静岡県西部遠江三十三観音霊場保存会の公式ホームページです

気まぐれな巡礼案内㉖

投稿日:2019/09/18 カテゴリー:瀧生山 永寳寺内慈眼寺

11番 安養山 西楽寺内観音寺 袋井市春岡384 ☎0538-48-6754

今年(平成31年)春から森町飯田 高平山遍照寺から移転しました11番札所です。

 本堂と本坊が離れています、札所のお参りと御朱印は本坊で行っています。(写真は本坊入り口)

 西楽寺へは国道1号線から上山梨(森町方面)に北上し、上山梨の信号を東進(271号線)、山名小学校の南側です。随所に案内標識があり、わかりやすいです。

前回の14番大雲院内知蓮寺同様 森町飯田 観音寺➡森町下飯田 高平山遍照寺内観音寺➡袋井市春岡 安養山西楽寺本坊内観音寺へと二回目の移動です。

昨年までお参りしていた高平山に観音霊場として参拝出来ないことは寂しいことですが、西楽寺奥の院として これからも霊場であり続けることに変わりはありません。高平山大仏もあり、今後の復興を期待したいと思います。

今回の案内は高平山に祀られる前の観音寺はどのような寺院だったのかを推定し、最初の移転地高平山を案内し、新地西楽寺を紹介します。


〇東補陀落山 観音寺について

森町は昔から遠州の小京都と言われてきました。そのルーツは平安時代にさかのぼります。観音寺があった飯田荘は白河・鳥羽・後白河上皇によって公認された強固な※荘園(※御起請地(ごきしょうち))で※蓮華王院(三十三間堂)の所領でした。白河天皇は承保二年(1075)に※法勝寺(ほっしょうじ)を造営、永保三年(1083)完成させています。 飯田荘観音寺はこの法勝寺の※直末寺院で、寺の境内からは※加法経を埋納した経塚がいくつか確認されています。飯田荘は皇室領の荘園として維持されてきました。 それ以前 森町飯田の坂田北遺跡からは養老年間(720年頃)には観音寺門前付近に集落が営まれていたことが判明しています。また「遠江国風土記傳」には「昔行基菩薩の開基なり。・・・淳和天皇・仁明天皇(823~850)両朝の勅願所なり、官符を以て寺田を賜る。今千石に凖す」とあり、いかに古くからの寺院かがうかがわれます。

飯田荘はこの観音寺を拠点に、京の都から僧侶や※神人(じにん)・※寄人(よりゅうど)などの交流が盛んとなり、太田川を京都の加茂川に見立て戸綿(とわた)の賀茂山に※賀茂三社を勧請し、荘園の南境に※祇園祭(山名神社)を始めました。同時進行で小国社を中心にした遠江の国神祀りも確立され「※都うつし」が推進されました。

太田川をはさんで、西は遠江の学問所である蓮華寺(天台宗)、東は※国王の氏寺法勝寺直末観音寺が大きな勢力を保持していたと考えられます。

飯田荘は、吉川流域を上郷(かみのごう)、戸綿を戸和田郷(とわたのごう)、現在の飯田を下郷(しものごう)と言い、現在の下飯田は山梨郷や宇刈郷と同じ文化圏にあった。と※図説森町史では解説しています。

※荘園:貴族、大寺院、法皇、上皇等が持っている私有地。

※御起請地:三代御起請地:白河・鳥羽・後白河の三代の上皇が承認したもの。

※蓮華王院:一般には「三十三間堂」として親しまれている。京都市東山区にある天台宗寺院。後白河上皇が平清盛に資材協力を命じて、自身の離宮内に創建(1165)した仏堂。

※法勝寺: (写真は法勝寺模型。京都市所蔵・森町史から転載)

現在の岡崎公園や京都市動物園周辺にあった。白河天皇が1076年(承保三年)に建立した。皇室から篤く保護されたが、応仁の乱(1467~)以降は衰退廃絶した。法勝寺は藤原氏の別荘地だったが、藤原師実が白河天皇に献上した。天皇はこの地に寺院を造ることを決め、1075年(承保二年)造営をはじめ、以後長期にわたって多数の建物を造った。1077年(承暦元年)に毘盧遮那仏を本尊とする金堂の落慶供養が執り行われた。1083年(永保三年)に高さ80mとされる八角九重塔と愛染堂が完成した。この法勝寺の造営は単に天皇の寺院建立にとどまらず、藤原政権と延暦寺との関係から、真言・南都仏教も含むあらゆる宗派の僧を起用し、皇室がすべての宗派の上に立つ宣言であり、実行の象徴でもありました。このことが天台宗一辺倒から新たな密教勢力(真言宗)が台頭する原動力となっていきます。後に案内します西楽寺にも関連してきます。

※直末寺(じきまつじ):総本山(ここでは法勝寺)直属の末寺。

※加法経:清浄に書写した法華経を意味する。比叡山の慈覚大師円仁が初めとされる。

※地頭:荘園を管理支配するために設置した職(地頭職)。荘園に駐在して軍事警察の役割も担った。荘園領主に対しては服従を命じられていましたが、時代が進むに、幅を利かせるようになった。

※神人(じにん):神職。

※寄人(よりゅうど):いくつかの意味がありますが、ここでは一般的に、平安時代以後庶務・執筆などを司った役職員。

※賀茂三社:都の地主神で上賀茂神社・中賀茂神社・下賀茂神社。

祇園祭:ここでは荘園の境界で疫病を祓う目的で行われる祭礼で、京都の祇園祭に倣う天王祭。(牛頭天王を祭る)

※都うつし:京都を模倣した都市設計や文化の流入。

※国王:法勝寺は別名を「国王の氏寺」と慈円は称し、白河院の権威の象徴とされた。院政の時代に天皇家によって建てられた六の「勝」のつく寺の最初の寺院。「国王の氏寺」とは単に天皇家の氏寺という意味だけでなく、太政官機構の頂点に位置する日本国の王の寺院という意味がある。

※図説森町史:平成11年森町発行

平安時代に皇室の堅固な荘園制度の下で「都うつし」が進展し、花開いた京文化は、やがて鎌倉時代に入り、地頭職の台頭による武家中心の時代となり、大きく変遷していきます。 鎌倉期⇒南北朝期⇒室町期の観音寺やその周辺(飯田荘)の動向を森町史を参考に見てみます。

建武三年(1336)遠江守護職は今川範国となり、応永十年(1403)斯波氏が遠江守護職に代わる69年間今川の支配が続き、斯波氏支配もその後百年続きます。永正五年(1508)今川氏親に守護職が代わり、永禄十二年(1569)今川氏真まで今川の支配が続きます。

応永三十年(1423)観音寺の塔頭寺院とおもわれる曼珠院で「円満抄聞書」を書写してることから、中世後期も多くの堂舎を持つ寺院であったようです。ただこの期間の動向は不明なことが多く、観音寺に関係する事柄を先既「森町史」年表から抜粋すると、1377年(永和三年)八月遠江国観音寺が本寺法勝寺再興のため、毎年※二貫文を支出することが定められる。とあります。 本寺法勝寺は1208年(承元二年)塔が落雷で焼失、1342年(南北朝期)火災により寺の南半分が失われる。1349年(貞和五年)再度火災にあい北半分も失われる。その後再建に尽力するが昔の姿は失われ、天台宗の一分派の拠点である小寺院に転落する。その後も追い打ちをかけるように相次ぐ戦乱・焼失により衰退した。本山のこのような衰退経緯をみると、直末観音寺も徐々に衰微したものと思われます。 ただ1390年(明徳元年)10月9日、東寺最勝光院方、観音寺少納言坊を遠江国原田荘細谷郷所務代官に補任する。とあり、これは戦乱の過程で、東寺は荘務権を実効的に行使できなくなり、荘園支配は現地で荘務を※請け負う代官へと移行したことをあらわす。(村井章介・静岡県史研究)と述べ、観音寺が金融業を営んでいたと推測しています。

その後、観音寺のことは「※円通松堂禅師語録」に散見します。文明~文亀のころ、松堂と親交を持った僧侶に光徳院・寺主翁顓(おうせん)・藤本坊等がみえる。今川時代では1557年(弘治三年)今川家の「祈願寺」となっています。1561年(永禄四年)今川氏真は観音寺の順虎に住持職は駿河増尾(慈悲尾)※増善寺長老の指南としており、増善寺の支配を受けるようになった。今川氏は寺領5町歩程を安堵したが今川氏滅亡の中、衰微してしていったであろう。(森町通史編より)

※ニ貫文:室町時代のニ貫文は今の金額に換算すると20万円くらいに相当します。毎年この金額を納入する寺院が大と見るか小みるかは異なりますが、小規模・弱体化していると推測できると思います。

※請負金額:20貫

※円通松堂禅師語録:松堂高盛(しょうどうこうせい)(1431~1505)。以前にも説明したかもしれませんが。遠江国佐野郡寺田村の生まれ、7歳のとき円通院の大輝霊曜の元で薙髪し高盛と称し、1452年(京徳元年)足利学校に学び儒・佛・詩等の学問を修め1458年(長禄二年)寺田に戻る。天台宗安里山長福寺住職が再興を曹洞宗僧高盛に託して去った話は有名です。また明応三年(1494)から同六年の原氏が滅亡するまでを記録した。

※増善寺:大雲院でも触れていますが、静岡市葵区慈悲尾にある曹洞宗の古刹。今川氏親の菩提寺。

 

1979年に日本楽器製造(株)が出した「観音堂横穴古墳群発掘調査報告書」・「研究報告第二集」があります。ゴルフ場造成工事に伴う発掘調査でしたが、100基を超える大規模な横穴古墳群では貴重な線刻壁画の発見など、当時話題となりました。その報告書の中に14~15世紀に成立した中世墳墓の副葬などから、寺院と密接な関係を持った寺院墓地の報告があり、また同報告書の中で5体の人骨の埋葬者の土壙墓について、観音堂横の5基の無縫塔・銘文との関連から、17~18世紀中葉の真言系僧侶の墓であるとしています。観音寺について報告書は「観音寺は『遠江風土記傳』巻九(寛政五年1793)には観音寺跡と記載されていて、近世末には草庵が僅かに存するだけで、在住する平僧のいない、名ばかりの寺院となっていたようです。そして最終的には明治四年廃寺となって、本尊は翌年飯田地区内る同じ真言宗寺院の遍照寺境内へ移転されている。略 この観音寺は中世末のいくつかの資料にも散見される寺であり、それらによれば今川義元以来の祈願所として寺領五町を寄進された有力寺院であり、開山を同じ頃の□虎としている。その後同寺の住職は鷲参-宋咄-順虎と相伝されたようであるが、これらの僧は真言宗派ではなく、同じく今川氏の帰依によって興隆した隣国駿河の曹洞宗寺院である増善寺の門派に属していて、この時期の観音寺は増善寺の末寺であったと思われる。こうした中世末と近世とにおける宗派の相違は、今川の没落を契機とした廃寺→真言宗派による再興という変遷を窺わしめるものである。近世観音寺は除地1石2斗8升1合という弱小寺院であり、中世観音寺と関連する周辺地名などから推測される往時のおもかげは既に失なっていたものであろう。」と報告しています。(写真2枚は発掘時の観音堂付近)

  写真は観音寺絵図・・江戸後期には観音堂だけになっているが、寺中からは平安末期の遺物が多く出土し、坊の跡ものこっていた。(図説森町史)

観音寺が森町の歴史に残した意味の大きさの概要は推測出来ました。栄枯盛衰を重ねたこの寺院がいつ頃観音霊場としてかかわりだしたのでしょうか。今川氏の祈願寺として、密教寺院から曹洞禅の支配に代わった頃と考えるのが妥当と思われます。本尊様は十一面観音様で行基作と言われてきました。此の観音様についての記録はなく、明治に入り高平山に移転すると新たに観音像が作成(明治37年8月再製・仏師大橋釼之介作)されており、その時点でどのように扱われたのか今となってはわかりません。

 

〇高平山 遍照寺

周智郡森町飯田2130

明治五年(1872)から平成30年(2018)までの146年間(観音堂は平成14年解体、16年間は本堂で祀る。)祀られた遍照寺について案内します。

親近感を以て「たかひらさん」と呼ばれています。「森町ふるさとの民話」に「高平山の鈴の音」という昔話があります。

 東海地方で最も大きいといわれている青銅の大仏様で知られている下飯田の遍照寺(へんしょうじ)には小さなお堂があります。このお堂は開山(かいざん)の木喰秀海(もくじきしゅうかい)というお坊さんをまつってある開山堂です。伝説によりますと秀海上人(しゅうかいしょうにん)は、鈴を鳴らし念仏をとなえながらここにうめられたということです。

関東大震災(大正12年)の2,3年前のある冬の夜のことです。山梨に住むあるおじいさんが、便所に起きたとき、どこからか、鈴の音がかすかに聞こえてきます。不思議に思いましたが、その夜は、そのまま寝てしまいました。 ところが、次の夜も、その次の夜も鈴の音は聞こえてくるではありませんか。そこで、近所の人たちに話し、ある夜、その鈴の音をたよりに、鈴の音の主(ぬし)をさがすことになりました。 鈴の音に耳を澄ましながら進んでいくと、だんだんと高平山(たかひらさん)に近づき、さらに山に登っていきます。そして、その音は、開山堂に消えていきました。 この話が広まっていったとき、村の人たちはいろいろなことをいいました。秀海上人がうめられるとき、「わたしが振った鈴の音が聞こえたら、もう一度ほりかえして新しいお堂を建ててほしい。」と言った。また、日本の国に大きな出来事が起こる前にわたしが鈴を振るから、鈴の音が聞こえたらきをつけなさい。と言った。とか言いあいました。

関東大震災の2,3年前から聞こえた鈴の音も、大震災のあと、ぴたりとやんで、それ以後聞こえませんでした。(森町ふるさと民話より)

〇高平山 遍照寺について:森町史通史編上巻 平成8年発行

遍照寺は本末関係では後に紹介する、袋井市山梨に所在する真言宗の古刹安養山西楽寺の末寺である。この寺は近世前半には木食聖を名乗る勧進聖たちが住職を勤めて栄えていたが、焼失し、天保年間頃には弘法大師堂と青銅製の大日如来像が残るだけとなった。この頃にはその名称も高平山弘法大師堂と称するようになり、堂守だけが置かれる程に衰退していた。(遠淡海地志)

木食とは本来は五穀を断つことを誓願し、これを修行の第一義とする修行者のことを指すが、この頃の遍照寺の木食聖はむしろ勧進聖としての性格が強く、こうした勧進聖の中遠での活動拠点となったのが遍照寺でした。

 (写真は上から旧観音堂・遍照寺の表札・遠景・近景・本堂前のオオヤマレンゲ)

遍照寺の由緒として、森町史資料に(明治45年発行・森町史資料刊行会)に「元和元年(1615)紀伊国高野山の住僧、木食秀海上人諸国遍歴の後、遠江国に来たり、遠近郷里の帰依を受く、殊に飯田村の寿徳と申す者、深く秀海上人を尊崇し、時に村内を探るに、峰平にして清浄無塵、極めて密場の地を得たり、依って彼の寿徳は大願主と成り、村内より其山芝一町四面余り秀海上人寄進致し、堂舎を建立し、弘法大師を安置せり、然して山により高平山と号し、大師の名号を以て遍照寺と名ずく。 除地高は一石五斗五升一合、当世迄九世に及ぶという。 境内に仏堂あり、本尊は観世音菩薩にして、飯田村観音寺にありしも、明治五年四月、浜松県庁の御達により、当寺境内へ奉祀せり、又大日如来一丈六尺の銅像(座像)あり、享保三年、遠近の善男善女の信施を受け、本寺西楽寺中興八世法印尊照の建立(開眼)なりと伝う。」

  高平山大仏について、説明版には昭和53年4月1日長指定文化財として「法界定印(ほうかいじょういん)を結んで座る胎蔵界大日如来像で、露座の金仏では東海地方最大のものである。六角形の冠をつけ、粂帛(じょうはく)を懸け、腕釧臂釧(わんせんひせん)をつけ、裳(も)をつけ右足を外にして結跏趺坐(けっかふざ)する。青銅製の縁結びの大仏である。八葉の蓮華座には、ぐるりと願主・鋳物師・寄付の施主名と金額がびっしり刻まれている。九年の歳月を経て1718年(享保三年)に造立され、勧進願主は遍照寺住職である木喰直心が務めている。その勧進に応じた遠州一円の村は、東は掛川から西は天竜川筋までの130ケ村にも及んでおり、355両3分200文が集まっている。江戸鋳物師太田近江が配下の鋳物師とともに鋳造したもので、森町住で徳川家康から御朱印を与えられ、遠江・駿河両国の鋳物師を支配した山田七郎左衛門が、駿遠両国鋳物師総大工職として名を刻んでいる。総高5m」と平成15年1月に森町教育委員会によって案内板が掲げられています。

少し脱線して、駿遠両国御鋳物師総大工職・山田七郎左衛門の下に制作された、高平山の胎蔵界大日如来像と菊川市の※大頭竜神社にある青銅製鳥居を比較してみます。

(写真は如来像と鳥居と寄付者名)

大日如来像は享保3年(1718)完成開眼。9年の歳月と浄財355両余・青銅鳥居は文政7年(1826)造立。3年半の歳月と寄進467両余(鳥居に刻まれている額の単純合計値)で※現在の金額に換算しますと、如来像が約2200万円・鳥居が約5600万円相当となります。 高平山の場合は木喰聖の勧進活動に呼応した篤信者による信仰色が濃く、大頭竜神社の場合は有力者を世話人として、宿・村々に奉加帳を廻す組織的な勧募方法による信仰色が強いように思われます。どちらも太平洋戦争への供出をかろうじて免れた貴重な文化財です。単純な比較は不遜ですが、敢えて紹介がてら掲載してみました。

※大頭竜神社:菊川市加茂にあり「大頭竜神社覚え書き」によれば、比叡山の日吉神社から大山昨命、大和の大三輪神社から大物主命を分霊して延暦11年(792)に天台宗大龍院の奥の院として祀り始める。天正8年(1580)避難先(富士)から帰村し本殿が再建される。その後本社・社殿・拝殿など増改築され徐々に整備されていく。現在の銅屋根本殿は大正14年から昭和3年にかけて建立されました。(1925~1928)

大頭竜神社の唐銅鳥居造立については「唐銅大鳥居造立之次第」が残され、文政4年(1821)奉加帳前文には「大頭竜大権現御本社造営其外社頭普請追々出来仕候へ共鳥居の儀不相当に有之候につき今般発願仕り唐銅御鳥居奉納仕度くと存じ候処難叶自力無拠各々様へ御助力相願候此旨宜敷く御承知御寄附下され候様奉願上候 尤も御奉納金の儀は神主方へ申し入置候間御参詣の砌り札場まで御届けくださる可く候 其節請書差上 猶又神前へ御姓名懸札可仕候 御寄附の程奉願上候以上」とかかれ、奉加帳は廻され、ここで集められた資金で高さ一丈八尺(約5.5m)間口一丈二尺五寸(約3.8m)の鳥居が三年半の歳月を要して、文政7年(1814)九月八日造立されました。(掛川市 舟木茂夫氏「いわちどり」四・大頭竜神社をめぐってより)

※金額換算:享保時代は米一升80文・一両62500円 文化文政時代は米一升120文・一両120000円として計算した。大日如来像には、ほぼ一両以上の浄財施主名が刻され、唐銅鳥居には一分(金100匹)以上の寄進者の名が刻されています。(その数は村・個人合わせて1100件を越し、その内訳が村、地域、講中等個人以外が376件に及び、勧募区域も信濃・相模・伊勢などの広範囲に及んでいます。)

〇西楽寺

以前、第八番月見山観正寺の案内で山梨と月見里の事柄を記しましたが、その中心はここ西楽寺にあると思われます。古刹であり、壮大な規模であったことが窺われる寺院です。袋井市では遠州三山と銘打ち、法多山・可睡斎・油山寺としていますが、真言三山として、油山寺の本寺西楽寺を入れる呼び方もされています。

 (写真は西楽寺本堂・静岡県文化財・昭和55年)

 本堂扁額:揮毫者は動潮(1709~1796)智山派第一の事相家といわれ、安永2年(1774)智積院22世住職。本堂屋根葺き替え(1787)頃の揮毫か。

「西楽寺」の寺名は古来より変わっていません。西方浄土を楽(ねが)う寺は阿弥陀如来を本尊様としています。またそれは阿弥陀信仰が盛んとなる平安後期の隆盛を指し、寺院としての最盛期はこの頃からと想像されます。

1997年(平成9年)御住職 丸山照範氏が記された文章から西楽寺を紹介します。「袋井市最北端に有り、市内最古の寺です。奈良時代・神亀元年(724)開創のお寺で、平安時代の寛治年間(1087~1093)には六条右大臣源顕房公(みなもとのあきふさこう)、堀河天皇の援助を受け、真言霊場として大いに栄えました。また、永正三(1506)年には足利十一代将軍義澄公より寺領六町が安堵(ど)され、その後も今川義元・氏真公、足利十三代将軍義輝公、豊臣秀吉公、徳川家康公をはじめとする代々の将軍から寺領を安堵され、学山といわれるほど多くの学徒が集まっていました。そして、慶応四(1868)年の明治維新の年には、有栖川宮(ありすがわのみや)が官軍五千の総大将に、参謀として西郷隆盛ほか三名を置き、東海道を江戸へ向かいます。途中、西楽寺不動明王の宝前において先勝祈願の御祈祷を行い、無事に江戸城無血開城ができたことを感謝し、この年から西楽寺が有栖川宮家のご祈祷所となりました。西楽寺本堂は、江戸時代・享保十三(1728)年に再建された本堂で、昭和十五年に内陣の厨子とともに県指定文化財となりました。しかし、長年風雨にさらされて老朽化が激しく、倒壊の危険もあり、平成三年から工期三年半、総工費二億八千万円をかけて修理されました。以下略」

 

※「西楽寺記」(延宝八年・1681)によれば、開山を1300年前聖武天皇が行基に命じたとされています。また規模も最盛期には12坊の塔頭寺院を持ち、堂塔伽藍を構えた大寺院だったようです。寺歴としてはっきりしてくるのは今川時代ですが、西楽寺に祀られています多くの仏像や平安時代の仏像からも規模の大きさを窺うことができます。(阿弥陀如来像・薬師如来像共に平安後期の作とされる。静岡県指定文化財)

(写真は江戸時代の西楽寺境内絵図)

※西楽寺記:(殿堂社伽藍縁記書上控) 遠州西楽寺堂社之覚として一、本堂 本間八間四方 一、鎮守 九尺之宮 一、末社荒神 三尺五寸之宮 一、末社天神 三尺之宮 一、拝殿 本間二間半七間 一、御供所 本間二間五間 一、稲荷宮 三尺五寸之宮 一、護摩堂 本間五間六間 一、釈迦堂 本間三間三間半 一、弘法大師御影堂 本間三間三間半 一、鐘楼堂 二間四方 一、仁王門 本間三間五間。これは延宝七年(1680)に西楽寺が寺社奉行に提出したもので、縁起についても記しています。「遠江国周知郡山名庄宇刈之郷西楽寺者、聖武天皇御暦神亀元年(724)甲子行基菩薩為草創梵閣中古堂社退転之時節、寛治元年(1087)丁卯 堀河院御宇六条右大臣顯房公企再興、備 叡慮改成真言之霊場醍醐報恩院為末寺、然所仁武田信玄公遠州江発向之刻、西楽寺堂社仏閣被及放火候、此旨 権現様江於濱松奉達 上聞候、或時仁西楽寺江被為立 御馬、駿州達穂寺院主坊幸遍被 召出、西楽寺被成下御祈祷所与被成 仰付候、以来御祈祷之護摩無懈怠致勤行、護摩之御板札従其砌 御城江差上申候、幸遍西楽寺致拝領右之通堂社仏閣建立仕候、雖然至近此仁堂社零落仕候ニ付葺替支度奉存候得共、近年買人手前榑木不自由ニ而自分ニ修復不罷成候故達高聞候、遠州船明二而御榑木弐萬丁御拝借被為 仰付被下置候者難有可奉存候、以御憐愍を堂社葺替罷成申候者、上納金之儀者西楽寺領百七十石之内本尊鎮守之修理領五十石 御寄附御座候を以、差上申様ニ被為 仰付被下置候者難有可奉存候、仍御訴訟之趣粗言上、如件」と記されています。

〇御詠歌

たからをば ぐぜいのふねに つみおさめ ごしきのしまえ つくぞうれしき

山本石峰氏は「宝をば 弘誓の船に 積みをさめ 五色の島へ 着くぞうれしき」として、その意味を「弘誓丸に衆生済度の宝を積み込んで、観世音船長は 大慈大悲の帆を挙げて、五蘊皆空の島へ入港した 万歳万歳万々歳」と訳しています。

この歌を詠んだ作者は、観音寺の山号「東補陀落山」を当然意識していたのではないかと思われます。

〇付記

観音寺について先記の山本石峰氏は「巡礼物語」内「遠江巡礼札所夢物語」の冒頭に、この調査の発端は森町の大洞院の歴史を研究していく中で、周智郡内の二ケ寺(観音寺と蓮華寺)が何らかの理由(縁)によって札所に選ばれたとの仮説から始まった。と記し「観音寺と崇信寺」「崇信寺と今川家」と項目を付けて書しています。「飯田村 観世(音)寺」:観世(音)寺は飯田村にあり、今は草庵となる。昔行基菩薩の開基なり。寺記に曰く西楽寺ありて淳和・仁明両朝の勅願所なり。官符を以て寺田を賜る。今千石地に準ず。後武家のために滅せられ、今川氏真より寺田十六町を寄せらる。住僧順虎は祈祷に誠情なり、氏真眼病を愁いて此の観音に詣ず。夢想ありて、閼伽の水をもって洗眼せしに、忽然として病癒えたり。今に井水湧出せり。「崇信寺と今川家」:駿東郡浮島村井出の大泉寺は石叟派崇信寺の末寺にして、同寺□世の開山とす。今川氏八代氏輝卒後に継嗣問題起こるや、寿桂尼は東駿の動揺を虜りて、其の咽喉に当れる浮島原を確保して、之を監視せんとす。而して浮島原の向背は大泉寺の帰趨如何にあり、依って大永五年六月大泉寺に交渉し、寺領を増加し、忠勤の力を求めて、東顧の憂いを除けり。義元戦死の後十代氏真は大泉寺和尚の配意にて飯田観世音に祈願を込め、眼病平癒し寺田を符進し報恩を致せり。」

このことから、今川との縁により大切な処との認識から札所に選定した旨が推測されます。

〇蛇足

今回の「観音寺」は調べるほどに、規模、歴史のボリュームの重さに圧倒されます。勿論観音霊場に参画したころには縮小していましたが、いにしえへの思いは膨らみます。「高平山」は親しみやすい山でした。今回受けてくださった「西楽寺」については多く勉強する事柄や、寺院が蔵している千を超す古文書類に興味がわきますが、菲才な私が下手に手出しできるような次元ではありません。西楽寺からはホームページやパンフレットも出されていますから、それらも見ていただくことをお奨めします。

パソコンのキーボードをたたく合間に外に出てみると、モクセイの香りが・・・、昨年の今頃はヒガンバナを追いかけていたななどと思いつつ、今回の長すぎた気まぐれを反省しつつ・・・。 (令和元年9月18日)