度のために、今は菩薩の身でいるのです。いずれにせよ、鎮守の白山社も含め、祭祀形式から密教系の寺院だったことが推測されます。

お堂の中に お勤めに使用している「鉦鈷」(写真)が置かれています。「文久三年癸亥之春(1861) 本所村 榛葉平太夫」と刻されています。

鉦鈷以外にも香炉など近在の人々の信仰による寄進があって維持されてきています。

本尊様の伝説は 由緒に「往古美麗なる一婦人来たりて 吾為に経文を読誦せよ 吾れ妻となり 童男童女を養育せんと 村内の人々之を聞き 盛んに読誦し 忽ちにして学誦し 其の妻たることを乞う 美人曰く 吾一人なれば 多くの人の妻たるを得ず 若し吾を思わば 経文を読誦せよ 吾必ず童男童女を守護せん と云い終わるや その姿なし 之れ佐夜の中山 子育観音の化身ならん 本尊は行基菩薩の作 遠江十九番の札所として 庶人の信仰厚く 子を持つ親 遠近より来集す」(東山口村郷土史)と伝えられ、小夜の中山の子育て観音との関連性を示唆しています。また18番新福寺の伝説とも、どこか共通点があります。

史実によれば、永享3年(1432)創建。元禄15年(1702)再興。60年ほど前までは、茅葺きのお堂だったようです。

お堂の西脇から裏山に登ってみましょう。スロープと70段ほどの階段で 氏神※白山社に着きます。参道脇には矢竹が生えています。社の前に昔は大きな鳥居杉が立っていたようで、名残の株があります。 
社の由緒書には「延文元年(1356)の頃 加賀の国より勧請 天正二年(1574)祠を建立す」とあります。(東山口村郷土史には永禄元年(1558)加賀の国より勧請ときされる) 寺社はほぼ同時期に勧請されますから、ゆうに400年以上は経ているようです。

氏神白山社の後ろの一段高い所に石碑が祀られています。剥離して「山」のみ判読可能です。 横には「嘉永六年(1853)」が読み取れます。

地元の方に尋ねると、これは「大峯山」と云い、東北の山から移したものだとの説明でした。大原子に小字名「大峯」とあり、その場所からと思われます。山岳霊山への信仰はここにも発見できます。

御詠歌「望月や 明らかなるをしるべにて 歩みをはこぶ 人ぞたのもし」 を山本石峰氏は「暗い座敷で浮世の夢を見ていたら、外に十五の月が出て、飛び出して見ると 胸の中が清く、これぞ発菩提心。月は観音のたとえなり。」と解説しています。

喧騒からはなれ ゆったりとした時を過ごす。 子どもの頃 学校から帰って、ランドセルを放り投げ 境内で鬼ごっこに興じた 眼を閉じれば そんな光景が映しだされてくる札所です。

次の20番には、山道を通ればすぐですが、今は通る人もいないため荒れています。

※東山口村郷土:昭和29年解村記念(掛川市への合併)として伊藤儀弥太氏が編者として出版された。

※乳根(ちちね):通常は 土壌が酸欠状態のため、根(気根)を出すことにより、枯れることを免れようとしている。と説明されますが、正確な原因は学会でも出ていないようで、「古い時代の植物の特性を残した特殊な形」かもしれないようです。「垂乳根(たらちね)は母親、親にかかる枕詞

※白山社:白山は越中・加賀・美濃・飛騨の五か国にまたがる 標高2702mの山で、立山・富士山とともに古来より日本三名山とも日本三霊山ともされる信仰の山です。仁寿三年(852)には「白山比咩(ひめ)大神」として史料に登場。養老年間(717~724)泰澄により「白山妙理大菩薩」として白山は開かれたとされています。 山岳信仰の伝播は後世、熊野と白山が二分するほどとなり、天台宗寺院はほとんどが白山社を鎮守として祀つるようになります。全国には三千以上祀られています。遠江札所でも何ヵ寺か鎮守としています。曹洞宗との関りも、道元禅師が著した「碧巌録」の写本時(宋からの帰国前)白山権現が手助けをした。 との伝承から、永平寺は鎮守神として祀り、僧侶(雲水)は白山に参詣登山する習わしが今も続いています。 また、白山権現の本地佛は十一面観音とされ、観音様とのご縁も深いです。(参照:山岳宗教史研究叢書10など)